製糸産業 まほらにふく風に乗って
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イベント広場の変遷(1)

 私の家の近くですが、石岡市のイベント広場という空き地があります。
すぐ前が市立図書館で、石岡のおまつりには無料駐車場として沢山の車がやってきました。
また、商工祭やバザーなど各種イベントを行っています。
私は何故このような大きな空地(2万7千m2)が存在するのかわかりませんでした。
私の記憶では、一時郵便局が建て替え工事中に仮の庁舎が建てられていたことくらいしかありません。
最近、この場所に市が図書館の新設を含めた複合文化施設の建設を計画していることを知りました。
市町村合併の時の合併特別債を活用しての計画となっていましたが、予算の関係でなかなかできないようです。
まずはトンネル、スマートインターチェンジ、道路建設(5路線)などにまず使われているようです。
この施設の建設予算は20億円。
このうち特例債で18億8千万円を見込んでおり、市の財政も税収減で火の車。
特例債の期限は2015年まで。はたしてどうなるのか・・・・。
市議会の答弁書などをみると、図書館の新築と駐車場の整備だけで予算の80~90%位はかかる計算で、とても文化ホール、美術館、博物館などはできないと試算しているようですので、これもまた絵に描いた餅で終わるのかもしれませんね。地元の高校生などの要望には「国分寺の七重塔の復元を」などということも出ていたと思います。
建設するなら、他所から人を引き寄せられるものを造るべきでしょう。
 さて、このイベント広場の空地の前進を御存知でしたか?
地元の方は「ああ昔、神栄という製糸会社の工場があったところでしょ」という。
そこで、少し欲を出して少し調べてみることにしました。
詳しくはまだ分かりませんがここにも石岡や日本の近代化の縮図があるようです。
 石岡は昔醸造の町といわれてきました。そして製糸業も盛んであったともいわれています。
しかし、製糸業は近代まで続いていたためか、石岡の歴史書などにはほんの少ししか書かれていません。
でも地元の年配者にお話を伺うと、皆さん口をそろえて「昔この辺りは絹街道といわれそれは活気があって大変賑やかだった」といわれます。いったいどこへ消えてしまったのでしょうか?
 ところで、石岡出身の洋画家「熊岡美彦」という画家を御存知でしょうか?
郷里の誇れる芸術家といえます。
大正から昭和初期に日本の洋画界をリードし多くの後進を指導してきた美術界の貢献者です。
この美彦(よしひこ)氏は熊岡製糸(石岡では当時石岡製糸と並び大きかった)の次男として生まれ、石岡小学校から土浦中学校(現土浦一高)から東京美術学校(現東京芸大)へ進みます。
この画家の話はまたの機会にして、今回はこの熊岡製糸の工場がこのイベント広場の場所にあったのです。
しかし、明治後期から大正になる頃は製糸業は日本の近代化への国策もありどんどん大型化していきます。
石岡にも大規模な製糸産業が進出してきます。
そして、明治末頃に生糸が大暴落し、この石岡製糸も熊岡製糸も操業を中止していきました。
少し長くなりましたので続きは明日書きます。

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製糸産業 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/18 19:33

イベント広場の変遷(2)

 さて、昨日は熊岡製糸と石岡製糸が操業を中止したところまで書きました。
この石岡製糸や熊岡製糸は共に蒸気機関などを使った器械製糸会社で、石岡製糸では女工員150人、熊岡製糸では女工員200人位までになったようです。
また興味深いことは石岡製糸の社長は志筑の家老横手家に生まれ、廃藩置県後、養蚕農家をはじめています。
石岡の歴史にはあまり名前が出てきませんが、隣りの志筑の殿様は本堂家で、秋田からやってきますが、江戸にいてこちらは横手家老が一手に引き受けていたようです。
幕末に活躍した伊藤甲子太郎・鈴木三木三郎兄弟も志筑の出身です。
隣り同士ですから歴史ももう少し一緒に語り合わないと分からなくなってしまいます。
さて、石岡の製糸会社が傾いたところへ、もっと大手の製糸工場が進出してきます。
それが大正六年の長野県岡谷の大製糸家小口組で、熊岡製糸の工場の後は、この小口組の石岡工場となります。
石岡からみれば、外部資本に乗っ取られたようなものですね。
当時、長野県岡谷市は群馬県富岡市などと並んで日本の製糸産業をリードしてきました。
今も昔の建物などを文化財に登録し世界遺産申請などをしているようです。
石岡にもこの小口組の大きな繭かごの積まれた写真が残っています。
生絲で絹を生産し、ほとんどは横浜から海外向けとなり日本の発展に貢献していきました。
 しかし、昭和2年に金融恐慌が起こり、昭和4年に石岡中町を中心とした大火災が発生し、同じ年の10月に政界大恐慌がおこります。
多くの産業が倒産に追い込まれ、銀行も倒産していきました。
この頃のことはわかりませんが、多くの製糸所も自然と淘汰されたものと思います。
さて小口組石岡工場はその後も操業を続けますが次第に経営は悪くなっていったようです。
そこにやってきたのが神戸で生糸の販売会社から製糸業に着手した「神栄」です。
神栄は昭和2年の金融恐慌で経営困難となった京都の綾部製糸をそっくり引き継いでその後の世界恐慌などの波で破綻に追い込まれて行った全国の製糸会社を傘下に収め拡張していったのです。
なぜ拡張できたのかは、また別途に譲るとして、小口組の石岡製糸所が神栄に変わったいきさつは、神栄八十年史によると、大蔵大臣だった井上準之助の勧めによるといわれているようです。(井上準之助はその後昭和七年に銃弾に倒れます)
他の製糸会社が神栄の傘下となる中、ここの石岡製糸所は神栄の直営の工場となったのです。
さて、この続きはまた明日にします。

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製糸産業 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/19 19:30

イベント広場の変遷(3)

 さて、昨日は神戸の神栄が乗り込んできたところまで書きました。
この神栄の岡崎社長は神戸に岡崎銀行、神戸海上保険などを手がけていき、神戸の財界の中心人物になった人です。
それほど日本の製糸業は政治や銀行業などと一体になって、国策的に推進されて行ったのです。
 しかし、国産繭などが必要なくなってくると、石岡の工場の操業は減少していったと思われます。
そして、石岡市がこの敷地を市街地活性化を名目に数億円で買い取ります。
そして毎年管理費がかかるがそのまま・・・・。
商工祭などには市から助成金がでます。調べていくうちに虚しくなってきました。
特例債によって施設が建てられたとしても利用価値のあるものになるのでしょうか?
税収も落ち込むばかり。でも財政は補助金目当てにアンケート調査など資料の山。
本気でやる気はあるの? 何か産業も欲しい。雇用も欲しい。若者も欲しい。
若者の間では、
「またハコ物を作ろうとしている。」
「この町には歴史といっても見る者は本当にあるの?」
「この町では買い物をしない。土浦や東京・水戸に出て買う」
どこか寂しいですね。オンリーワンでもピリリとした何かが・・・。
石岡の歴史からこの小口組と神栄の名前が消えていきます。
所詮石岡にとっては外部の会社、人間と思っていたのでしょうね。
何か醤油の時と同じ匂いがします。
余計なことをあまり書いてはいけませんね。
ところで、画家熊岡美彦氏の墓は東京多磨墓地にあります。
私の東京の実家のすぐ近くです。何かの因縁を感じます。
ヤフーのオークションに絵画がたくさんでていましたが、市やまたは市内の徳のある方が買っていただけないかな?
値段も意外に手頃ですよ。
小さな絵だが故郷に残したいですね。

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製糸産業 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/10/20 19:32

イベント広場の変遷(4)

 イベント広場の過去を調べていったら、石岡の製糸産業の歴史が見えてきました。
今後、この広場を町おこしの象徴的なものとして使っていけばよいのですが、何か雲行きは怪しくなっていますね。
このタイトルで今後、何時か書くことがあればよいのですが・・・・。
 さて、昨年この敷地の一部の発掘調査が行われました。
市の広報でこの調査結果として、すこし変わった内容を報告していました。
この土地から昭和の年代が特定された歯磨き粉が見つかったというのです。
昔の女工さんが使ったのであろうとのことでしたが、これしか見つからなかったのかもしれません。

 しかし、昔の地図でみるとこの場所はやはり国分寺の寺域であったと思われます。
平成11年にすでに一部について遺跡の発掘調査が行われ、国分寺に関係すると思われる溝が9条,さらには8世紀から9世紀の竪穴式住居跡178軒が試掘溝で確認されているそうです。
 ここに建造物を建てる場合は、これらの詳細調査が必要になります。
この調査で、昔の国分寺の遺構もはっきりと出てくるととても楽しいことになります。
発掘調査経費が4,000万円程度を見込んでいるので、調査が進んでほしいと願うものです。
イベント広場の場所の調査で、今後昔の国分寺の時代がわかるのか、それとも新たな未来の扉が開くのか・・・
この続きを書くことができる日を待つことにします。

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製糸産業 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/10/21 18:29
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