橋門の阿弥陀様(行方市)
<常陸国風土記の行方郡より>
郡より南へ七里のところに、男高の里がある。昔、この地に住んでゐた小高といふ名の佐伯に因んで名付けられた。
常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。
池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。
池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。
池の北には、香取の神を分祀した社がある。
栗家の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。
(口訳・常陸国風土記より)
常陸国風土記の行方郡はこのように「佐伯」という言葉がたくさん出てきます。
この佐伯(さえき)というのは大和朝廷の意向に逆らった部族に対する言い方で、この霞ヶ浦の北側領域を大和朝廷の軍が制圧したのが廻りの地域よりも少し後になったことの表れだと思う。
手鹿(てが)、曾尼(そね)、小高(をだか)、鳥日子(とりひこ)などがそれだ。
上の引用した所に出てくる常陸国守、当麻大夫とあるが、原文では国守ではなく国宰(くにのみこともち)とあり、風土記が書かれたより50~60年ほど前の西暦650~670年頃と思われる。

国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、旧麻生町の入口に近い「橋門」というところの道路沿いに小さな小山とその上に祠がおかれている。
入口には「橋門の阿弥陀様」という説明看板がある。

小山の上に置かれた祠。この中に板碑に彫られた阿弥陀様の像があるという。
中をよく確認しなかったので写真もないが、高浜の「(親鸞聖人の)爪書き阿弥陀」と同じようなものかもしれない。(こちら)

さて、上の表現で鯨岡という地名が昔霞ヶ浦が海と繋がっていた時に鯨がこの地の陸に打ち上げられたことから地名が起こったと書かれており、この阿弥陀様の場所が今は「橋門」という地名だが、鯨岡の一部だったと書かれている。
この阿弥陀堂の近くには風土記に「香取の神を分祀した社」とかかれている側鷹神社があります。
(こちらは前に紹介しています。→ こちら)
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ネットでこの阿弥陀堂の事を調べて見たが、あまりはっきり書かれたものがない。
見つかったのに国会図書館のデータベースにこの旧町史の目次があった。
暇があったら読んでみたいが、今のところ手元にないので機会があれば図書館でも行ってみよう。
麻生町史<民俗編> 麻生町教育委員会/2001.3 (国会図書館リサーチ・ナビ)
第十二章 ことばの伝承
第一節 昔話
一 本格昔話 蛙作右衛門/狸の恩返し/お金持ちになるには/風来僧の話
二 動物昔話 むじな
三 笑話 団子がどっこいになった話
第二節 伝説
一 信仰的伝説 三つ又沖の鐘/親鸞上人/親鸞の滝/親鸞上人とお経塚/黒熊池の大蛇/弘法清水/大松様/新池/三光院と行者/常光院の不思議な木/箕輪の地蔵とネズミサシ/水神様のご利益/亥の子餅/はなれ山のドウロクジン/片目の蛇/大六天/白蛇に化けたゴデ/狐になった男/金山池の火の玉/椎の木坂の猫の会合/井貝の生き身塚/橋門の阿弥陀様/黒熊池の大蛇/ユウヂョウ寺の古狸/浮島と麻生の物語
二 歴史的伝説 日本武尊/土子泥之助の話/常安寺/オオミドウ/羽黒城の大蛇/夢の松/五町田の八坂神社/小高のかやの木/島並知らず/麻生の追いはぎ
郡より南へ七里のところに、男高の里がある。昔、この地に住んでゐた小高といふ名の佐伯に因んで名付けられた。
常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。
池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。
池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。
池の北には、香取の神を分祀した社がある。
栗家の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。
(口訳・常陸国風土記より)
常陸国風土記の行方郡はこのように「佐伯」という言葉がたくさん出てきます。
この佐伯(さえき)というのは大和朝廷の意向に逆らった部族に対する言い方で、この霞ヶ浦の北側領域を大和朝廷の軍が制圧したのが廻りの地域よりも少し後になったことの表れだと思う。
手鹿(てが)、曾尼(そね)、小高(をだか)、鳥日子(とりひこ)などがそれだ。
上の引用した所に出てくる常陸国守、当麻大夫とあるが、原文では国守ではなく国宰(くにのみこともち)とあり、風土記が書かれたより50~60年ほど前の西暦650~670年頃と思われる。
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国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、旧麻生町の入口に近い「橋門」というところの道路沿いに小さな小山とその上に祠がおかれている。
入口には「橋門の阿弥陀様」という説明看板がある。
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小山の上に置かれた祠。この中に板碑に彫られた阿弥陀様の像があるという。
中をよく確認しなかったので写真もないが、高浜の「(親鸞聖人の)爪書き阿弥陀」と同じようなものかもしれない。(こちら)
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さて、上の表現で鯨岡という地名が昔霞ヶ浦が海と繋がっていた時に鯨がこの地の陸に打ち上げられたことから地名が起こったと書かれており、この阿弥陀様の場所が今は「橋門」という地名だが、鯨岡の一部だったと書かれている。
この阿弥陀堂の近くには風土記に「香取の神を分祀した社」とかかれている側鷹神社があります。
(こちらは前に紹介しています。→ こちら)
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ネットでこの阿弥陀堂の事を調べて見たが、あまりはっきり書かれたものがない。
見つかったのに国会図書館のデータベースにこの旧町史の目次があった。
暇があったら読んでみたいが、今のところ手元にないので機会があれば図書館でも行ってみよう。
麻生町史<民俗編> 麻生町教育委員会/2001.3 (国会図書館リサーチ・ナビ)
第十二章 ことばの伝承
第一節 昔話
一 本格昔話 蛙作右衛門/狸の恩返し/お金持ちになるには/風来僧の話
二 動物昔話 むじな
三 笑話 団子がどっこいになった話
第二節 伝説
一 信仰的伝説 三つ又沖の鐘/親鸞上人/親鸞の滝/親鸞上人とお経塚/黒熊池の大蛇/弘法清水/大松様/新池/三光院と行者/常光院の不思議な木/箕輪の地蔵とネズミサシ/水神様のご利益/亥の子餅/はなれ山のドウロクジン/片目の蛇/大六天/白蛇に化けたゴデ/狐になった男/金山池の火の玉/椎の木坂の猫の会合/井貝の生き身塚/橋門の阿弥陀様/黒熊池の大蛇/ユウヂョウ寺の古狸/浮島と麻生の物語
二 歴史的伝説 日本武尊/土子泥之助の話/常安寺/オオミドウ/羽黒城の大蛇/夢の松/五町田の八坂神社/小高のかやの木/島並知らず/麻生の追いはぎ
小高散歩(1)-小高城跡
今までに散歩シリーズでいくつかの場所を紹介してきました。
そのどこもあまり知られていないところでいろいろな発見がありました。
今回はそれよりも狭い範囲のところを散歩シリーズとして紹介して見たいと思います。
まああまり知られていないし、興味のない方にはつまらないことが多いのですが、私としては知られていない所の方が見つける楽しみがあってとても気に入っています。
今回選んだところはこれまた知られていない場所ではないでしょうか。
茨城県行方(なめがた)市は麻生町、玉造町と北浦町が合併して霞ヶ浦の北岸沿いと北浦の西側地域が入ります。
今回紹介しようとしているのは「小高」という地域で、旧麻生町の玉造町側に近い、ちょうど中間くらいの場所にあります。麻生と一緒にしてもいいのでしょうがここを別に取り上げることに少し意味があるように思います。
常陸国風土記の記述から紹介しましょう。
「郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。」(口訳・常陸国風土記)
原文:「郡南七里男高里 古有佐伯小高 為其居処因名 国宰当麻大夫時所築池 今存路東 自池西山猪猿大住艸木多密 南有鯨岡 上古之時 海鯨匍〓 而来所臥 即有栗家池 為其栗大 以為池名 北有香取神子之社也」
なぜ原文を載せたのかと言うと「常陸国守 当麻大夫」が「国宰当麻大夫」と書かれている。
国司のことを国宰(くにのみこともち)と書かれているので、7世紀前半くらいのことで、風土記が書かれる100年程前(今から1400年くらい前)の話のようです。
こんな古い話は散策してもあまり収穫はないのでまずは戦国時代あたり前後の様子を見てみたいと思います。
さて、まずはここに戦国末期まであった「小高城」の跡を訪ねました。

今は特に何もない畑や山の中にその遺構が残されているのですが、この薄れた看板がなければこの場所を見ても昔ここに城があったなんてわかりません。

詳しく知りたい方は説明文の写真をクリックして拡大して読んで下さい。
常陸大掾氏(だいじょうし)の一族がこの行方(なめかた)地方に郡司として入り、鎌倉時代になってその孫4人に領地を4つに分けて与えられ、行方四頭(行方、島崎、麻生、玉造)となった。
その長男行方(なめかた)氏(行方太郎)が小高に城をかまえて「小高氏」(長男であるので小高太郎ともいう)となった。
そう考えるとこの小高が行方郡の中心となったのだろうか。
でも今はまったくその姿をうかがい知ることは出来ない。
この小高氏も佐竹氏が府中(石岡)の本家大掾氏を滅ぼした後、常陸太田に呼び集められ殺されてしまった大掾一族33館の一つである。
どんなことがあったのだろうか。
佐竹氏も秀吉から常陸国を任されたとはいえ、これらの33館もの城主たちが呼び出されてもみな疑心暗鬼になっていたに違いない。
それなのに皆殺されたというのは毒殺なのか?
今後少しずつ調べて見たい。


内御城(うちみじょう)と呼ばれた辺りだろうか、城の中心だろう。山の中に畑が広がる。
エシャーレットが栽培されているとか。
この城跡から廻りを少し眺めていきたい。行方四頭は結構複雑で理解するには時間がかかりそうだ。
でも書かれているものを読むより現地で感じたものから理解を広げた方が頭に入りやすいようにも思う。
地図では道が良く分からないが、国道50号線の「小高」の信号をほんの少し石岡側に進んだところにある左に入る道を進めばその道が左に曲がる曲がり角に案内板が立っている。
← よろしければクリックお願いします。
そのどこもあまり知られていないところでいろいろな発見がありました。
今回はそれよりも狭い範囲のところを散歩シリーズとして紹介して見たいと思います。
まああまり知られていないし、興味のない方にはつまらないことが多いのですが、私としては知られていない所の方が見つける楽しみがあってとても気に入っています。
今回選んだところはこれまた知られていない場所ではないでしょうか。
茨城県行方(なめがた)市は麻生町、玉造町と北浦町が合併して霞ヶ浦の北岸沿いと北浦の西側地域が入ります。
今回紹介しようとしているのは「小高」という地域で、旧麻生町の玉造町側に近い、ちょうど中間くらいの場所にあります。麻生と一緒にしてもいいのでしょうがここを別に取り上げることに少し意味があるように思います。
常陸国風土記の記述から紹介しましょう。
「郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。常陸国守、当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでゐる。池の南の鯨岡は、古へに、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所である。池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった。」(口訳・常陸国風土記)
原文:「郡南七里男高里 古有佐伯小高 為其居処因名 国宰当麻大夫時所築池 今存路東 自池西山猪猿大住艸木多密 南有鯨岡 上古之時 海鯨匍〓 而来所臥 即有栗家池 為其栗大 以為池名 北有香取神子之社也」
なぜ原文を載せたのかと言うと「常陸国守 当麻大夫」が「国宰当麻大夫」と書かれている。
国司のことを国宰(くにのみこともち)と書かれているので、7世紀前半くらいのことで、風土記が書かれる100年程前(今から1400年くらい前)の話のようです。
こんな古い話は散策してもあまり収穫はないのでまずは戦国時代あたり前後の様子を見てみたいと思います。
さて、まずはここに戦国末期まであった「小高城」の跡を訪ねました。
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今は特に何もない畑や山の中にその遺構が残されているのですが、この薄れた看板がなければこの場所を見ても昔ここに城があったなんてわかりません。
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詳しく知りたい方は説明文の写真をクリックして拡大して読んで下さい。
常陸大掾氏(だいじょうし)の一族がこの行方(なめかた)地方に郡司として入り、鎌倉時代になってその孫4人に領地を4つに分けて与えられ、行方四頭(行方、島崎、麻生、玉造)となった。
その長男行方(なめかた)氏(行方太郎)が小高に城をかまえて「小高氏」(長男であるので小高太郎ともいう)となった。
そう考えるとこの小高が行方郡の中心となったのだろうか。
でも今はまったくその姿をうかがい知ることは出来ない。
この小高氏も佐竹氏が府中(石岡)の本家大掾氏を滅ぼした後、常陸太田に呼び集められ殺されてしまった大掾一族33館の一つである。
どんなことがあったのだろうか。
佐竹氏も秀吉から常陸国を任されたとはいえ、これらの33館もの城主たちが呼び出されてもみな疑心暗鬼になっていたに違いない。
それなのに皆殺されたというのは毒殺なのか?
今後少しずつ調べて見たい。
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内御城(うちみじょう)と呼ばれた辺りだろうか、城の中心だろう。山の中に畑が広がる。
エシャーレットが栽培されているとか。
この城跡から廻りを少し眺めていきたい。行方四頭は結構複雑で理解するには時間がかかりそうだ。
でも書かれているものを読むより現地で感じたものから理解を広げた方が頭に入りやすいようにも思う。
地図では道が良く分からないが、国道50号線の「小高」の信号をほんの少し石岡側に進んだところにある左に入る道を進めばその道が左に曲がる曲がり角に案内板が立っている。
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小高散歩(2)-小高のカヤ
小高城跡から700m程行ったところに「小高のカヤ」という大木がある。
市の説明によれば
「県指定天然記念物
小高地区にある常緑の大木。樹齢約650年、幹回り6メートル。
旧小高小学校の敷地であり、その昔は、天台宗神宮寺の境内といわれていました。」
となっています。

木のある敷地は上の写真のような門が残っていました。
これは説明にあるように「小高小学校」がここにあったようです。
行方市となる前は麻生町でした。

このカヤの木の奥に見えるのは地区の公民館です。
カヤの木が植えられたのは約650年前。
その当時ここにあったのは神宮寺という寺です。
でもこの寺がどのようなものだったのかよく分かりません。
650年前と言うと鎌倉時代が終わり室町時代に入った頃です。

神宮寺は一般に神社から神と仏を分離するために設置された寺院です。
どこの神社がこの寺の元の神社なのでしょうか?
比較的近くで古くからある神社には前に紹介した「側鷹神社」があります(こちら)
何処にも書かれたものがありません。地元の地誌か何かを見たらわかるのかもしれませんが、今回は断念します。

場所は昨日書いた小高城のすぐ近くであり、小高氏と何か関係はあると思われます。
しかし、この小高氏の菩提寺はおそらく後で紹介する「皇徳寺」です。
どのような歴史をこの木は見て来たのでしょうか。
小高小学校を調べたのですが、昨年廃校になってしまいその創立も移転した年もよく分かりませんでした。

(この写真はクリックで大きくなります)
下の写真は昨年撮った廃校直後の小高小学校です。
場所は少し南の方の側鷹神社の近くです。
カヤの木のあった場所から一旦別な場所に移り、その後この側鷹神社脇に移転したようです。

(この写真はクリックで大きくなります)
この小高小学校は2012年3月に閉校となりました。(写真の鉄筋コンクリートの校舎は昭和33年に完成したものだそうです。)
昨年春に近くの行方小学校と麻生小学校の3校が閉校となり、一つに統合されて麻生小学校になったようです。
あのカヤの木のあった場所にあった小学校はこんな立派な小学校になっていたのですが、1学年30数人の児童数になり、時代の波による統合です。
この校舎も防音対策がされたという記事がありましたが、百里基地に近いからなのでしょう。
これも百里基地の恩恵と言うべきか弊害と言うべきなのか私はここに住んでいないのでわかりません。
今の福島原発を見ていても複雑な思いがします。
それとは別問題ですが、茨城でも各地で小学校は大幅に減っています。
私が小学生になった頃はどこも増設のラッシュでした。時代も変わっていますね。
← よろしければクリックお願いします。
市の説明によれば
「県指定天然記念物
小高地区にある常緑の大木。樹齢約650年、幹回り6メートル。
旧小高小学校の敷地であり、その昔は、天台宗神宮寺の境内といわれていました。」
となっています。
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木のある敷地は上の写真のような門が残っていました。
これは説明にあるように「小高小学校」がここにあったようです。
行方市となる前は麻生町でした。
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このカヤの木の奥に見えるのは地区の公民館です。
カヤの木が植えられたのは約650年前。
その当時ここにあったのは神宮寺という寺です。
でもこの寺がどのようなものだったのかよく分かりません。
650年前と言うと鎌倉時代が終わり室町時代に入った頃です。
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神宮寺は一般に神社から神と仏を分離するために設置された寺院です。
どこの神社がこの寺の元の神社なのでしょうか?
比較的近くで古くからある神社には前に紹介した「側鷹神社」があります(こちら)
何処にも書かれたものがありません。地元の地誌か何かを見たらわかるのかもしれませんが、今回は断念します。
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場所は昨日書いた小高城のすぐ近くであり、小高氏と何か関係はあると思われます。
しかし、この小高氏の菩提寺はおそらく後で紹介する「皇徳寺」です。
どのような歴史をこの木は見て来たのでしょうか。
小高小学校を調べたのですが、昨年廃校になってしまいその創立も移転した年もよく分かりませんでした。
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(この写真はクリックで大きくなります)
下の写真は昨年撮った廃校直後の小高小学校です。
場所は少し南の方の側鷹神社の近くです。
カヤの木のあった場所から一旦別な場所に移り、その後この側鷹神社脇に移転したようです。
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(この写真はクリックで大きくなります)
この小高小学校は2012年3月に閉校となりました。(写真の鉄筋コンクリートの校舎は昭和33年に完成したものだそうです。)
昨年春に近くの行方小学校と麻生小学校の3校が閉校となり、一つに統合されて麻生小学校になったようです。
あのカヤの木のあった場所にあった小学校はこんな立派な小学校になっていたのですが、1学年30数人の児童数になり、時代の波による統合です。
この校舎も防音対策がされたという記事がありましたが、百里基地に近いからなのでしょう。
これも百里基地の恩恵と言うべきか弊害と言うべきなのか私はここに住んでいないのでわかりません。
今の福島原発を見ていても複雑な思いがします。
それとは別問題ですが、茨城でも各地で小学校は大幅に減っています。
私が小学生になった頃はどこも増設のラッシュでした。時代も変わっていますね。
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小高散歩(3)-皇徳寺
小高城の小高氏の菩提寺であったのがこの「皇徳寺」です。
実はこの寺は城のあったすぐ西側の今「常行院」という寺のある場所にありました。
佐竹氏の一派がここにやって来てからそこを譲って場所を転々と変え、今の地に移ってきたようです。
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この皇徳寺の場所は古代の古墳が多い場所です。
皇徳寺古墳群といい、この寺の裏山や墓地のあたりに前方後円墳1、円墳1、方墳3基が見つかっているそうです。
以前近くの「側鷹(そばたか)神社」を紹介した時(こちら)、この辺りに何か部族の集落(奈良時代(律令制)以前)があったのではないかと考えています。
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ここを訪れたのは9月27日。まだ彼岸花が咲いていました。
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趣のある山門ですが、いつ頃建てられたのかわかりません。
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曹洞宗皇徳寺本堂。
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上の説明にあるように1533年に小高氏の菩提寺として水戸の円通寺より住職を迎えて建立したとあります。
あまり円通寺が良く分からないのですが、恐らく水戸市千波町にある円通寺だと思われます。
この寺の名前は石岡の照光寺でも聞きました。
石岡の大掾(だいじょう)氏が佐竹氏に滅ばされ(1590年)、街中の寺もほとんど焼失してしまいました。
そして佐竹氏による町の復興が行われたのですが、この時に照光寺の再建にやはり円通寺より住職を迎えています。
その後この照光寺は常陸府中松平藩の菩提寺となりました。
また照光寺の本堂は今は建てなおされていますが、その前の240年程前に建てられた本堂は大洗の願入寺の開基堂として移されています。石岡ではこの話が書かれているものが少ないようです。
これは親鸞聖人ゆかりの寺を探していて分かったものです。
このような事とつなぎ合わせていくと少し状況も見えてくるのでしょうか。
今はひっそりと佇むこの寺の歴史を思い浮かべています。
昔あった場所とはそんなに遠くはありませんが道は複雑です。
← よろしければクリックお願いします。
実はこの寺は城のあったすぐ西側の今「常行院」という寺のある場所にありました。
佐竹氏の一派がここにやって来てからそこを譲って場所を転々と変え、今の地に移ってきたようです。
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この皇徳寺の場所は古代の古墳が多い場所です。
皇徳寺古墳群といい、この寺の裏山や墓地のあたりに前方後円墳1、円墳1、方墳3基が見つかっているそうです。
以前近くの「側鷹(そばたか)神社」を紹介した時(こちら)、この辺りに何か部族の集落(奈良時代(律令制)以前)があったのではないかと考えています。
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ここを訪れたのは9月27日。まだ彼岸花が咲いていました。
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趣のある山門ですが、いつ頃建てられたのかわかりません。
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曹洞宗皇徳寺本堂。
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上の説明にあるように1533年に小高氏の菩提寺として水戸の円通寺より住職を迎えて建立したとあります。
あまり円通寺が良く分からないのですが、恐らく水戸市千波町にある円通寺だと思われます。
この寺の名前は石岡の照光寺でも聞きました。
石岡の大掾(だいじょう)氏が佐竹氏に滅ばされ(1590年)、街中の寺もほとんど焼失してしまいました。
そして佐竹氏による町の復興が行われたのですが、この時に照光寺の再建にやはり円通寺より住職を迎えています。
その後この照光寺は常陸府中松平藩の菩提寺となりました。
また照光寺の本堂は今は建てなおされていますが、その前の240年程前に建てられた本堂は大洗の願入寺の開基堂として移されています。石岡ではこの話が書かれているものが少ないようです。
これは親鸞聖人ゆかりの寺を探していて分かったものです。
このような事とつなぎ合わせていくと少し状況も見えてくるのでしょうか。
今はひっそりと佇むこの寺の歴史を思い浮かべています。
昔あった場所とはそんなに遠くはありませんが道は複雑です。
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小高散策(4)-常行院
この常光院は小高城(こちら)のすぐ西側にある。
この城の小高氏が佐竹氏により滅ぼされた後に、この地には佐竹氏が入り、自分の地元の寺をここに持ってきて菩提寺にした。
しかし、この場所には元々は小高氏の菩提寺である皇徳寺があった。
この常光院は常陸太田の佐竹家15代当主である佐竹義舜(よしきよ)が開基したとされている。
義舜は15代当主であるから、戦国武将として名をはせた佐竹義宣(よしのぶ)(19代当主)とその父義重(よししげ)(18代)より前で、佐竹氏が存亡の危機にあった時でもあるといいます。
この常光院はこの地に移る100年ほど前に建てられたようですが、何処に最初に建てられたのかは書かれたものが見つかりませんでした。
常光院を調べて見ると、常陸太田にもあり、佐竹氏が移った秋田の角館にもある。
この角館の常光院は佐竹北家菩提寺だといいます。
しかし常光院という寺は全国にたくさんあり、石岡市内の金丸町にもあります。農具万能の発明者である万能の墓がある寺です。
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山門(市の文化財)が歴史を物語っているようだ。
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火災で建てなおされているが室町様式の門だそうだ。
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佐竹氏の家紋の「扇に月丸」が色鮮やかについている。
この家紋については次のような逸話が伝わっている。
「源頼朝の加勢に参じた源氏の血を引く佐竹氏が無地の白旗を持って駆け付けた。
そこで頼朝はそれではさみしいからと手に持った扇に丸い月を書いて手渡した。」

この地の小高氏も府中(石岡)の大掾氏が滅ぼされた後、他の大掾氏族(全部で33館)の城主が1591年に常陸太田に呼び集められて皆殺しにされた。毒殺だったのかははっきりしない。
その時に残ったこの城の家臣たちは戦う者と佐竹氏に従う者に分裂したようだ。
結果は他の地と同様に秀吉からこの地の支配の確約状を得ていた佐竹氏に制圧された。
そこにどのような軋轢があったのだろうか。
この城に籠って戦った者、自害して果てた者、降伏して従った者などさまざまな人生があったはずだ。
石岡にいるとこの辺りが分からない。
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山門から本堂までかなり広い境内を持つ。この辺りは、それ程多くの人家がある場所でもない。
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裏の墓地へまわって見るとすぐそこにこの寺の住職歴代の墓が並ぶ。

そして、さらに奥に進むと古びた墓が置かれていた。
五輪塔と思ったが三輪しかない。
一つ大きな墓はだれの墓なのだろう?
庭の方に戻ってそこにいた掃き掃除作業していた方に聞いてみた。
「この寺の佐竹公の墓だといわれているみたい」
との返事。時代としても戦国末期よりは古そうな気がする。
佐竹義舜公なのかもしれない。
10年程で佐竹氏は秋田に転封されたが、ここにいた家臣の18人が残り、この寺を守ってきたという。
← よろしければクリックお願いします。
この城の小高氏が佐竹氏により滅ぼされた後に、この地には佐竹氏が入り、自分の地元の寺をここに持ってきて菩提寺にした。
しかし、この場所には元々は小高氏の菩提寺である皇徳寺があった。
この常光院は常陸太田の佐竹家15代当主である佐竹義舜(よしきよ)が開基したとされている。
義舜は15代当主であるから、戦国武将として名をはせた佐竹義宣(よしのぶ)(19代当主)とその父義重(よししげ)(18代)より前で、佐竹氏が存亡の危機にあった時でもあるといいます。
この常光院はこの地に移る100年ほど前に建てられたようですが、何処に最初に建てられたのかは書かれたものが見つかりませんでした。
常光院を調べて見ると、常陸太田にもあり、佐竹氏が移った秋田の角館にもある。
この角館の常光院は佐竹北家菩提寺だといいます。
しかし常光院という寺は全国にたくさんあり、石岡市内の金丸町にもあります。農具万能の発明者である万能の墓がある寺です。
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山門(市の文化財)が歴史を物語っているようだ。
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火災で建てなおされているが室町様式の門だそうだ。
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佐竹氏の家紋の「扇に月丸」が色鮮やかについている。
この家紋については次のような逸話が伝わっている。
「源頼朝の加勢に参じた源氏の血を引く佐竹氏が無地の白旗を持って駆け付けた。
そこで頼朝はそれではさみしいからと手に持った扇に丸い月を書いて手渡した。」
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この地の小高氏も府中(石岡)の大掾氏が滅ぼされた後、他の大掾氏族(全部で33館)の城主が1591年に常陸太田に呼び集められて皆殺しにされた。毒殺だったのかははっきりしない。
その時に残ったこの城の家臣たちは戦う者と佐竹氏に従う者に分裂したようだ。
結果は他の地と同様に秀吉からこの地の支配の確約状を得ていた佐竹氏に制圧された。
そこにどのような軋轢があったのだろうか。
この城に籠って戦った者、自害して果てた者、降伏して従った者などさまざまな人生があったはずだ。
石岡にいるとこの辺りが分からない。
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山門から本堂までかなり広い境内を持つ。この辺りは、それ程多くの人家がある場所でもない。
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裏の墓地へまわって見るとすぐそこにこの寺の住職歴代の墓が並ぶ。
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そして、さらに奥に進むと古びた墓が置かれていた。
五輪塔と思ったが三輪しかない。
一つ大きな墓はだれの墓なのだろう?
庭の方に戻ってそこにいた掃き掃除作業していた方に聞いてみた。
「この寺の佐竹公の墓だといわれているみたい」
との返事。時代としても戦国末期よりは古そうな気がする。
佐竹義舜公なのかもしれない。
10年程で佐竹氏は秋田に転封されたが、ここにいた家臣の18人が残り、この寺を守ってきたという。
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小高散策(5)-福岡観音
一昨日書いた「常光院」に行く道の途中に小さなお堂が置かれており、「福岡観音」と書かれています。

ここに来る前の国道355号線の道路沿いには前に紹介した「橋門の阿弥陀様」(こちら)もあり、一般の民家の庭にも如来像や子安観音像などが置かれているところも見かけた。
とても信仰が篤いところなのかもしれない。

何処にでもあるような小さなお堂なので、地蔵さんでも置かれているのかとも思いましたが、ここの説明を読んで、ここの小高城が滅びた時の内容の一部が見てとれました。
このような記録がとても少ないのです。

この場所は砂利採取計画が立てられた時に古墳などの埋蔵物の発掘調査が行われました。
そして、発掘の結果、古墳ではなく約400年前、小高城落城のときに自害した城主の奥方とその腰元達の霊を慰めるために祀つた観音堂基段跡と推定されたのです。
1590年12月に石岡(常陸府中)の大掾氏が滅びたが、その翌年の2月に近隣の33館の城主が、佐竹義重に常陸太田に集められた。そして皆殺しにされた。
城主を突然失った元の33か所もの城では何が起こったのだろうか?
興味があるのだがほとんどが記録から消えて残っていない。

しかし、ここには突然城主を失い、敵に蹂躙された城で何があったかを知るきっかけともなる出来事が残されている。
主を失い、その奥方、腰元6人がこの場所で自害した。
そしてそれから100年後に、これを供養する観音堂が地元の人々の手で建てられた。
そして安産・子育に御利益のある観音様として祀られてきた。
しかし、それもいつの間にか埋もれて消えてしまっていた。
それをまた復活して昔の確執を融和するためにお堂が建てられた。
そんな悲しいけど人びとの思いが詰まったお話が書かれていたのです。
また発掘調査では、この堂の跡の下から、縄文早期の炉跡が発見され、小高氏がここに来るずっと前には縄文人たちが住んでいたのです。
この縄文人たちの名前が「小高(おだか)」なのです。
常陸風土記では小高という佐伯と書かれています。
まだまだわからないことが多いです。
行方四頭の一頭である小高氏ですが、この城が佐竹氏により滅ぼされる(1591年)前の1546年に、小高直幹は小田政治と手を組んで府中の大掾慶幹を攻撃した。
しかし、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取したとある。
そうするとこの1591年に滅びた時はすでに府中の大掾氏の直接の支配にあったのだろうか。
その府中との間には小川の園部氏がいる。
これも江戸氏や佐竹氏と手を組んだりしておりかなり複雑だ。
あせらずともそのうちに分かる時も来るだろう。
どうも私が知りたいのは歴史の事実そのものではないのかもしれない。
ノンビリやろう。
← よろしければクリックお願いします。

ここに来る前の国道355号線の道路沿いには前に紹介した「橋門の阿弥陀様」(こちら)もあり、一般の民家の庭にも如来像や子安観音像などが置かれているところも見かけた。
とても信仰が篤いところなのかもしれない。
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何処にでもあるような小さなお堂なので、地蔵さんでも置かれているのかとも思いましたが、ここの説明を読んで、ここの小高城が滅びた時の内容の一部が見てとれました。
このような記録がとても少ないのです。
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この場所は砂利採取計画が立てられた時に古墳などの埋蔵物の発掘調査が行われました。
そして、発掘の結果、古墳ではなく約400年前、小高城落城のときに自害した城主の奥方とその腰元達の霊を慰めるために祀つた観音堂基段跡と推定されたのです。
1590年12月に石岡(常陸府中)の大掾氏が滅びたが、その翌年の2月に近隣の33館の城主が、佐竹義重に常陸太田に集められた。そして皆殺しにされた。
城主を突然失った元の33か所もの城では何が起こったのだろうか?
興味があるのだがほとんどが記録から消えて残っていない。
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しかし、ここには突然城主を失い、敵に蹂躙された城で何があったかを知るきっかけともなる出来事が残されている。
主を失い、その奥方、腰元6人がこの場所で自害した。
そしてそれから100年後に、これを供養する観音堂が地元の人々の手で建てられた。
そして安産・子育に御利益のある観音様として祀られてきた。
しかし、それもいつの間にか埋もれて消えてしまっていた。
それをまた復活して昔の確執を融和するためにお堂が建てられた。
そんな悲しいけど人びとの思いが詰まったお話が書かれていたのです。
また発掘調査では、この堂の跡の下から、縄文早期の炉跡が発見され、小高氏がここに来るずっと前には縄文人たちが住んでいたのです。
この縄文人たちの名前が「小高(おだか)」なのです。
常陸風土記では小高という佐伯と書かれています。
まだまだわからないことが多いです。
行方四頭の一頭である小高氏ですが、この城が佐竹氏により滅ぼされる(1591年)前の1546年に、小高直幹は小田政治と手を組んで府中の大掾慶幹を攻撃した。
しかし、慶幹は長者原において小田氏を撃退し、さらに進んで小高城を奪取したとある。
そうするとこの1591年に滅びた時はすでに府中の大掾氏の直接の支配にあったのだろうか。
その府中との間には小川の園部氏がいる。
これも江戸氏や佐竹氏と手を組んだりしておりかなり複雑だ。
あせらずともそのうちに分かる時も来るだろう。
どうも私が知りたいのは歴史の事実そのものではないのかもしれない。
ノンビリやろう。
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小高散策(6)-於下鬼子母神
行方市の国道355号線沿いに、旧麻生町市街に入る手前の於下(おした)地区に古びた立て看板が置かれている。
まあ通るたびに気にはなっていたが近くにすぐ車を止める場所もないので通過していた。
こんど小高地区を取り上げたのでここも見ておきたいと手前に車を止めて少し歩いて見に行ってきました。
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「於下の鬼子母神様(おしたのきしぼじんさま)」と書かれていました。
茨城の古い神社などを訪ねることが多いのですが、鬼子母神が祀られているところはあまり知りません。
日蓮宗などでは祀っているようですが・・・。
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説明は文字もよく読めませんが、何とか読んでみると
「創紀は不詳だが、元禄年間に徳川光圀がこの地を巡視の時に・・・・・(よく読めない)・・・。明治20年社前の小沼・・・さんがこの地を譲り受け祭礼を怠らず奉仕・・・」
まあ、江戸時代初めにはあったようで、それから細々と続いていたが、明治になり小沼氏(この神社の裏手の家か?)が代々これを守ってきたというようだ。
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100段程の石段があるが、崩れそうでかなり危なっかしい。
石段の登り口すぐに「ザクロ(柘榴)」の木があった。
鬼子母神であるからザクロが植えられているのだろう。
鬼子母神(きしもじん)は江戸時代には安産・子育てに御利益があると各地で祀られていますが、元々はインドの夜叉神の娘で、多くの子供を産みました。しかし近くの幼児をとらえて食べてしまうと言う恐れられたのだそうです。
それをお釈迦様が救ったのです。
今までの事を悔い改め、釈迦に従うことを誓い、安産子育ての神様になったのです。
ザクロは種が多いので吉祥果とされ、多産、豊穣の象徴とされています。
このため鬼子母神は吉祥果(ザクロ)を手に持っているのだそうです。
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この鬼子母神がどのようないきさつで祀られるようになったのか全く分かりませんが、日蓮宗や法華宗など法華経の守護神だそうです。
江戸三大鬼子母神として「入谷の鬼子母神(真源寺)、雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神」などの信仰がどのように伝わってきたのかを知る一つのものなのかもしれなません。
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けっして有名な場所ではないけどその場所で祀られ代々続いて信仰されたお宮のような場所には、やはり昔をしのばせる何かがあるようです。
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まあ通るたびに気にはなっていたが近くにすぐ車を止める場所もないので通過していた。
こんど小高地区を取り上げたのでここも見ておきたいと手前に車を止めて少し歩いて見に行ってきました。
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「於下の鬼子母神様(おしたのきしぼじんさま)」と書かれていました。
茨城の古い神社などを訪ねることが多いのですが、鬼子母神が祀られているところはあまり知りません。
日蓮宗などでは祀っているようですが・・・。
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説明は文字もよく読めませんが、何とか読んでみると
「創紀は不詳だが、元禄年間に徳川光圀がこの地を巡視の時に・・・・・(よく読めない)・・・。明治20年社前の小沼・・・さんがこの地を譲り受け祭礼を怠らず奉仕・・・」
まあ、江戸時代初めにはあったようで、それから細々と続いていたが、明治になり小沼氏(この神社の裏手の家か?)が代々これを守ってきたというようだ。
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100段程の石段があるが、崩れそうでかなり危なっかしい。
石段の登り口すぐに「ザクロ(柘榴)」の木があった。
鬼子母神であるからザクロが植えられているのだろう。
鬼子母神(きしもじん)は江戸時代には安産・子育てに御利益があると各地で祀られていますが、元々はインドの夜叉神の娘で、多くの子供を産みました。しかし近くの幼児をとらえて食べてしまうと言う恐れられたのだそうです。
それをお釈迦様が救ったのです。
今までの事を悔い改め、釈迦に従うことを誓い、安産子育ての神様になったのです。
ザクロは種が多いので吉祥果とされ、多産、豊穣の象徴とされています。
このため鬼子母神は吉祥果(ザクロ)を手に持っているのだそうです。
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この鬼子母神がどのようないきさつで祀られるようになったのか全く分かりませんが、日蓮宗や法華宗など法華経の守護神だそうです。
江戸三大鬼子母神として「入谷の鬼子母神(真源寺)、雑司が谷の法明寺鬼子母神堂、市川市の遠寿院(法華経寺塔頭)の鬼子母神」などの信仰がどのように伝わってきたのかを知る一つのものなのかもしれなません。
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けっして有名な場所ではないけどその場所で祀られ代々続いて信仰されたお宮のような場所には、やはり昔をしのばせる何かがあるようです。
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