第63回 祇園祭宵山散策その4~船鉾から保昌山
仏光寺通から、西洞院通を北に向いています。
前回は鉾町の南西部を回ったので、今回は南東部を回ります。
こちらは、だいぶ人通りも多くなります。
撮影日は2012年7月15日日曜日午後3時半。
やっと半分といったところです。
仏光寺通から西洞院通を約30m北に進みました。
西洞院通の東側に児童公園がありました。
この日は晴れていたこともあり、
たくさんの子供が遊んでいました。
西洞院通をはさんで、
児童公園の西向かいには郵便局がありました。
この日は日曜日でしたが、
祇園祭記念切手を店頭で売っていました。
西洞院通から綾小路を東に向いています。
この反対側に、前回ブログの「芦刈山」があります。
今から、綾小路を東に向かい「伯牙山」に向かいます。
こちらは、「伯牙山」の会所です。
人でごった返していて、中に入れませんでした。
会所の前に、「伯牙山」が立っていました。
「伯牙山」は、中国の琴の名手伯牙から取材しています。
友人の鐘子期が死んだとき、琴の弦を切って
以後演奏しなくなったことを表した山です。
「伯牙山」を通り抜け、綾小路を西に進みました。
この先が、新町通です。
綾小路から新町通を北に向いています。
ずっと向こうに、前々回ブログで訪れた放下鉾が見えます。
ここから、50mほど北に向かいます。
綾小路から新町通を北に50mほど進みました。
左(西)側に、大船鉾の会所が見えます。
今から中に入ってみます。
大船鉾の会所の内部です。
奥の簾の向こうに、ご神体の神功皇后の像があります。
大船鉾は、神功皇后の朝鮮出兵を表しています。
「船鉾」とは違い、こちらは帰国を表しています。
「大船鉾」は、幕末の戦乱で焼失してしまいました。
以降復活することなく、「休み山」となりました。
それが、今年から巡行に参加することになりました!
……ただ今年は鉾自体はなく、人が歩くだけの巡行です。
これから寄付を集めて、2年後の復活を目指すそうです。
なお、京都駅前のヨドバシカメラに
この「大船鉾」の復元模型が飾ってあります。
機会があれば、ご覧下さい。
「大船鉾」の会所の向かいの露店です。
このアユの塩焼きは京都ではよく見かける露店ですが、
他の地方では見かけませんね。
冬だったら、日本酒とセットがおいしいです。
「大船鉾」の会所から約50m南に進み、
もとの新町綾小路の角に戻ってきました。
この写真では、新町通から綾小路を東に向いています。
今からこの綾小路を東に進みます。
新町通から綾小路を東に進んでいます。
目の前に、「綾傘鉾」が見えてきました。
二つある「傘鉾」のうち、綾小路にある方ですね。
さらに綾小路を少し東に進みました。
「綾傘鉾」の会所に入ります。
会所の入り口付近に、お地蔵さんがいらっしゃいました。
(ウチのブログの象徴ですね)
こちらも、撮らせていただきました。
お地蔵さんの向かいに、手水舎がありました。
口の部分が、龍を模していますね。
こちらも会所の中央に、「牛頭天王」が祀られています。
こちらの会所では、「牛頭天王」の由縁を
分かりやすく解説してくれる方がいらっしゃいました。
では、会所を出て先に進みます。
「綾傘鉾」から綾小路を西に進み、
新町通との角にまた戻ってきました。
今度は左(南)に曲がり、新町通を進みます。
新町通を綾小路から南に向いています。
今から、ここを進んでいきます。
「船鉾」です。このブログでは、この形式の鉾の会所には入りません。
「大船鉾」同様、神功皇后の朝鮮出兵を表しています。
ただし、「大船鉾」は神宮皇后の帰国を表しているのに対して、
この「船鉾」は神功皇后の出兵を表しています。
「船鉾」の西側にこのようなお店がありました。
ここは、呉服問屋の「醍醐正」(だいごしょう)です。
少し、こちらにお邪魔します。
「醍醐正」の玄関先に、このような金屏風がありました。
描かれて約100年たっていますが、保存状態がいいですね。
本当は描かれた竹にカタツムリがいるのですが、
フラッシュの光で見えなくなっています。
ここの女将さんから、かなり丁寧に教えていただきました。
女将さんにこのブログについて話すと、
「ぜひ、この店を宣伝してください!」
とおっしゃっていました。
この「醍醐正」は、創立100年を迎えた白生地反物のお店です。
(丹後ちりめんや小千谷ちぢみなどがあるそうです)
約束なので、宣伝しました。
「船鉾」から新町通を南に進みました。
仏光寺通から新町通を南に向いています。
今から目の前の「岩戸山」に向かいます。
仏光寺通から新町通を南に5mほど進みました。
「岩戸山」の東の方のお店のショウウィンドウに
このような紙人形が飾ってありました。
「岩戸山」の巡行を表しています。
「岩戸山」です。この山も、飾り屋根がある形態です。
(よって、この山も会所には寄りません)
この「岩戸」とは、「天岩戸」を表しています。
素戔嗚尊(スサノオノミコト)の悪行に怒った
天照大神が隠れたところですね。
天宇受売(あめのうずめ。車折神社の末社「芸能神社」の主神)が
歌や踊りで天照大神を誘い、
田力男(たぢからお。怪力の神様)が岩戸をこじ開けて
天岩戸から天照大神を外に出した神話をもとにしています。
「岩戸山」から新町通を約5mほど南に進みました。
東側に、小物屋さんがありました。
ここは、きれいな団扇がたくさん売られていました。
藍色の和紙に朝顔の切り絵がきれいな団扇です。
気に入ったので、1000円払って買いました。
新町通をさらに南に進みます。
高辻通との交差点で、露店の波が終わります。
(この辺りが、鉾町の最南端です)
ここから高辻通を東に進みます。
新町通から高辻通を東に向いています。
高辻通は、両脇に歩道があるそこそこ広い道です。
右(南)側に、下京中学成徳学舎が見えます。
左(北)側には、自動車や人影で見えにくいですが
小さな神社があります。
新町通から高辻通を東に約100m進みました。
ここは、先ほど書いた小さな神社「繁盛の宮」です。
もともとは「牛頭天王」の妃
「針才女」(はりさいにょ)を主神とした神社です。
この名前が転訛して「班女」(はんじょ)となり、
さらに転訛して「繁盛」になったそうです。
縁結びと商売繁盛のご利益があるそうです。
「繁盛の宮」から5m東に進みました。
ここは、室町高辻の交差点です。
ここをさらに東に進みます。
室町通からさらに100mほど東に進みました。
ここは、烏丸高辻の交差点です。
あと300m北に上がると、四条烏丸の交差点です。
(地下鉄「四条」駅と阪急電車「烏丸」駅があります)
今回は、高辻通をさらに東に進みます。
烏丸通から高辻通を東に約100m進みました。
左(北)側に、ホテル日航プリンセス京都が見えます。
今からこの交差点を右(南)に曲がり、東洞院通を進みます。
高辻通から東洞院通を南に向いています。
今から、この「保昌山」に向かいます。
「保昌山」の前まで来ました。もう少し南に行くと、松原通です。
ちょうど第24回ブログの最後の方の写真の
反対側から撮ったことになります。
「保昌山」に奉げられていた絵馬です。
この山は、縁結びと恋愛成就のご利益があります。
前回ブログの「太子山」と並んで絵馬の多い山です。
「保昌山」の会所の中です。
見送りと祠ですが、上手く撮れませんでした。
「保昌山」越しに、会所の2Fを写しました。
ご神体が、2Fにいらっしゃいます。
ご神体は、丹後の国司平井保昌(ひらいやすまさ)の像です。
恋人の和泉式部のために、紫宸殿の桜を折ろうとしている姿です。
そのため、「保昌山」は「恋愛の神様」ということになっています。
「保昌山」から東洞院通を北に向いています。
高辻通との交差点の北西角に、先ほど通り過ぎた
ホテル日航プリンセス京都が見えます。
今度はこの東洞院通を北上した後、
四条通近辺の山鉾を見に行きますが、それは次回とします。
今回はここまでです。
~次回は、四条通沿いの月鉾や長刀鉾に向かいます~
~追記~
今回「保昌山」まで進みました。
お気づきの方も多いでしょうが、
この「保昌山」だけポツンと離れています。
もともと松原通(旧五条通)にもいくつか山鉾がありましたが、
1467年の応仁の乱で京都市街地が全焼した後、
松原通り周辺にあった山鉾の大半は消滅してしまいました。
「保昌山」は、この辺りも鉾町であった名残なのです。
ところが、近年状況が一変しています。
上手くいけば、2年後くらいに山鉾巡行が
7月17日と(今までと同じ)
7月24日の2回になります。
そして、そのうち24日の巡行は
この松原通を通るコースになるそうです。
そうなれば、文献上にしか存在しなかった
松原通の山鉾が復活するきっかけになるかもしれません。
追追記:
このブログ同様京都観光を扱われている
「きょうと明日とこれからと」
というブログと2012年7月23日をもって
相互リンクさせていただくことになりました。
このブログの相互リンクは、初めてです。
(自分の与り知らないこのブログの「無許可リンク」は、
今のところ3件把握しているのですが)
詳しくは、サイドバーの「サイト・ブログのリンク」を見てください。
~追追追記~
今回は、「追記」がとても多くなります。
この辺りの地図を貼り付けました。
詳しくは、ここをクリックしてください。
また、ここに山鉾の配置図を貼り付けます。
また、今回は「伯牙山」から始まり、
「大船鉾」(休み山)→「綾傘鉾」→「船鉾」→
「岩戸山」→「保昌山」と回りました。
今回「保昌山」まで進みました。
お気づきの方も多いでしょうが、
この「保昌山」だけポツンと離れています。
もともと松原通(旧五条通)にもいくつか山鉾がありましたが、
1467年の応仁の乱で京都市街地が全焼した後、
松原通り周辺にあった山鉾の大半は消滅してしまいました。
「保昌山」は、この辺りも鉾町であった名残なのです。
ところが、近年状況が一変しています。
上手くいけば、2年後くらいに山鉾巡行が
7月17日と(今までと同じ)
7月24日の2回になります。
そして、そのうち24日の巡行は
この松原通を通るコースになるそうです。
そうなれば、文献上にしか存在しなかった
松原通の山鉾が復活するきっかけになるかもしれません。
追追記:
このブログ同様京都観光を扱われている
「きょうと明日とこれからと」
というブログと2012年7月23日をもって
相互リンクさせていただくことになりました。
このブログの相互リンクは、初めてです。
(自分の与り知らないこのブログの「無許可リンク」は、
今のところ3件把握しているのですが)
詳しくは、サイドバーの「サイト・ブログのリンク」を見てください。
~追追追記~
今回は、「追記」がとても多くなります。
この辺りの地図を貼り付けました。
詳しくは、ここをクリックしてください。
また、ここに山鉾の配置図を貼り付けます。
また、今回は「伯牙山」から始まり、
「大船鉾」(休み山)→「綾傘鉾」→「船鉾」→
「岩戸山」→「保昌山」と回りました。