第435回 九条池に架かる橋~京都御苑秋散策~その1
前回ブログで「高倉通編」は終わりましたが、
ここから「高倉通編」は延長編に入ります。
といいますのも、京都御苑内の高倉通がある位置にも道があり、
そこから京都御所の建礼門まで続いているからです。
今回から、暫く建礼門の南側に伸びる建礼門前通を北上します。
11月に入ってカエデはまだまだ紅葉していませんが、
それ以外の木々はちょうど見頃でした。
京都駅から市営地下鉄烏丸線に乗り、「丸太町」駅で降りました。
そして、自分を乗せていた車両が「今出川」駅方面に出発します。
今回は丸太町通を西進し、堺町御門から京都御苑に入ります。
撮影日は、2016年11月10日木曜日午後2時。
日が経つにつれ、紅葉が進んできています。
地下鉄烏丸線「丸太町」駅のホームからエスカレーターに乗り、
駅のコンコースに着きました。
改札の先に、コンビニエンスストアがあります。
今年(2016年)の葵祭ではこの辺りはものすごい人出で、
先に進めずに左(北)側の3番出口から地上に出ました。
今回は、コンビニエンスストア東側の1番出口から
地上に向かっていきます。
先程のコンビニエンスストアの前からそのまま進み、
地下鉄「丸太町」駅1番出口から地上に出ました。
「丸太町烏丸」交差点北東角で東を向いていて、
ちょうど前回ブログの最後の写真と反対を向いています。
「烏丸丸太町」バス停に、ちょうど市バスがやって来ました。
烏丸通から、丸太町北側歩道を東に歩いています。
この道より右(南)は普通の市街地なのですが、
左(北)側の京都御苑で南北に伸びる道は全て突き当たります。
元々京都御苑はもっと西にあって、(第344回ブログ参照)
安土桃山時代(今から約420年前)にここに造営されました。
そのため、それ以前にこの地に住んでいた方々は
今の京阪電鉄「三条」駅の東に強制的に移住させられました。
そのため、その辺りに「新」高倉通などがあります。
この写真は、クリックすると拡大されます。
市営地下鉄「丸太町」駅1番出口から、
丸太町通北側歩道を東に約100m進みました。
ここ間之町通に横断歩道があって、南に渡れます。
(前回ブログでは高倉通から移動して、ここを渡りました)
この写真も、クリックすれば拡大されます。
間之町通の突き当りから、このように京都御苑内に入れます。
こちらが、間之口門(まのくちもん)です。
第397回ブログでは、ここから中に入りました。
この写真も、クリックすると拡大されます。
間之町通から、丸太町通北側歩道を東に向いています。
約50m先に、前回ブログまで北上し続けた高倉通が見えますね。
この写真も、クリックすると拡大されます。
丸太町通から、高倉通を南に向いています。
第395回ブログから約半年かけて、この道を北上し続けていました。
(ただし、第407回ブログから第423回ブログまでの約2か月間
祇園祭や太秦を特集していました)
この写真も、クリックすると拡大されます。
高倉通から、丸太町通北側歩道を東に向いています。
約50m先に、また京都御苑内に入れる門が見えます。
この写真も、クリックすると拡大されます。
高倉通から、丸太町通北側歩道を東に約50m進みました。
堺町通の突き当りに、堺町御門があります。
葵祭の巡行行列は京都御所を出発して、
京都御苑内の建礼門大通南下しこの門から京都市街地に出ます。
また、1864年の禁門の変後のどんどん焼けはこの辺りが火元でした。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門(堺町通)から、丸太町通北側歩道を東に向ています。
京都御苑は、ここから約350m先の寺町通まで続きます。
また、ここから約50m先に「丸太町柳馬場」交差点があります。
その交差点の南東角に、白くて大きな建物が見えます。
そちらが京都地方裁判所で、
この辺りには法曹関係の施設が集中しています。
この写真も、クリックすると拡大されます。
では、こちらの堺町御門から京都御苑内に入っていきます。
京都御苑の敷地に入ると、
京都市中京区から京都市上京区に変わります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門から、京都御苑内に入ってきました。
堺町御門は、京都御苑南端のほぼ中央にあります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門から北に約30m進み、東を向きました。
今年(2016年)は気温が低いのでそろそろ紅葉かと思ったのですが、
カエデはまだ染まりだした直後ですね。
ここから約200m先の富小路にも御門があって、
その辺りに野球場やグランドがあります。
……自分の京都御苑のイメージは、
小中学生が野球やサッカーをしに来るところです。
(京都市街地では、そういう遊びができませんし)
この写真もクロックすると拡大されます。
同じ場所で、今度は西を向きました。
約50m先から右(北)に、建礼門前大通が伸びています。
葵祭では巡行行列はその建礼門大通からこちらに向かい、
この後方(南)にある堺町御門から京都市街地に出ます。
この写真も、クリックすると拡大されます。
先程の場所から堺町御門の前に戻り、西に向きました。
藪で見えにくいですが、写真の右側に大きな台があります。
かつて後西天皇の仙洞御所(天皇引退後の邸宅)にあった
鉄製の大きな燈籠がこちらに移動して残っていたのですが、
1938年以降の戦時体制中に供出されてしまいました。
そのため、今はこの台だけが残っています。
では、この小路を西に進みます。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門の前から、狭い小路を西に進んでいます。
丸太町通から見えていた藪の中に入った格好ですね。
左側の木々の向こうに、
先ほど歩いていた丸太町通北側歩道があります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
藪の中を西に歩きながら、右(北)側を見ました。
こちらは、九条池ですね。
かつての九条邸にあった庭園の一部です。
九条氏は藤原氏本家が改姓した一族で、
鎌倉時代以降は左大臣や右大臣などを歴任しました。
江戸時代、京都御苑には公家(貴族)の邸宅が並んでいました。
こちらは、その邸宅跡の一つです。
この写真も、クリックすると拡大されます。
そんな薮の中に、このようなものがありました。
公衆便所とも思ったのですが、鍵が掛かっています。
そもそもこんな分かりにくい場所に便所を作っても、
だれも利用しませんよね。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門から、藪の中を西に約50m進みました。
小路は多少くねくねしていますが、ここでT字路にぶつかります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
そのT字路で、南を向きました。
木々で分かりにくいですが、この向こうが高倉通です。
つまり、ここから北上すると「高倉通編」の続きになります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
同じ場所で、北を向きました。
この辺りが九条池の中央で、大きな太鼓橋が架かっています。
ですから、高倉通をずっと延長すると
この九条池に架かる橋に出ることが分かります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
先程の場所から北上し、九条池に架かる太鼓橋の上に来ました。
橋の上から、九条池の東側を見ています。
この辺りのカエデは日が照る場所は紅く染まっていますが、
それ以外の場所はまだまだ碧いままですね。
この写真も、クリックすると拡大されます。
今度は、九条池の西側を見ています。
程よく紅く染まった桜の脇に、拾翠亭が見えますね。
先述の通り、この池はかつての九条家邸宅の庭園の一部です。
ですから、こちらは元々九条邸内の茶室でした。
この橋へは第201回ブログ以来約2年半ぶりの訪問ですが、
この拾翠亭には自分は訪れたことがありません……
この写真も、クリックすると拡大されます。
九条池の北側には、厳島神社がいらっしゃいます。
こちらの神社にも、第201回ブログ以来約2年半ぶりです。
この写真も、クリックすると拡大されます。
厳島神社の社前の石製鳥居をアップにしました。
こちらは、第419回ブログに出てきた
「蚕ノ社」木嶋神社の三柱鳥居と並ぶ京都三珍鳥居の一つです。
(残りの一つは、北野天満宮の末社「伴氏社」の鳥居)
この写真も、クリックすると拡大されます。
その厳島神社の右(南)側を見ています。
池に何羽か鴨が泳いでいます。
この九条池には、様々な水鳥がやって来ていました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
太鼓橋の上で、北を向きました。では、九条池の北側に出ます。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
九条池に架かる橋の北側で、西を向きました。
木々の向こうに見えるのは、堺町休憩所です。
葵祭では、この辺りに露店が並びました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
今度は、同じ場所で東を向きました。
第397回ブログでは、ここで葵祭の巡行行列を見ていました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
九条池北側から、京都御苑内で北を向いています。
ここから北に建礼門前大通が伸びていて、
ずっと先に京都御所の建礼門が見えています。
では、ここからこの建礼門前大通を北上するのですが
もうだいぶ写真を貼り付けたので、今回はここまでとします。
~次回は、ここからこの道を北上し白雲神社に訪れます~
今回は、ブログ更新日の翌日に追記を書き足しています。
~追記 その1~
また中途半端で更新してしまいました……
今回ブログは2016年11月14日早朝に少しだけ書いて、
後は2日後の11月16日までに書き上げようと思っていました。
ところが11月14日の朝起きてきたら、
今回ブログが中途半端な状態で更新されていました。
原因は「公開」としたまま更新したことでした。
要するに、いつもよくやるミスです……
慌てていったん消去して書き直そうとも思ったのですが、
既に拍手が1つ付いており、
せっかくなのでそのまま上から書き足す形で
11月14日の夕方までに簡易版を完成させました。
(この日の勤務体制が夜勤だったから可能でした)
ですから、これら「追記」は11月15日に書いています。
~追記その2~
堺町御門ではなくて……
今回も含めて、京都御苑の取材をすると
どうしても禁門の変に触れざるを得ません。
今回ブログでも堺町御門前で、どんどん焼けの話を書きました。
ところがwikiで調べていたら、一部記事にこう書いてありました。
「どんどん焼けの火元は旧長州藩邸と中立売御門付近」
「旧長州藩邸」は今の「御池河原町」交差点北東角にありました。
(第408回ブログで長刀鉾を見ていた辺りです)
これはほかの資料と同じなのですが、
もう1カ所は堺町御門と中立売御門と資料によって異なります。
禁門の変の始まった京都御苑内の蛤御門を少し北に移動すると
その中立売御門があります。
ですから「逃げ出した長州藩藩士を追い立てるために
新撰組と薩摩藩が放火した」というのに合致はするのですが、
この大火で焼け出されたのは大部分が京都御苑より南です。
(祇園祭の山鉾の大半が、この時焼失しました。
応仁の乱の最中でも中止しなかった祇園祭が、
明治時代半ばまで中断しました)
それを考えると、京都御苑の西にある中立売御門より
南側の堺町御門の方がどんどん焼けの火元として信憑性があります。
~追記 その3~
この辺の地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
今回ブログの最後の方に出てきた京都御苑内の
堺町休憩所が、起点です。
ここから「高倉通編」は延長編に入ります。
といいますのも、京都御苑内の高倉通がある位置にも道があり、
そこから京都御所の建礼門まで続いているからです。
今回から、暫く建礼門の南側に伸びる建礼門前通を北上します。
11月に入ってカエデはまだまだ紅葉していませんが、
それ以外の木々はちょうど見頃でした。
京都駅から市営地下鉄烏丸線に乗り、「丸太町」駅で降りました。
そして、自分を乗せていた車両が「今出川」駅方面に出発します。
今回は丸太町通を西進し、堺町御門から京都御苑に入ります。
撮影日は、2016年11月10日木曜日午後2時。
日が経つにつれ、紅葉が進んできています。
地下鉄烏丸線「丸太町」駅のホームからエスカレーターに乗り、
駅のコンコースに着きました。
改札の先に、コンビニエンスストアがあります。
今年(2016年)の葵祭ではこの辺りはものすごい人出で、
先に進めずに左(北)側の3番出口から地上に出ました。
今回は、コンビニエンスストア東側の1番出口から
地上に向かっていきます。
先程のコンビニエンスストアの前からそのまま進み、
地下鉄「丸太町」駅1番出口から地上に出ました。
「丸太町烏丸」交差点北東角で東を向いていて、
ちょうど前回ブログの最後の写真と反対を向いています。
「烏丸丸太町」バス停に、ちょうど市バスがやって来ました。
烏丸通から、丸太町北側歩道を東に歩いています。
この道より右(南)は普通の市街地なのですが、
左(北)側の京都御苑で南北に伸びる道は全て突き当たります。
元々京都御苑はもっと西にあって、(第344回ブログ参照)
安土桃山時代(今から約420年前)にここに造営されました。
そのため、それ以前にこの地に住んでいた方々は
今の京阪電鉄「三条」駅の東に強制的に移住させられました。
そのため、その辺りに「新」高倉通などがあります。
この写真は、クリックすると拡大されます。
市営地下鉄「丸太町」駅1番出口から、
丸太町通北側歩道を東に約100m進みました。
ここ間之町通に横断歩道があって、南に渡れます。
(前回ブログでは高倉通から移動して、ここを渡りました)
この写真も、クリックすれば拡大されます。
間之町通の突き当りから、このように京都御苑内に入れます。
こちらが、間之口門(まのくちもん)です。
第397回ブログでは、ここから中に入りました。
この写真も、クリックすると拡大されます。
間之町通から、丸太町通北側歩道を東に向いています。
約50m先に、前回ブログまで北上し続けた高倉通が見えますね。
この写真も、クリックすると拡大されます。
丸太町通から、高倉通を南に向いています。
第395回ブログから約半年かけて、この道を北上し続けていました。
(ただし、第407回ブログから第423回ブログまでの約2か月間
祇園祭や太秦を特集していました)
この写真も、クリックすると拡大されます。
高倉通から、丸太町通北側歩道を東に向いています。
約50m先に、また京都御苑内に入れる門が見えます。
この写真も、クリックすると拡大されます。
高倉通から、丸太町通北側歩道を東に約50m進みました。
堺町通の突き当りに、堺町御門があります。
葵祭の巡行行列は京都御所を出発して、
京都御苑内の建礼門大通南下しこの門から京都市街地に出ます。
また、1864年の禁門の変後のどんどん焼けはこの辺りが火元でした。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門(堺町通)から、丸太町通北側歩道を東に向ています。
京都御苑は、ここから約350m先の寺町通まで続きます。
また、ここから約50m先に「丸太町柳馬場」交差点があります。
その交差点の南東角に、白くて大きな建物が見えます。
そちらが京都地方裁判所で、
この辺りには法曹関係の施設が集中しています。
この写真も、クリックすると拡大されます。
では、こちらの堺町御門から京都御苑内に入っていきます。
京都御苑の敷地に入ると、
京都市中京区から京都市上京区に変わります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門から、京都御苑内に入ってきました。
堺町御門は、京都御苑南端のほぼ中央にあります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門から北に約30m進み、東を向きました。
今年(2016年)は気温が低いのでそろそろ紅葉かと思ったのですが、
カエデはまだ染まりだした直後ですね。
ここから約200m先の富小路にも御門があって、
その辺りに野球場やグランドがあります。
……自分の京都御苑のイメージは、
小中学生が野球やサッカーをしに来るところです。
(京都市街地では、そういう遊びができませんし)
この写真もクロックすると拡大されます。
同じ場所で、今度は西を向きました。
約50m先から右(北)に、建礼門前大通が伸びています。
葵祭では巡行行列はその建礼門大通からこちらに向かい、
この後方(南)にある堺町御門から京都市街地に出ます。
この写真も、クリックすると拡大されます。
先程の場所から堺町御門の前に戻り、西に向きました。
藪で見えにくいですが、写真の右側に大きな台があります。
かつて後西天皇の仙洞御所(天皇引退後の邸宅)にあった
鉄製の大きな燈籠がこちらに移動して残っていたのですが、
1938年以降の戦時体制中に供出されてしまいました。
そのため、今はこの台だけが残っています。
では、この小路を西に進みます。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門の前から、狭い小路を西に進んでいます。
丸太町通から見えていた藪の中に入った格好ですね。
左側の木々の向こうに、
先ほど歩いていた丸太町通北側歩道があります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
藪の中を西に歩きながら、右(北)側を見ました。
こちらは、九条池ですね。
かつての九条邸にあった庭園の一部です。
九条氏は藤原氏本家が改姓した一族で、
鎌倉時代以降は左大臣や右大臣などを歴任しました。
江戸時代、京都御苑には公家(貴族)の邸宅が並んでいました。
こちらは、その邸宅跡の一つです。
この写真も、クリックすると拡大されます。
そんな薮の中に、このようなものがありました。
公衆便所とも思ったのですが、鍵が掛かっています。
そもそもこんな分かりにくい場所に便所を作っても、
だれも利用しませんよね。
この写真も、クリックすると拡大されます。
堺町御門から、藪の中を西に約50m進みました。
小路は多少くねくねしていますが、ここでT字路にぶつかります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
そのT字路で、南を向きました。
木々で分かりにくいですが、この向こうが高倉通です。
つまり、ここから北上すると「高倉通編」の続きになります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
同じ場所で、北を向きました。
この辺りが九条池の中央で、大きな太鼓橋が架かっています。
ですから、高倉通をずっと延長すると
この九条池に架かる橋に出ることが分かります。
この写真も、クリックすると拡大されます。
先程の場所から北上し、九条池に架かる太鼓橋の上に来ました。
橋の上から、九条池の東側を見ています。
この辺りのカエデは日が照る場所は紅く染まっていますが、
それ以外の場所はまだまだ碧いままですね。
この写真も、クリックすると拡大されます。
今度は、九条池の西側を見ています。
程よく紅く染まった桜の脇に、拾翠亭が見えますね。
先述の通り、この池はかつての九条家邸宅の庭園の一部です。
ですから、こちらは元々九条邸内の茶室でした。
この橋へは第201回ブログ以来約2年半ぶりの訪問ですが、
この拾翠亭には自分は訪れたことがありません……
この写真も、クリックすると拡大されます。
九条池の北側には、厳島神社がいらっしゃいます。
こちらの神社にも、第201回ブログ以来約2年半ぶりです。
この写真も、クリックすると拡大されます。
厳島神社の社前の石製鳥居をアップにしました。
こちらは、第419回ブログに出てきた
「蚕ノ社」木嶋神社の三柱鳥居と並ぶ京都三珍鳥居の一つです。
(残りの一つは、北野天満宮の末社「伴氏社」の鳥居)
この写真も、クリックすると拡大されます。
その厳島神社の右(南)側を見ています。
池に何羽か鴨が泳いでいます。
この九条池には、様々な水鳥がやって来ていました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
太鼓橋の上で、北を向きました。では、九条池の北側に出ます。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
九条池に架かる橋の北側で、西を向きました。
木々の向こうに見えるのは、堺町休憩所です。
葵祭では、この辺りに露店が並びました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
今度は、同じ場所で東を向きました。
第397回ブログでは、ここで葵祭の巡行行列を見ていました。
この写真も、クリックすれば拡大されます。
九条池北側から、京都御苑内で北を向いています。
ここから北に建礼門前大通が伸びていて、
ずっと先に京都御所の建礼門が見えています。
では、ここからこの建礼門前大通を北上するのですが
もうだいぶ写真を貼り付けたので、今回はここまでとします。
~次回は、ここからこの道を北上し白雲神社に訪れます~
今回は、ブログ更新日の翌日に追記を書き足しています。
~追記 その1~
また中途半端で更新してしまいました……
今回ブログは2016年11月14日早朝に少しだけ書いて、
後は2日後の11月16日までに書き上げようと思っていました。
ところが11月14日の朝起きてきたら、
今回ブログが中途半端な状態で更新されていました。
原因は「公開」としたまま更新したことでした。
要するに、いつもよくやるミスです……
慌てていったん消去して書き直そうとも思ったのですが、
既に拍手が1つ付いており、
せっかくなのでそのまま上から書き足す形で
11月14日の夕方までに簡易版を完成させました。
(この日の勤務体制が夜勤だったから可能でした)
ですから、これら「追記」は11月15日に書いています。
~追記その2~
堺町御門ではなくて……
今回も含めて、京都御苑の取材をすると
どうしても禁門の変に触れざるを得ません。
今回ブログでも堺町御門前で、どんどん焼けの話を書きました。
ところがwikiで調べていたら、一部記事にこう書いてありました。
「どんどん焼けの火元は旧長州藩邸と中立売御門付近」
「旧長州藩邸」は今の「御池河原町」交差点北東角にありました。
(第408回ブログで長刀鉾を見ていた辺りです)
これはほかの資料と同じなのですが、
もう1カ所は堺町御門と中立売御門と資料によって異なります。
禁門の変の始まった京都御苑内の蛤御門を少し北に移動すると
その中立売御門があります。
ですから「逃げ出した長州藩藩士を追い立てるために
新撰組と薩摩藩が放火した」というのに合致はするのですが、
この大火で焼け出されたのは大部分が京都御苑より南です。
(祇園祭の山鉾の大半が、この時焼失しました。
応仁の乱の最中でも中止しなかった祇園祭が、
明治時代半ばまで中断しました)
それを考えると、京都御苑の西にある中立売御門より
南側の堺町御門の方がどんどん焼けの火元として信憑性があります。
~追記 その3~
この辺の地図を貼り付けます。
詳しくは、ここをクリックしてください。
今回ブログの最後の方に出てきた京都御苑内の
堺町休憩所が、起点です。
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