第542回 法住寺の餅つき~法住寺節分会~その3
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京都市東山区の東大路より1本西にある「三十三間堂廻り」は、
七条通~塩小路間の2車線の道です。
その中間点三十三間堂勅使門の前で、南を向いています。
(約70m先に、重要文化財三十三間堂南大門が見えます)
今回は、その「三十三間堂廻り」最南端の法住寺に向かいます。
撮影日は、2018年2月3日節分の土曜日午後0時15分。
今回から、法住寺の節分行事が続きます。

その位置で、「三十三間堂廻り」を東に向きました。
三十三間堂の向かい(東)側に、養源院が建っています。
こちらはお江の方が建立した浅井長政の菩提寺です。
杉戸絵など俵屋宗達の絵画所持数が日本一でもあります。
またこちらは血天井で有名で、
鳥居元忠の死に顔が天井に残っています。
(第299回ブログを参照)

養源院の南隣に、こちらの通路があります。
しかしこの日は節分である前に週末なので、閉まっています。
(宮内庁の管轄なので、土日や祝日は閉鎖されます)
こちらの通路の奥に、後白河天皇陵があります。
この辺りは三十三間堂はもちろん養源院や法住寺も桜の名所ですが、
こちらも桜の季節は絶景になります。

さらに、南隣が天台宗の法住寺です。
こちらの節分会が、今回ブログのメインです。

法住寺境内に入ってきました。
こちらも、南北に細長い境内ですね。
2年前と比べて、参拝者は3倍増しですね。週末だからでしょうか?
枝垂桜の向こうに見える一番奥の建物が、本堂です。

法住寺の最南端に、こちらのお堂があります。
陀枳尼尊天と弁財天と言う2柱の女神様がいらっしゃいますね。
先ずは、こちらにお参りです。

同じ位置で、北を向きました。
法住寺境内の西側にカウンターが並び、奥に炉が並びます。
炉の上には、釜が置かれてその中に甘酒が入っています。

毎年節分の日には、法住寺が午前10時から開いています。
その時点から、こちらでは甘酒が振る舞われます。
それが結構な量なので、約2時間後のこの時点でも
このように並べばその甘酒を頂けます。

自分も数分並んで、こちらの甘酒を頂きました。
第374回ブログでも書いた通り、京都の甘酒はノンアルコールです。
米麹を発酵させたものなので、酒粕が一切入っていません。
ですから、木匙で掬って米麹を食べます。
(韓国のシッケに近いものです)

甘酒を飲み湯呑を返却後、法住寺境内中央の枝垂桜の許に来ました。
その桜より北側に、縄で結界が張られています。
その中央に正方形の砂場があり、その上に護摩壇が作られています。
法住寺の節分行事が始まる前に、
自分は結界の先(南)にある法住寺本堂に向かい、
ご本尊の身代不動明王像にお参りしました。
天台宗の法住寺は、平安時代の半ば藤原為光が建立しました。
ただこちらが隆盛を極めたのは
後白河上皇の治世である平安時代末期で、
その上皇は北は今の五条通、南は九条通に至る
広大な「法住寺殿」と言う外御所を造営しました。
要するに、今の豊国神社や智積院・三十三間堂・新熊野神社などが
この「法住寺殿」の敷地内でした。
(平清盛がこちらの北隣である六原に拠点を置いたのも、
決して偶然ではありません)
ところが、その後白河上皇の治世に源義仲が
この「法住寺殿」を焼き討ちし寺域が縮小し始めました。
鎌倉時代以降は後白河天皇陵を守る「宮寺」として
機能していたのですが、
応仁の乱以降さらに勢力を弱め、
安土桃山時代には豊臣秀吉によって大仏殿の一部となりました。
(先述の太閤塀や三十三間堂南大門は、その時に建てられました)
江戸時代に入り先述の大仏殿が解体される過程で
また「法住寺」と言う独立した寺院に戻ったのですが、
寺域の北半分を養源院に取られ、
三十三間堂も「蓮華法院」と言う別の独立した寺院となりました。
さらに明治時代初期に神仏分離令により
後白河天皇陵からも分離して、現在に至ります。

それから数分経ち、2018年2月3日午後0時半となりました。
自分が先ほど入って北門から、
第540回ブログの厄払い行列が戻ってきました。
法螺貝を持った修験者やこちらのご住職が、
自分の前を通り過ぎていかれました。

その後を赤鬼・青鬼・黒鬼が通り過ぎ、
最後に赤い天狗が通り過ぎていかれました。

その厄払いのご一行は、こちらの阿弥陀堂に入っていかれました。
こちらの阿弥陀堂には親鸞由来の阿弥陀像がいらっしゃいます。
また、この節分限定でこちらで有料で弁当を頂けます。
この阿弥陀堂の真裏(東側)が、後白河天皇陵です。

阿弥陀堂から、修験者とご住職が本堂に移動されました。
いよいよ節分会の行事が、本格的に始まろうとしています。

第540回ブログの厄払いご一行で先頭を歩かれていた方が、
木箱を持って現れました。
こちらは、完成した丸餅を後から入れるためのものです。

法住寺本堂脇に置かれた臼や杵を第288回ブログでもおられた女性が
準備しておられます。
ちょうど、ご住職が電動ポットで熱したお湯を持ってこられました。
すると、この女性が臼と杵をそのお湯で湿らせていかれます。

その時、振り袖姿の舞妓さんが
阿弥陀堂から本堂に入っていかれました。
こちらは毎年島原から太夫さんを呼ばれるのですが、
今年(2018年)は先斗町から舞妓さんを連れてこられました。

その後を先斗町の芸妓さんが付いてこられます。
こちらも、阿弥陀堂から本堂に入っていかれました。

先程の女性とご住職、さらには浅葱色の法被姿の男性が
餅つきの準備をされています。
すると本堂から舞妓さんが現れて、本堂の東脇に向かわれました。

その舞妓さんは、本堂の東脇に置かれた木箱の前に座られました。
こちらで、舞妓さんはお餅を丸めるという仕事があります。

舞妓さんに続いて、芸妓さんも入って来られました。
後述しますが、餅を丸める作業は重労働です。
そのため、舞妓さん2名だけでは絶対に無理があります。

すると先ほどの炉で作業されていた女性の一人が
蒸し上がったもち米を持ってきて、湿らせた臼に入れました。
いよいよ餅つきが始まるようです。

浅葱色の法被姿の男性が杵を持ち、女性が餅つきの補助のようです。
よく見ると、2015年と同じ方々ですね。

浅葱色の法被姿の男性は小さく杵を動かしておられたのですが、
突然大きく杵を振り上げられました。

そして、その杵を臼に叩きつけました。
こうして餅つきが、本格的に始まりました。

また、すぐに杵を振り上げられます。
今度は、先ほどよりもさらに大きく振りかぶられていますね。

また臼に杵を叩きつけます。
これを繰り返して、どんどん餅が搗かれていきます。
すると、こちらのご住職がマイクを手にされました。
「餅つきの際は、『よいしょ』と掛け声をお願いします」
などと、半ばMCのようなこともされています。
一人で、何役もこなされておられるようです。

搗き終わったお餅は、先斗町の舞妓さんの許に運ばれます。
そして、こちらで丸められて成形されます。
(京都のお餅は一つ一つ丸めます。「切り餅」の習慣はありません)
これがなかなか重労働なのですが、
左端の芸妓さんの作業量とペースが正確で早いですね。
ですから、例年よりは早く済みそうです。

舞妓さんが作業を始めると、即席の撮影会になりました。
ところが、今年(2018年)は参拝者が多いこともあってか
例年になく参拝者のマナーが悪かったですね。
注連縄が張られた結界内に入ったり、
祭壇を崩しかけたり、世話役の制止を無視される方もいました。
安全面もありますが、節分は宗教行事です。
その辺の節度は、参拝者に求められるべきでしょうね。

ともかく、丸められたお餅は炉の前に持ってこられます。
そして、こちらのお椀に一つずつ入れられます。

炉にかけられた鍋で、小豆が煮込まれています。
そしてこちらを先程の椀に張ると、「汁粉」の出来上がりです。
この「汁粉」は、こちらの参拝者に振る舞われます。

……で、自分もそのお汁粉をもらうべく行列に並びました。
ところがこの行列がとても長く、通常の3倍以上ありました。
法住寺境内の西側で並びきれずに、本堂まで伸びています。
これを見てお汁粉を諦めた方も多いのですが、
自分は暢気なのでこの最後尾に並びゆっくり待ちます。

法住寺本堂から石段を下りて、境内の南西端まで来るのに
約10分の時間を要しました。
この最後尾までお餅があることは分かっていたので、
自分は暢気に順番を待ってました。

さらに5分経ちました。
ようやく法住寺の唐門前まで来ました。
この門の東をずっと進むと、後白河天皇陵がいらっしゃいます。

法住寺の唐門近くには、こちらの福寿観音様以外にも
様々な祠に神仏がいらっしゃいます。
行列に並んでいる間に、こちらにもお参りしておきました。

その辺りから、法住寺本堂の東脇を撮りました。
餅は搗き終わったのですが、まだまだ餅を丸める作業は続きます。
まぁこれだけの量ですから、なかなか終わりません。

そこからさらに10分経って、やっと炉の前に辿り着きました。
自分がお餅をもらえる番が回ってきました。

ようやく炉の前に来ました。
向こうのお膳の上に賽銭を置き、お汁粉を頂きます。

こちらが、自分が頂いたお汁粉です。
小豆を砂糖で煮込んだものに、お餅が1個入っています。
この日も含めて2018年の冬は大寒波中で、
とにかく寒かったので、このお汁粉には助けられました。
京都では、このように搗いたお餅は固くなる前に
丸めて食べ切ってしまう習慣があります。
(要するに、大晦日のうちに食べ切ります)
ですから、雑煮でもお汁粉でも京都では餅を焼きません。

お汁粉を食べ切ったので、椀を返却しました。
ここからさらに法住寺の節分会は続くのですが、
今回もだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。
~次回は、法住寺の豆まきの様子を載せます~

京都市東山区の東大路より1本西にある「三十三間堂廻り」は、
七条通~塩小路間の2車線の道です。
その中間点三十三間堂勅使門の前で、南を向いています。
(約70m先に、重要文化財三十三間堂南大門が見えます)
今回は、その「三十三間堂廻り」最南端の法住寺に向かいます。
撮影日は、2018年2月3日節分の土曜日午後0時15分。
今回から、法住寺の節分行事が続きます。

その位置で、「三十三間堂廻り」を東に向きました。
三十三間堂の向かい(東)側に、養源院が建っています。
こちらはお江の方が建立した浅井長政の菩提寺です。
杉戸絵など俵屋宗達の絵画所持数が日本一でもあります。
またこちらは血天井で有名で、
鳥居元忠の死に顔が天井に残っています。
(第299回ブログを参照)

養源院の南隣に、こちらの通路があります。
しかしこの日は節分である前に週末なので、閉まっています。
(宮内庁の管轄なので、土日や祝日は閉鎖されます)
こちらの通路の奥に、後白河天皇陵があります。
この辺りは三十三間堂はもちろん養源院や法住寺も桜の名所ですが、
こちらも桜の季節は絶景になります。

さらに、南隣が天台宗の法住寺です。
こちらの節分会が、今回ブログのメインです。

法住寺境内に入ってきました。
こちらも、南北に細長い境内ですね。
2年前と比べて、参拝者は3倍増しですね。週末だからでしょうか?
枝垂桜の向こうに見える一番奥の建物が、本堂です。

法住寺の最南端に、こちらのお堂があります。
陀枳尼尊天と弁財天と言う2柱の女神様がいらっしゃいますね。
先ずは、こちらにお参りです。

同じ位置で、北を向きました。
法住寺境内の西側にカウンターが並び、奥に炉が並びます。
炉の上には、釜が置かれてその中に甘酒が入っています。

毎年節分の日には、法住寺が午前10時から開いています。
その時点から、こちらでは甘酒が振る舞われます。
それが結構な量なので、約2時間後のこの時点でも
このように並べばその甘酒を頂けます。

自分も数分並んで、こちらの甘酒を頂きました。
第374回ブログでも書いた通り、京都の甘酒はノンアルコールです。
米麹を発酵させたものなので、酒粕が一切入っていません。
ですから、木匙で掬って米麹を食べます。
(韓国のシッケに近いものです)

甘酒を飲み湯呑を返却後、法住寺境内中央の枝垂桜の許に来ました。
その桜より北側に、縄で結界が張られています。
その中央に正方形の砂場があり、その上に護摩壇が作られています。
法住寺の節分行事が始まる前に、
自分は結界の先(南)にある法住寺本堂に向かい、
ご本尊の身代不動明王像にお参りしました。
天台宗の法住寺は、平安時代の半ば藤原為光が建立しました。
ただこちらが隆盛を極めたのは
後白河上皇の治世である平安時代末期で、
その上皇は北は今の五条通、南は九条通に至る
広大な「法住寺殿」と言う外御所を造営しました。
要するに、今の豊国神社や智積院・三十三間堂・新熊野神社などが
この「法住寺殿」の敷地内でした。
(平清盛がこちらの北隣である六原に拠点を置いたのも、
決して偶然ではありません)
ところが、その後白河上皇の治世に源義仲が
この「法住寺殿」を焼き討ちし寺域が縮小し始めました。
鎌倉時代以降は後白河天皇陵を守る「宮寺」として
機能していたのですが、
応仁の乱以降さらに勢力を弱め、
安土桃山時代には豊臣秀吉によって大仏殿の一部となりました。
(先述の太閤塀や三十三間堂南大門は、その時に建てられました)
江戸時代に入り先述の大仏殿が解体される過程で
また「法住寺」と言う独立した寺院に戻ったのですが、
寺域の北半分を養源院に取られ、
三十三間堂も「蓮華法院」と言う別の独立した寺院となりました。
さらに明治時代初期に神仏分離令により
後白河天皇陵からも分離して、現在に至ります。

それから数分経ち、2018年2月3日午後0時半となりました。
自分が先ほど入って北門から、
第540回ブログの厄払い行列が戻ってきました。
法螺貝を持った修験者やこちらのご住職が、
自分の前を通り過ぎていかれました。

その後を赤鬼・青鬼・黒鬼が通り過ぎ、
最後に赤い天狗が通り過ぎていかれました。

その厄払いのご一行は、こちらの阿弥陀堂に入っていかれました。
こちらの阿弥陀堂には親鸞由来の阿弥陀像がいらっしゃいます。
また、この節分限定でこちらで有料で弁当を頂けます。
この阿弥陀堂の真裏(東側)が、後白河天皇陵です。

阿弥陀堂から、修験者とご住職が本堂に移動されました。
いよいよ節分会の行事が、本格的に始まろうとしています。

第540回ブログの厄払いご一行で先頭を歩かれていた方が、
木箱を持って現れました。
こちらは、完成した丸餅を後から入れるためのものです。

法住寺本堂脇に置かれた臼や杵を第288回ブログでもおられた女性が
準備しておられます。
ちょうど、ご住職が電動ポットで熱したお湯を持ってこられました。
すると、この女性が臼と杵をそのお湯で湿らせていかれます。

その時、振り袖姿の舞妓さんが
阿弥陀堂から本堂に入っていかれました。
こちらは毎年島原から太夫さんを呼ばれるのですが、
今年(2018年)は先斗町から舞妓さんを連れてこられました。

その後を先斗町の芸妓さんが付いてこられます。
こちらも、阿弥陀堂から本堂に入っていかれました。

先程の女性とご住職、さらには浅葱色の法被姿の男性が
餅つきの準備をされています。
すると本堂から舞妓さんが現れて、本堂の東脇に向かわれました。

その舞妓さんは、本堂の東脇に置かれた木箱の前に座られました。
こちらで、舞妓さんはお餅を丸めるという仕事があります。

舞妓さんに続いて、芸妓さんも入って来られました。
後述しますが、餅を丸める作業は重労働です。
そのため、舞妓さん2名だけでは絶対に無理があります。

すると先ほどの炉で作業されていた女性の一人が
蒸し上がったもち米を持ってきて、湿らせた臼に入れました。
いよいよ餅つきが始まるようです。

浅葱色の法被姿の男性が杵を持ち、女性が餅つきの補助のようです。
よく見ると、2015年と同じ方々ですね。

浅葱色の法被姿の男性は小さく杵を動かしておられたのですが、
突然大きく杵を振り上げられました。

そして、その杵を臼に叩きつけました。
こうして餅つきが、本格的に始まりました。

また、すぐに杵を振り上げられます。
今度は、先ほどよりもさらに大きく振りかぶられていますね。

また臼に杵を叩きつけます。
これを繰り返して、どんどん餅が搗かれていきます。
すると、こちらのご住職がマイクを手にされました。
「餅つきの際は、『よいしょ』と掛け声をお願いします」
などと、半ばMCのようなこともされています。
一人で、何役もこなされておられるようです。

搗き終わったお餅は、先斗町の舞妓さんの許に運ばれます。
そして、こちらで丸められて成形されます。
(京都のお餅は一つ一つ丸めます。「切り餅」の習慣はありません)
これがなかなか重労働なのですが、
左端の芸妓さんの作業量とペースが正確で早いですね。
ですから、例年よりは早く済みそうです。

舞妓さんが作業を始めると、即席の撮影会になりました。
ところが、今年(2018年)は参拝者が多いこともあってか
例年になく参拝者のマナーが悪かったですね。
注連縄が張られた結界内に入ったり、
祭壇を崩しかけたり、世話役の制止を無視される方もいました。
安全面もありますが、節分は宗教行事です。
その辺の節度は、参拝者に求められるべきでしょうね。

ともかく、丸められたお餅は炉の前に持ってこられます。
そして、こちらのお椀に一つずつ入れられます。

炉にかけられた鍋で、小豆が煮込まれています。
そしてこちらを先程の椀に張ると、「汁粉」の出来上がりです。
この「汁粉」は、こちらの参拝者に振る舞われます。

……で、自分もそのお汁粉をもらうべく行列に並びました。
ところがこの行列がとても長く、通常の3倍以上ありました。
法住寺境内の西側で並びきれずに、本堂まで伸びています。
これを見てお汁粉を諦めた方も多いのですが、
自分は暢気なのでこの最後尾に並びゆっくり待ちます。

法住寺本堂から石段を下りて、境内の南西端まで来るのに
約10分の時間を要しました。
この最後尾までお餅があることは分かっていたので、
自分は暢気に順番を待ってました。

さらに5分経ちました。
ようやく法住寺の唐門前まで来ました。
この門の東をずっと進むと、後白河天皇陵がいらっしゃいます。

法住寺の唐門近くには、こちらの福寿観音様以外にも
様々な祠に神仏がいらっしゃいます。
行列に並んでいる間に、こちらにもお参りしておきました。

その辺りから、法住寺本堂の東脇を撮りました。
餅は搗き終わったのですが、まだまだ餅を丸める作業は続きます。
まぁこれだけの量ですから、なかなか終わりません。

そこからさらに10分経って、やっと炉の前に辿り着きました。
自分がお餅をもらえる番が回ってきました。

ようやく炉の前に来ました。
向こうのお膳の上に賽銭を置き、お汁粉を頂きます。

こちらが、自分が頂いたお汁粉です。
小豆を砂糖で煮込んだものに、お餅が1個入っています。
この日も含めて2018年の冬は大寒波中で、
とにかく寒かったので、このお汁粉には助けられました。
京都では、このように搗いたお餅は固くなる前に
丸めて食べ切ってしまう習慣があります。
(要するに、大晦日のうちに食べ切ります)
ですから、雑煮でもお汁粉でも京都では餅を焼きません。

お汁粉を食べ切ったので、椀を返却しました。
ここからさらに法住寺の節分会は続くのですが、
今回もだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。
~次回は、法住寺の豆まきの様子を載せます~