第162回 京都御苑の南側~寺町通南から北~その9
夷川通から、寺町通を北に向いています。
二条~丸太町間の「寺町の銀杏並木」の中間地点です。
今回は、ここから寺町通を京都御苑南端の丸太町通まで進みます。
かつての平安京の北東端にあたる場所ですね。
撮影日は、2013年10月28日月曜日午前11時。
秋晴れの心地よい日でした。
夷川通から、寺町通を20mほど進みました。
ここは、「芸林荘」という古書店です。
「芸林荘」の店頭をアップにしました。
錦絵(色付きの浮世絵)が売られています。
手前の絵は、「富嶽三十六景」でしょうね。
「芸林荘」から、寺町通を北に約20mほど進みました。
ここは「豊松堂」という飴屋さんの老舗です。
自分もここで結構買ったりするのですが、
この日はいろいろ「物入り」だったので素通りします。
「豊松堂」から、寺町通を北にさらに20mほど進みました。
ここは、進々堂本店です。
松原通大宮東入るのまるき製パン所(第25回ブログで紹介)、
三条御前交差点南東角の天狗堂 海野製パン所(第56回ブログで紹介)
ここを合わせた3軒を「京都3大パン屋」と
個人的に(要するに勝手に)呼んでいます。
進々堂はバケットが特においしい店ですが、
寺町通の本店は喫茶室も有名です。
実はどうしてもモーニングサービスを撮りたくて、
ここだけ先に撮影しました。(午前9時半ごろの撮影です)
この店とイノダコーヒーのモーニングサービスは、
「京都名物」と思っています。
ここのモーニングサービスは何種類かありますが、
スクランブルエッグを頼みました。
ここは鉄板グリルで焼くので、
特にベーコンがカリカリになっておいしいです。
(本当は、ベーコンエッグもおいしいです)
パンも何種類かから選べるのですが、
イギリス風の山型食パンにしました。
進々堂の前から、寺町通を北に向きました。
向こうに見えるのは、竹屋町通の交差点の信号です。
先ずはその辺りまで進みます。
竹屋町通は、寺町通を起点に西に伸びています。
(ここより東に伸びる竹屋町通は、もう少し北になります)
自動車で見えにくいですが、
竹屋町通の突き当りに寺院の山門が見えます。
こちらは、天台宗行願寺です。
一般的には、「革堂」(こうどう)と呼ばれています。
では、こちらにお参りしてきます。
門から入ってすぐ左手に、手水舎があります。
その左脇に、天道大日如来と延命大地蔵菩薩がいらっしゃいます。
こちらは本堂の右(南)側の金木犀です。ちょうど満開ですね。
この写真は、クリックすると拡大されます。
本堂の左(北)側は、このようになっています。
では、先にこちらを覗きに行きます。
こちらが本堂のすぐ左にいらした碑です。
この寺院の開祖行円が、彫られています。
ですから、事実上の仏像ですね。
「碑」の向かい側には、愛染明王と寿老人の祠があります。
この寺院は、「都七福神」のうちの一つになります。
(他は、第151回ブログの六波羅蜜寺の弁財天などです)
行願寺の一番北側にやって来ました。
目の前に鐘楼があって、
その右(西)側にお地蔵さんがたくさんいらっしゃいます。
これだけあるので、1体1体お墓の役割もあったのでしょう。
そのお地蔵さんとの間に、こちらがいらっしゃいます。
こちらは「加茂大明神」で、室町時代に作られました。
「加茂大明神」ということは、
第130回ブログで紹介した宝塔寺の末寺大雲寺にも祀られていた
三十番神の十二番目ですね。
ただ、ここを見る限り上賀茂神社・下鴨神社というよりは
お墓か何かが元になっているような気がします。
こちらが、天台宗行願寺の本堂です。
土足のまま上がり、線香とろうそくをあげました。
この行願寺は、平安時代半ば(1004年)に行円が建立しました。
本尊は、千手観音です。
元々は一条小川交差点付近にありましたが、
ここも豊臣秀吉の政策で移転してきました。
行円は浄土信仰の僧侶で、「市の聖」と呼ばれていた空也に対して
「革の聖」と呼ばれていました。
そのため、ここの別名が「革堂」となりました。
では、行願寺を出ます。
門の向こうに、竹屋町通が見えますね。
竹屋町寺町交差点の北西角に、八百屋さんがありました。
(緑のテントの店です)
万願寺唐辛子と伏見唐辛子が安く売られていました。
竹屋町通から、寺町通を北に向きました。
約100m先に、丸太町通の信号が見えます。
さらにその先の木々は、京都御苑のものです。
竹屋町寺町交差点から、約50m進みました。
左(西)側歩道に、「丸竹」という居酒屋さんがあります。
たぶんここが丸太町通と竹屋町通との間だからでしょうね。
その「丸竹」の前から、寺町通の東側歩道を見ています。
ここから東に、竹屋町通が伸びています。
(竹屋町通も、筋違いになっています)
その北側に、神社が見えます。今度は、そちらに向かいます。
こちらは、下御霊神社です。この辺の産土神ですね。
今から、ここをくぐります。
鳥居の左手に、手水舎があります。
周囲にペットボトルが並んでいますが、
たくさんの方がここの水を汲みに来られていました。
(フレームの外に、何人もの人がいらっしゃいます)
ここは「感応の水」と呼ばれて、1770年の干ばつの際に
当時の神主が夢のお告げで掘り当てたそうです。
京都市街地にはおいしい水が湧く井戸が何か所かありますが、
ここもその一つです。
(他に、第64回ブログで紹介した烏丸錦上るにある「御手洗井」、
第158回ブログで紹介した錦天神境内の「錦の御神水」があります)
「感応の水」の右(北)側に、猿田彦神社と稲荷神社がありました。
どちらも、ここの末社ですね。
こちらが、拝殿越しの下御霊神社本殿です。
御祭神は、八人の御霊(みたま)です。
いづれも早良親王など無実の罪で処刑された人々です。
平安時代は、御霊信仰がさかんでした。
非業の死を遂げた人は、この世に強い怨念を持ち
人々に疫病をばら撒くと考えられていました。
ただし、その怨霊のために祠を建てると
御利益のある神様に転嫁すると考えられていました。
そのための神社が「御霊神社」です。
京都には、そのような神社がいくつかあります。
元々はもっと北の方にありましたが、(上御霊神社の南隣)
安土桃山時代にここに移転してきました。
江戸時代以降は、この辺りの土地神様としての信仰も集めました。
では、下御霊神社を出ます。また、寺町通を北上します。
丸太町通まで、あと少しです。
下御霊神社を出た所で、寺町通の西側歩道を見ています。
路地が見えますが、つい最近までこの路地の奥に銭湯がありました。
下御霊神社の前で、寺町通を北に向いています。
丸太町通まで、あと50mもありません。
丸太町通へ向かう途中に、このような碑が立っていました。
横井小楠は維新十傑の一人でしたが、1869年に暗殺されました。
そして、丸太町寺町の交差点まで来ました。
道の向こう側に、京都御苑が見えます。
寺町通の銀杏並木も、ここで終わります。
ここから北の寺町通は、「京都御苑の東端」という特徴になります。
ただ、その辺りは次回とします。
今回は、ここまでです。
~次回は、このまま寺町通を北上します~