第110回 文子天満宮へ~京都駅周辺散策~その4
ここは前回最後の写真六条富小路の交差点です。
今回はここを南西に蛇行して、文子天満宮を目指します。
撮影日は、2013年2月11日月曜日の建国記念日午後3時。
また、だんだん曇ってきました。
富小路から、六条通を西に向いています。
約200m先に前々回ブログで出てきた東洞院通との交差点に、
さらにもう100m進むと、烏丸通との交差点に出ます。
目の前の赤いレンガの建物は、「タキモト」という酒屋さんです。
日本中のお酒や世界各国のワインなどが売られています。
マニアックなお酒を買うときは、よく寄ります。
今度は六条通を東に向きました。約100先の河原町通で突き当ります。
左(北)側に、前回ブログで紹介した長講堂の庭園が塀越しに見えます。
右(南)側も万年寺という寺院になります。
実はその先も寺院で、六条通から墓石や卒塔婆が見えます。
ちなみに、突き当りは元々は京都市立菊浜小学校でしたが、
廃校後は「京都ひとまち館」になりました。
六条富小路のお地蔵さんです。ここにもお参りしました。
よく見ると、消火器が設置されています。
お気づきの方も多いでしょうが、
京都の消火器はお地蔵さんに設置されていることが多いです。
六条通から、富小路は真南に曲がります。
六条通から富小路を南に約50m進みました。
富小路は、約100m先の上数珠屋町通で終わります。
(突き当りに見えるのは、渉成園の土塀です)
目の前から、花屋町通が西に伸びています。
花屋町富小路のT字路を西に向いています。
花屋町通は、ここから始まります。
今から、この道を西に進みます。
ここは、花屋町富小路の南西角にある児童公園です。
「雅松公園」(わかまつこうえん)という名前は、
かつてここに京都市立雅松小学校があった名残です。
(京都市立六条院小学校と呼ばれたこともありました)
この日は祝日(2月11日)なのでたくさんの子供が遊んでいましたが、
だれも写らない角度から撮っています。
「雅松公園」の幅だけ(約50m)西に進みました。
花屋町通に、高倉通が南北に伸びています。
ここを右(高倉通を北)に進むと、四条大路で大丸百貨店の前に出ます。
花屋町高倉の角に、このような看板がありました。
鉄製なので、割と古いものです。「區」(区)の文字でも分かります。
昔の看板は、「森下仁丹」の広告が必ず入っています。
高倉通から、花屋町通を少し西に進みました。
北側にこのような町家がありました。(普通の民家です)
写真の中央に、折り畳み式の縁台があります。
ワンタッチで座れるようになります。
(昔の町家には、よくあったものです)
その町家の向かいには、米屋さんがありました。
こちらもなかなか味のある建物です。
オレンジジュースの「プラッシー」は
昔は米屋で売られていましたが、今も売っているのでしょうか?
(この日は祝日なので、閉まっています)
高倉通から花屋町通を西に約50m進み、花屋町間之町の角に来ました。
だんだんこの先の烏丸通との交差点が見えてきました。
花屋町通から、間之町通を南に向いています。
ずっと先の七条通で突き当ります。今度は、ここを南に進みます。
花屋町通から、間之町通を南に約40m進みました。
ここは、「かに船満」というカニ料理屋です。
と言っても、だいぶ前に閉店しています。
ただ、このカニの看板はよく目立ち、七条通からでも見えます。
「かに船満」の向かいに、このような看板がありました。
これはプラスティック製なので、新しいものです。
「下京区間之町花屋町下る 天神町」とあります。
つまりここは間之町通沿いで、花屋町通より南になります。
「かに満満」から、間之町通を南に約30m進みました。
先ほどの看板に「天神町」とありましたが、
この町内に「文子天満宮」(あやこてんまんぐう)があります。
この日は祝日(2月11日)ということもあって、
「日の丸」が上っています。
文子天満宮を入ったところの左(南)に、手水舎がありました。
こちらも、龍をあしらっています。
手水舎の向かいに、白滝稲荷神社があります。
先ずは、こちらから参拝です。
白滝稲荷社の西隣に老松社・福部社・白大夫社がいらっしゃいます。
そして、こちらにも参拝です。
さらにその西側には、多治比文子の像がありました。
菅原道真の乳母ですから、
もっとお年を召したイメージがあるのですが……
そして、こちらが文子天満宮の本殿です。
ここは、元々菅原道真の乳母多治比文子の邸宅でした。
菅原道真の死後、夢に現れた菅原道真の言葉を受けて、
多治比文子が自宅に祠をたてたのが始まりです。
実は、その前後に京都では
藤原氏の貴族や醍醐天皇らが次々変死して、
更に疫病も流行り、
多くの人々が菅原道真の祟りを恐れていました。
それがこの祠をたてた途端に収まりました。
その祠はのちに菅原道真の邸宅跡に移され、
それが今の北野天満宮になりました。
(ただし、「天神信仰」自体は奈良時代からあります)
本殿の南側の「文子殿」です。祭神は、もちろん多治比文子です。
今ではなぜか「縁結びの神」として信仰を集めています。
では、文子天満宮を出て間之町通をさらに南下します。
文子天満宮から、間之町通を南に向いています。
約50m先に、上数珠屋町通があります。
文子天満宮の南側に、お地蔵さんがいらっしゃいました。
また、こちらも参拝します。
間之町通から、上数珠屋町通を西に向いています。
約200m先に東本願寺が見えます。
(前々回ブログで紹介した僧侶の銅像がある辺りになります)
今度は、上数珠屋町通を東に向きました。
右(南)側の土塀は、渉成園のものです。
その先で、工事中のため道路が封鎖されています。
(更新日の2013年3月2日現在も、封鎖されています)
上数珠屋町から、間之町通を南に向いています。
ここの道幅が急に太くなったのは、
明治時代~大正時代ここに路面電車が通っていた名残です。
では、ここを南下して渉成園の入り繰りに向かいます。
上数珠屋町通から、間之町通を南へ100mほど移動しました。
いよいよ渉成園の入り口です。
……と思ったらこの時点で午後3時半、渉成園が閉まる時間です。
仕方がないので、今回はここまででにして
この続きは後日に訪問です。
~次回は、渉成園から京都駅に向かいます~