第599回 綾小路と対の道~錦小路西から東~その1
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今まで溜めていた写真をすべて掲載し、
今回ブログからまた新し道を連載していきます。
今回から、錦小路を取り上げます
この道を連載しようと考えた理由は、次の3点です。
☆ このブログは、東西の道をあまり取り上げていない
☆ 大路(広い道)よりも小路(せまい道)の方が取材しやすい
☆ 連載を2018年11月下旬には終われる程度に短い道
……実は3点目が、いちばん重要だったりします。
毎年11月23日前後に紅葉取材をします。
それで年末まで記事を連載するわけですが、
その時期を越える連載をこの時期から始めると、
途中で今の連載を中断して紅葉記事を連載することになります。
それがとてもややこしいので、避けたいのです。
まぁ自分がもらう給与は毎年9月がいちばん高くて、
錦市場のような散財が前提の取材ができるのが
この9月限定という切実な事情も、
本当は大きいのですが……
四条通の北隣の通り
♬丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦 四綾仏高松万五条……
(まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき
しあやぶったかまつまんごじょう……)
京都のわらべ歌の一部です。
丸太町通から十条通まで順に北から南へ、
京都市街地の東西の道を歌ったものです。
(道の名称から、明治時代半ばから大正時代に作られたのでしょうね)
それによると、この錦小路は四条通の北隣に歌われています。
「四条大宮」交差点から、四条通の東端「祇園」交差点までが
京都で最も繁華街が集中する場所です。
そこから北に100mほどしか離れていない錦小路は、
その通りの大半が繁華街に属していることが分かります。
平安京遷都以来、位置が変わっていません
錦小路は、京都の原型である平安京が造営された794年以来、
ずっとこの位置に存在し続けています。
ただ当時は、「具足通」(ぐそくどおり)と呼ばれていました。
具足とは武士たちが身に付けた武装の総称ですが、
そう呼ばれるようになったのは鎌倉時代以降です。
平安時代では、単に「道具」という意味で使われていました。
ですから、平安時代のこの道は道具屋が多かったのでしょうね。
ところが庶民の中には下品な方々がいらして、
この「具足通」を「糞通」(くそどおり)と呼ぶ方が出てきました。
それで、当時の政府もすぐに「錦小路」と
勅命(天皇の国民に対する命令)で名称変更をしました。
錦小路の1本南が四条通ですが、
さらにその1本南が綾小路です。
綾小路の「綾」とは、綾織という布の織り方に由来します。
そこで、四条通をはさんで対になる位置の通りの名に
絹織物の総称である「錦」の名を付けたという訳です。
新京極の錦天神
京都にも繁華街がいくつかありますが、
代表的なものは新寺町通にある「新京極」です。
祇園祭山鉾巡行で立ち寄る八坂神社お旅所の辺りですね。
(第158回ブログを参照)
四条通からその新京極を約100m北上すると、
錦天満宮がいらっしゃいます。
こちらの手水舎の水が地下水を利用していて、
しかもなかなかの名水です。
それを利用して、ここから西に錦市場が発展しました。
今も錦市場の何軒かがこの水を利用していますので、
こちらの湧水は定期的に京都市水道局による
水質検査が行われています。
そして、その錦天満宮から西に錦小路が伸びています。
東西に伸びる錦市場
錦天満宮から錦小路を西に約30m進むと、寺町通と交差します。
そして、その寺町通から約350m先の高倉通まで
錦市場が続きます。
錦市場は観光用の飲食店街と思われる方も多いようですが、
こちらは魚や野菜を中心に卸売市場としても機能しています。
ですから、こちらのお店の大半は午後5時で閉店します。
(朝がとても早いのです)
またこちらは祇園祭の山鉾町ではありませんが、
錦市場全体で祇園祭の神輿担ぎを担当しています。
(第410回ブログを参照)
祇園祭の山鉾町
烏丸通を越えてさらに西に進むと、
祇園祭でいつも通る道に出ます。
錦小路自体に立つ山鉾は、
いずれも前祭の占出山・霰天神山だけですが、
錦小路に隣接するようにさらに6基立ちます。
ただ蟷螂山の立つ西洞院通を越えると、
ここからは静かな住宅街に変わっていきます。
壬生で突き当たりなのですが……
堀川通を西に越えると、大宮通や後院通と通り過ぎ
約400m先の壬生川通にある京都市交通局で突き当たります。
「壬生」川通の名の通り、この辺りは壬生の東端に位置します。
ただ、この辺りは新撰組が駐屯していた場所よりも
多少北にズレた場所です。
ですから、今回の連載で新撰組関連施設には寄りません。
まぁ、考えようによっては阪急電車「大宮」駅~「河原町」駅の
錦小路は阪急電車2駅分の道です。
錦小路は、今まで自分が取材した道でも最も短い部類に入ります。
今まで溜めていた写真をすべて掲載し、
今回ブログからまた新し道を連載していきます。
今回から、錦小路を取り上げます
この道を連載しようと考えた理由は、次の3点です。
☆ このブログは、東西の道をあまり取り上げていない
☆ 大路(広い道)よりも小路(せまい道)の方が取材しやすい
☆ 連載を2018年11月下旬には終われる程度に短い道
……実は3点目が、いちばん重要だったりします。
毎年11月23日前後に紅葉取材をします。
それで年末まで記事を連載するわけですが、
その時期を越える連載をこの時期から始めると、
途中で今の連載を中断して紅葉記事を連載することになります。
それがとてもややこしいので、避けたいのです。
まぁ自分がもらう給与は毎年9月がいちばん高くて、
錦市場のような散財が前提の取材ができるのが
この9月限定という切実な事情も、
本当は大きいのですが……
四条通の北隣の通り
♬丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦 四綾仏高松万五条……
(まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき
しあやぶったかまつまんごじょう……)
京都のわらべ歌の一部です。
丸太町通から十条通まで順に北から南へ、
京都市街地の東西の道を歌ったものです。
(道の名称から、明治時代半ばから大正時代に作られたのでしょうね)
それによると、この錦小路は四条通の北隣に歌われています。
「四条大宮」交差点から、四条通の東端「祇園」交差点までが
京都で最も繁華街が集中する場所です。
そこから北に100mほどしか離れていない錦小路は、
その通りの大半が繁華街に属していることが分かります。
平安京遷都以来、位置が変わっていません
錦小路は、京都の原型である平安京が造営された794年以来、
ずっとこの位置に存在し続けています。
ただ当時は、「具足通」(ぐそくどおり)と呼ばれていました。
具足とは武士たちが身に付けた武装の総称ですが、
そう呼ばれるようになったのは鎌倉時代以降です。
平安時代では、単に「道具」という意味で使われていました。
ですから、平安時代のこの道は道具屋が多かったのでしょうね。
ところが庶民の中には下品な方々がいらして、
この「具足通」を「糞通」(くそどおり)と呼ぶ方が出てきました。
それで、当時の政府もすぐに「錦小路」と
勅命(天皇の国民に対する命令)で名称変更をしました。
錦小路の1本南が四条通ですが、
さらにその1本南が綾小路です。
綾小路の「綾」とは、綾織という布の織り方に由来します。
そこで、四条通をはさんで対になる位置の通りの名に
絹織物の総称である「錦」の名を付けたという訳です。
新京極の錦天神
京都にも繁華街がいくつかありますが、
代表的なものは新寺町通にある「新京極」です。
祇園祭山鉾巡行で立ち寄る八坂神社お旅所の辺りですね。
(第158回ブログを参照)
四条通からその新京極を約100m北上すると、
錦天満宮がいらっしゃいます。
こちらの手水舎の水が地下水を利用していて、
しかもなかなかの名水です。
それを利用して、ここから西に錦市場が発展しました。
今も錦市場の何軒かがこの水を利用していますので、
こちらの湧水は定期的に京都市水道局による
水質検査が行われています。
そして、その錦天満宮から西に錦小路が伸びています。
東西に伸びる錦市場
錦天満宮から錦小路を西に約30m進むと、寺町通と交差します。
そして、その寺町通から約350m先の高倉通まで
錦市場が続きます。
錦市場は観光用の飲食店街と思われる方も多いようですが、
こちらは魚や野菜を中心に卸売市場としても機能しています。
ですから、こちらのお店の大半は午後5時で閉店します。
(朝がとても早いのです)
またこちらは祇園祭の山鉾町ではありませんが、
錦市場全体で祇園祭の神輿担ぎを担当しています。
(第410回ブログを参照)
祇園祭の山鉾町
烏丸通を越えてさらに西に進むと、
祇園祭でいつも通る道に出ます。
錦小路自体に立つ山鉾は、
いずれも前祭の占出山・霰天神山だけですが、
錦小路に隣接するようにさらに6基立ちます。
ただ蟷螂山の立つ西洞院通を越えると、
ここからは静かな住宅街に変わっていきます。
壬生で突き当たりなのですが……
堀川通を西に越えると、大宮通や後院通と通り過ぎ
約400m先の壬生川通にある京都市交通局で突き当たります。
「壬生」川通の名の通り、この辺りは壬生の東端に位置します。
ただ、この辺りは新撰組が駐屯していた場所よりも
多少北にズレた場所です。
ですから、今回の連載で新撰組関連施設には寄りません。
まぁ、考えようによっては阪急電車「大宮」駅~「河原町」駅の
錦小路は阪急電車2駅分の道です。
錦小路は、今まで自分が取材した道でも最も短い部類に入ります。