京の道 今日の道 節分
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第105回 節分の千本ゑんま堂

何日かたってしまいましたが、節分です。
毎年違うところに行こうと思うのですが、
今年は千本通をウロウロしました。
二か所回りましたが、今回は千本ゑんま堂の記事を書きます。


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京都駅から水族館方面の206系市バスに乗って、
「乾隆校」バス停に着きました。
ここから北上して、「千本ゑんま堂」を目指します。
撮影日は、2013年2月3日日曜日午後3時半。
小春日和の一日でした。


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バス停を少し北に行くと、称福寺がありました。
浄土宗の寺院らしいのですが、詳細は分かりません。


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称福寺は、千本寺之内交差点の南西角にあります。
この辺りの千本通は、
西側歩道がアーケードのある商店街になっています。


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千本通から寺内通を西に向いています。
この道は、蛇行しながらこの先で廬山寺通と合流します。
ちなみに、東に進むと相国寺の門の前に出ます。


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千本寺之内の交差点から、千本通を北に少し進みました。
この餅屋さんは、文字通り「大福」といいます。
千本通は今は京都の西の方にある通りですが、
平安京のころは「朱雀大路」といい、
ここが京都の中央の通りでした。
(つまり、平安時代より京都は東にずれています)


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この辺りの千本通は、少し西にカーブしています。
この辺りだけ見ると上千本商店街はシャッター商店街ですが、
平日はもっと賑やかなところです。
(日曜日は、普通の商店は閉まってしまいます)


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さらに北にある商店が入っている商業ビルも閉まっていましたが、
この洋菓子店はこの日も開いていました。
時期的に、バレンタイン一色ですね。


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その洋菓子店が入っている商業ビルの北隣が、
引接寺(いんじょうじ)、通称「千本ゑんま堂」です。
「乾隆校」バス停から、北に約100mといったところです。


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引接寺の入り口を入ったところに、
「千本ゑんま堂会館」があります。


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「千本ゑんま堂会館」の上に、閻魔大王の像がありました。
やはり、ここの象徴ですね。


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その西側に、引接寺の本堂があります。
撮影許可をいただいて、今からここに入っていきます。


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本堂の入り口に、このようなお地蔵さんがいらっしゃいました。
北側は、頭にこぶを作って笑っておられます。


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本堂の入り口の南側にも、お地蔵さんがいらっしゃいます。
こちらの方は、こぶを作って泣いておられます。


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笑っておられるお地蔵さんの脇に大きな釜があって、
その中でコンニャクを炊いていました。
このコンニャクは縁起物なので、後でいただきます。


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本堂の中に入ると、正面に大きな香炉がありました。
中央に、梵字か書かれています。
これは「マン」と読み、文殊観音を意味します。


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その香炉の上部です。
こちらにはお金を払うと線香をあげられるので、
自分もここに線香をあげました。


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ついでにさらにお金を払って、(どちらも50円です)
蝋燭もあげました。


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香炉の向こうに、「べんつるさん」がいらっしゃいました。
こちらにもお参りして、とりあえず足をさすりました。


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「べんつるさん」の向こうに、ご本尊の閻魔大王がいらっしゃいます。
地獄で死者を極楽か地獄かどちらに行くか決める方ですね。
この日は節分なので、たくさんの僧侶が祈祷をされています。
また、参拝者も多くいらっしゃいました。
引接寺は、小野篁(おののたかむら)が開山したと伝えられています。
小野篁は、六原の「六道珍皇寺」を建立した人でもあります。
引接寺周辺は平安時代に「蓮台野」と呼ばれていて、
六原同様「野辺送り」(葬式)や埋葬が行われたところでした。
小野篁は、地獄とこの世を行き来したと言われる伝説のある人で、
この人が建立した寺院はいずれも「地獄信仰」が信じられています。
(善い行いをしないと地獄に落ちると教え、死後の安寧を祈る宗派)


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閻魔大王をアップにしました。
もともとは小野篁製作の像が安置されていたそうですが、
応仁の乱で焼失して、今の像は1488年に製作されたものです。
この写真は、クリックすると拡大されます。


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北側の壁に、地獄絵図と思われる物が掛けてありました。
法話などの際に使われるのでしょうか?


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閻魔大王の北側には、「司命尊」がいらっしゃいました。
死者の生前の記録を付け、それを閻魔大王に報告します。


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南側には、「司録尊」がいらっしゃいます。
閻魔大王の裁判の記録を付ける方ですね。


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「司録尊」のさらに南側に行ってみます。本堂から少し出ます。
寺務所があり、いろいろなものを売っていました。


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本堂の脇に、このようなものがありました。
地獄の鬼と子供が一緒に遊んでいる彫刻です。


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左端をアップにしてみました。
一番端にいらっしゃるのは、おそらく大地蔵菩薩ですね。
それでは、本堂に戻ってコンニャクをいただきます。


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400円払って、コンニャクを本堂の中でいただきます。
(本堂の参拝者とコンニャクを食べる人とでごった返しています)
これは痛風封じの縁起物で、昆布出汁で煮込んであります。
かなりの薄味ですが、自分はこのくらいの塩加減が好きです。
これも縁起物の昆布茶と一緒に頂きます。
なかなかおいしかったので、家族の土産用も買いました。
(こちらは、500円でした)


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では、本堂から外に出ます。


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本堂の北側に、鐘楼があります。
盂蘭盆会や除夜の鐘に使われます。
南北朝時代にできたものを今も使っています。


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鐘楼の西側に、「普賢象桜」の木があります。
染井吉野ではありませんので、開花時期は4月半ばくらいになります。
その向こうの石塔は、「紫式部の供養塔」です。
その周辺は、墓地になっています。


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鐘楼の前は駐車場になっています。
ここから見ていると、次々と参拝者が来られるのが分かります。
では、ここを出て千本通に戻ります。


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引接寺の前から、千本通を南に向いています。
今から、ここを南に進みます。


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先ほどの洋菓子店の前に、横断歩道があります。
今度はここを渡って、千本通の東側を通ります。


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その横断歩道を渡ったすぐ先に、「乾隆校前」バス停があります。
ちょうどバスが停まっています。
ただ、今回はまだまだ帰らずにもう少しこの辺りを散策します。
しかし、それは次回とします。

~次回は、釘抜き地蔵の節分会に行きます~

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第106回 節分の釘抜き地蔵

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前回同様「乾隆校前」バス停です。
この辺りには、千本ゑんま堂以外にも節分会を行うところがあります。
しかも、ここからわずか100m南に行ったところなので
その釘抜き地蔵にも寄りました。
撮影日は2013年2月3日日曜日午後4時。
そろそろ日が傾いてきました。


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千本通の東側歩道に移ってきました。(先ほどのバス停の向かいです)
ここは、京都市立乾隆小学校の通用門です。
「乾隆校前」バス停の由来になったところですね。


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京都市立乾隆小学校の前から南を向きました。
(すぐ横の診療所の看板ばかりが目立ちますが……)
今からこの千本通を進みます。


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京都市立乾隆小学校の通用門から南に約50m進みました。
千本通の西側歩道沿いに、「京都千本寺之内郵便局」がありました。
この日は日曜日だったので、中には人の気配はありませんでした。


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こちらは、千本通の西側歩道です。
赤い鉄板製の箱に入っているのは、消火器です。
京都市では、どの町内にも設置が義務付けられています。
ちなみに、ウチの町内にもあります。


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赤い消火器から、さらに50mほど南に進みました。
歩道の東側に、人がどんどん入っていくところがあります。
今度は、そちらに向かいます。


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こちらは、家隆山光明遍照院石像寺です。
通称「釘抜き地蔵」ですね。
小さいながらも参拝者の多い寺院です。
ここも、節分会を行っています。


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石像寺の門をくぐり、東に向かっています。
短い参道に、何軒か露店が出ています。
人でよく見えませんが、
右側で近所の寿司屋が「恵方巻き」を売っていました。
目の前のたこ焼きもおいしそうですが、先に参拝を済ませます。


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短い参道は、約10mで終わります。
石像寺の山門には、
大きく「釘抜き地蔵尊」と書かれた提灯が下がっています。


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門を入ってすぐに、手水舎がありました。
ここには「弘法三井」(こうぼうさんせい)の一つと
呼ばれる井戸があるのですが、
それはもっと境内の奥にあります。


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手水舎の右(東)に、藤掛観音の祠があります。
こちらは空海に関連した祠です。
ちなみに、ここを開いたのは空海です。


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石像寺の境内中央に、大きな釘抜きが飾ってあります。
やはり、「釘抜き地蔵」ということなのでしょうか?


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石像寺の本堂です。
もともとは「苦抜き地蔵」(くぬきじぞう)と呼ばれていましたが、
それが訛って「釘抜き地蔵」なったそうです。
(ただ、これには異説があります)
石像寺は、平安時代初期に空海が開きました。
一時荒廃しますが、鎌倉時代に再興して
その際に真言宗から浄土宗に変わりました。


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本堂の左(北)側に、「べんつるさん」がいらっしゃいます。
いろいろ落ちていらっしゃいますが、
それだけ多くの方が撫でられたのでしょう。
(それだけ多くの方の信仰を感じます)
自分も、撫でさせていただきました。


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本堂の右(南)側から、裏側に回ります。
こちらには、たくさんの祠がいらっしゃいます。


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本堂の南側には、
地蔵菩薩や十一面観音がいらっしゃいます。


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さらに東隣りには、
不動明王とお釈迦様(?)がいらっしゃいます。


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今度は、本堂の東側(真裏)です。
こちらは確か「玉姫稲荷」だったと思います。
とりあえず、賽銭を奉げました。


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ここは本堂のちょうど真裏になります。
この地蔵堂の石造りの大地蔵菩薩は、寺伝で空海作となっています。
(重要文化財です)


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さらに北隣にも、お地蔵さんの祠がいらっしゃいます。
こちらにも、お祈りしてきました。


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その祠の前から、西を向いています。
右(北)側に本堂が、左(南)側に寺務所があります。
向こうに、絵馬堂が見えます。
普段もここでお茶のサービスがあるのですが、
この日は節分ということもあり昆布茶が飲めました。
ただ、昆布を粉末にしたものを湯に溶く普通の昆布茶ではなく
大きな昆布を煎じて飲む「昆布出し茶」でした。
普通の昆布茶より塩気がないのですが、
自分はこちらの方が好みです。


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では、石像寺の門を出ます。


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石像寺の山門を出た所の短い参道です。
先ほどの「恵方巻き」の露店は、もう撤去されています。
(売り切れたのでしょうか?)
目の前に「べっこう飴」の店がありますが、
お目当てはその向こうのタコ焼きです。
(ちょっと空腹です)


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その露店で買ったタコ焼きです。9個で300円でした。
横のベンチでいただきます。
中にはしっかりタコが入っていて、
しかもちゃんと出汁で粉を溶いています。


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では、石像寺の門を出て千本通に戻ります。


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千本通に出ました。
石像寺の向かいに、瑞雲院という寺院があります。


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千本通を南に約5m進みました。
外側から、石像寺を見ています。
中にいると気づきませんでしたが、柑橘類がなっている木があります。


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石像寺から千本通を南に約50m進みました。
「乾隆校前」バス停よりこちらの方が近いので、
石像寺に参拝された大半の方は南に向かいます。


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石像寺から千本通を約100m進みました。
ここは、千本上立売の交差点です。
この辺りの上立売通は、だいぶ細くなっています。


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千本上立売の交差点を少し下がった(南に行った)ところに、
淡水魚専門の魚屋さんがありました。
ただ、この日は節分ということもあって
「イワシ」を店頭で炭火焼きしていました。
太くて大きくて、一瞬サバに見えたほどでした。
あまりにおいしそうだったので、
横断歩道を渡って買いに行きました。
(イワシの写真を撮り忘れました……)
1尾300円しましたが、
それでも安く感じるほどの大きさでした。


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そして、「千本上立売」バス停に着きました。
日も暮れてきたので、ここから帰ります。

2013年の「節分編」は、ここまでです。

~次回は、京都駅周辺を散策します~

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第186回 節分の隼神社 梛神社~壬生散策~その1

今年も、節分の季節になりました。
今回も、一昨年に続いて壬生を散策します。
ここは第27回ブログで一度紹介しているのですが、
観光コースとして完結した形で紹介したいと思い、再度記事にします。
節分行事以外にも「新撰組」関連施設にも立ち寄っていますので、
「壬生散策」のモデルケースとして利用していただければと思います。


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地下鉄「四条」駅で阪急電車「烏丸」駅に乗り換え、
一駅先の阪急電車「大宮」駅まで来ました。
今回はここから四条通を西に進み、隼神社・梛神社に向かいます。
撮影日は、2月2日日曜日午後1時。
朝からの雨は、昼には止みました。


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阪急電車「大宮」駅のホームで、東を向いています。
次は、ここから東改札口を目指します。


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阪急電車「大宮」駅の東改札口です。
では、ここから阪急電車「大宮」駅を出ます。


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阪急電車「大宮」駅東改札口を出て右折します。
この通路を南に進み、四条通に出ます。


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阪急電車「大宮」駅東改札口から南に伸びる地下通路は、
約20mで突き当ります。
左側も、右側も、どちら側もバス停の前に出ます。
「四条大宮」は、京都駅と同様に各社バスのターミナルです。


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先ほどの分岐点で、右(西)側の階段で地上に出ました。
ここだと、ちょうど四条大宮の交差点に出ます。


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四条大宮交差点に花壇があり、そこにハトが1羽いました。
エサをついばんでいるようでしたが、虫か何かがいたのでしょうか?


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ここは、四条大宮交差点の南東角です。
ちょうど京都駅に向かう206系市バスが停まっています。
では、ここを西側に渡っていきます。


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大宮通を渡り、四条大宮交差点の南西角に来ました。
ここに、京福電車(嵐電)「四条大宮」駅があります。
ここから嵐山まで、10分間隔で電車が出ています。


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大宮通から、四条通を西に向いています。
左(南)に見えるのが、京福電車(嵐電)「四条大宮」駅舎です。
ここから西一帯が、京都市中京区壬生になります。
では、ここを西に進んでいきます。


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大宮通から、四条通を西に約250m進みました。
ここは、四条壬生川の交差点です。


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四条通から、壬生川通を南を向きました。
少し先に京福電車(嵐電)の踏切が見え、
その向こうに、後から通る綾小路との交差点が見えます。


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今度は四条通から、壬生川通を北に向きました。
少し先で右(東)に曲がり、後院通で突き当ります。
その辺りに、市バスの「壬生操車場」があります。


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壬生川通から四条通を西に約150m進みました。
ここは、坊城通との交差点です。
ここのバス停が壬生寺に一番近いので、
この日はたくさんの方が降りてきます。


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四条坊城交差点の南西角に、小さな神社がありました。
「式内 隼神社」 「元祇園 梛神社」
そういう石碑が立っています。
こちらは、一つで二つの神社になります。


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四条通から、神社の境内に入ってきました。
普段はほぼ無人なのですが、毎年節分になるとこの人出になります。


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神社の東側で、火を焚いておられます。
古いお札を焼いておられるようでした。


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こちらが、この神社の本殿です。
右(北)側が隼神社で、左(南)側が、梛神社です。
隼神社は約300m北にある蛸薬師通沿いにありましたが、
1918年にここに移転しました。
この地には、元々八坂神社がありました。
八坂神社が祇園に移った後は小さな祠が残ったのですが、
明治時代に社が建てられ「梛神社」と呼ばれるようになりました。


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本殿の前で、ろうそくが売られていました。
せっかくなので、自分も買います。


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買ったろうそくは、こちらに立てます。
こちらは、二つの本殿の真ん中にありました。


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お参りを終えた直後に警察官がいらして、交通整理をされました。
そして本殿前を開けると、そこにお稚児さんと
修験者10名ほどが本殿前に陣取りました。


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修験者は一斉に法螺貝を吹かれた後、般若心経を唱えられました。
どうやら、祈祷が始まったようです。


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こちらは、修験者のうちの一人のお尻です。
粋な印籠を下げておられるので、撮らせていただきました。


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修験者は般若心経を唱え終えると、また法螺貝を吹かれました。
どうやら、祈祷が終わったようです。


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祈祷が終わると、お稚児さんと修験者は四条通へと退場されました。
警察官も、彼らを引率してここを去っていきました。


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では、自分もここから退場します。
こちらは、四条通から坊城通を南に向いています。
ただでさえ狭い道なのですが、
この日は露店と人混みでさらに狭くなっています。


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四条通から、坊城通を5m南に進みました。
こちらからにも、神社の出入り口があります。


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さらに坊城通を南に進みます。
「ここ数年、人出が増えているような気がする」
そんなことを母が言っていました。


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四条通から、坊城通を南に約50m進みました。
京福(嵐電)の踏切があるので、渡っていきます。


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踏切の上で、東を向きました。
この曲がり角の先に終点の「四条大宮」駅があります。


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踏切の上で、今度は坊城通を南に向きました。
いつもならここから壬生寺の門が見えるのですが、
露店とこの人出でまったく見えません……


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踏切から坊城通を約50m進み、綾小路との角に来ました。
右(西)に金つばの「幸福堂」、左(東)に旧前川邸が見えます。


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綾小路から、坊城通を南に向きました。
左(東)の土塀は、旧前川邸のものです。
約30m先に、「鶴屋」という和菓子屋さんがあります。
こちらは元々八木邸で、新撰組の屯所があった所です。


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綾小路から、坊城通を南に約50m進みました。
旧前川邸の南隣に、新徳禅寺があります。
こちらが、新撰組発祥の地となります。
(詳しくは、第28回ブログ参照)
ただ、こちらは非公開になります。


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そして、新徳禅寺の向かいに壬生寺の門があります。
いつもは静かな寺院なのですが、節分はこの賑わいです。
ここから壬生寺に入ってく訳ですが、それは次回とします。

今回は、ここまでです。

~次回は、壬生寺を参拝します~

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第187回 壬生寺の護摩焚~壬生散策~その2

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いよいよ壬生寺の門前にやって来ました。
普段もそこそこ参拝があるのですが、節分は特に多いですね。
今回は、こちらに参拝します。
撮影日は、2014年2月3日日曜日午後1時半。
この日から、数日寒い日が続いています。


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壬生寺の門をくぐり、西へと進んでいます。
約70m先正面に、壬生寺の本堂があります。
本当はこの周囲に末寺や末社がたくさんいらっしゃいますが、
この日は露店があるのでそちらへは向かえません。


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こちらは、壬生寺の本堂へと向かう参道の左(南)側です。
テントがあって、その中で炮烙焼の皿が売られていました。
こちらに文字を書いた後、壬生寺に奉納します。
その炮烙焼は、そこで祈祷を受けた後壬生狂言で叩き割られます。


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そのテントの西側に老人ホームの入り口があって、
さらにその西側にこの中院があります。
こちらの十一面観音にお参りした後、さらに先に進みます。


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中院の前で、西を向きました。
次は壬生寺の本堂前の広場に出ます。


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壬生寺の本堂前広場に出ました。
本堂にお参りする前に、先に南側に回ります。
本堂の南隣に、日本では珍しい形の仏塔(ストゥーパ)があります。


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その仏塔をアップで撮りました。東南アジアに多い形態ですね。
この「千体仏塔」には、多くのお地蔵さんや石仏が並んでいます。
こちらは、壬生寺の象徴とも呼べますね。
この写真はクリックすると、拡大されます。


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「千体仏塔」の前で、右(北)を向きました。
いよいよ壬生寺の本堂に向かいます。


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こちらの石段を上って、壬生寺の本堂に向かいます。
ご本尊は、重要文化財の延命地蔵尊です。
(京都市街地で、町内ごとに祠の中にいらっしゃいますね)


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さすがに本堂内部を撮るわけにはいかないので、
香炉の前から撮ります。(寸志を払えば、線香を立てられます)
壬生寺は、991年に三井寺の僧侶によって創建された律宗の寺院です。
(奈良県の唐招提寺と同じ宗派です)
また、1330年ごろから円覚によって壬生狂言が始められました。


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壬生寺の本堂前から、反対(東)側を向きました。
参道の左(北)側に護摩壇が組み上げられており、
そちらに多数の修験者が向かっていらっしゃいます。


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こちらの修験者は、前回ブログで祈祷されていた方々です。
よくよく見ると、第139回ブログの祇園祭役行者山で
護摩焚祈祷をされていた聖護院の方々です。

こちらは、護摩焚の前に矢を射かけておられます。
確か、射る方角で矢尻の色が違うはずです。


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次は、斧を持った修験者が四方に回って振り下ろされています。
こうすることで、護摩壇を清められています。


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そして、袈裟姿の僧侶が祈祷をされます。
これで、護摩壇のお浄めが終わります。


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そしていよいよ護摩壇に火が付きます。
先ずは、竹製の松明の先に点火されます。


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ただ、すぐには護摩壇に点火せずに松明の前で祈祷が始まります。
なかなか護摩焚きが始まりませんが、
第139回ブログの役行者山のときと同じ手順です。


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そして、竹槍のように松明を護摩壇に突き刺します。
こうして、護摩壇が点火されました。


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点火してすぐに、白い煙が立ち込めます。
松葉による護摩壇なので、初めから火柱が上がることはありません。
これも、役行者山のときと同じです。
ただ、だんだんこちらが風下になってきました。
半年前の経験から、とても嫌な予感がします……


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思った通り、煙に囲まれてまるで霧の中です。
ただ、こちらの正体は煙なので時折煤が降ってきます。
この日は黒っぽい服を着てきたのですが、
周囲の人たち同様に白くなってしまいました。


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この煙まみれの状況は、
修験者が護摩壇に水をかけることで治まりました。
続いて先ほど祈祷をされていた修験者が前に出てきました。
右手の小刀で、左手の護摩木の封印を切られました。


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そして、左手の護摩木を火の中に投じられました。
これを三回繰り返されました。


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そして、木製の扇で火を仰がれました。
この辺りから日が落ち着いて、こちらに煙は来なくなりました。


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煙が落ち着くと、修験者一同による祈祷が始まりました。
役行者山のときと同様に、般若心経が繰り返されていました。


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般若心経は、約30分続きました。
松の葉がほぼ燃焼したのか、
白い煙からだんだん赤い炎に変わってきました。
この辺りから、周囲の気温が上がってきました。
今年一番の底冷えの日でしたが、火の回りはかなり高温でした。


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祈祷はまだまだ続いているのですが、
また護摩木が火の中に投じられていきます。


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護摩木は、また3回投じられました。
その直後に般若心経が終わり、
修験者が今度は護摩壇に水をかけて火や煙を調整していきます。


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それが終わると、今度は修験者がバケツリレーの要領で
護摩木を次々と火の中にくべていきました。
ベンチの上に相当数の護摩木があったのですが、
見る見るうちになくなっていきました。


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さらに向こう側のベンチの護摩木も、火の中に投じられていきます。
護摩焚らしくなってきましたが、煤の量が多くなってきました。


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そして、先ほどの僧侶共々修験者の祈祷が始まります。
また、般若心経を唱えられておりました。


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般若心経が終わると、修験者の何人かが法螺貝を吹きだしました。
だんだん護摩焚祈祷も、終わりが近づいてきました。
そう言えば、護摩檀の木枠も燃焼し始めました。


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法螺貝の演奏が終わりました。
すると、修験者全員が立ち上がりました。


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そして、僧侶と修験者全員が護摩壇の前から退場しました。
これで護摩焚供養が終わりました。


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……と思ったら、修験者の皆さんが氏子を引き連れて戻ってきました。
やはり、火が付いた護摩壇を放置しておくのはダメなようです。
消火器をかけないものの、護摩壇は解体されました。


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こちらは、折り紙でできた「しめ飾り」です。
祈祷が終わった後、こちらは早い者勝ちで持って帰れます。
……なのですが、ここの「しめ飾り」は約2mの高さです。
手が届きません……
ちなみにこちらは、修験者が手に取って高齢者に配られました。


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そこで、こちらに目を付けました。
こちらは、修験者が座布団代わりに使われていた松葉です。


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その松葉を持って、護摩焚供養の火まで進みます。
しめ縄が取り払われているので、もう入ってもよくなりました。


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そして、護摩焚供養の火にその松葉を投じます。
これが厄払いになります。


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壬生寺保育園の前に、壬生狂言の舞台があります。
護摩焚供養も終わったのでそちらに向かおうとしたのですが、
列が長くなっていて次の午後3時公演分が既に満席です。
結局、今年も観劇は諦めます。
(まぁ、何度か見ているのでどういうものかは知っているのですが)


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壬生寺本堂前から、西を向いて門を見ています。
これで帰ってもいいのですが、
せっかくなので新撰組関連施設の壬生塚の方に回ります。
ただ、それは次回とします。

今回は、ここまでです。

~次回は、壬生周辺の新撰組関連施設を回ります~

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第188回 新撰組が闊歩した壬生~壬生散策~その3

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壬生寺本堂前から、門のある東を向いています。
壬生寺の節分行事も一通り見たのでもう帰ってもいいのですが、
せっかくなので新撰組関連施設を回りたいと思います。
撮影日は、2014年2月3日日曜日午後3時。
久しぶりに写真が40枚を越えました。


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先ほどの写真の左(北)側が、こちらに抜けるようになっています。
では、こちらの方に入っていきます。


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入ってすぐの正面に、水掛地蔵尊がいらっしゃいます。
こちらにも、たくさんの方がお参りしています。


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水掛地蔵尊の右(東)側に、こちらの灯明があります。
50円払って、こちらにろうそくを立てました。


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水掛地蔵尊の右(東)側に、弁財天の祠があります。
こちらは秘仏ですが、この時期は特別に御開帳されています。
近寄って祠を覗くと、小さな弁財天がいらっしゃいます。


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弁財天のさらに右(東)に、こちらの阿弥陀堂があります。
中には阿弥陀如来がいらっしゃいます。(撮影不可です)
さらに、このお堂はもう一つの顔があります。


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阿弥陀堂から、北側に抜けることができます。
ここからは、有料になります。(100円です)
つまり阿弥陀堂は、ここから先の拝観料を払うところでもあります。


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橋を渡ると、小さな池の上にある小島にたどり着きます。
こちらは「壬生塚」と呼ばれる壬生寺の新撰組関連施設です。
歴代住職や新撰組隊員のお墓があります。
(新選組隊士の遺体は、別の所に埋葬されています)


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壬生塚に入ってすぐに、こちらのお地蔵さんがいらっしゃいます。
池の向こうに、阿弥陀堂が見えますね。
阿弥陀堂は比較的新しい建物で、
地下には、新撰組関連の博物館があります。
(節分以外なら、拝観料を払えば見ることができます)


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お地蔵さんの東側に、新撰組隊士の慰霊塔があります。
こちらは、近年建てられました。


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こちらは柿本人麻呂のお墓で、「人丸塚」と呼ばれています。
このお墓は見た所古くて数百年というところですが、
柿本人麻呂は1200年以上前の歌人です。
どう考えても、偽物ですね。


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壬生塚の一番東側に、近藤勇の銅像が立っています。
近藤勇のお墓は、愛知県や東京都、福島県会津若松市などにあります。
こちらの銅像は、映画会社の関係者が戦後に建てられたものです。


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壬生塚の一番奥に(写真左)、芹沢鴨と平山五郎のお墓があります。
どちらも新撰組隊員でしたが、近藤勇らによって殺されました。
(要するに、派閥争いです)
2年前にここを訪れた第27回ブログとお墓の形状が違いますが、
昨年このお墓に直されました。(初めのお墓と同じ形状だそうです)
最初のお墓は、イタズラによって破壊されました。
(今回の追記参照)


188-14.jpg
芹沢鴨のお墓の右(南)側にも、新撰組隊員のお墓があります。
河合耆三郎のお墓がひときわ立派ですが、
これは、河合耆三郎の父親が
(兵庫県南西部で、米屋を経営していた大金持ちです)
河合耆三郎が新撰組の規約違反で切腹させられたことへの抗議として
このような立派なお墓を作ったそうです。
(河合耆三郎は、新撰組の経理担当者でした)


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では、壬生塚を出ます。
またいったん阿弥陀堂の中に入っていきます。


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阿弥陀堂を出て、参道に戻ってきました。
東側にある門をくぐり、壬生寺を出ます。


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壬生寺を出て、坊城通で北を向きました。
右(東)側は、新徳禅寺です。
第186回ブログでも紹介した新撰組の事実上発祥の地です。
普段は非公開なのですが、この日は境内で炮烙焼を売っていました。


188-18.jpg
壬生寺門の前から、坊城通を北に約100m進みました。
壬生寺の北隣に、「鶴屋」という和菓子屋さんがあります。
ここの経営者八木家の屋敷に、
新撰組が2年間ほど屯所を設けていました。
つまりここが、「新撰組屯所」八木邸です。


188-20.jpg
拝観料の1,000円(後の抹茶と菓子代込)払い、中庭を通り抜けました。
ここから先は、江戸時代末期当時のままになっています。
ここ八木邸は、京都市内で残り少なくなった武家屋敷です。
(八木氏は戦国大名朝倉氏の末裔で、京都府八木町の豪農でした)

中に入ると、大きな座敷があります。
そこが先ほど紹介した芹沢鴨と平山五郎暗殺現場です。
そこには学芸員がおられて、この建物の解説をしてくれます。
ここは1Fの座敷と奥の部屋のみ公開されています。
(そこから見える庭も公開されています)


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座敷を抜けて、「たたき」に出ると
壬生狂言の笛や太鼓が聞こえてきました。
角度によっては、ここから狂言が少し見えました。

次に、中庭に出ました。
引換券を渡すと、こちらの抹茶と大福がもらえます。
和菓子屋さんだけあって、なかなかのお味でした。
この日は、今年一番の冷え込みでした。
ですから、このような小さな火鉢が置かれていました。


188-22.jpg
八木邸(鶴屋)の前で、坊城通を北に向きました。
右(東)の塀は、旧前川邸ですね。
ここから約50m先の綾小路を目指します。


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綾小路坊城の北西角に、道標がありました。
「左 壬生寺」はいいのですが、
「右 二条城」は徒歩で行ったら1時間くらいかかります……


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その綾小路坊城北西角にある「幸福堂」です。
金つばの専門店ですが、節分ということでかなりの人出でした。


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こちらが、その金つばです。
甘みが弱く、却ってそれが上品な味を出しています。
家に帰ってからいただきました。


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「幸福堂」を出た所で、こちらの犬に出会いました。
慌ててカメラを取り出そうとしたのですが、
間に合わずに後姿だけ撮ることにしました。


188-27.jpg
坊城通から、綾小路を東に向いています。
坊城綾小路南東角に、旧前川邸があります。
新撰組隊士が増えすぎて八木邸に入りきらなくなって、
後にこちらにも新撰組隊士が住むようになりました。


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こちらが、旧前川邸の入り口です。
平日は非公開なのですが日曜日のみ公開されています。


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実は、ここに入るのは初めてで
どこまで公開されているのかよく分かりませんでした。
後で調べたところ、土蔵は公開されていて
「池田屋事件」の発端となった長州浪士を拷問した部屋や
山南敬助や野口健二らが切腹した部屋も公開されていたそうです。
ただこの日お邪魔したのは、結局グッズショップだけでした。
模造刀や新撰組グッズが置かれていました。


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では、旧前川邸を出ます。
ここからは、来たときと違い綾小路から帰ります。


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旧前川邸の前で、綾小路を東に向いています。
右(南)側の塀は、旧前川邸のものです。
では、ここを東に進んで大宮通を目指します。


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旧前川邸から、綾小路を東に約100m進みました。
こちらの酒屋さんは、以前通ったとき
「近藤勇 土方歳三 沖田総司」という
銘柄のお酒を売っていました。
その向こうに見えるのは、壬生川通です。


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そのお酒屋さんの向かいにいらしたお地蔵さんです。
2年前にここに来たときも、寄らせていただきました。


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綾小路から、壬生川通を北に向いています。
向こうに京福電車(嵐電)の線路があり、
その先に第186回ブログで紹介した四条通が見えます。


188-35.jpg
今度は、綾小路から壬生川通を南に向きました。
約1km先にある五条通を越えると、かつての花街「島原」に出ます。
(芹沢鴨がよく遊びに行ったところですね)
また、「島原」より東には
壬生の後に新撰組屯所があった西本願寺があります。


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壬生川通から、綾小路を東に向いています。
さすがにここから先は、人出がだいぶ減ります。


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壬生川通から、綾小路を20mほど東に進みました。
自動車がやっと1台通れるくらいの細い道に、
古い民家や飲食店などが並んでいます。
実はこの辺りが、京都市内で自分が一番好きな街並みです。
古い民家が何軒も並んでいるこの感じがいいですね。


188-38.jpg
壬生川通から、綾小路を東に150mほど進みました。
この辺りから、「京都中京区」から「京都市下京区」になります。
こちらは、浄土宗光縁寺です。
江戸時代末期ここの住職と新撰組隊士山南敬助が親しくなり、
その縁でここに新撰組隊士が埋葬されるようになりました。


188-39.jpg
この入口から、中に入ることができます。
本堂には入れませんが、100円払うと
境内北側にある墓地に参ることができます。


188-40.jpg
さすがに中を直接撮るのははばかれるので、
ここのパンフレットを撮った写真を貼り付けます。
右側は、過去帳の写しです。
自分が知っているのは、
1.野口建司(写真から外れています)  3.山南敬助  
7.松原忠治  10.河合耆三郎  27.伊東甲子太郎
このくらいでしょうか。
いずれも、切腹した人か暗殺された人です。

門の中に入るとたまたま住職さんと鉢合わせして、
暫らくいろいろお話を聞かせていただきました。
わずか3基のお墓に28人も入っているので、
墓の下に彼らが埋まっているわけではないそうです。
寺院の北側の当時の空き地(現在は京福電車の線路)の下に
埋まっているそうです。


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光縁寺の前から、綾小路を東に向いています。
この辺りから、両脇に小さな寺院が軒を並べます。


188-42.jpg
光縁寺から、綾小路を東に約100m進みました。
ようやく大宮通との交差点にでました。
綾小路はもう少し東に伸び、寺町通の京都大神宮で突き当ります。
(第157回ブログ参照)


188-43.jpg
綾小路から、大宮通を北に向いています。
北西角にあるこの中華料理屋さんは、京都でも屈指の四川料理店です。
(担担麺がおいしいです)


188-44.jpg
綾小路から、大宮通を北に歩いています。約100mで四条通です。
そこからまた阪急電車に乗って、(地下鉄です)家に帰ります。

今回はここまでです。

~次回からまた新しい道を歩いていきます~

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第455回 八坂神社の豆まき~祇園節分散策~その1

[八坂神社] ブログ村キーワード
2017年も2月に入ってきました。
自分の仕事は、いつも正月明けから暇になるのですが……
今年はまだ忙しい日々が続いています。
そんな間隙を縫って、2017年の節分記事を何とか取材しました。
本当は2017年2月3日が節分なのですが、
その仕事の都合で1日前の2月2日に祇園を散策しました。


455-1.jpg
前回ブログ最後に訪れた京阪電鉄「祇園四条」駅の改札を出て、
「四条川端」交差点の真下で北を向いています。
(この辺の京阪電鉄は、地下鉄です)
今回はここから四条通を真東に進み、八坂神社に向かいます。
撮影日は、2017年2月2日節分前日の木曜日午後0時40分。
今回も、クリックした写真は全て拡大されます。


455-2.jpg
京阪電鉄「祇園四条」駅改札口から、真北を向いています。
以前からあの辺りに切符売り場がありましたが、
周辺がだいぶ改装されています。
5年前に初めてここを取材したときには、
「鉄道案内所」のようなものはありませんでした。


455-3.jpg
同じ場所で、東を向きました。
こちらの地下道は、ちょうど四条通沿いに伸びています。
では、こちらを進んでいきます。


455-4.jpg
京阪電鉄「祇園四条」駅改札前から、東に約20m進みました。
今までならこちらの6番出口から南座脇に出ていたのですが、
南座が今耐震工事中なのでこの先が閉鎖されています。
テナントの蕎麦屋「松葉」などは開いているのですが、
これ以上は地下からは進めません。


455-5.jpg
その位置で、北を向きました。
向こうにも、地上に上がる階段が見えます。
ちょっとだけ遠回り(約5mくらい?)ですが、
向こうの階段を利用したいと思います。


455-6.jpg
先程の通路の突き当りに、
京阪電鉄「祇園四条」駅7番出口への階段があります。
では、こちらから地上に出ます。


455-7.jpg
正直こちらの階段は時計回りに螺旋状に上るので、
少々目が回ります。
(自分は、遊園地のコーヒーカップでもフラフラになります)
……やっと地上が見えました。
向かい(南)側に見えるのが、歌舞伎の顔見世興行で有名な南座です。
(先述の通り、現在耐震工事中で、テナント以外は閉鎖中です)


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京阪電鉄「祇園四条」駅7番出口で、四条通を東に向いています。
この約20m西が、「四条川端」交差点です。
その辺りから東が、「京都市東山区祇園」です。
目の前に、「四条京阪前」バス停があります。
この日(2017年2月2日)は平日(木曜日)でしたが、
相当の観光客がいらっしゃいます。
よく考えたら、「節分」は中国では祝日です。
その関係で、この人出なのでしょうね。


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京阪電鉄「祇園四条」駅7番出口から、
四条通を東に約30m進みました。
こちらで、四条通は大和大路と交差します。


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四条通から、大和大路を北に向いています。
ここから北の様子は、第229回ブログに載っています。
(向こうの、「一銭洋食屋」も載っています)


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今度は、四条通から大和大路を南に向きました。
四条通からゑびす神社に行くには、ここを進みます。
(第23回ブログ参照)


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大和大路から、四条通を東に歩いていきます。
この辺りの四条通は、土産物屋さんが多いですね。
向こうに、四条通東端で今回ブログの目的地でもある
八坂神社の楼門が見えますね。


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京阪電鉄「祇園四条」駅7番出口から、
四条通を東に約250m進みました。
ここで、四条通は花見小路と交差します。


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四条通から、花見小路を北に向いています。
この辺りも、大和大路同様にクラブやパブが並びます。
まぁ、日が明るいうちは人通りはまばらです。


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今度は四条通から、花見小路を南に向いています。
石畳の道沿いに出会い茶屋や置屋などが並び、
日常的に舞妓さんや芸妓さんが徘徊される場所です。
多くの人がイメージする「祇園」は、ここから南の風景です。
(第35回ブログ参照)


455-16.jpg
花見小路の横断歩道で、四条通の南側歩道に渡りました。
そこで東を向いています。八坂神社がもう目の前ですね。


455-17.jpg
花見小路から、四条通を東に約100m進みました。
こちらは、四条通西行の「祇園」バス停前です。
46系市バスは、「四条大宮」バス停で北に折れていく路線です。
節分のこの日は、乗降者がいつもより多めです。


455-18.jpg
そのバス停の南側に、漢字博物館があります。
こちらは、元々京都市立弥栄(やさか)小学校でした。
廃校になった小学校がこういう施設になることは、
京都ではよくあります。


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京阪電鉄「祇園四条」駅7番出口から約400m東に進み、
四条通最東端の「祇園」交差点に着きました。


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この「祇園」交差点は、四条通と東大路との交差点です。
(東大路は、京都市街で一番渋滞する道です)
では、ここを東に渡り八坂神社に向かいます。


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八坂神社の楼門脇に、このような看板が立ててありました。
現在2017年2月2日午後0時50分。
午後1時には、まだ10分あります。


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こちらが、八坂神社楼門です。
ではここをくぐって、八坂神社境内に入っていきます。


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八坂神社楼門をくぐり、八坂神社境内に入ってきました。
ここはいつ来ても賑やかですが、
いつもより参拝者が5割増しです。


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先ずは、楼門北側の手水舎に向かいます。
こちらで手を浄めて、先に進みます。


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八坂神社楼門をくぐった地点で、南を向きました。
この辺の露店や末社が気になりますが、
先ずは本殿前の舞殿(拝殿)に向かいます。


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八坂神社境内を約30m南下した後、東に進みます。
少し石段を上ったら、目の前に八坂神社舞殿が見えます。
この辺りから、また日が強く差すようになりました。


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2016年の祇園祭以来の八坂神社舞殿です。
約半年前には、あちらに3基の神輿が並んでいました。
では、こちらの前で豆まきが始まるまで待機します。


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午後1時になりました。
すると、舞殿に舞妓さんが上がられました。
舞妓さんも、まずは本殿に向かって正座です。
ただ、こちらは祇園ではなく先斗町の舞妓さんです。
祇園の舞妓さんは、翌日(2017年2月3日)登場します。


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八坂神社の神主さんのお払いの後、
芸妓さんと舞妓さんがこの体勢を取られました。
そして、三味線と歌が始まります。


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三味線に合わせて、先斗町の舞妓さんが舞われます。
三味線や歌は、舞妓さんより年嵩の方々が演じられます。
日本人よりも周囲の中国人や韓国人(話される言葉から判断)が、
とても喜んでおられました。


455-32.jpg
そしてこの体勢を取られると、三味線と歌が終わりました。
先斗町の舞妓さんの舞は、だいたい5分くらいでした。


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すると、豆を乗せたお膳を持った方々が舞殿に入って来られました。
先斗町の舞妓さんは……自分のいる反対側にいかれました。


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そして、一斉に豆まきが始まりました。
もちろん豆自体をばら撒くのではなく、
豆の入った袋を撒かれています。


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とは言え、豆を取りやすい場所とそうでない場所があります。
この日(2017年2月2日)は相当風が強く、
豆が入った袋が遠くに飛びません。
ですから、一人で3袋手に入れた方もいらっしゃいましたが
自分のように最後まで1袋も手に入れられない人もいました。
その中で、こちらの方々の撒き方はとても上手でした。
豆の袋を高く放り投げたり低空飛行を狙ったりと、
工夫をされて自分のいる位置よりも後方まで飛ばしておられました。


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豆まきも、約5分で終わりました。
舞殿におられた方々が舞台から下りられますが、
周辺にいらした参拝者も三々五々帰られます。


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そして、少し遅れて先斗町の舞妓さんも舞台から下りられます。
目の前に、空になった御膳が積み上げられています。


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豆まきをされた方々が、舞殿からこちらに来られました。
そして、そのまま南側の社務所に進まれました。


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一方で、先斗町の舞妓さんは向こうの斎館に進まれました。
たくさんの方々が舞妓さんの周りに群がっていたので、
こちら側に来られたら相当のパニックが起きていたでしょうね。


455-40.jpg
八坂神社舞殿から、西を向いています。
ここから次の豆まきまで、約1時間あります。
そこまで時間があるので、ここから八坂神社境内を散策します。

とは言え、もうだいぶ写真を貼り付けたので
今回はここまでとします。

~次回は、この後の八坂神社の豆まきを載せます~

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第456回 続けて八坂神社の豆まき~祇園節分散策~その2

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前回ブログで八坂神社の豆まきを取材しましたが、
こちらの節分の豆まきは1日に何回も行います。
この時点で、2017年2月2日午後1時10分。
この後の午後2時の豆まきまで、少し時間があります。
そこであちこち見て回って、時間を潰します。
今回も、クリックした写真は全て拡大されます。


456-2.jpg
こちらが、八坂神社本殿です。
前回ブログでは参拝していませんでしたので、ここでお参りします。

八坂神社の御祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。
ただ、明治時代の神仏分離令以前の御祭神は祇園牛頭天王でした。
(神社の御祭神変更は、割とよくあることです)
牛頭天王(ごずてんのう)と素戔嗚尊との関係は深く、
「素戔嗚尊が中国に渡ると、祇園牛頭天王と改名される」
というようなことが、日本中の祇園社や八坂社に伝わっています。
どちらも疫病の神様で、特に天然痘除けのご利益があります。


456-3.jpg
八坂神社本殿の南側に、舞殿があります。
こちらで、前回ブログ以降節分の豆まきが行われます。
この南側には南楼門があって、
祇園祭の神輿渡御では、その門から
祇園祭の3基の神輿が「祇園」交差点に出立します。


456-4.jpg
八坂神社本殿の南側に、こちらの施設があります。
実は、この神社の豆まきには福引が付いています。
液晶テレビなどの電化製品も当たるそうで、
ハズレくじがないそうです。
……とは言え、その「豆」を手に入れること自体が
相当の至難の業なのですが。


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舞殿の南西部にテントが組まれて、
八坂神社婦人会による茶店が立っていました。
饅頭などの和菓子も出されるのですが、
そこは節分ですから甘酒がメインになります。


456-6.jpg
そう言えば、法住寺でも甘酒を頂きました。
くぎ抜き地蔵千本ゑんま堂では昆布茶が主流でしたが、
個人的には節分は甘酒とぜんざいのイメージです。
(まぁ、昔の大晦日ですし)

自分がこちらを頂いている10分ほどの間、
真横で舞妓さんと芸妓さんも甘酒を飲まれていました。
ゆっくり寛がれていたので、自分は写真を撮っていません。
ただ、自分の周りにいらした方々(主に白人の男性)が
集団でその舞妓さんや芸妓さんを店の外から撮影されていました。
そして年上の芸妓さんが舞妓さんを庇うように店を出られると、
そのカメラを持った方々も芸妓さんと舞妓さんを半包囲しながら
追跡を開始されました。
舞妓さんに明らかに恐怖の表情があったので、
これって完全に「ストーカー行為」と思うのですが……


456-7.jpg
甘酒の茶店には、約10分いました。
そのお店を出ても、次の豆まきにはまだ30分以上あります。
実は朝から何も食べていませんでしたので、
ここから暫く「露店めぐり」をします。


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露店は、前回ブログで移動中に横目でチェック済みでした。
先ずは、八坂神社最西端の楼門前に戻ります。
手水舎の脇に、「蟹肉棒」の露店がありました。


456-9.jpg
こちらは中国人に大人気で、結局10分待ちでした。
店主は中国語を一切話せないのですが、
その辺は英語でうまく乗り切っておられました。

この「蟹肉棒」は、ウチのブログでは数回登場しています。
(自分の好物の一つです)
基本的には「焼いた蟹蒲鉾」なのですが、
タラバガニの身も多少入っているので、
見た目以上に蟹の味がします。


456-10.jpg
「蟹肉棒」の露店の東隣に、「疫神社」がいらっしゃいます。
こちらも、病除けの神社です。


456-11.jpg
「疫神社」の南隣は、「白髭社」と「田中社」が合祀されています。
こちらの前に若い女性2人(たぶん中国人)が
ずっと立っていらして、しかも参拝の気配がないので
訳を言って移動してもらい、撮影しました。


456-12.jpg
「白髭社」「田中社」の南脇に、こちらの露店が立っていました。
もはや露店の看板が、中国語です。
(「清蒸牡蠣」とは、「蒸したカキ」という意味です)
露店の脇では中国語のDVDが再生されていて、
宮城県沖で実際にこちらのカキを収獲している様子が
映し出されていました。


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500円払って、こちらを頂きました。
向こうに見える竹串を1本取って、それに刺して食べます。
自分は貝類から出てくる汁が好物なのですが、
貝殻付きだとそれを余すところなく味わえます。
ポン酢やレモン汁もあるのですが、
何もつけずに食べるのがお勧めです。


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「清蒸牡蠣」の露店の東隣に、こちらの社がいらっしゃいます。
こちらは、「北向蛭子社」です。文字通り北を向いた神社です。


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「北向蛭子社」の東脇に、こちらの銅像がいらっしゃいます。
「祇園のえべっさん」と書かれていますが、
第454回ブログのゑびす神社も、「祇園のえべっさん」ですよね。


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「北向蛭子社」の向かい(北)側に、たこ焼きの露店がありました。
今まで海産物を食べてきたのですが、
まだまだ満腹ではないのでこちらを頂きました。


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こちらが、そのたこ焼きです。
実は海産物も含めて一品一品すべて500円だったのですが、
これが一番お腹がふくれました。


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ベンチに座りながら、たこ焼きを食べています。
こちらは、その最中に見ていた風景です。
吽形の狛犬の脇に、燈明があります。
こちらの柱に、ジュバンセルの文字があります。
この位置から南に約100m先に、ジュバンセルの本店があります。


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その脇に、柊(ヒイラギ)が生えていました。
西洋でもそうですが、日本神道でも魔除けの木ですね。


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たこ焼きの露店の東脇に、こちらの社がいらっしゃいます。
こちらは、大国主命・事代主・大己貴命などを祀っています。
いずれも、素戔嗚尊の家族の神々ですね。


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その社の前で、東を向きました。
この石段を上ると、八坂神社本殿前の舞殿に戻ります。


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八坂神社舞殿の前に戻ると、ほぼ午後2時でした。
では、ここから八坂神社の神楽が始まります。


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暫く八坂神社舞殿の前で待っていると、
雅楽奏者が舞殿に上がって来られました。
少し上を見ると、提灯が相当揺れています。
この日(2017年2月2日)は、京都でも珍しい強風でした。
(まぁ、冬の京都なら「比叡おろし」という強い北風がありますが、
それとは違う風向きでした)


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雅楽奏者の方々は、八坂神社舞殿の舞台の周辺に座られます。
舞殿のこちら(西)側には竜笛奏者がいらっしゃり、
向こう(東)側には笙の奏者がいらっしゃいます。


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最後にいらした八坂神社の神主さんが、
本殿に目がけて紙垂を振られます。
先ずは、お祓いですね。


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続いて、神楽の踊り手が4人舞殿に入って来られました。
その4人が所定の位置に就くと、いよいよ神楽が始まります。


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神楽の音楽は、多くの方イメージする雅楽と同じです。
先ず笙のゆっくりとした音色の後に、太鼓が続きます。
神楽の踊り手も、ゆっくりとした所作で舞われます。


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神楽も半ばに差し掛かると、今度は竜笛の音色が加わります。
雅楽はそれ程速いテンポの曲ではないのですが、
それが格調高いこの舞に似合いますね。


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そして雅楽の音色が止むと、神楽が終わりました。
前回ブログの先斗町舞妓さんの踊りより約10分長い15分ほどでした。


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直後に、八坂神社の神職さんが何人か舞殿に上がって来られました。
神職さんは、豆が載った膳を
神楽の舞手や雅楽奏者に渡されていました。
続いて、舞手と雅楽奏者による豆まきが始まります。


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豆まきは、前回ブログ同様約5分掛かりました。
約1時間前の豆まきより風がさらに強くなっており、
豆の入った紙製の袋は、いくら遠くに投げられても
すぐに地面に落ちてしまい、自分たちがいる位置まで届きません……
その結果、最前列の中国人の若い女性のグループは
(会話の言語から判断)
それぞれ3~5袋手に入れておられましたが、
その2列後ろは誰も手に入れていませんでした。


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豆まきが終わり、舞殿から舞手と雅楽奏者が降りてこられました。
結局豆を手に入れられなかった方々が、三々五々帰られます。
ところが、先述の女性グループが
ご高齢の男性に豆の袋を差し出されたの契機に、
複数袋手に入れた方々が豆を手に入れられなかった方々に
豆の袋を配り出されました。
……考えようによっては、これも「豆まき」ですよね。


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今回の豆まきは、2017年2月2日午後2時20分ごろ終わりました。
ここからまた露店巡りをしたのですが、
それは写真に撮っていません。
取りあえず午後3時までブラブラして、
その後宮川町舞妓さんよる踊りと豆まきも取材しました。

こちらの看板は、中国語で書かれています。
「請」(英語のpleaseに当たります)と書かれているものの、
結構強い口調で三脚と自撮り棒を禁止しています。

ここまでだいぶ写真を貼り付けたので、今回はここまでとします。

~次回も、この八坂神社の豆まきを取材します~

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第457回 さらに八坂神社の豆まき~祇園節分散策~その3

[八坂神社] ブログ村キーワード
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3回続けて、八坂神社本殿東側の舞殿に張り付いています。
前回ブログで豆まきの間の様子を取材しましたが、
今回はその間の写真はこの中国語の看板だけにします。
そして、そろそろ宮川町の舞妓さんによる豆まきが始まります。
撮影日は、2017年2月2日節分前日の木曜日午後3時。
今回も、クリックした写真は全て拡大されます。


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八坂神社舞殿上部の提灯を眺めています。
時間経過とともに、ますます強風になってきました。
かなり大きく揺れていますが、
提灯が吊るされたステンレス製の棒も蝶番で舞殿に付いているので、
提灯が落ちるなどの危険はありません。
(大きく揺らすことで、落ちにくくしているのでしょうね)


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午後3時からは、宮川町の舞妓さんが踊られます。
(祇園の舞妓さんは、翌日の2月3日に踊られました)
先ずは、小唄を歌われる芸妓さんと三味線の演奏される芸妓さんが
舞殿の舞台に上がって来られました。


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続いて黒い振り袖姿の舞妓さんが上がって来られます。
この日(2017年2月2日)のTVやWEBで
八坂神社の豆まきの様子が映し出されていましたが、
この振袖から第455回ブログの先斗町の舞妓さんではなく、
こちらの宮川町の舞妓さんが放映されていたと分かりますね。


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先程の舞妓さんに続いて、さらに舞妓さんが上がって来られました。
今回は、合計5名の舞妓さんが参加されるようです。


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舞台に上がられた舞妓さんの5人が、本殿に向かって正座されます。
先ずは、八坂神社本殿へ舞殿上からお参りされていました。


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そして、芸妓さんの三味線に乗せた小唄が始まります。
それに合わせて、舞妓さんによる正座の姿勢から
右手の扇を掲げての踊りも始まります。


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小唄が進むうち、5人の舞妓さんが立ち上がりました。
だんだんと舞が大きくなります。


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続いて、掲げられた扇を下の方に下げられます。
この舞は時々動作が止まるので、
自分のような動くものを撮影するのが苦手な人にも
結構簡単に撮影できます。


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宮川町の舞妓さんの舞は、5秒動いて5秒静止されるので
本当に写真撮影しやすいです。
今度は後ろを振り返った姿勢で静止されています。


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ただ小唄も後半になると、5人の舞妓さんは
左手に扇、右手に鈴を持たれます。
すると舞のテンポが速くなり、静止される瞬間がなくなります。


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5人の舞妓さんが右手に鈴を掲げ、激しく揺らされています。
「凛」とした独特の音色が、一定のリズムで続きます。


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そして小唄が止むと、5人の舞妓さんの動きも止まります。
これで、宮川町の舞妓さんの舞が終了しました。
前回ブログの神楽と同じ10分くらいだったと思います。


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すると、宮川町の5人の舞妓さんが舞台の端に立たれました。
これから、2017年2月2日3回目の八坂神社の豆まきが始まります。


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さらにたくさんの方々が、豆まきのために舞台に上がられました。
また5人の舞妓さんは、
自分のいる場所とは反対側に行かれました……


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続いて八坂神社の神職さんが、豆袋が載った膳を運ばれています。
こちらが全員に行き渡ったら、この時間の豆まきが始まります。


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この時間帯の豆まきが始まりました。
八坂神社舞殿のこちら側は、
商業演劇の装束をされた方々が豆を撒いておられます。
ただこちらはプロの役者さんではなく、
こういうコスチュームに仮装されている方々のようです。


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豆まきが続いております。
やはりこの日(2017年2月2日)はかなりの強風で、
とにかく豆の袋が遠くに飛びません。
しかも時間と共にさらに強くなってきており、
この時間帯ではもう前3列までしか届きません。
自分の周囲の方々も必死に手を伸ばされているのですが、
もうこの辺りまで豆が飛んでくることはありません。


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豆まきが、終わりました。
結局、今回も豆袋を手に入れることができませんでした。


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豆まきが終わり、宮川町の舞妓さんら
豆まきに参加された方々が、舞殿の舞台から下りていかれます。


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これで、宮川町の舞妓さんによる豆まきが終了しました。
祇園(甲部・東部)の舞妓さんによる豆まきは、
この翌日(2017年2月3日)の節分に行われました。
この日(2017年2月2日)もあと1回豆まきが行われますが、
そちらは取材しません。
(最後の豆まきは、この辺の商店街の方々が行われます)
ウチのカメラは夜間の撮影に不向きで、
さらに1時間遅らすと途中で撮影ができなくなるからです。


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八坂神社本殿の南側に舞殿があるのですが、
さらに南側に南楼門があります。昨年(2016年)の7月以来ですね。
そのとき同様この日も(2017年2月2日)まだ修復工事中ですが、
桜のシーズン前には完成する予定です。


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ではその南楼門から、八坂神社の境内を出ます。
修復中で幅が狭くなっており、かなりの人混みになっています。


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八坂神社境内から南に進み、南楼門をくぐりました。
この南に見える石製鳥居は、第410回ブログの最初に登場しました。
(ただし、反対側から見た様子でしたが……)


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八坂神社南櫓門を南にくぐり、北を向きました。
ここはまだ八坂神社境内なのですが、茶店と高級料亭が見えます。
こちらが、中村楼です。
室町時代創建の祇園「最高級」料亭の1軒ですね。


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では、こちらの石製鳥居を南に抜けます。
この鳥居より南は、もう八坂神社境内ではありません。


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八坂神社南櫓門前の石製鳥居の前で、北を向いています。
左(北)側に見える臙脂色の壁は、先述の中村楼のものです。
第410回ブログでは、
ここから円山公園経由で北東門から八坂神社に入りました。
いつもと違ってタクシーが並んでいますが、
それにはいろいろ理由があります。


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今度は、同じ場所で西を向きました。
このまま急な坂を約100m進むと、東大路に出ます。
そしてそのまま約100m北上すると、「祇園」交差点に出ます。
(八坂神社の楼門前です)


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八坂神社南楼門前から、東を向いています。
こちらにも、たくさんタクシーが停まっています。
自分がこの後もこの辺りをウロウロしていると、
宮川町の芸妓さんや舞妓さんなど
先程まで豆まきをされていた方々が、
これらのタクシーに分乗されていきました。

さて、この先は京阪電鉄「祇園四条」駅まで戻るのですが
せっかくなので祇園の街並みをうろうろしたいと思います。
とは言え、もうだいぶ今回は写真を貼り付けましたので、
今回はここまでです。

~次回は、昼間の祇園花街をうろうろします~

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第458回 祇園の町並みをうろうろ~祇園節分散策~その4

[祇園] ブログ村キーワード
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八坂神社南楼門の前で、南を向いています。
八坂神社の豆まきを一通り見物してそろそろ帰宅するのですが、
せっかくここまで来たので京阪電鉄「祇園四条」駅まで
いろいろ寄り道をしてこの辺りの町並みを楽しんでいきます。
撮影日は、2017年2月2日節分前日の木曜日午後3時半。
今回も、クリックした写真は全て拡大されます。


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八坂神社南楼門から、約100m南下しました。
こちらの緑色の暖簾の先にエレベーターがあって、
そこを上がるとジュバンセルの本店があります。
自分はJR京都伊勢丹の地下1Fのお店をよく利用しますが、
こちらにはたまにお茶を飲みに来ます。
ただ、この日(2017年2月2日)は超満員でしたので、
諦めて先に進みます……

またここの北向かいには、曹洞宗秋葉山東景寺があります。
仏教寺院ではありますが、ご本尊は秋葉大権現という「神様」です。
秋葉大権現は静岡県の山岳信仰が発祥ですが、
火除けの神様として江戸時代に江戸で多くの信仰を集めました。
(要するに、東京の「秋葉原」の語源です)

東景寺の山門を撮ろうとしたのですが、
こちらのご住職さんがたまたま外に出てこられて、
「山門も含めて、一切の撮影は不可」
そうおっしゃったので、写真は一切ありません。
その代わり参拝は可能で、ご本尊の秋葉権現や
末社のお稲荷さんや弁天様にお参りができました。
また、そのご住職にこの寺院の沿革や秋葉信仰について
いろいろ教えていただきました。


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ジュバンセル本店と東景寺の前で、南を向いています。
この辺りは東山の中なので、坂道の起伏が大きくなっています。
また、この辺りは祇園の一部なので京町家が並びますが、
(その多くが飲食店や土産物屋さん)
レンガ造りの洋館(ほとんどがマンション)も並びます。


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その辺りで、東を向きました。
先述の通りこの辺りは東山山中なので、坂道が急になります。
広い道には洋館などもあったりするのですが、
このような小路の両側は京町家が並びます。
この辺りから南に約350m先の八坂の塔の辺りが、
TVドラマに出てくる「京都の町並み」でよく使われています。


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八坂神社南楼門から、南下する道を歩いています。
最近この辺りに飲食店を営業する京町家が増えていますが、
そのうちの1軒の脇にこちらの祠がありました。
一瞬手を合わせかけたのですが、
中にお地蔵さんはいらっしゃいません……


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さらにその約50m南に、
また京町家に囲まれたお地蔵さんがいらっしゃいます。
今度こそ手を合わせて、先に進みます。


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八坂神社南楼門から、約200m南下しました。
ここからさらに約150m南に、八坂の塔が見えます。
向こうに見える八坂の塔の辺りで、この道は突き当たります。
そして、目の前に安井通とのT字路が現れます。


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そのT字路で西を向きました。ここから安井通が始まっています。
安井通は、約350m先の建仁寺北門(花見小路最南端)まで続きます。
次は、この安井通の坂道を下っていきます。


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八坂神社南楼門から続く道から、安井通を約70m西に進みました。
ここで安井通は、東大路と交差します。
この脇に、獣医さんが見えますね。
昔うちのネコを飼ってたときに、相当お世話になりました。


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「東山安井」交差点から、安井通を西に向いています。
第36回ブログでは、建仁寺からこの交差点に向かって進みました。
(その辺りが、祇園屈指の桜の名所です)
ではそのまま横断歩道を渡り、東大路西側歩道に移ります。


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「東山安井」交差点から、東大路を北に向いています。
約300m北に四条通と交差する「祇園」交差点がありますが、
そこまでの道は多少蛇行します。


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安井通から、東大路を約200m北上しました。
「祇園」交差点まで、あと約100mです。
ここは横断歩道はありませんが、
東大路と東西に交差する道があります。


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安井通から、その道を西に向きました。
この道は蛇行しながら花見小路に向かっていますが、
ちょっとこちらの脇道に寄ってみます。


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東大路から、その道を西に約50m進みました。
右(北)側の塀の向こうは、変電所ですね。
東大路近くはアスファルトの道でしたが、
この先から石畳の道に変わります。


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こちらが、そのT字路です。
あと100m西に進めば花見小路なのですが、
この辺をあちこち散策しようと思います。
(せっかくのウロウロ散策なので、真っすぐには進みません)


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先程の写真に写っていたT字路を左(南)に折れました。
この辺りも、京町家がずっと向こうまで並んでいます。
この辺りの町家は飲食店以外にも
芸妓さんや舞妓さんの置屋や出会い茶屋が並んでいます。
今は昼間なので人通りも少ないですが、
日が暮れると芸妓さんや舞妓さんが普通に行き来する場所です。
この辺りが、「祇園」の花街のただ中になります。


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先程の場所から、南に約50m進みました。
このままあと150mさらに南下すると、
この道は先述の安井通で突き当たります。
(安井金毘羅宮の近くですね)
ただ、今回ブログではこの辺りでさらにT字路で折れます。


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そのT字路で、西を向きました。
この辺りには、「高級」料亭などの飲食店が並びます。
(上手く探すと、安くておいしいお店もあるのですが)
日が暮れたら芸妓さんや舞妓さんが行き来されますが、
昼間は外国人観光客が時折通り過ぎます。


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飲食店の脇に、こちらがいらっしゃいました。
この辺りも「京都」ですから、お地蔵さんは健在です。
おそらく他の町内同様、8月下旬には地蔵盆も行われるはずです。


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先程のT字路から、西に約50m進みました。
左(南)側のコンクリート製の建物は、バーか何かのようです。
右(北)側の京町家も、この辺は全て飲食店ですね。


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その辺りで、北を向きました。
すると、少し先に朱い建物が見えます。


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赤い建物は、やはり稲荷神社でした。
先程の写真に写っていた若い中国人女性グループに
訳を言ってどいてもらって、お参りした後撮影しました。
(和装ではありますが、日本語は通じませんでした)


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稲荷神社から南下して、先程の写真に写っていた
「鳥居本」という看板のバーの前で西を向きました。
では、ここをそのまま西に進みます。


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また適当なところで、北を向きました。
よく見ると、飲食店に混じって旅館とかもあるようですね。


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稲荷神社以降、ずっと西に向かって歩いています。
右(北)側の飲食店は、この時間帯(午後4時ごろ)でも開いています。
店頭に置かれた価格の一覧表を見ていると、
まぁ一時期(バブル期)言われたほどではありませんが……
それでも自分には絶対手が出ない金額が延々書いてありました。
(一番安いもので、1食1万円くらいでした)


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稲荷神社がいらしたT字路から、西に約100m進みました。
目の前の花見小路で、この道は突き当たります。


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花見小路に出たT字路で、北を向きました。
ここから約130m先に、四条通との交差点があります。
この辺りは日が暮れると芸妓さんや舞妓さんが
普通に往来される世界になりますが、
日が明るいうちには外国人観光客で溢れ返っています。
多くの方々がイメージする「祇園」は、この辺りのことですね。


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同じ場所で、花見小路から南を向いています。
この時間帯の花見小路は、軽トラックが時折通ります。
どちらも食材店のロゴが入っているので、
おそらく今のうちに料亭などの飲食店に運んでいるのでしょうね。


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先程の場所から、花見小路を約150m南下しました。
こちらから、「弥栄会館」(やさかかいかん)に入れます。
祇園甲部の芸妓さんや舞妓さんの舞踊の発表会が、行われます。
日本の伝統芸能をいろいろ同時に見られるという
「離れ業」が行われる場所ですが、
外国人観光客や修学旅行生がたくさん来られています。


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「弥栄会館」の前で、花見小路を南に向いています。
花見小路は、約80m先の建仁寺北門で突き当たります。
この辺りは、祇園でも桜並木が特にきれいですね。
ちなみにその門の左(東)から、先述の安井通が伸びています。
その約50m手前に、T字路が見えます。


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花見小路から、そのT字路で西を向きました。
ここから西に、団栗通が伸びています。
では、ここからこの団栗通を西に進みます。


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花見小路から、団栗通を西に約50m進みました。
左(南)側の塀は、建仁寺のものです。
(この辺りが、建仁寺最北端に当たります)
目の前に、右(北)側に小路が伸びるT字路があります。
その先に、正伝永源院の山門があります。
こちらの沿革は、第228回ブログを参照してください。


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先程のT字路から、団栗通を西に約50m進みました。
南を向くと、ここから建仁寺境内に入れるようになっています。
ここから約70m南下すると、建仁寺方状の西側に出ます。


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建仁寺境内に入れる道の西隣に、こちらの神社がいらっしゃいます。
こちらは豊川稲荷社が勧請されたものなので、
御祭神は宇迦御霊神(うかみたまのかみ)ではなく
陀枳尼尊天(だきにそんてん。要するに、ダーキニー)です。
こちらも、第228回ブログに詳細が載っています。


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花見小路から、団栗通を西に約150m進みました。
団栗通は、ここで大和大路と交差します。


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団栗通から、大和大路を北に向いています。
あと約200mで、大和大路は四条通と交差します。
「四条大和大路」交差点の左(西)に南座があり、
右(東)に「目病み地蔵」(重要文化財)の仲源寺があります。
(第455回ブログの冒頭ですね)


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大和大路から、団栗通を西に向いています。
ここから団栗通は、道幅が約2倍になります。
この辻から約200m南に、ゑびす神社がいらっしゃいます。
(10日ゑびすで何度か取材しています)
ですから、ここから先は第454回ブログ終盤と同じルートです。


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大和大路から、団栗通を西に約50m進みました。
たびたびうちのブログに登場しているジンギスカン屋
「錦 キムラ」が見えてきました。
まだギリギリ午後5時前なので、開店していません。
この店の脇から南に伸びる道がありますが、
この辺りから団栗通以南が祇園とはまた別の花街宮川町です。


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「錦 キムラ」の前から、団栗通を西に約30m進みました。
ここで、団栗通は鴨川東岸の川端通と交差します。
団栗通はこの交差点の西側から伸びる「団栗橋」で鴨川を渡り、
直後の高瀬川東岸の木屋町通で突き当たります。


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「団栗川端」交差点南東角に、
京阪電鉄「祇園四条」駅への入り口があります。
(この辺りの京阪電鉄は、地下鉄です)
では、第454回ブログ同様ここから電車に乗って帰宅します。

これで、「2017年節分編」の連載は終了です。

~次回は、「高倉通編」の番外編を掲載します~

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第540回 法住寺の厄払い行列~法住寺の節分会~その1

[法住寺] ブログ村キーワード
10日ゑびすの連載も終わり、2018年も2月に入ってきました。
2月のはじめと言えば、節分ですね。
まぁ日本全国的な行事ではありますが、
京都では各神社仏閣で「節分会」と言う大きな例祭が行われます。
この「京の道 今日の道」も毎年この節分会に参拝に向かい、
壬生寺千本釈迦堂釘抜き地蔵千本ゑんま堂八坂神社などで
節分会を参拝しました。
そこで、2018年ではこのブログ2度目の法住寺に向かいます。
2015年に一度こちらの節分会にお邪魔したのですが、
その時は仕事の都合で途中で帰ってしまいました。


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わざわざ京都駅までいったん行って、206系市バスに乗りました。
そちらから七条通沿いに鴨川を東に渡り、
「博物館・三十三間堂」バス停で降りました。
法住寺は、この周辺の「三十三間堂回り」にあります。
今回は法住寺からこの近所を巡る「厄払い行列」を見て、
その後三十三間堂内の「法住持殿」を散策します。
撮影日は、2018年2月3日節分の土曜日午前11時。
寒いながらも、快晴でした。


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「博物館・三十三間堂」バス停前から、七条通を東に向いています。
先程まで乗っていた206系市バスが、さらに東に去っていきます。
この206系市バスは、約150m先の智積院で七条通を突き当り、
そこから東大路を北上して祇園岡崎に向かいます。


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市バスが去っても、同じ位置で七条通を東に向いています。
七条通の左(北)側は、京都国立博物館です。
パリのルーブル美術館を模しているので、赤レンガが特徴です。
一方、右(南)側は三十三間堂です。


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こちらが、京都国立博物館の入り口です。
この中には旧館と新館が建っていますが、
その周囲の庭園も「公園」としてなかなか寛げます。
2月ではまだまだ寒いですが、
GWの連休には毎年こちらで日がな1日休憩しています。


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京都国立博物館入り口前から、七条通を渡る横断歩道があります。
次はこちらを渡り、七条通南側歩道に向かいます。


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七条通から、「三十三間堂廻り」を南に向いています。
こちらは約200mほどの4車線の道で、
この道の左右に様々な寺院が建ち並んでいます。
この道より右(西)側が三十三間堂で、
目の前の入り口からその三十三間堂に入れます。


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その位置で、七条通を東に向いています。
横断歩道の先に、赤十字血液センターがあります。
そして、その脇に法住寺節分会の看板が出ています。
京都の神社仏閣のすべてが節分会を行う訳ではなく、
この辺で一番規模が大きいのがこの法住寺の節分会です。


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「三十三間堂廻り」の東側に渡り、南を向いています。
赤十字血液センター前にも立派な大桜が見えますが、
この辺りは京都でも屈指の桜の名所です。
この道の西半分は三十三間堂ですが、
東半分は赤十字血液センターやハイアットリージェンシー京都以外に
養源院後白河天皇陵・法住寺が並んでいます。


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その位置で、暫し立ち止まって待っていました。
そして、2018年2月3日午前11時5分ごろ。
法住寺から、「厄払い」のご一行が
「三十三間堂廻り」を北上してきました。


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では、三十三間堂の入り口を背景に
法住寺による「厄払い」ご一行を順に撮っていきます。

仙頭は紋付き袴の小父さんですが、この方が多分世話役です。
その後ろを法螺貝を奏でる修験者がいらして、
さらに後ろの紫衣姿の僧侶は法住寺の住職です。


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法住寺住職の真後ろに、天狗の扮装をされた方が通りました。
さらに後ろから、赤鬼、青鬼、黒鬼が通り過ぎます。
天狗は錫杖、赤鬼は宝剣、青鬼は斧、黒鬼は槌を持っています。


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さらに最後尾には、背広姿の男性が太鼓を叩いておられました。
こちらの太鼓は先程の法螺貝と合わせて、曲を演奏されていました。


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法住寺の「厄払い」ご一行は、三十三間堂の入り口を通り過ぎ
七条通の方に向かっていきました。
その周囲にマスコミ関係者や野次馬(おもにヨーロッパ系の白人)が
このご一行について回ります。


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……という訳で、自分はこのご一行の後を
「三十三間堂廻り」限定で付いていきます。
このご一行は七条通に出た後西に進み、
この辺りの各商店を回り厄払いを行います。
確か最初は、「七条大和大路」交差点にある薬局のはずです。
(法住寺のHPを参照にしています)


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その「厄払い」ご一行があたりを回られている間に、
自分はこちらに戻ってきました。
法住寺の節分会で次の行事が行われる前に、
先に三十三間堂を回ります。


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先程の入り口から西に進み、三十三間堂駐車場に来ました。
では、こちらで600円納めて三十三間堂境内に入っていきます。


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先程の建物内に、こちらの通路があります。
ここを南下すると、三十三間堂境内に入ります。


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先程の通路から、三十三間堂境内に入ってきました。
そこから西を向くと、参進閣に入れます。
三十三間堂内には、こちらから入ります。


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ただ、今回ブログ取材では三十三間堂境内の庭園が中心です。
同じ位置で南を向き、先にこちらの庭園を散策します。


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南北に長い三十三間堂の東側境内は、
こちらも南北に長い庭園です。
そちらには石畳の道があって、
車いすでも進めるよう配慮されています。


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その三十三間堂庭園に関する看板が、
庭園の北端に立っています。
こちらの庭園は、「法住寺殿」と呼ばれています。
三十三間堂の庭園が、東隣の寺院の名称で呼ばれるのは
この辺り一帯が元々法住寺の境内だったからです。

平安時代末期、この辺りに後白河上皇の邸宅がありました。
(その北側の六波羅には、平清盛の邸宅がありました)
後白河上皇崩御の後、この辺りは法住寺となりました。
三十三間堂は、その法住寺のお堂の一つでした。
それが戦災の度に法住寺は小さくなって、
遂に三十三間堂は独立した「蓮華法院」と言う寺院になりました。


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では、その石畳の道を南下していきます。
こうして見ると、この道の東半分が様々な植物が植えてある
庭園であることが分かります。
この庭園は、後白河上皇がご存命中にあったものと
同じ位置に造営されています。


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その辺りで、石畳の道を東に向きました。
こちらが、法住寺殿にある二つの池のうちの北側です。
この辺りは桜の木々が並び、京都屈指の桜の名所でもあります。
(第300回ブログを参照)


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その池の前で、法住寺殿を南に向きています。
法住寺殿はこのまま約150mほど南に伸びています。
ただ次回ブログとのバランスの関係で、今回はここまでです。

~次回は法住寺殿の残りを回り、三十三間堂の中に入ります~

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第541回 三十三間堂 法住寺殿~法住寺節分会~その2

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三十三間堂境内の東側庭園に、
細長い石畳の道が南北に伸びています。
この石畳の道は、車いすで移動される方に配慮されたものです。
この道より東側が法住寺殿址庭園で、
かつての後白河上皇の邸宅にあった法住寺殿の名残を持っています。
蓮華法院(三十三間堂)境内に東隣の「法住寺」の名前があるのは、
鎌倉時代~室町時代の三十三間堂が法住寺の一部だった名残です。
このブログでは、その庭園を「法住寺殿」と表記します。

その「法住寺殿」で、南を向いています。
前回ブログに登場した「厄払い」ご一行は
まだこの三十三間堂の周辺を回られていて、
そちらが法住寺に戻るまでに今回は三十三間堂を回りきります。
撮影日は、2018年2月3日節分の水曜日午前11時15分。
寒いですが、穏やかな晴れの日でした。


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同じ位置で、少し西を向きました。
「法住寺殿」は南北に細長く東西はとても短いので、
目の前に三十三間堂が伸びています。
そのお堂沿いに桜並木が続き、春には絶景に変わります。


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その位置から少し南下すると、石畳の道が東に折れます。
すると三十三間堂の朱い塀の手前に、こちらが見えます。
左(北)側の大きい方が納経塔で、古いお経が納められています。
右(南)側が、後白河上皇の供養用です。
上皇の13回忌が行われた際、
法要を行った法然がこちらに建立しました。
(法要自体は、第109回ブログ最後に出て来た長講堂で行われました)
この辺りも、春になると絶景に変わります。
(第300回ブログを参照)


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その供養塔の前で、また南を向きました。
この辺りの寒椿が満開でした。京都の冬と言えばこちらの花ですね。
では、その向こうに見える手水舎に進みます。


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こちらが、三十三間堂の手水舎です。
その奥に、お地蔵さんが並んでいますね。
こちらは「夜泣き地蔵」で、夜鳴き止めのご利益があるそうです。
(第482回ブログに出て来た本隆寺の夜泣き止めの松と同じですね)


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三十三間堂の手水舎前で、南を向きました。
左(東)側に、三十三間堂の勅使門が見えますね。


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その寺院もそうですが、この三十三間堂も勅使門は閉まっています。
その三十三間堂勅使門の前で、「法住寺殿」を西に向きました。
こちらが、三十三間堂のちょうど中間点です。
この石段の向こうを越えて堂内に入ると、
目の前にご本尊の湛慶作千十観音像がいらっしゃいます。
修学旅行生が記念撮影するのが、だいたいこの位置です。


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同じ位置で、「法住寺殿」を南に向いています。
では、石畳の道に沿ってここを南下します。


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三十三間堂の前と「法住寺殿」との境目に、桜並木が続きます。
その桜の枝を大きく写してみました。
現在2月初旬なのですが、まだまだつぼみが固いですね。


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「法住寺殿」の石畳の道をさらに南下しています。
「法住寺殿」は南側の方が桜の濃さが目立つのですが、
節分のころはただの枯れ枝並木です。
その位置で、石畳の道がT字路になっています。
ちょっとそちらを眺めてみます。


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こちらが、そのT字路から東を向いた様子です。
池の向かい(東)側に、枝垂桜が並んでいます。
春になると、ここは三十三間堂境内でいちばんの絶景に変わります。


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三十三間堂境内の「法住寺殿」をさらに南下しています。
そろそろ三十三間堂境内最南端の「太閤塀」が見えてきました。
では、桜の枯れ枝の先に見える朱い建物に向かいます。


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こちらが、その「朱い建物」です。鐘が下がっているので鐘楼です。
こちらは第287回ブログでは修復中でしたが、
第300回ブログでは完成していました。


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三十三間堂鐘楼の前で、南を向きました。
「法住寺殿」は南北に約150mあるのですが、
そろそろ最南端に達しようとしています。


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石畳の道を南下して、「法住寺殿」南端まで来ました。
三十三間堂の塀は、こちらの南側だけ特別古いものです。
こちらは「太閤塀」と呼ばれており、塀自体が重要文化財です。

室町時代半ばの応仁の乱以降、権勢を誇った法住寺も
度重なる戦災でみるみる衰退していきました。
そして安土桃山時代に入った16世紀末に、
鴨川以東のこの辺りから五条通にかけての場所に
豊臣秀吉が建てた豊国廟や大仏殿がありました。
この塀や脇の南大門は、元々その大仏殿のものでした。
三十三間堂はその際にその大仏殿の一部とされましたが、
江戸時代に入り徳川家康がその大仏殿を解体すると、
三十三間堂は蓮華法院と言う独立した寺院となりました。


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「法住寺殿」を突き当り、西を向きました。
ここからは「法住寺殿」ではありませんが、
三十三間堂境内の石畳の道は続きます。


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太閤塀に沿って、石畳の道を西に歩いています。
こちらは……チューリップですね。
まぁ、花が咲くのはもう少し先でしょうね。


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その石畳の道から、北を向きました。
こちらが、三十三間堂の西側庭園です。
先程の「法住寺殿」より寂しい感じがしますが、
毎年1月の「通し矢」は、ここから向こうに矢を射ます。


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三十三間堂境内南西端に、こちらの稲荷社がいらっしゃいます。
次は、こちらにお参りして先に進みます。


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その稲荷社の前で、三十三間堂西側庭園を北に向きました。
では、こちらを北上します。


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三十三間堂西側庭園を約150m北上しました。
この左(西)側は墓石や供養塔が並ぶのですが、割愛しています。
(その辺は、287回ブログに掲載しています)
目の前に、前回ブログに出て来た参進閣が迫ってきます。
こうして見ると、三十三間堂の北側を参進閣が覆っていますね。


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さらに北上して、参進閣の西側にまで来ました。
この先(北側)が三十三間堂の駐車場で、さらに北が七条通です。
ちょうどこの辺りに近づいたとき、周囲の塀の向こうから
法螺貝と太鼓の音色が響いてきました。
おそらく、この塀の向こうに前回ブログ
「厄払い」ご一行が練り歩いていらっしゃいます。
そちらが戻る前に、法住寺に行かないといけません。


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その位置で、西を向きました。
目の前の門を出ても、外には行けません。
この辺りが休憩所になっていて、春になると絶景になります。
(第300回ブログを参照)


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同じ位置で、東を向きました。
では、こちらから参進閣経由で三十三間堂内に入っていきます。

三十三間堂内は、一切の撮影が禁止されています。
ですから、堂内の写真はありません。
数千体の千手観音像の数と湛慶作千手観音像の巨大さが、
こちらのお堂を極楽浄土の世界に変えます。
また、その前に並ばれる二十八分衆のお姿も、見事ですね。
(個人的にお気に入りの婆素仙人像を堪能しました)


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三十三間堂の事実上玄関の参進閣から出て、
三十三間堂の出入り口を出ました。
この辺りが、三十三間堂の駐車場です。


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三十三間堂の駐車場では、自動車や観光バスなどは
西側の大和大路から出入りします。
そして自転車や歩行者は、こちらの東側から出ます。


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三十三間堂の東側の門を出ると、「三十三間堂廻り」に出ます。
そこから、北を向いています。
「三十三間堂廻り」は、約30m先の七条通で突き当たります。
(京都国立博物館が建っています)


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その位置で、「三十三間堂廻り」を南に向きました。
三十三間堂の敷地内に、京都市が管理するトイレがあります。
実はこの辺には、飲食店に入らないとトイレがありません。
三十三間堂内にはトイレがあるのですが、
養源院や法住寺にいるときはこちらの存在がかなり助かります。


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先程の位置から、「三十三間堂廻り」を約70m南下しました。
右(西)側に、三十三間堂の勅使門が見えますね。


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三十三間堂勅使門の前で、「三十三間堂廻り」を南に向いています。
約70m先に、重要文化財の三十三間堂南大門が見えます。
左(西)側には、第299回ブログに出て来た養源院の門があります。
その南側に後白河天皇陵・法住寺と続きます。
ここから見ると、既に法住寺が賑わっています。
これは……例年よりもはるかに多い人出ですね。
ここからそちらに向かう訳ですが、
もう今回はだいぶ写真を貼り付けました。
今回は、ここまでです。

~次回は法住寺節分会で、いろいろご馳走になります~

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第542回 法住寺の餅つき~法住寺節分会~その3

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京都市東山区の東大路より1本西にある「三十三間堂廻り」は、
七条通~塩小路間の2車線の道です。
その中間点三十三間堂勅使門の前で、南を向いています。
(約70m先に、重要文化財三十三間堂南大門が見えます)
今回は、その「三十三間堂廻り」最南端の法住寺に向かいます。
撮影日は、2018年2月3日節分の土曜日午後0時15分。
今回から、法住寺の節分行事が続きます。


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その位置で、「三十三間堂廻り」を東に向きました。
三十三間堂の向かい(東)側に、養源院が建っています。
こちらはお江の方が建立した浅井長政の菩提寺です。
杉戸絵など俵屋宗達の絵画所持数が日本一でもあります。
またこちらは血天井で有名で、
鳥居元忠の死に顔が天井に残っています。
(第299回ブログを参照)


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養源院の南隣に、こちらの通路があります。
しかしこの日は節分である前に週末なので、閉まっています。
(宮内庁の管轄なので、土日や祝日は閉鎖されます)
こちらの通路の奥に、後白河天皇陵があります。
この辺りは三十三間堂はもちろん養源院法住寺も桜の名所ですが、
こちらも桜の季節は絶景になります。


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さらに、南隣が天台宗の法住寺です。
こちらの節分会が、今回ブログのメインです。


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法住寺境内に入ってきました。
こちらも、南北に細長い境内ですね。
2年前と比べて、参拝者は3倍増しですね。週末だからでしょうか?
枝垂桜の向こうに見える一番奥の建物が、本堂です。


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法住寺の最南端に、こちらのお堂があります。
陀枳尼尊天と弁財天と言う2柱の女神様がいらっしゃいますね。
先ずは、こちらにお参りです。


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同じ位置で、北を向きました。
法住寺境内の西側にカウンターが並び、奥に炉が並びます。
炉の上には、釜が置かれてその中に甘酒が入っています。


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毎年節分の日には、法住寺が午前10時から開いています。
その時点から、こちらでは甘酒が振る舞われます。
それが結構な量なので、約2時間後のこの時点でも
このように並べばその甘酒を頂けます。


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自分も数分並んで、こちらの甘酒を頂きました。
第374回ブログでも書いた通り、京都の甘酒はノンアルコールです。
米麹を発酵させたものなので、酒粕が一切入っていません。
ですから、木匙で掬って米麹を食べます。
(韓国のシッケに近いものです)


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甘酒を飲み湯呑を返却後、法住寺境内中央の枝垂桜の許に来ました。
その桜より北側に、縄で結界が張られています。
その中央に正方形の砂場があり、その上に護摩壇が作られています。
法住寺の節分行事が始まる前に、
自分は結界の先(南)にある法住寺本堂に向かい、
ご本尊の身代不動明王像にお参りしました。

天台宗の法住寺は、平安時代の半ば藤原為光が建立しました。
ただこちらが隆盛を極めたのは
後白河上皇の治世である平安時代末期で、
その上皇は北は今の五条通、南は九条通に至る
広大な「法住寺殿」と言う外御所を造営しました。
要するに、今の豊国神社智積院・三十三間堂・新熊野神社などが
この「法住寺殿」の敷地内でした。
(平清盛がこちらの北隣である六原に拠点を置いたのも、
決して偶然ではありません)
ところが、その後白河上皇の治世に源義仲が
この「法住寺殿」を焼き討ちし寺域が縮小し始めました。
鎌倉時代以降は後白河天皇陵を守る「宮寺」として
機能していたのですが、
応仁の乱以降さらに勢力を弱め、
安土桃山時代には豊臣秀吉によって大仏殿の一部となりました。
(先述の太閤塀や三十三間堂南大門は、その時に建てられました)
江戸時代に入り先述の大仏殿が解体される過程で
また「法住寺」と言う独立した寺院に戻ったのですが、
寺域の北半分を養源院に取られ、
三十三間堂も「蓮華法院」と言う別の独立した寺院となりました。
さらに明治時代初期に神仏分離令により
後白河天皇陵からも分離して、現在に至ります。


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それから数分経ち、2018年2月3日午後0時半となりました。
自分が先ほど入って北門から、
第540回ブログの厄払い行列が戻ってきました。
法螺貝を持った修験者やこちらのご住職が、
自分の前を通り過ぎていかれました。


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その後を赤鬼・青鬼・黒鬼が通り過ぎ、
最後に赤い天狗が通り過ぎていかれました。


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その厄払いのご一行は、こちらの阿弥陀堂に入っていかれました。
こちらの阿弥陀堂には親鸞由来の阿弥陀像がいらっしゃいます。
また、この節分限定でこちらで有料で弁当を頂けます。
この阿弥陀堂の真裏(東側)が、後白河天皇陵です。


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阿弥陀堂から、修験者とご住職が本堂に移動されました。
いよいよ節分会の行事が、本格的に始まろうとしています。


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第540回ブログの厄払いご一行で先頭を歩かれていた方が、
木箱を持って現れました。
こちらは、完成した丸餅を後から入れるためのものです。


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法住寺本堂脇に置かれた臼や杵を第288回ブログでもおられた女性が
準備しておられます。
ちょうど、ご住職が電動ポットで熱したお湯を持ってこられました。
すると、この女性が臼と杵をそのお湯で湿らせていかれます。


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その時、振り袖姿の舞妓さんが
阿弥陀堂から本堂に入っていかれました。
こちらは毎年島原から太夫さんを呼ばれるのですが、
今年(2018年)は先斗町から舞妓さんを連れてこられました。


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その後を先斗町の芸妓さんが付いてこられます。
こちらも、阿弥陀堂から本堂に入っていかれました。


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先程の女性とご住職、さらには浅葱色の法被姿の男性が
餅つきの準備をされています。
すると本堂から舞妓さんが現れて、本堂の東脇に向かわれました。


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その舞妓さんは、本堂の東脇に置かれた木箱の前に座られました。
こちらで、舞妓さんはお餅を丸めるという仕事があります。


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舞妓さんに続いて、芸妓さんも入って来られました。
後述しますが、餅を丸める作業は重労働です。
そのため、舞妓さん2名だけでは絶対に無理があります。


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すると先ほどの炉で作業されていた女性の一人が
蒸し上がったもち米を持ってきて、湿らせた臼に入れました。
いよいよ餅つきが始まるようです。


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浅葱色の法被姿の男性が杵を持ち、女性が餅つきの補助のようです。
よく見ると、2015年と同じ方々ですね。


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浅葱色の法被姿の男性は小さく杵を動かしておられたのですが、
突然大きく杵を振り上げられました。


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そして、その杵を臼に叩きつけました。
こうして餅つきが、本格的に始まりました。


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また、すぐに杵を振り上げられます。
今度は、先ほどよりもさらに大きく振りかぶられていますね。


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また臼に杵を叩きつけます。
これを繰り返して、どんどん餅が搗かれていきます。
すると、こちらのご住職がマイクを手にされました。
「餅つきの際は、『よいしょ』と掛け声をお願いします」
などと、半ばMCのようなこともされています。
一人で、何役もこなされておられるようです。


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搗き終わったお餅は、先斗町の舞妓さんの許に運ばれます。
そして、こちらで丸められて成形されます。
(京都のお餅は一つ一つ丸めます。「切り餅」の習慣はありません)
これがなかなか重労働なのですが、
左端の芸妓さんの作業量とペースが正確で早いですね。
ですから、例年よりは早く済みそうです。


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舞妓さんが作業を始めると、即席の撮影会になりました。
ところが、今年(2018年)は参拝者が多いこともあってか
例年になく参拝者のマナーが悪かったですね。
注連縄が張られた結界内に入ったり、
祭壇を崩しかけたり、世話役の制止を無視される方もいました。
安全面もありますが、節分は宗教行事です。
その辺の節度は、参拝者に求められるべきでしょうね。


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ともかく、丸められたお餅は炉の前に持ってこられます。
そして、こちらのお椀に一つずつ入れられます。


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炉にかけられた鍋で、小豆が煮込まれています。
そしてこちらを先程の椀に張ると、「汁粉」の出来上がりです。
この「汁粉」は、こちらの参拝者に振る舞われます。


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……で、自分もそのお汁粉をもらうべく行列に並びました。
ところがこの行列がとても長く、通常の3倍以上ありました。
法住寺境内の西側で並びきれずに、本堂まで伸びています。
これを見てお汁粉を諦めた方も多いのですが、
自分は暢気なのでこの最後尾に並びゆっくり待ちます。


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法住寺本堂から石段を下りて、境内の南西端まで来るのに
約10分の時間を要しました。
この最後尾までお餅があることは分かっていたので、
自分は暢気に順番を待ってました。


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さらに5分経ちました。
ようやく法住寺の唐門前まで来ました。
この門の東をずっと進むと、後白河天皇陵がいらっしゃいます。


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法住寺の唐門近くには、こちらの福寿観音様以外にも
様々な祠に神仏がいらっしゃいます。
行列に並んでいる間に、こちらにもお参りしておきました。


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その辺りから、法住寺本堂の東脇を撮りました。
餅は搗き終わったのですが、まだまだ餅を丸める作業は続きます。
まぁこれだけの量ですから、なかなか終わりません。


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そこからさらに10分経って、やっと炉の前に辿り着きました。
自分がお餅をもらえる番が回ってきました。


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ようやく炉の前に来ました。
向こうのお膳の上に賽銭を置き、お汁粉を頂きます。


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こちらが、自分が頂いたお汁粉です。
小豆を砂糖で煮込んだものに、お餅が1個入っています。
この日も含めて2018年の冬は大寒波中で、
とにかく寒かったので、このお汁粉には助けられました。
京都では、このように搗いたお餅は固くなる前に
丸めて食べ切ってしまう習慣があります。
(要するに、大晦日のうちに食べ切ります)
ですから、雑煮でもお汁粉でも京都では餅を焼きません。


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お汁粉を食べ切ったので、椀を返却しました。
ここからさらに法住寺の節分会は続くのですが、
今回もだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。

~次回は、法住寺の豆まきの様子を載せます~

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第543回 護摩壇前で鬼が舞う~法住寺節分会~その4

[節分会] ブログ村キーワード

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尾籠な話で申し訳ないのですが、
前回ブログ甘酒やらお汁粉やら頂いたせいで、
急にトイレに行きたくなりました。
そこで第541回ブログの最後の方に出て来た公衆トイレに向かい、
約15分掛かって法住寺境内に戻ってきました。
すると……枝垂桜前の「特等席」が取られていました。
ですから、ここからは参拝者の後頭部付きの写真です。
今回から3回分に渡って、法住寺の節分法要を連載します。
撮影日は、2018年2月3日節分の水曜日午後2時。
載せる写真が多すぎて、「豆まき」まで辿り着きませんでした……


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2018年2月3日午後2時を回りました。
すると、修験者が結界内に入って来られました。
これは「豆まき」の準備というよりは
その後の「護摩焚き」の準備のようです。


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法住寺阿弥陀堂の脇から、赤鬼・青鬼・黒鬼が出てきました。
それぞれ右手に宝剣・斧・槌を持っているのですが、
赤鬼は左手にも松明を持っています。


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後ろの黒鬼の後を先程の修験者が付いていきます。
皆さんは北の門の方に向かっていますが、
そのまま外には出ずに北の門の脇に待機されます。


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この行列の最後尾は、錫杖を右手に持った天狗でした。
赤い袈裟姿の天狗は、行列によって先頭に来たり
最後尾に来たりします。
この後の行事でもそうなのですが、
こちらの天狗は他の鬼などとは一線を画す位置付けなのでしょうね。


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このタイミングで、法住寺の住職が本堂から出て来られました。
今度は、きちんと袈裟姿のようです。


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すると、先ほど法住寺境内を北側に抜けていかれた修験者が
境内の西側を回り込まれて、南端の本堂前に来られていました。


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修験者が一人本堂脇の石段を下りていかれると、
法螺貝を演奏されたいる方や弓矢を持たれている方も
その後を付いていかれます。


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さらに、その後を赤鬼・青鬼・黒鬼が続きます。
(自分は後ろで撮っているため、他の方々の後頭部が写り込みます)


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こちらの行列はいったん法住寺境内南側の唐門を出た後、
北側の門から再び南下して来てこちらに向かって来ました。


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こちらが、その行列の様子です。
世話役の男性の後を檜扇を持たれた修験者が続きます。


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修験者の後をご住職が付いていかれます。
その後を天狗が続きます。


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天狗の後は、赤鬼・青鬼・黒鬼が続きます。
第540回ブログ厄払い行列と同じ順番ですね。


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修験者の皆さんと法住寺の住職は、本堂に入っていかれました。
ここから暫く、読経が続きます。


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ところが後続の赤鬼・青鬼・黒鬼は、本堂に入られません。
祭壇の後ろで、待機されています。


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住職による読経が終わりました。
すると、皆さん本堂の石段を下りられます。


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修験者に続いて、赤鬼・青鬼・黒鬼も並んでいます。
皆さん、順番に下りて来られますね。


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その行列の最後尾は、住職と天狗です。
やはり、天狗の順番がコロコロ変わります。


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修験者と鬼たちは、自分たち参拝者の脇を通り過ぎていかれます。
修験者の皆さんの写真が変に光ってしまったので、
赤鬼の写真しかありません。


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修験者の皆さんはいったん法住寺境内の北側に向かわれた後、
境内西側を通ってまた護摩壇前(南側)に戻って来られました。
そして、またあちこち準備を始められます。


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法螺貝を演奏される修験者の後に、
弓と矢を持たれる修験者が結界内に入って来られました。


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さらに、法住寺の住職が後に続かれます。
修験者と住職は護摩壇を半周して、本堂の方に向かわれます。


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住職に続いて、赤い袈裟姿の天狗が入ってきました。
右手の錫杖が、七色の紙片で飾られています。


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朱い袈裟姿の天狗は、法螺貝の演奏合わせて錫杖を振り回します。
どうやら振り付けの決まった舞踊のようですね。
こちらは護摩壇前を半周しても外には出ずに、
周囲を時計回りし続けていきます。


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天狗が舞踊を舞われている間、住職はいったん本堂に戻られました。
一方で、修験者は護摩壇と本堂の間で待機です。
天狗が舞われている際の法螺貝も、ここから演奏されています。


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天狗が護摩壇前で舞われていると、今度は赤鬼が現れました。
右手の宝剣を振り上げておられますが、
左手の松明には火が付いています。


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赤鬼が、護摩壇の周囲を時計回りで踊っています。
法螺貝の音色に合わせて、松明と宝剣を天に向けられています。
背後に、先斗町の舞妓さんが姿を見せておられました。
この舞の直後に行われる「豆まき」の準備ですね。


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赤鬼の後ろから、青鬼も護摩壇前に表れました。
法螺貝の音色に合わせて、斧を振り上げます。


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そして、その法螺貝に合わせて青鬼の斧が振り下ろされます。
こちらも護摩壇前から出ずに、時計回りで踊り続けられます。


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さらにその後を黒鬼が付いていきます。
こちらも法螺貝に合わせて、槌を振います。
二人の鬼に合わせて、3人の鬼の舞が続きました。


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3人の鬼による護摩壇前の舞が終わりました。
3人の鬼が退場した後、祭壇脇に舞妓さんが移動されました。
これから法住寺の豆まきが始まるのですが、
もうだいぶ写真を貼り付けました。
まだ豆まきも始まっていませんが、今回はここまでです。

~次回こそ、法住寺の豆まきを載せます~

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第544回 法住寺の豆まき~法住寺節分会~その5

[法住寺] ブログ村キーワード
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前回ブログで護摩壇の周囲を回っていた赤鬼・青鬼・黒鬼が退場し、
今度は先斗町の舞妓さんが登場しました。
いよいよこの位置で、節分の豆まきが始まります。
撮影日は、2018年2月3日節分の土曜日午後2時15分。
快晴の中、少しだけ温暖になりました。


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そこから少し遅れて、住職も登場されます。
こちらの方々と修験者によって、豆まきが行われます。


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舞妓さんが、豆の入った桝を持たれています。
ところが実際に豆を撒かれておられるのが、手前の方です。
舞妓さんは、豆を撒かれていません。


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今度は別の方が桝の中に手を突っ込んでいます。
袋に入ったものではなく、豆粒を握りしめて撒かれています。


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舞妓さんの豆は、参拝者がいる範囲まで届きません。
その一方で、住職と修験者は
護摩壇の前で撒く用の豆を用意されていました。


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護摩壇前に、参拝者に撒く用の豆が届いたようです。
修験者が、そちらの方に集まっておられます。


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修験者と住職が、枝垂桜の前にいらっしゃいました。
いよいよこちら側に豆まきが始まるのですが……
豆の入った木箱に、「みささ菓舗」と商標が入っています。
「七条須原」交差点で30年位前まで営業していた和菓子屋さんで、
自分も昔よく買いに行きました。


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やはり護摩壇の北側が正面なので、
こちらに撒かれる豆の割合が多いようです。
住職も、こちら側にいらっしゃいますし……


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住職が、本堂の前に戻られました。
すると住職と参拝者で、「鬼は外」の声が掛かります。


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ちょうど自分がいる辺りに、豆が撒かれました。
すると、このように自分の周囲が腕で隠れてしまいました。
ちなみに自分はカメラを持っているので、
豆を掴み取ることができません。


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どうしても豆を撒く場所は遠くの方になるので、
最前列の方々には豆が届きません。
そのことに気づかれた修験者が最前列に豆を撒かれます。
……豆がしっかりと写っていますが、
手のひらに数袋収まる小さなものですね。
白人の若い男性がたくさん取られていましたが、
後で高齢者や小さな子供に配られていました。


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そうこうしているうち、自分の目の前にも豆の袋が飛んできました。
もし自分が両手を広げていたら手に入れられたのでしょうが、
両手にカメラを持っていたので取れませんでした。
その代わり、豆の袋はしっかり撮れました。


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こうして、法住寺の豆まきが終わりました。
ただし、修験者はこの場に残ります。
この後の護摩焚きの準備に入ります。


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こうして護摩壇前を大写しすると、
本堂脇に舞妓さんが残られています。
このままの位置で、護摩焚きを見物されるようです。


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修験者によって、護摩焚きに必要なものが並べられます。
手前に、座布団代わりの松葉と護摩木がありますね。


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護摩壇の正面(北)に御座が敷かれて、
その上に松葉が乗っかります。
多分修験者の最高位の方が、こちらにお座りになります。


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修験者による護摩焚きの準備が進んでいます。
その隙に、こちらの折り紙を撮りました。
こちらは「北」を表しているので本当は黒のはずなのですが、
そうすると見えにくいからでしょうか、
なぜが紫紺の折り紙です。
ちなみに左(東)側は緑(青)で、右(西)側は白い折り紙です。
そして、向こう(南)側は朱い折り紙です。
要するに道教思想の四神獣ですね。
(それぞれ、玄武・青龍・白虎・朱雀のことです)


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本堂から、背広姿の男性が現れました。
こちらの方は、両手に護摩木を抱えていらっしゃいますね。


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こちらは、護摩壇の東側です。(折り紙の色で分かります)
結界と参拝者の間のテーブルの上に、護摩木が積まれていきます。


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すると、修験者が立ち当たり、法螺貝の演奏が始まりました。
ここから、修験者の護摩焚きが本格的に始まります。
ただちょうど切りがいいので、今回はここまでです。

~次回は、法住寺の護摩焚きを載せます。
法住寺の節分の連載も、そろそろ終わろうとしています~

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第545回 法住寺の護摩焚き~法住寺節分会~その6

[法住寺] ブログ村キーワード
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法住寺護摩壇前で、修験者が立ち上がり法螺貝を吹いています。
いよいよ節分会の最後の行事「護摩焚き」が始まります。
撮影日は、2018年2月3日節分の土曜日午後2時半。
今回で節分行事も終わりますが、50枚以上写真を貼り付けました。


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護摩壇の脇に、水を張ったバケツが置かれています。
こちらは消火用水でもあるのですが、
護摩焚きの際の煙の方向を定めるのにも使われます。


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護摩壇前に、弓と矢を持った修験者が現れました。
先ずは、祭壇(または本堂?)に向かって一礼されました。


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弓を持たれた方の修験者が、護摩壇前で文を広げ読み上げます。
その文言から読経されているのではなく神道の祝詞に近いもので、
中国語やサンスクリット語ではなく日本語で奏上されていました。


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奏上が終わると、修験者がこちら(北)を向かれました。
護摩焚きの前に弓を撃たれますが、
第413回ブログの祇園祭後祭役行者山の護摩焚きも
第187回ブログの壬生寺節分会の護摩焚きも
同じように初めに矢を放たれました。



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修験者は先ず東に向かれました。
鏃が緑色なのは、東の守護神青龍を表しています。
弓弦を引き絞り、天に矢を放ちます。


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修験者が緑の矢を天に放たれました。
……のですが、弓弦が緩くてゆっくり飛びます。
この矢は地面にゆっくり落ちてくるので、
参拝者の一人が手で受け取られました。
まぁ普通に放てば、誰かに刺さって大惨事です。
ですから、祇園祭の役行者山や節分の壬生寺では
故意に矢を放つのを失敗されて、地面に落とされます。


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次は、南に向かって朱い矢を放たれます。
こちらは、南の守護神朱雀を表してます。


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さらに、西に向かって白い矢を放たれます。
こちらは、西の守護神白虎を表します。


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そして、修験者はこちら(北)を向かれました。
そこで、結界の折り紙と同じ色である紫紺の矢を放たれました。
紫紺はおそらく黒を表していて、北の守護神玄武を意味します。


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最後に北東の遥か彼方に、黄色い矢を放たれました。
矢は、いくつかある法住寺のお堂の一つの
屋根の上に突き刺さりました。(これは、普通に強く放たれました)
黄色は四神獣と関係ありませんが、不動明王を象徴します。
この法住寺のご本尊ですね。
(修験者の一人に、この後教えて頂きました)


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全ての矢を放たれた修験者は、祭壇に一礼されました。
そうして、護摩焚きは次の段階に入ります。


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今度は別の修験者が、来られました。
こちらは、護摩壇に立て掛けてあった松明を手にされます。
そう言えば、護摩壇に黄色い折り紙の付いた結界が敷かれています。


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修験者は、松明を護摩壇前で交差させてその位置を維持されます。
こうして見ると、本堂奥にいらした先斗町の舞妓さんは
この段階でもう堂内に入られたようです。


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代わって袈裟姿の住職が護摩壇前に立たれ、読経されました。
文言と読経時間の短さから、般若心経と分かります。


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住職の読経の後、修験者は松明を本堂脇に持って行かれます。
いよいよ松明の点火ですね。


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法住寺本堂内から、燭台とろうそくを持って来られました。
この火が結構風に強くて、時間をかけて松明に点火できます。


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松明の点火が終わりました。
火が付いた松明を護摩壇前に持ってきます。


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そして、火の点いた松明を護摩壇に突き刺します。
この辺の流れは、他の護摩焚きと同じです。
(第139回ブログ第187回ブログ参照)


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このままの状態で、約1分経ちました。
護摩壇内部の木が燃え出して、だんだん煙が立ち始めました。


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ところが護摩壇表面の松葉に火が付くと、
法住寺境内中に白い煙が立ち始めます。
この隙に、松明は本堂脇に片づけられます。


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その煙で、法住寺境内が満たされます。
もう何が何やら分かりません……
ただ、護摩焚きではどこでもこうなります。


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すると、修験者が護摩壇に水をかけられます。
これは消火のためではなく、煙の方向を限定しています。
その証拠に、護摩壇の煙が真上のみに上がるようになりました。


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煙が落ち着くのが、他の護摩焚きよりも早いですね。
それだけこちらの修験者の手際が良いようです。
他の修験者も、こちらに座ってそれぞれの役割を果たされます。
おりんや法螺貝を時折楽器として鳴らしておられます。


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こちらは、護摩壇正面に座られた修験者です。
数珠の珠を数えながら、般若心経を唱えておられました。


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先ほどおりんを鳴らされていた修験者が、
今度は鉄輪が付いた独鈷を振られていました。
こちらは独鈷鈴という仏具で、楽器の一種とも考えられます。


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法住寺の護摩焚きも、佳境に入ってきました。
こちらの修験者が、境内西側に置かれた護摩木を抱えられました。


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その修験者が、護摩木を護摩壇の火にくべられました。
これらの護摩木は、二人掛かりで次々と放り込まれます。


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こうして山と積まれていた境内西側の護摩木は、
約2分で全て護摩壇の火の中へと消えていきました。


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今度は、4人掛かりで境内東側の護摩木も火にくべられます。
そろそろ法住寺本堂の南側に控えられていた消防士さんが、
護摩壇前に姿を見せました。


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法住寺境内東側の護摩木も、すぐに護摩壇の火の中に消えました。
次は、祭壇脇の紙袋の許に修験者が集まられます。


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こちらの紙袋には、参拝者が持ってきた
旧年中のお札やお守りが入っています。
それらも、修験者は護摩壇の火の中に放り込まれました。


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その間、こちらの修験者は
ずっとこの位置で般若心経を唱えられておられました。
時折、こちらの棒状のものを手前で振られていました。


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すると、こちらの修験者が護摩木を一束手にされました。
右手に小刀を持ち、護摩木を包む紙束の封を切られます。


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そして、封を切った護摩木を手にされて
それらの束をまとめて護摩壇の火の中に放り込まれます。


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法住寺の護摩焚きも、だんだん終わりに近づいています。
今まで座られていた修験者が立ち上がり、法螺貝を演奏されました。


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そして、般若心経の読経も終わりました。
その場で合唱される方や、手印を結ばれる方がいらっしゃいます。


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そして、修験者の皆さんが一礼されました。
これで法住寺の護摩焚きが終了しました。


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御座に座られていらした修験者が、立ち上がられました。
こうして、護摩焚きの後片付けが始まります。


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護摩焚きが終わったことで、結界内に入ることができます。
松葉や石が、地面にまだ置かれています。

今回貼り付けた写真が40枚を越えますが、
久しぶりにまだまだブログは続きます。


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そして、自分はこちらの紫紺の折り紙を頂きました。
こちらは、現在自分の財布の中に収められています。
このように護摩焚き終了後は、
結界内に入ってこのような小物を持って帰ることができます。


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修験者総出で、後片付けが進みます。
こちらの松葉は、周囲にいらした参拝者に配られました。
(遠慮して結界内に入って来られない方が、割といました)


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とは言え、さすがに石を持って帰られる方はいらっしゃいません。
ですから、この位置に戻されていきます。


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続いて、結界内に消防士の皆さんが入って来られました。
いよいよ護摩壇の消火が、本格的に始まります。


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消防士の鉤棒によって、護摩壇が崩されていきます。
護摩壇の周囲を結んでいた黄色い折り紙が、(不動明王の象徴)
修験者によって参拝者に配られます。


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そして、護摩壇の周囲の結界も崩されます。
これで、主だった後片付けが終わりました。


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同じ位置で、法住寺境内を北に向きました。
ここまで残られていた参拝者が、家路に就きます。
この段階までおられる方々は、基本的に自分も含めた地元民です。


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法住寺節分会の行事は、まだ一つ残っています。
法住寺境内北側の寺務所前に、天狗がいらっしゃいます。
そちらに、多くの方々が並ばれています。


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天狗は節を取った竹を持っておられます。
こちらに日本酒が入っていて、笹酒を頂くことができます。


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こちらが、天狗に注がれていた笹酒です。
盃に入っているので少量なのですが、自分はこの後仕事です。
まぁこの量なら大丈夫と思い、こっそり飲んでから先に進みます。


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法住寺節分会のすべての行事が、済みました。
では、この北側の門からこの法住寺を出ます。


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法住寺を出て、三十三間堂廻りを南に向きました。
重要文化財の三十三間堂南大門越しに、
第288回ブログに出て来た喫茶店「舞阪」が見えますね。


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同じ位置で、今度は北を向きました。
三十三間堂廻りの左(西)側に三十三間堂の勅使門が、
右(東)側に養源院が見えますね。


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法住寺門前から三十三間堂廻りを約150m北上し、西を向きました。
こちらは、三十三間堂の門です。
第540回ブログに出て来たときと様子が変わっていません。
平日でも節分でも、ここはたくさんの参拝者がいらっしゃいますね。


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その三十三間堂の門前から、三十三間堂廻りを北に向きました。
この三十三間堂廻りは、目の前の七条通で突き当たります。


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三十三間堂廻りから、七条通を西に向きました。
約100mほど西に進み坂道を下ると、
その位置に「博物館・三十三間堂」バス停があります。
そちらから206系市バスに乗って京都駅に向かい、
勤務地に出社します。

これで、2018年の節分の連載を終了します。

~次回は、若宮通最北端から裏道を通って四条通を目指します。
「若宮通編」と「釜座通編」とのつなぎを連載し始めます~

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第634回 元梛神社 節分祭~壬生節分散策2019~その1

2019年も節分の季節になりました。旧暦の大晦日ですね。
中国や韓国では旧暦の正月も祝いますが、
京都では節分の方を祝い、(割と昔の風習が残っています)
各神社仏閣でさまざまな行事を行います。
「京の道 今日の道」でも毎年節分になるとあちこち取材しますが、
2019年は上千本(千本釈迦堂千本ゑんま堂など)と共に
このブログでもよく行く「壬生」をまた散策します。


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京都駅前北側市バスターミナルから26系市バスに乗り、
烏丸通を北上した後四条通を西に進み、
「壬生寺道」バス停で下りました。
元々このバス停は「四条坊城」交差点にありましたが、
今はそちらより西に約50mずれています。

こちらは、そのバス停辺りで四条通を西に向いています。
バス停前にたくさんの方々がいらして、
その前で京都市交通局の職員さんが整理されています。
ずっと向こうに(千本通付近に)、JR嵯峨野線の高架が見えます。
(第322回ブログを参照)
今回は、バス停近くの「元祇園 梛神社」に向かいます。
撮影日は、2019年2月3日日曜日午後1時10分。
曇り空から雨が降りそうでした。


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「壬生寺道」バス停前で、四条通を西に向きました。
バス停から約50m先で、四条通は坊城通と交差します。
この坊城通沿いが壬生で一番賑やかな場所で、
節分散策もこの坊城通がメインストリートです。
ただその坊城通を南下する前に、
先に手前(西側)の神社に参拝します。


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こちらが、その神社です。
石製鳥居の両脇に碑が2本立ってますが、
こちらに「元祇園 梛神社」「式台 隼神社」が合祀されています。


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四条通沿いに、こちらのチラシが貼り付けてありました。
この表題通り、こちらの元梛神社で毎年節分祭が行われています。
壬生の節分散策には、最初にこちらを訪れます。


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四条通から石製鳥居をくぐり、こちらの境内に入ってきました。
こちらは元梛神社の社務所なのですが、平日は閉まっています。
その社務所で、巫女さんが神楽を舞われていますね。
以前こちらでは聖護院から来られた修験者が祈祷されていました。
(修験者による祈祷は、第186回ブログ参照)


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その境内の北東端で、お焚き上げが行われています。
こちらで、旧年中各家庭で使用されたお札などが焼却されています。
火が点いていて暖かく、周囲で暖を摂られる方もいらっしゃいます。
ただ、煙や煤が顔に掛かるとそこそこ煙たいですね。


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境内の北西端に、「式台 隼神社」の本殿がいらっしゃいます。
節分期間中は多くの参拝者が来られるので、
賽銭箱が取り払われて、代わりに白い布が敷かれています。
その布の上に、お賽銭を納めます。

隼神社は式台社ですので、元は相当大きな神社でした。
延喜式に記載が見られ、日本三代実録という歴史書にも
隼神社の様子が記載されています。

ご祭神は建甕槌命(タケミカヅチノミコト)ですが、
経津主神(フツヌシノカミ)も祀られております。
「隼」は「ハヤクサ」とも読まれ、
瘡(くさ)という皮膚病平癒のご利益があるとされます。
ここから約350m北の「蛸薬師坊城」の辻付近に
元々はいらっしゃいましたが、
1918年にこちらに移されました。
ちなみに毎年11月17日の例祭では、
こちらからその「蛸薬師坊城」の辻間を
氏子衆が新撰組の扮装で往復されます。
(第323回ブログでの聞き取り内容です)


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隼神社の南隣に、「元祇園 梛神社」本殿がいらっしゃいます。
こちらも賽銭箱が取り払われ、白い布が敷かれています。

こちらは平安時代初期(869年)に京都で天然痘が流行した際、
兵庫県の神社から牛頭天王の魂を勧請したのがその興りです。
そして、その魂の分霊を今の祇園に遷し八坂神社を創建しました。
(祇園祭の発祥は、元梛神社説と
第58回ブログの八坂御供社説があります)
ですからこちらが元々の祇園(牛頭天王を祀る場所)ですので、
それが「元祇園社」という名称の謂れです。
八坂神社創建後、跡地には祠が立ちましたが
その一連の場所はこの位置ではなく
「京都市下京区万寿寺通烏丸西入ル御供石町」で、
こちらには1932年に移転してきました。
祠がこのように神社化されたのは、その後です。
そのような訳でこちらのご祭神は素戔嗚尊ですが、
中国に渡った際に牛頭天王と名乗ったと社伝に載っています。


634-9.jpg
元梛神社本殿前から、境内を東に向いています。
社務所前(神楽の前)で、お守りやお札が売られていました。
では、その先の境内東側鳥居からこちらを出ます。


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こちらの境内を出ると、すぐに坊城通に出ます。
先程の石製鳥居をくぐり、坊城通を北に向いています。
約10m先で、坊城通は四条通と交差します。


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今度は、同じ位置から坊城通を南に向きました。
節分の際の坊城通は人通りが多いので、ずっと露店が立ちます。
そちらには、後で寄ります。


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坊城通の露店は、四条通から約30m南下するといったん途切れます。
それは、こちらに踏切があるからです。


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約1分待っていると、西から東へ京福電車(嵐電)の車両が来ました。
生八つ橋の一種「夕子」の広告のラップ電車ですね。


634-14.jpg
京福電車(嵐電)の車両は2連結しかありませんが、線路は複線です。
ちょうど10分ごとに電車が出ていてとても便利なので、
見た目以上に利用者が多いのが特徴です。
こちらは東に約400m進み、終点の「四条大宮」駅に至ります。


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その踏切の上で、坊城通を南を向きました。
約10m先から、また露店が並びだしていますね。


634-16.jpg
こちらは、先程の写真にも写っていました。
民家の前と家の中で、雑貨を販売されています。
散策されている多くの方々が、こちらで買われていかれました。
10日ゑびすでは小売店舗が露店を出した例もありましたが、
民家がこのような露店を出すのは珍しいですね。


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その民家より南は、また露店が立たないスペースが続きます。
左(東)側駐車場の南側が綾小路で、その辻に「幸福堂」があります。
きんつばの専門店ですが、夏季には水無月が売られます。
(きんつばは第188回ブログ、水無月は第321回ブログ参照)


634-18.jpg
坊城通から、綾小路を東に向いています。
こちらの辻に、旧前川邸があります。
元々は豪農の前川氏の邸宅だったのですが、
江戸時代末期新撰組に接収されてしまいました。
こちらには、帰り道に立ち寄ります。


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今度は坊城通から、綾小路を西に向きました。
「幸福堂」の行列が、こちら側まで続いていますね。


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さらに綾小路から、坊城通を南に向きました。
左(東)側が旧前川邸で、右(西)側が鶴屋という和菓子屋さんです。
その鶴屋の駐車場の前にシートが張ってあり、
その前に七味唐辛子の露店が立っていますね。


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その南側に、虫籠窓の付いた町家が建っています。
こちらが、和菓子屋さんの鶴屋です。
この鶴屋を経営しておられるのが八木家の方々で、
その八木家邸宅に江戸時代末期新撰組がいました。
つまり、こちらが江戸時代末期の新撰組屯所跡です。
奥の京町家が京都市指定文化財で、
学芸員の解説付きでそちらを拝観することができます。
そちらにも、帰り道に立ち寄ります。


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和菓子屋さんの鶴屋の前で、坊城通を南に向いています。
左(東)側が後述の新徳禅寺で、右(西)側が壬生寺です。
この辺りから、また露店が濃密に並びだします。


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綾小路から、坊城通を約50m南下しました。
こちらで、新徳禅寺の門前に出ます。


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こちらが、正面から見た新徳禅寺です。
1863年に14代将軍徳川家茂上洛の際、浪士組を結成した清川八郎が
その家茂の護衛名目でこの新徳禅寺で寝泊まりしました。
その際清川八郎は倒幕を主張し、それに反発した
近藤勇や芹沢鴨らが浪士組を脱退し、後の新撰組を結成しました。
ですから、ある意味こちらが新撰組発祥の地です。


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その新徳禅寺の門前に、(先程写っていた唐揚げの露店の南隣)
タイ焼きの露店が出ていました。
お客さんが多くて、露店そのものの写真は撮れませんでした。
小豆餡以外にカスタードクリームなどの種類がありましたが、
自分はタイ焼きは小豆餡と決めています。
こちらは、尾までしっかり餡が入っていました。
では120円支払って、こちらを頂きます。


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新徳禅寺の門前で、坊城通を南に向きました。
この辺りが一番露店が立て込んでいて、参拝者が多いですね。
次は、左(東)側に見えるブルーシートの露店に向かいます。


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こちらが、そのブルーシートの露店です。
こちらでは素焼きの皿が売られていて、
その皿に購入者がいろいろ文字を書かれていました。


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こちらが、その素焼きの皿です。
正確には焙烙(ほうらく)と呼ばれる調理器具です。
壬生寺ではこの裏側に自分の願い事を記して、
その後叩き割ることでその願いが叶うとされています。


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そのブルーシートの露店の前で、坊城通を南に向いています。
左(東)側に京町家の武家屋敷跡が建っていますが、
こちらが京都清宗根付館です。
第319回ブログでこちらに訪れました。
また、こちらは元は武家の神先家邸宅で
最も保存状態が良い京町家の武家邸宅です。
ですから、こちらは京都市指定文化財に指定されています。


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さらにブルーシートの露店前で、坊城通を西に向きました。
こちらから、壬生寺に入れます。
ここから壬生寺に参拝しますが、もうだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。

~次回は、この壬生寺に参拝します~

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第635回 壬生寺に参拝~壬生節分散策2019~その2

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壬生寺東側の正門から壬生寺境内を見ています。
今回は、節分会の壬生寺を参拝します。
撮影日は、2019年2月3日日曜日午後1時45分。
この時点では、まだ雨は降っていません。


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壬生寺の門をくぐる前に……
こちらは、先程写っていたたこ焼きの露店です。
たこ焼き5個300円!
給料日前で、金欠気味の自分にはかなりの朗報です。
(京都市内の相場なら、5個500円です)
……という訳で、こちらに立ち寄ります。


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それで、こちらがそのたこ焼きです。
あまりに安いので、下手したら
蛸が入っていないかとも思ったのですが、
そんなことはありませんでした。
しかも「粉」はしっかり出汁で溶いていましたし、
キャベツも入っていましたし、
決して「手抜き料理」ではありませんでした。
これで、採算が取れるのでしょうか?
そんな心配もしてしまいました。


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たこ焼きは中がトロトロだったので、
口内に火傷しないためにゆっくり頂きました。
先程の写真から約10分経って、再び壬生寺門前です。
いよいよ壬生寺境内に入っていきます。


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壬生寺の門の北脇に、一夜天神堂がいらっしゃいます。
この辺りの壬生寺境内に末社や塔頭寺院が多いのですが、
この日(節分)には境内に露店が多く立つので、
夜泣き地蔵などには参拝に行けませんでした。
(普段の壬生寺は、第318回ブログ参照)


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その一夜天神堂の向かい(南)側に
壬生寺経営の老人ホームがありますが、
この日(節分)はその手前に屋台村ができていました。
沿道側には広島風お好み焼きと焼きそばの露店があり、
(京都人は、通常大阪風のお好み焼きを食べます)
その奥のベンチとテーブルで食事できます。


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一夜天神堂と屋台村の前で、壬生寺境内を西に向いています。
先程の門からこの参道をまっすぐ西に進むと、
律宗壬生寺の本堂の正面に突き当たります。
ですから、おそらく先程の門が壬生寺の正門でしょう。


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先程の位置から、壬生寺参道を西に約50m進みました。
この左(南)側に塔頭寺院の中院があり、
そちらから老人ホームに回れます、
また表札にある通り、こちらでも「厄除けほうらく」を買えます。


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その中院前で、なぜか恵方巻が売られていました。
自分は恵方巻を近所の寿司屋の出前で済ませましたが、
(前回ブログの追記参照)
こちらも結構売れていました。


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そして、こちらが中院です。(恵方巻販売所の裏です)
ご本尊の観音様が、開帳されていますね。


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中院の西側に、薬師如来がいらっしゃいます。
こちらは、京都十二薬師霊場の一体です。
京都には江戸時代ごろから京都市街地を巡り、
特定の仏様を参拝し続ける風習がありました。
「京の道 今日の道」では、このうち平等寺(因幡堂とも言います)
水薬師(第307回ブログの初めに出て来た保育園です)
福勝寺(第346回ブログの「出水七不思議」の1寺です)
地福寺(第347回ブログの追記の「出水七不思議」の1寺です)
薬師院(第573回ブログの「こぬか薬師」のことです)
永福寺(第158回ブログ最後の「蛸薬師」のことです)
さらにこの壬生寺と計7寺に訪れています。


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中院西側の薬師堂のさらに西隣に、壬生寺の手水舎があります。
ただ、節分期間中はプラスチック製の塀に囲まれています。


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その手水舎の向かい(北)側に、仏様が何体かいらっしゃいます。
次は、そちらに向かいます。


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先程の写真のテントで、蝋燭と線香が売られていました。
それぞれそちらで購入して、蝋燭はこちらに並べました。


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そして、線香はこちらに立てました。
端の方ばかり残っていたので中央に立てたのですが、
その際、手首付近がちょっと火傷しました。


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その北側に、水掛地蔵がいらっしゃいます。
その名の通りこちらは大きな水桶の中にいらして、
柄杓でお地蔵さんに水を掛けながらお祈りします。
大阪の法善寺では勢いよく掛けていきますが、
こちらはおとなしくゆっくりと水を掛けます。


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水掛地蔵の東隣に、弁財天がいらっしゃいます。
こちらは通常秘仏なのですが、節分期間中は御開帳されます。
そのため、こちらに参拝された方々は
最後にいちいち中の弁財天を覗いていかれます。
この右(東)隣には阿弥陀堂があってそこから壬生塚に行けますが、
(新撰組関連施設があります)
そちらへは、次回ブログで回ります。


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壬生寺参道に戻ってきました。
この先(西側)が、壬生寺の本堂です。


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壬生寺本堂参拝前に、先に本堂南側を散策します。
本堂脇に、「千体仏塔」がいらっしゃいます。
いろいろ調べたのですが、こちらは比較的新しく
壬生寺に持ち込まれた石仏(多くは祀られなくなったお地蔵さん)を
東南アジアのパゴダ状に並べた仏塔です。
こちらはとても大きいので、JR嵯峨野線の電車の中から見えます。


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その「千体仏塔」の前で、さらに南を向きました。
こちらは壬生寺の南門で、その先が仏光寺通です。
第318回ブログでは、こちらから壬生寺に入りました。


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「千体仏塔」の手前に、焙烙焼の奉納所があります。
あちこちで願い事を書いた焙烙はこちらで集められて、
壬生狂言の際に演者によって叩き割られます。


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では、いよいよ壬生寺本堂に参拝です。
……ただ、その前に目の前のプレハブで線香を求めます。


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「線香は通常3本くらい持っていかれます」
そうおっしゃるので、自分も線香を3本頂きました。
そちらを西側の火に近づけました。


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目の前の炉の上に線香を置くと、ゆっくりと火が点いてきました。
これを持って、本堂に向かいます。


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先程の線香は、こちらに並べます。
何人もの方々がここに線香を並べるので、
すぐに辺りが煙だらけになります。
こちらの煙を浴びると無病息災のご利益があるのですが、
まぁ煙ですからここにいるだけで咳が止まりません。
それでも全身にこの煙をかけて、本堂に向かいます。


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では煙まみれになりながら、壬生寺本堂に向かいます。
いよいよ本堂に参拝します。

壬生寺は、京都では珍しい律宗寺院です。
(律宗の総本山は、奈良県の唐招提寺です)
ご本尊は大地蔵菩薩なのですが、
1962年の火災の際にいったん焼失しました。
現在のご本尊は、総本山の唐招提寺から移設したものです。
壬生寺は平安時代初期の991年に創建されましたが、
鎌倉時代に始まった壬生狂言と幕末の新撰組との関連で有名です。
壬生寺の境内で新撰組の練兵が行われたり、
大阪相撲の興行を新撰組主催で壬生寺で行ったりしました。


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壬生寺本堂前で、境内を北に向きました。
目の前でおでんや土手焼きの露店が、「屋台村」を形成しています。
壬生寺境内の露店は、この辺りがいちばん混み合います。
では、壬生寺境内の北側を散策します。


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壬生寺本堂の北側には、桜並木が続きます。
(実は、こちらは隠れた桜の名所です)
そのさらに北側に、壬生寺の寺務所があります。
御朱印を求める方々が、行列を作られています。


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壬生寺事務所の前で、境内を北に向いています。
この辺りは、露店が多いですね。
左(西)側に高齢者向けのマンションがあって、
右(東)側に壬生寺が経営する保育園があります。
このまま北上すると壬生寺北門があって、
そこから出ると綾小路に達します。


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同じ場所で、壬生寺境内を南に向きました。
では、ここから壬生寺本堂前に戻ります。


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先程の位置から、壬生寺本堂前に戻ってきました。
これで、壬生寺散策の約8割を終えました。
ここから残りを回りますが、もうだいぶ写真を貼り付けました。
ですから、今回はここまでです。

~次回は、壬生の新撰組関連施設を回ります~

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第636回 壬生塚と八木邸~壬生節分散策2019~その3

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前回ブログで、壬生寺北門から本堂前に戻ってきました。
(本堂へは、既に参拝し終わっています)
今回は壬生寺境内の壬生塚から、壬生寺北隣の八木邸に向かいます。
どちらも、新撰組関連施設ですね。
撮影日は、2019年2月3日節分の日曜日午後2時半。
だんだん雨雲が厚くなってきました。


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壬生寺北門から本堂への参道の東側で、北を向きました。
すると、このような長い行列ができていました。
この列の先に壬生寺保育園があり、その2Fが壬生寺会館です。
壬生寺会館には座席の先に舞台が用意されていて、
そちらで節分など特定の時期に壬生狂言が行われています。
自分は約20年前に、こちらで「節分」「焙烙割」などを見ました。
(壬生寺に奉納された焙烙焼は、この狂言の際に割られます)
ただ、それ以降いつも満員で節分に見るのを諦めています。
今年(2019年)も観覧は難しそうです。最後尾は2時間以上待ちです。
仕方なく、先に進みます。


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その行列の最後尾辺りから、東を向きました。
この周囲に、前回ブログで参拝した
水掛地蔵・弁財天・歯薬師がいらっしゃいます。


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その東側に、こちらの露店が立っていました。
「モツァレラチーズホットドック」は前々から気になっていたので、
こちらに立ち寄ります。


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こちらが、そのモツァレラチーズホットドックです。
1本500円です。ここまでの食費合計420円より高かったですね。
(第634回ブログタイ焼き120円と
前回ブログたこ焼き300円です)
お好みでいろいろトッピング可能ですが、
自分はチーズパウダーを振りかけました。


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モツァレラチーズホットドックの中は、こんな感じです。
完璧に溶けたモツァレラチーズですね。
当たり前ですが、口の中いっぱいにチーズが来ます。
香りも、味の方も、とても濃厚です。
まぁ自分は生チーズが相当好物で、
(白カビのカマンベールとか、青カビのゴルゴンゾーラとか)
結構至福でしたが……
トッピングをチーズパウダー一択にしたのは、正解でした。
(ケチャップ・マスタードなら、チーズ臭が消えてしまいます)


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そのモツァレラホットドックの露店の東から、
壬生寺の阿弥陀堂に入れます。(中は撮影不可)
こちらの阿弥陀仏にお参りした後、200円納めて裏庭に出ます。


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こちらが、その裏庭です。(こちらは、撮影可)
太鼓橋を渡った先の小島が、壬生塚です。
こちらに、新撰組隊士などのお墓が並びます。


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その太鼓橋の上で、西を向きました。
金属製の龍像がいらっしゃいますが、
前回ブログの水掛地蔵周辺に溜まった水は、こちらに流れてきます。
壬生塚は枯れ枝に囲まれていますが、こちらは桜並木です。
他にもたくさん見どころが多い壬生寺ですが、
こちらは知る人ぞ知る桜の名所です。


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「あゝ新撰組」の歌碑の脇に、お墓が並んでいます。
こちらは、壬生官務家の方々が眠っておられます。
要するに、古代や中世に太政官の書記官をされた方々です。
壬生寺は元々「官寺」なので、役人のお墓が多数並びます。


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さらにその東側に、歴代住職のお墓が立っています。
その右(南)側に「壬生塚」と書かれた立札がありますが、
新撰組関連施設はこの奥からです。



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その立て札から、そのまま壬生塚を東に進みました。
突き当りに、近藤勇の胸像が立っています。



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近藤勇の胸像の手前に、人丸塚がおられます。
こちらは柿本人麻呂のお墓と言われていますが、
柿本人麻呂終焉の地は現在の島根県が有力です。
墓石の形状から、ずっと後世に製作されたものでしょうね。
ただ、柿本人麻呂は火災除けのご利益がある
神社のご神体となられることが多く、
こちらもそういう関係なのでしょうね。
その証拠に、こちらにお参りしても火災除けのご利益があります。
(「人丸→火止まる」という掛詞です)


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そのまま東に進み、壬生塚の東端まで来ました。
こちらが、新撰組顕影碑と近藤勇の胸像です。
ちなみに近藤勇のお墓は他府県にあって、こちらにはありません。
こちらは、映画関係者が集団で資金を出し合って立てました。


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壬生塚の東端に、新撰組隊士の墓が並びます。
右側は、新撰組隊士合同のお墓で、特定の墓碑銘はありません。
左側は、新撰組勘定方の河合耆三郎のお墓です。
こちらは内規に触れて切腹させられた方ですが、
その内規違反が何かは分かっていません。
(そのため、いろいろ俗説が生まれています)
ただある程度お金を払えば切腹が不問になったのですが、
そのお金を支払うのに家庭内騒動で遅れてしまい、
そのため父親が資金を用意したにも拘らず
切腹させられてしまいました。
この件に関して河合耆三郎の父は相当立腹し、
半分当てつけの意味を込めて、
この壬生寺で河合耆三郎の葬式を執り行い、
その後こちらに他の隊士よりも立派なお墓を立てました。


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壬生塚の北東端(いちばん奥)に、こちらのお墓が立っています。
右側が共同のお墓のようですが、野口健司の墓碑銘があります。
一方左側は芹沢鴨平山五郎のお墓です。
2人は八木邸で暗殺された後、この壬生寺で
盛大に葬式が執り行われたようです。
(近藤勇が喪主となり、八木家の方々も出席されたそうです)
この暗殺事件に関しては後述しますが、
こちらのお墓は一度破壊されたため建て直され、
(第27回ブログの墓がその建て直されたものです)
さらに近年元の形に戻されました。
(この辺の経緯は、第188回ブログの追記に載っています)


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これで、壬生塚を一通り回りました。
ですから、太鼓橋の前まで戻ります


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壬生塚で、太鼓橋まで戻ってきました。
このまま橋を渡ると、向かい側の阿弥陀堂に入って
そのまま壬生寺参道に戻ることになりますが……


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阿弥陀堂の東側に、地下に降りられる階段があります。
そちらに宝物殿があって、様々な資料や
壬生狂言のブルーレイ上映が行われていました。
そちらも撮影不可なので、阿弥陀堂全景を貼り付けます。


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先程の写真をよく見ると……阿弥陀堂の屋根に鷺が1羽います。
あまり動かないので、自分でも撮れました。


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壬生塚から阿弥陀堂経由で、壬生寺参道に戻りました。
阿弥陀堂の宝物殿には10分くらいいましたが、
その間に雨が降ってきました。
自分は傘を持っておらず、近くには売っていません。
(壬生川通まで行かないと、コンビニエンスストアはありません)
仕方ないので、そのまま歩きます。


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先程の位置から門をくぐって、壬生寺境内を出ました。
左(北)側に、前回ブログ冒頭の格安たこ焼きの露店が立っています。
では、目の前の坊城通に出ます。



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壬生寺の門前から、坊城通を南に向きました。
この先が、第319回ブログでお邪魔した京都清宗根付館です。
坊城通の露店は、南には約100m先の高辻通まで続きます。


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今度は、同じ位置で坊城通を北に向きました。
こちらも、露店で賑わっています。
では、こちらを進んでいます。


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壬生寺の門前から、坊城通を約20m北上しました。
右(東)側に新徳禅寺の門前が見えますが、
左(西)側にタイ焼きの露店が出ています。
こちらには、第634回ブログでお邪魔しました。


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新徳禅寺の北側に、ブルーテントの施設があります。
毎年こちらで焙烙焼を売っていたのですが、
今年(2019年)には別のものを売っていました。


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それが、こちらです。(帰宅後に、撮影しました)
甘納豆が3袋で、500円でした。こちらも、安いですね。
何より大好物なので、買ってしまいました。


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さらに、坊城通を北上しました。
壬生寺の北隣に、テントが設営されています。
こちらは和菓子屋さんですが、こちらでチケットを買えば
店内でお汁粉や甘酒を頂けます。


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そのテントで自分がチケットを買うと、こちらを頂きました。
この鶴屋という和菓子屋さんは、八木家の方々が経営されています。
つまりこの和菓子屋さんが新撰組屯所があった八木家で、
1,000円支払えば、抹茶付きで屯所を拝観できます。


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鶴屋さんの奥に、こちらの八木家邸宅が立っています。
かつての新撰組屯所ですね。
こちらには常時学芸員がいらして、
先述の芹沢鴨・平山五郎暗殺の解説をされています。
(ここが、暗殺現場です)
学芸員は5名ほどいらっしゃるのですが、
自分は10回以上拝観しているので、
今回解説されておられる方は3回目のお話でした。
(おそらく、向こうは覚えていらっしゃらないでしょうが)

実はこの学芸員の方々によって、
ここでのお話の事実関係が多少違います。
(10回近く通わないと、気付かないことです)
いちばん異なるのは、島原の芸妓吉栄さんのその後です。
wikiなどでは事件の最中にたまたま便所に行っていたため、
殺されずに済んだとされていますが、
この日開設されていた学芸員は
「部屋にいた方々ともども、一緒に殺された」
そう解説されていました。
この方はとても細かく分かりやすいお話で、
いろいろ資料を見せつつそう解説されておられているので、
「単なる勘違い」とも思えません。
こちらの方は吉栄死亡を確信されておられるので、
何かそういう資料を発見されておられるのでしょうか?
(ただ、ここの仏壇の位牌はお梅さんの分も合わせて3本ですが)


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八木邸の暗殺現場の解説は、だいたい30分くらいでした。
う~ん、雨がどんどん激しくなっていますね。
この先のテントで、和菓子や抹茶を頂けます。
雨宿りがてら、ちょっとこちらに立ち寄ります。


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八木邸から抹茶を求められた方々とほかに注文された方々で、
店内は超満員でした。
すぐに注文が来ないと確信して、暫くただ座って雨宿りしました。
約30分経ってだいぶお客さんが減ってきたので、
お店の方にこちらの引換券を渡しました。


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八木邸を拝観されたら、こちらを頂けます。
抹茶以外に、和菓子も付いています。


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こちらが、茶請けの和菓子です。
粒餡を求肥で包んだお餅です。
こちらは、抹茶を頂いた後に戴きました。


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抹茶を頂きつつ、坊城通を眺めています。
2019年2月3日午後4時を回り、雨は小降りになりました。
まだ傘を差される方々も多いですが、壬生散策を続けます。


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八木邸を出て、坊城通を北に向いています。
まだまだ壬生散策は続きますが、もうだいぶ写真を貼り付けました。
後は、次回とします。

~次回は光縁寺で、新撰組隊士の墓参りをします~

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第637回 旧前川邸に訪問~壬生節分散策2019~その4

636-36.jpg
前回ブログでお邪魔した八木邸(和菓子匠「鶴屋」)を出て、
坊城通を北に向いています。
左(西)側がその和菓子匠「鶴屋」で、
右(東)側が旧前川邸です。
どちらも、かつて新撰組が駐在した場所ですね。
今回は、この旧前川邸にお邪魔します。
撮影日は、2019年2月3日節分の日曜日午後4時15分。
ここから、徐々に晴れ間が出てきました。


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先程の位置から、坊城通を約10m北上しました。
ここで、坊城通は綾小路と交差します。


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坊城通から、綾小路を西を向いています。
第634回ブログでは角の「幸福堂」のお客さんが
とても長い行列を作っていましたが、
雨が降ったせいかそういう方々はこの時点ではいらっしゃいません。


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次に、綾小路から坊城通を北に向きました。
目の前に、和菓子屋の「幸福堂」があります。
さすがに店頭には、たくさんの方々が並ばれていました。
この道を北上すると、第634回ブログのルートを逆行します。


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さらに坊城通から、綾小路を東に向きました。
目の前に、旧前川邸の入り口が見えます。


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坊城通から綾小路を約10m東に進み、
旧前川邸入り口の前で南を向きました。
こちらは、現在「田野製袋所」という
封筒や紙袋を製造している会社の工場兼住居です。
ですから平日は非公開なのですが、
土日と祝日限定で公開されています。
(この日は、2019年2月3日節分の日曜日でした)


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旧前川邸の入り口をくぐると、中庭が広がります。
平日には自動車が停まっていますが、
公開日は広々としています。
こちらが小さな庭園になっていますが、
右側の家屋はおそらく野口健司が切腹した現場です。
(山南敬助が切腹の前夜明里に別れを告げたのが史実なら、
この部屋でそれが行われたと推定されます)


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では、旧前川邸の母屋に入ります。
こちらは、かつての壬生村の郷士前川家の邸宅でした。
八木邸に屯所を構えていた新撰組は、
池田谷事件以降隊士が増えすぎたため、
八木邸の東向かいのこの旧前川邸にも住みだしました。
八木家の方々は八木邸が新撰組屯所になっても住み続けましたが、
前川家の方々は屯所になって以降は他所に移転されました。
さらにその後前川家の方々はこちらを手放されたため、
「旧」前川邸とこちらを呼んでいます。


637-9.jpg
旧前川邸の母屋に入ってきました。
典型的な京町家なので、ここが走り庭と分かります。
(この奥が厨房で、右が玄関)
現在公開されているのはこの辺りだけで、
奥は居住者のプライベートスペースです。
ただ、その奥にいろいろありまして……
このまま奥に進むと古高俊太郎を拷問した部屋で、
玄関奥が山南敬助が切腹した部屋です。
現在はここで新撰組関連グッズが売られています。


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これ以上奥には入れませんので、母屋を出ました。
すると、母屋の入り口付近にこちらがありました。
旧前川邸の見取り図ですね。
先程の位置関係は、全てこちらを参考にしています。


637-11.jpg
これで、旧前川邸を一通り見て回りました。
では、ここから旧前川邸を出て綾小路に戻ります。


637-12.jpg
旧前川邸の入り口の前で、綾小路を東に向いています。
右(南)側に、旧前川邸の塀が続きますね。
では、こちらを進んでいきます。


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旧前川邸入口の前から、綾小路を東に約50m進みました。
南側に真新しい京町家が姿を見せますが、
2015年に訪れたときは建っていませんでした。
おそらくここ数年で、新築されたのでしょうね。


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さらに綾小路を東に約10m進むと、こちらが建っていました。
お米屋さんのようですが、平日なら営業されていたでしょうね。


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さらに綾小路を約10m東に進むと、
普通の民家で甘酒を出しておられました。
(「普通」と言いましても、美術品の展示や
「ダンス教室」を開いておられましたが……)
こちらの小母さんと目と目が合ってしまい、
100円支払って何となく甘酒を頂きました。
(民家なので、写真は撮っていません)
まぁ「京都の甘酒」ですから、ノンアルコールの米麹製です。
(酒粕などは一切使いません)
その小母さんとゆっくり世間話をしながら時間が経って、
もう午後4時半近いです。


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腕時計の時間を見て、甘酒の小母さんに別れを告げ、
綾小路を急いで東に向かいました。
目の前の酒屋さんは、節分で大忙しです。
こちらは、かつて近藤勇・沖田総司というお酒を売っていました。


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その酒屋さんの向かい(北)側に、お地蔵さんがいらっしゃいました。
確かこの辺にウチの祖母が幼少時に住んでいたらしいと、
ウチの母が以前行っていました。
(正確な場所は、はっきりしません)


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そのお地蔵さんと酒屋さんの前で、綾小路を東に向きました。
ここで綾小路は、壬生川通と交差します。


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綾小路から、壬生川通を北に向きました。
ちょうど嵐電(京福電車)が通過していますね。
ずっと先の突き当りに見えるビルの辺りは、
第609回ブログで訪れた錦小路最西端です。


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今度は、綾小路から壬生川通を南に向きました。
約1㎞南下すると、島原商店街に辿り着きます。
(第594回ブログを参照)


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さらに、壬生川通から綾小路を東を向きました。
取りあえずここを東に進んで大宮通まで進むのですが、
切りがいいので今回はここまでとします。

~次回こそ、光縁寺で新撰組隊士の墓参りをします~

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第638回 光縁寺で墓参り~壬生節分散策2019~その5

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前回ブログで訪れた旧前川邸から綾小路を東に約100m進み、
壬生川通から綾小路を東に向いています。
今回は光縁寺の墓地を訪れ、新撰組隊士のお墓にお参りします。
撮影日は、2019年2月3日節分の日曜日午後4時半。
実はこの瞬間、雨は止んでいます。


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以前何回か書いたことですが、
個人的にはこの辺りの綾小路の町並みがいちばん好きです。
狭い道に、京町家を初めとする古い家並みが続きます。
こちらのお地蔵さんは、先程の写真にも写っていましたね。


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そのお地蔵さんの東側に、こちらの京町家が建っています。
商売をやめた京町家を仕舞屋(しもたや)と言いますが、
ショウウィンドウなどが残っているので、それには該当しません。
商品の代わりに、小物を並べられているのが洒落ています。


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その京町家の前で、綾小路を東に向きました。
右(南)側看板建築の京町家の先に、土塀が続きます。
四条通以南の綾小路・仏光寺通松原通は、壬生川通~大宮通間に
小さな寺院がいくつも建ち並びます。


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では、その寺院の門前に立ちました。
この浄土宗上宮院聖徳寺は、元は天台宗寺院でした。
「上宮聖徳」とは聖徳太子の別名ですが、
こちらのご本尊阿弥陀如来像が、その聖徳太子作と伝わっています。
(詳細は、第319回ブログを参照)


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その聖徳寺の門の東側に、庚申堂が建っています。
京都の庚申堂は、金剛寺が有名ですね。(第103回ブログを参照)


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庄徳児の前で、綾小路を東に向いています。
壬生近辺には、このような小さな寺院がたくさん並んでいますが、
行政区域的には聖徳寺以東は「京都市中京区壬生」ではなく、
「京都市下京区」に属します。


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聖徳寺の前から、綾小路を約30m東に進みました。
こちらは、浄土宗知恩院派満月山普照院光縁寺です。
1600年前後の創建ですが、正確には分かっていません。
1860年ごろの住職が新撰組隊士の山南敬助と親交があり、
そのためこちらの墓地に新撰組隊士のお墓があります。


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光縁寺の境内に入ってきました。
こちらは、本堂と東隣の寺院との隙間です。
午後5時までに寺務所に200円を納めると、
この奥(北)側の墓地にお参りができます。
ただ最近は参拝の態度が悪い方が多いらしく、
周囲の家屋に迷惑を掛けたり、乱暴な態度をしたりするのを
禁止する旨を伝えられました。
(ということは、新撰組隊士の墓前で
無礼な態度をされる方がいらっしゃるということですね)


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先程の路地を北上して、広間に抜けました。
こちらが、光縁寺の墓地です。
向こう(北)側の塀の向こうは、嵐電(京福電車)の線路です。


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光縁寺墓地の西側に、こちらの墓石が立っています。
こちらは新撰組隊士のお墓ではありませんので、ご注意ください。


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その墓石の北側の3基が、新撰組隊士のお墓です。
さらにお地蔵さんを挟んで、その北側に1基墓石が立っています。
こちらに、沖田総司の縁者が眠られています。
では、こちらにお参りをします。


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こちらに参拝すると、このパンフレットがもらえます。
それによると、こちらには山南敬助以外に
野口健司松原忠治河合耆三郎伊東甲子太郎藤堂平助など
切腹したり新撰組に粛清された方が多いですね。
合計28名なのですが、これだけの方々を
これらのお墓の下に葬るわけにはいきません。(物理的に入りません)
ですから、この下にはこれらの方々のご遺体は眠ってはいません。


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こちらが、墓地の北西端です。
この塀の向こうは先述の通り嵐電(京福電車)の線路ですが、
実はこの下に新撰組隊士が眠っておられます。


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光縁寺墓地で、南を向きました。
この突き当りが、光縁寺本堂です。


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光縁寺墓地の南側に、こちらの鬼瓦がいらっしゃいます。
よく墓地で見かけますので、たぶん魔除けでしょうね。


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その鬼瓦の東側に来ました。
では、この路地を通って光縁寺を出ます。
そうそう、その前に光縁寺のご住職に一声掛けていきます。


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光縁寺を出て、綾小路を東を向いています。
この時点で、2019年2月3日日曜日午後5時。
急がないと、そろそろ日が暮れます。


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光縁寺の斜め向かいに、浄土宗の光林寺が建っています。
こちらは幼稚園でもあるので、平日は結構賑やかです。


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光林寺の門前に、こちらの碑が立っています。
おそらくこちらの方々のお墓や塚が、
この寺院の墓地に眠っているのでしょうね。


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こちらは、光縁寺東隣の浄土宗法善寺です。
境内の庭園がなかなかきれいなのですが、
沿革などが全然分かりません。


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さらに法善寺の東隣に、浄土宗の西方寺があります。
こちらも、沿革などは不明です。


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そして、西方寺の向かい(南)側に浄土宗成道院があります。
こちらも、沿革が不明です。


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その成道院の前で、綾小路を東に向きました。
この先で、綾小路は大宮通と交差します。


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大宮通から、綾小路を東に向いています。
このまま進むと、約300m先に祇園祭中に油天神山が立ちます。
(第583回ブログを参照)


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「綾小路大宮」交差点北西角に、こちらの中華料理屋があります。
確か四川の方々が経営されていて、本格的な四川料理が頂けます。


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今度は綾小路から、大宮通を南に向きました。
では、ここを通って帰宅していきます。


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綾小路から、大宮通を約10m南下しました。
右(東)側の京都市立洛友中学校から、
たくさんの方々が出て来られました。
どうも、何かイベントがあったようですね。


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綾小路から、大宮通を約100m南下しました。
ここで、大宮通は仏光寺通と交差します。


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大宮通から、仏光寺通を西に向いています。
駐車場の先に、帰命院が見えますね。
こちらを進むと、第319回ブログのルートになります。


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大宮通から、仏光寺通を東に向いています。
では、ここで横断歩道を渡って反対車線に向かいます。


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大宮通を東側歩道に渡り、仏光寺通から南に向いています。
続いて、ここを南下します。


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仏光寺通から、大宮通を約100m南下しました。
ここで大宮通は、高辻通と交差します。


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高辻通から、大宮通を南に向いています。
この先に、「大宮松原」バス停が見えます。
では、このバス停から206系市バスに乗って帰ります。
これで、2019年の節分散策を終えます。

~次回は京都市を出て、亀岡の京都サンガ壮行会に出ます~

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第719回 厄払い行列巡行~法住寺節分会2020~その1

いよいよ2020年の節分の季節になりました。
そもそも節分は旧暦の大晦日のことで、
1877年以降は日本ではいくつかの大晦日の行事が
12月31日に移行しましたが、
京都では今なお「旧暦の大晦日」として
各神社仏閣で盛大にお祭りします。
ウチのブログでは上千本壬生祇園など取材しましたが、
2020年はこの日に夜から仕事が入りまして、
個人的な事情でウチの近所を取材しました。


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取りあえずお金がなかったので、
取材前に「七条本町」交差点のコンビニエンスストアで
銀行預金の一部を下ろしました。
今月前半の生活費を手にコンビニエンスストアを出て、
本町通から七条通を東に向いています。
銅鑼と法螺貝の音色によく見ると、
七条通北側歩道を東にもう法住寺の厄払い行列が
どんどん歩いて行かれます。
そこで、急いでこの巡行に付いていきます。
撮影日は、2020年2月3日節分の月曜日午前10時半。
巡行行列は、約30分後だと思っていました。


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「七条本町」交差点から、大写しで写真を撮っています。
法住寺の厄払い巡行行列がココ一番屋の前を通り過ぎ、
大黒通の最南端も通り過ぎていかれます。
天狗と鬼の扮装をした方々とご住職・修験者の行列ですね。


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巡行行列は、大黒通の東七条通沿いのわらじやで立ち止まります。
この辺でいちばん老舗の飲食店ですね。
すると、わらじやの店内から店主や従業員らしき方々が
七条通沿いに出て来られました。


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ところが、ここで法住寺の方々が暫し手持ち無沙汰になられます。
背広姿の世話役の方が、青(緑)鬼の着ぐるみに手を掛けられます。
「鬼のパンツ」どころか青鬼の着ぐるみがずり落ちそうになり、
慌てて世話役の方が着ぐるみを摺り上げておられます。


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まぁいろいろありましたが、厄払いの準備が整いました。
やがて法住寺ご住職が、わらじやの方々に一礼をされました。
いよいよ法住寺の方々による厄払いが始まります。


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黒鬼・青(緑)鬼・赤鬼が腰を振って、一舞い踊られます。
それに合わせて、修験者が銅鑼と法螺貝を演奏されます。


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続いて、ご住職と天狗に扮する方が店主の前に立たれます。
ご住職の御祈りが、自分がいる位置まで聞こえてきます。


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わらじやの店主の前にいらして天狗の扮装をされた方が、
突然錫杖を振り回されます。
すると錫杖に付いた金具から、鈴のような音が響きます。


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さらに天狗姿の方が、わらじやの店先をあちこち移動されます。
錫杖に付いた金具や飾りが風にたなびき、とてもきれいですね。


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やがて天狗姿の方は、錫杖を手許に収められました。
これで、わらじやへの厄払いが終了です。


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次に法住寺のご住職が一礼されると、
鬼や天狗の扮装をされた方々も一礼されます。
すると、また銅鑼と法螺貝の演奏が再開されます。


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法住寺厄払いの方々が、次の目的に移動されます。
取りあえず、七条通をさらに東に進まれます。


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そして、法住寺の厄払い行列はわらじ家の東隣に向かいます。
こちらの七条甘春堂は、正面通の甘春堂とは別の和菓子屋さんです。
(甘春堂については、第684回ブログ参照)


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七条甘春堂からも店主と従業員が出て来られると、
すぐに鬼たちの舞いが始まります。


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鬼たちが腰を振って踊られた後、斧や小槌を振り下ろされます。
ただ上手く振り下ろされた場面が撮れず、
はっきりしない写真になりました。


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鬼たちの斧や槌を振り下ろされる動作が終わると、
鬼たちの舞いが一段落されたようです。
ここで、ちょっとだけ次の動作まで静止されています。


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すると背広姿の世話役が、やはり青鬼に取り付かれます。
また青鬼の着ぐるみが、ずり落ちたようです。


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青鬼の方が落ち着かれると、次の舞いが始まります。
また天狗が、店主の前で錫杖を掲げられます。


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法住寺のご住職がお祈りを奉げられる中、
天狗の舞いはだんだん大きくなります。
振り上げられた錫杖から鈴の音が響き、
金具や飾りも大きくたなびきます。


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やがて法住寺のご住職の御祈りが終わると、
天狗に扮された方の舞いも終わります。
そして一礼の後、厄払い巡行行列はさらに東に移動されます。


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着ぐるみを気にされてか、青鬼の方がゆっくり歩かれています。
法住寺のご住職は順番待ちのため、暫し待たれています。


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そうこうしているうちに、法住寺の厄払い巡行行列が
大和大路の横断歩道を東に渡られました。
この辺りの赤レンガは、京都国立博物館のものです。


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法住寺の厄払い巡行行列が、京都国立博物館南側を東に進みます。
この辺の塀は京都国立博物館開業当初のものですが、
赤レンガの塀と西側の正門が重要文化財に指定されています。


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法住寺の厄払い巡行行列が大和大路から七条通を約100m東に進み、
「三十三間堂前」交差点に差し掛かりました。
第681回ブログの冒頭ですね。


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法住寺の厄払い巡行行列が、
「三十三間堂前」交差点で待機されています。
要するに、信号待ちですね。


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信号が、変わりました。
法住寺の厄払い巡行行列が、七条通の南側歩道
つまり、自分が今いる方に渡って来られました。


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法住寺の厄払い巡行行列の後ろ半分も、横断歩道を渡られました。
そして、巡行行列は東を向いきました。


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法住寺の厄払い巡行行列は、三十三間堂廻りを東に進まれます。
七条通から南に伸びる三十三間堂廻りという道を南下すると、
三十三間堂や法住寺があるのですが、
巡行行列はそちらには進まれません。


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法住寺の厄払い巡行行列が、
三十三間堂廻りからさらに七条通を東に進みます。
巡行行列はこの先のハイアットリージェンシーホテルに進み、
そこでも厄払いが行われます。
そういえば、突き当りの「東山七条」交差点に
智積院の勅使門が見えますね。
その後「東山七条」交差点を南下して、
塩小路経由で法住寺に戻られます。
ただ自分はそちらには向かわずに、
この周辺の寺院を参拝した後法住寺に向かいます。
とは言えだいぶ写真を貼り付けましたので、
今夏はここまでです。

~次回は、三十三間堂に寄り道します~

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第720回 三十三間堂参拝~法住寺節分会2020~その2

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前回ブログで法住寺節分会の厄払い巡行行列が、
「三十三間堂前」交差点から七条通を東に去っていかれました。
その交差点に、法住寺節分会の看板が毎年立て掛けてあります。
この後は「三十三間堂廻り」という道を南下して、
節分会が開催される法住寺に向かうわけですが、
厄払い巡行行列が法住寺に戻るまで、まだ何時間かあります。
そこで今回ブログと次回ブログに、周辺寺院を参拝します。
撮影日は、2020年2月3日節分の月曜日午前11時。
まだまだ時間があると、この時点では思っていたのですが……


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七条通から、三十三間堂廻りを南に向いています。
三十三間堂廻りは三十三間堂の東側を貫く七条通~塩小路間の道で、
元々は豊臣秀吉が建立した大仏殿(現在の方広寺)の一部でしたが、
現在は東大路と川端通の間の幹線道路です。
(方広寺大仏殿は、第616回ブログ参照)
向こうに大桜の木が見えますが、春には早いので枯れ枝ですね。
東七条(鴨川以東の七条通~塩小路間)は、
京都市街地でも屈指の桜の名所です。


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先程の大桜の木の前で、三十三間堂廻りを西に向きました。
2018年は、この位置で法住寺の厄払い巡行行列を見ました。
ではここを進み、三十三間堂境内に入っていきます。


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三十三間堂境内に入ってきました。
境内の北側は観光バスが何台も停まれる大きな駐車場で、
(「七条大和大路」交差点から、バスは駐車場に入れます)
その南側に切符売場と入り口があります。
ではここで600円支払い、中に入ります。


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こちらが、三十三間堂の入り口です。
ここから先が、有料の地域です。


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先程の通路を南下して西を向くと、参進殿があります。
ここに入ってさらに南下すると、
三十三間堂の仏像が安置される場所に出ます。
ただウチのブログでは中を撮影できませんので、
先に三十三間堂の庭園を回ってからこちらに入ります。


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先程の写真と同じ場所で、三十三間堂境内を東に向きました。
では、こちらを時計回りに1周します。


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三十三間堂東側庭園には、車いす用の石畳の道が設けられています。
では、この石畳の道沿いに三十三間堂東側庭園を南下します。


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三十三間堂東側庭園を南下しています。
左(東)側の枯れ枝並木は、約2カ月後に桜並木に変わります。
(三十三間堂の桜並木は、第300回ブログ参照)
右(西)側に三十三間堂本堂が見えますが、その長さは約120mです。


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同じ位置で、三十三間堂東庭園を東に向きました。
池と築島のある見ごたえのある眺めが広がりますが、
この三十三間堂東側庭園を特に「法住寺殿」と呼びます。
といいますのも、この三十三間堂は元々法住寺の一部です。
(この後、節分会の行事のために訪れる寺院です)
元々法住寺の境内は、鴨川より東の東七条地区一帯でした。
そもそも法住寺は、院政を極めた後白河上皇の住居でした。
その後この辺りは豊臣秀吉によって大仏殿の一部となり、
その際三十三間堂と法住寺は分離されました。
そして江戸時代になって大仏殿関連施設群が分解されても
三十三間堂は法住寺に戻ることはなく、
そのまま蓮華法院として独立した寺院となりました。
(現在は智積院北側の妙法院の塔頭寺院です)
ですから、ここは元々法住寺の庭園でした。


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さらにその位置から、法住寺殿を南に向いています。
この辺の枯れ枝は全て桜ですので、
もう2カ月もすればここは絶景です。


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もう少し法住寺殿を南下して、東を向きました。
左(北)側の大きな塔は、古いお経を収めた納経塔です。
右(南)側の小さな塔は、法然が後白河上皇の葬式の際に
こちらで念仏を唱えたことを表す供養塔です。


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その供養塔の前で、法住寺殿を南に向いています。
この先に、三十三間堂の手水舎が見えます。


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三十三間堂の勅使門の前(本堂の正門の前)に、
こちらの手水舎があります。
脇のお地蔵さんには、手を合わせます。


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手水舎の脇に、こちらの立て札が立っています。
手水舎は「夜泣泉」の名の通り、
夜泣きに対してご利益がある井戸ですね。


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その位置で、三十三間堂境内を西に向きました。
この背後(東)に三十三間堂勅使門があって、
この位置が三十三間堂本堂の正面です。
こちらの障子の向こう(西)に、この度国宝になられた
湛慶の最高傑作「千手観音」像がいらっしゃいます。
(Wikiでは妙法院蔵と書かれていますが、
実際にはその塔頭寺院である三十三間堂にいらっしゃいます)
そういえば、修学旅行生はこの位置で写真をよく撮られていますね。


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さらに同じ位置で、法住寺殿を南に向いています。
ここからも、さらに南下する石畳の道が伸びています。
よく見ると、三十三間堂南半分に修復中のシートが掛かっています。


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先程の位置から、法住寺殿を南下しています。
あと70mほどで、法住寺殿は突き当たりますね。


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その辺りで、法住寺殿を東に向いています。
池の周囲は枯れ枝並木ですが、
毎年春になるとここは絶景に変わります。


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法住寺殿の石畳の道は、蛇行しながら南下していきます。
このちょっと先に、三十三間堂の鐘楼が建っています。


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こちらが、三十三間堂の鐘楼です。
結構真新しいのは、最近改築されたからです。


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三十三間堂の鐘楼の前で、法住寺殿を南を向きました。
この辺りが、法住寺殿の最南端です。
塀越しに、三十三間堂南大門が見えますね。
そして南大門周辺の塀が、他の部分より飛びぬけて古いですね。


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その塀の前まで来ました。
こちらは重要文化財の「太閤塀」です。
元々は豊臣秀吉が建てた大仏殿の塀でした。
そして、こちらは現存する日本最古の土塀です。


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三十三間堂境内の太閤塀から、西を向いています。
「法住寺殿」は三十三間堂東側庭園のことですから、
ここから先はもう「法住寺殿」ではありません。


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三十三間堂境内の南側を西に進み、北を向きました。
三十三間堂では毎年1月に「通し矢」という
遠距離の矢を射る行事が行われます。
それが、この位置から三十三間堂の北端に向けて行われます。
(約120mの距離です)


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三十三間堂境内の南端から、西に進んでいます。
こちらはこちらで観光客がたくさんいらっしゃいますね。


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三十三間堂境内の南西端に、こちらの神社がいらっしゃいます。
では、こちらの稲荷社にお参りします。


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稲荷社の石製鳥居の許に、木賊(とくさ)が映えています。
その向こうには桜並木が続きますが、冬なので枯れ枝並木です。


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その稲荷社の前で、三十三間堂西側庭園を北に向きました。
では、こちらをこのまま北上します。


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この辺りの桜並木の枝を大写ししました。
少しずつつぼみが膨らんでいるのが、分かりますね。
ただ2020年2月10日月曜日に南禅寺を訪れたのですが、
そちらはまだまだつぼみが固かったですね。


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稲荷社から、三十三間堂西側庭園を約120m北上しました。
目の前の比較的新しい建物は、三十三間堂参進殿の一部です。
三十三間堂に入って最初に見た建物ですね。


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こちらは、三十三間堂参進殿西側入り口です。
では、こちらから三十三間堂本殿に入っていきます。


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三十三間堂参進殿に入って、南を向きました。
こちらの下駄箱の前で靴を脱ぎ、
参進殿経由で三十三間堂本殿に入っていきます。
ですから、この地点が三十三間堂の施設内で撮影可能な限界です。


720-40.jpg
三十三間堂本堂の写真撮影が禁止されているので、
パンフレットで代用します。
こちらは1001体の観音様で有名ですが、
ご本尊の千手観音像を含めて大半が湛慶の作品です。
三十三間堂は法住寺が建立された平安時代から存在して、
後白河上皇が居住した平安時代末期に栄えましたが、
戦火などで破損された観音像を修復したのが、湛慶でした。
ですから、こちらの寺院の仏像の多くが鎌倉時代の作です。
観音像の手前に二十八分衆と呼ばれる様々な仏像が並びますが、
それらも鎌倉時代以降による慶派の作品が大半です。
そういえば、そのいくつかが千手観音像近くにいらっしゃいました。
なぜでしょうか。


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三十三間堂参進殿経由で本堂を参拝し、ご本尊の千手観音像や
1001体の観音像・二十八分衆を拝観しました。
では、こちらの通路から三十三間堂を出ます。


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通路を抜けて、三十三間堂境内北側の駐車場前に戻ってきました。
さらにこちらから、三十三間堂の門を出ます。


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三十三間堂の門の前から、三十三間堂廻りを南に向いています。
法住寺ご本尊の身代わり地蔵の幟が立っている通り、
この先に節分会が行われる法住寺が建っています。
ではこちらから法住寺に向かいますが、
その前にさらにもう1寺回ります。
ただ今回もだいぶ写真を貼り付けましたので、ここまでとします。

~次回は、養源院に寄り道します~

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第721回 節分の養源院~法住寺節分会2020~その3

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前回ブログで参拝した三十三間堂参拝入口の前から、
三十三間堂廻りという道を南に向いています。
(七条通から、約50m南下した地点です)
このまま目的地の法住寺の節分会に行けば良いのですが、
2020年はまだちょっと時間がありましたので、
その中間地点の養源院にも立ち寄ろうと思います。
撮影日は、2020年2月3日節分の月曜日午前11時45分。
この時点では、法住寺節分会に余裕で間に合うと思っていました。


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三十三間堂参拝入口から、三十三間堂廻りを約100m南下しました。
先程の写真の右(西)側に一見すると土塀が見えますが、
あちらがこの辺で唯一の公衆トイレです。
養源院と法住寺にはトイレがないので、
知っておかないと後々困ります。
では左(東)側に見える養源院の前まで、
さらに三十三間堂廻りを南下します。


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先程の位置より、三十三間堂廻りを約30m南下しました。
この位置なら、養源院の南隣に法住寺が建っているのが分かります。
では、このまま養源院の門前に向かいます。


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三十三間堂を背に三十三間堂廻りで東を向くと、
浄土真宗遣迎院派養源院の門があります。
ちなみに浄土真宗遣迎院派は鷹峯遣迎院が本山なのですが、
いずれも元々天台宗から分派した寺院です。


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養源院の門をくぐり、すぐに南に向きました。
こちらは、養源院の末社白衣弁財天社がいらっしゃいます。
末社の背後が池なのですが、
水神でもある弁財天はよく池の周りにいらっしゃいます。


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白衣弁財天の向かい(北)側には、毘沙門天社がいらっしゃいます。
北の守護神毘沙門天ですから、この方角も納得です。


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同じ位置で、養源院境内を東に向きました。
養源院本堂は、この坂道の先にあります。
では、こちらを進んでいきます。


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養源院境内をそのまま東に進んでいます。
養源院本堂は境内のほぼ東端に位置しますが、
境内の中央にはこの大桜が1本立っています。
東七条でいちばん大きな桜の木ですから、
毎年春には絶景になります。(第299回ブログ参照)


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養源院境内の石畳の道の東の上り坂を進んでいます。
この辺りは日吉ヶ丘(阿弥陀ヶ峰)のふもとで、
東に行くほど高くなります。
では、養源院境内をさらに東に進みます。


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養源院境内の石畳の道の東端に、養源院本堂があります。
この塀を越えると、また風景が一変します。


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先程の塀の中に入り、すぐに南に向きました。
こちらは手水舎というよりも、かつての井戸ですね。
様子から、今は使われていないようですね。


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その井戸の北側を撮っています。
この先にもう一つの門があるのですが、現在は修復中のようです。
目の前の鳥居は、大木に掲げられている祠のものです。
この周囲には枝垂桜並木があるのですが、
こちらの春になると絶景になります。


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養源院本堂の縁側に、こちらがいらっしゃいました。
おそらく養源院の飼い猫ですね。
思わず目と目があった瞬間に、写真を撮りました。


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さらに、こちらのネコを撮り続けています。
だんだん目を合わせるのが辛くなったらしく、
ちょっと目を逸らすようになりました。


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そのうち、完全に横を向いてしまいました。
ただこの後は全く動かず、やがてすやすや眠ってしまいました。


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いろいろありましたが、こちらから養源院本堂に入っていきます。
徳川家を表す三つ葉葵の家紋が掲げられていますが、
こちらは最終的に徳川秀忠の継室江が建てました。


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養源院本堂内は一切撮影禁止なので、写真はこちらで代用します。
左の絵はがきは俵屋宗達筆の杉戸絵で、
こちらに保存されている絵画の過半数が彼の作品です。
(余談ですが、この寺院は俵屋宗達の作品展示数日本一です)

浄土真宗遣迎院派養源院は、1945年ごろまで天台宗寺院でした。
前回ブログでも紹介した通り、安土桃山時代は東七条一帯が
豊臣秀吉が建立した大仏殿とその関連宗教施設でした。
「養源院」という名称は、もともと浅井長政の戒名です。
浅井長政の娘淀殿が豊臣秀吉にお願いして、
浅井長政の21回忌(1594年)にこの寺院を建立しました。
ただ豊臣秀吉の死後淀殿も1615年に自害されたので、
淀殿の妹で徳川秀忠の継室江の方がその事業を引き継ぎました。
ですから、こちらは豊臣家と徳川家の両方が建立に関わっています。
またこちらを徳川家が建てる際、
伏見城の戦いの戦場であった
伏見城の廊下を天井に使用しています。
そこは鳥居忠元らが切腹した場所だったので、
30名ほどの返り血や彼らの死体の跡が完全に残っています。
これを「血天井」と呼び、こちらの説明が結構長いです。

こちらの文化財などの説明は
カセットデッキに録音された音声で行われます。
つまりその場で内容を変更できませんので、
テープのつなぎ目までは多少は時間待ちとなります。
この日(2020年2月3日)はタイミングが悪くて、
約15分待ってからそのカセットテープを聞きました。
法住寺の節分会の餅つきは午後0時半からですが、
そのテープの流れる時間は約30分で、今回ブログの最初から
法住寺節分会の餅つきまで約45分ありました。
余裕で間に合うの思っていたのですが、
どうも雲行きが怪しくなってきました。
午後0時20分を回ったころから、
自分の周囲にいらした参拝者が徐々に立ち上がり、
途中退席されました。
(どうやら、法住寺節分会が目的の方々です)
自分は最後まで聞いていたのですが、
そのうち南隣の寺院(要するに、法住寺)から
「よいしょ、よいしょ」と声が聞こえてきました。
これで、2020年法住寺節分会には遅刻確定です。


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養源院本堂を出ました。
では目の前の石畳の道を西に向かい、法住寺へ急ぎます。


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養源院境内の石畳の道を西に急いでいます。
南側から「よいしょ、よいしょ」の声とともに、
杵が餅を搗く音も聞こえます。
では、この先から浄土真宗遣迎院派養源院を出ます。


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養源院の門前で、三十三間堂廻りを南に向いています。
では、南隣の法住寺に急ぎます。


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既に遅刻なので実際にはここからすぐに法住寺に向かいましたが、
ブログ上では、先に養源院と法住寺の間にいらっしゃる
後白河天皇陵にお参りします。
ただちょうど区切りが良いので、今回はここまでです。

~次回は、法住寺の餅つきを掲載します~

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第722回 法住寺のお汁粉~法住寺節分会2020~その4

721-20.jpg
前回ブログで訪れた養源院と今回ブログで訪れる法住寺の間に、
こちらの細長い小径が東に伸びています。
本当は遅刻しているので養源院から即法住寺に向かったのですが、
今回ブログはちょっと考えがありまして、
こちらを先に紹介いたします。
その後、法住寺の餅つき以降の行事を掲載します。
撮影日は、2020年2月3日節分の月曜日午後0時半。
本当はお汁粉を食べた後に、こちらに立ち寄りました。


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三十三間堂廻りという道から、先程の小径を約50m東に進みました。
その位置で、南を向いています。
こちらの小径は、約20m先で突き当たります。


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先程の位置から南下する途中に、こちらの手水舎がありました。
法住寺の銘が、入っていますね。
この小径の先は現在宮内庁の管理ですが、
神仏分離令以前は法住寺の管理でした。


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その小径を約20m南下しました。
小径の突き当りが、ちょっとした広場になっています。


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その広場で、東を向きました。
この辺りは、法住寺境内のちょうど裏(東)側に位置します。
こちらが、後白河天皇の法住寺陵です。
もともと後白河上皇は鴨川以東の東七条一帯に広がっていた
法住寺殿に居住し、院政を行っていました。
そして白河上皇の死後この地に後白河天皇陵が造営されて、
明治初期の神仏分離令まで法住寺がこの御陵を管理していました。
(現在は、宮内庁が管理しています)


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後白河天皇法住寺陵を背に、西を向きました。
この塀の向こうは、今回ブログの目的地法住寺です。
手前に桜の木が立っていますが、
この辺りも桜並木が、ここを絶景に変えます。


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さらに後白河天皇法住寺陵の前で、北を向きました。
では、こちらの小径を北上します。


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後白河天皇法住寺陵から小径を約20m北上して、西に向きました。
左(南)側がこれから訪れる天台宗法住寺で、
右(北)側が前回ブログに訪れた浄土真宗遣迎院派養源院です。
では、こちらを西進して約50m先の三十三間堂廻りに向かいます。


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先程の地点から約50m西に進み、三十三間堂廻りを南に向きました。
左(東)側が三十三間堂廻り最南端の天台宗法住寺で、
右(西)側が第720回ブログで参拝した三十三間堂です。
また約100m先に、三十三間堂南大門が見えます。
では、こちらから法住寺境内へ急ぎます。


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先程の位置から三十三間堂廻りを約10m南下し、東に向きました。
こちらに、天台宗法住寺の法住寺門(正門)があります。
天台宗法住寺は、988年当時の太政大臣藤原為光が建立しました。
ただ、こちらの全盛期は後白河上皇の院政期です。
ここを中心とした「法住寺殿」つまりここで院政が行われましたが、
平安時代末期の法住寺合戦で法住寺殿は焼失しました。
こちらは、その後鎌倉時代に再建されたものです。
左脇(北側)に、節分会の看板が出ていますね。
では、こちらの門から法住寺境内に入っていきます。


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法住寺門をくぐり、法住寺境内最南端を向いています。
門前にはこの日(2020年2月3日節分)限定で臨時寺務所が設けられ、
東側の本来の寺務所はさまざまな行事に使われます。
北側には、陀枳尼尊天弁財天が合祀された祠が祀られています。


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その祠の前で、法住寺境内を南に向いています。
右(西)側に長いテーブルが並び、さらに西に竈が並びます。
法住寺は、こちらで調理されたものを参拝者に振る舞っています。


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そのテーブルの前で、節分会開催中は甘酒が振る舞われます。
京都の甘酒ですから酒粕由来のものではなく、
米麹由来のノンアルコール飲料です。
こちらの中に入っている米麹を食べながら飲んでいます。
料金は志納制なのですが、相場としては100円です。
自分は小銭を持っておらず、
法住寺の方と相談してお釣りを頂きました。


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法住寺境内の中央に、この寺院の象徴でもある枝垂桜があります。
その木越しに、境内の北側に建っている法住寺本堂に向きました。
法住寺の本堂と枝垂桜の間に砂場があるのですが、
この日(毎年節分)はその砂場の上に護摩壇が置かれています。
節分会最後の行事である護摩焚きのためですね。
そして法住寺本堂前に石臼が置かれており、その周囲に
法住寺節分会世話役の男女がいらっしゃいいます。
男性の方が杵を持ち上げ、女性の方がもち米を濡らしておられます。
1回目の餅つきは既に終わっており、
この餅つきは、もう2度目に入っておられます。
(要するに、自分は餅つきに遅刻しています)


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法住寺節分会世話役の女性の左(東)側に、
和服姿の女性がお二人いらっしゃいます。
2018年同様先斗町の舞妓さんが
また餅を千切って丸めるために来られています。


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先斗町の舞妓さんを大写しにしています。
この時点で、また搗きたてのお餅を丸められています。
2020年は2018年より手慣れておられて、
あっという間に丸め終わられました。
周囲の方々はスマートフォンを掲げられるのに一生懸命で、
ここは臨時の舞妓さん撮影会と化しています。
近年舞妓さんに過剰に近づかれて強引に撮影されるのが
京都市内で割と大きな問題になっていますが、
ここならそういうことを気にせず何枚も撮影が可能です。
実はこの撮影を目的に来られている方も多く、
中には明らかにプロのカメラマンがいらっしゃいました。


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先斗町の舞妓さんのさらに左(東)側に、
舞妓さんより明らかに年少の方々がいらっしゃいます。
おそらくこちらは、舞妓さんの見習いでしょうね。
こちらの方々も、お餅を丸められています。


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レンズの倍率を変えて、法住寺本堂の全体を写しています。
さらに左(東)に、ご住職がマイク片手にいらっしゃいます。
2020年のご住職はいわゆるMCもされていて、
餅つきの様子を実況されるだけでなく、
全体の指揮や礼儀知らずのカメラマンへの注意など、
本当に多岐にわたって活躍されていました。


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そろそろ法住寺本堂の西側に、人が並びだしています。
ご住職のMCによれば餅入りのお汁粉がだんだん出来上がっており、
その順番待ちの方々が並んでおられます。


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法住寺本殿の西側に回り込んできました。
2018年はご住職のお知らせから10分後に並んだのですが、
2020年はお知らせ直後に並んだのに、
自分より前にほぼ同じ人数が順番待ちされています。


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並びだして、約2分経ちました。
2018年より、列が動くスピードがだいぶ早いですね。
2020年は結局2018年の2倍の方々が並ばれましたが、
舞妓さんの餅を丸めるスピードが速いのと
搗かれる餅の量も2018年の2倍以上ということで、
十分に対応される体制を取られているようですね。


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先程の位置から、さらに2分経ちました。
もう福寿観音様の祠の前に来ました。
2018年より速いスピードで、列がさばけています。


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こちらが、福寿観音様の石像です。
列に並びながら、こちらにお参りしました。


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その福寿観音様の前で、法住寺境内を北に向いています。
その北側に、法住寺のもう一つの門である竜宮門があります。


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さらにお汁粉待ちの行列が、どんどんさばけています。
お汁粉を温めている竈まで、あと数分です。


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その行列に並んでいる途中で、法住寺本堂前を撮りました。
ご住職が本堂前に来られていますが、
餅つきと舞妓さんらの餅を丸められる作業は、延々続きます。


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法住寺境内中央の枝垂桜も通り過ぎ、
お汁粉の竈まですぐそこです。
列の周囲では、先に並ばれておられた方々が
お汁粉を堪能されています。


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いよいよお汁粉の行列も、自分の番となりました。
目の前の高坏に志納金を収めて、
お汁粉の入ったお椀を頂きます。
こちらのお汁粉も、志納金は100円が相場です。


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こちらが、先斗町の舞妓さんらが丸められた餅入りのお汁粉です。
2015年に来たときは今より参拝者が少なかったので、
実は2度並んで2杯頂きました。
2018年に来たときは参拝者数が急増していて、
並ばれた方の約半数の方々しか頂けませんでした。
(まぁ、それでも自分はしっかり頂きましたが……)
2020年に並ばれた参拝者数は2018年の約2倍ですが、
用意された餅も2倍以上ですので全員頂けました。
ただ、さすがに2杯目は不可能でした。


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お汁粉のお餅を浮かばせて、もう一度撮影しました。
餅自体はとても小さいのですが、
小豆がしっかり入っていて、これで十分満腹になります。
まぁこちらがこの日の自分の昼食です。


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餅を丸める作業が一段落して、
先斗町の舞妓さんと見習いさんが談笑されています。
実は餅を丸める作業はまだ続くのですが、
もう山は越えられているので、時折手すきになられるようです。


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自分はお汁粉を食べ終わりましたが、
境内の中央ではまだまだたくさんの方々が
お汁粉を立ち食いされています。
(イスがないので、自分も立ち食いでした)
写真の右(西)側に行列がまだ続きますが、
この直後に全員がお汁粉を頂きました。


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お汁粉の行列は、2020年2月3日午後2時10分に途切れました。
次の行事まで、あと約20分あります。
ここで、法住寺本堂にいらっしゃる
ご本尊の代受不動明王に参拝するために本堂に向かいました。
(本堂内は撮影不可なので、写真はありません)
さらにちょっとこの隙にお手洗いにも行って、
今回ブログ最初の後白河天皇陵へお参りしました。

この後の行事は、午後2時半から始まりました。
ただ今回はもうだいぶ写真を貼り付けましたので、
続きは次回とします。

~次回から、法住寺の護摩焚きが少しずつ始まります~

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第723回 一気に豆まきまで~法住寺節分会2020~その5

722-33.jpg
前回ブログで、昼食として法住寺でお汁粉を頂きました。
まだまだお汁粉の振る舞いは続いていますが、
お汁粉を食べ終わった自分は本堂のご本尊にお参りして、
三十三間堂横の公衆トイレと後白河天皇陵に行きました。
今回は、この後の行事節分の豆まきを取材しました。
撮影日は、2020年2月3日節分の月曜日午後1時。
ある意味、今回がメインイベントですね。


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前回ブログ以来、指定席にしている護摩壇前に戻ってきました。
お餅を丸める作業を終えた先斗町の舞妓さんが、
席を立たれる用意をされていました。


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とは言え、舞妓さんは振り袖姿です。
そうそう簡単に立つことはできません。
先ずは振り袖の袖を抑えながら、ゆっくりと立たれました。


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舞妓さんたちはお互いに立ち上がったことを確認すると、
そのまま演壇を下りられて、こちらの方に歩いてこられました。


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自分が陣取った護摩壇前から、北側に見える竈の前を撮りました。
舞妓さん2名は、そちらに移動されていかれました。
目的は……前回ブログに出て来たお汁粉です。
考えてみれば舞妓さんもここまで働き詰めですから、
ようやく昼食にありつけたわけですね。
ここでも舞妓さんの撮影会が始まりましたが、
その辺の方々と舞妓さんたちは歓談しながら、
お汁粉を堪能されていました。


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さらに時間が経過して、2020年2月3日節分の月曜日
午後1時半を過ぎました。
寺院の奥から、ご住職がゆっくりと現れました。
いよいよ次の行事が始まります。


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ちょっと時間は立って、後ろ(北側)を見ました。
いったん三十三間堂廻りに出た厄払い行列のご一行が、
法住寺の正門から法住寺境内に入って来られました。
青い法被姿の世話役を先頭に、自分たちの許に南下してこられます。


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世話役の方に続いて、修験者さんたちが更新されます。
こちらの法螺貝の音色に合わせて、行列が南下しています。


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修験者さんに続いては、ご住職の登場です。
その後に、錫杖片手の天狗が並ばれています。


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錫杖片手の天狗に続いて、赤鬼と青鬼が現れました。
第719回ブログの巡行行列と同じ順番ですね。


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赤鬼・青鬼の後ろから、黒鬼の登場です。
まさに、厄払い巡行行列の順に登場されます。


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黒鬼の後ろは、さらに修験者さんの列となります。
これで、厄払い巡行行列一行が法住寺境内にそろい踏みです。


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ご住職が、護摩壇の北側の本堂前におられます。
厄払い巡行行列は、護摩壇の左(西)側を南下されました。


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ご住職が、法住寺本堂に入っていかれました。
続いて天狗や鬼の皆さんが、本堂に入っていかれます。
ここから本堂内で、ご住職への読経が始まりました。
こちらの行事は非公開なので、写真はありません。


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ご住職の読経が終わると、
先斗町の舞妓さんが本堂前にいらっしゃいました。
だんだん豆まきの準備が整ってきます。


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護摩壇の右(西)側に、修験者が現れました。
黙壇の結界内に入る前に、九字祈祷を唱えられました。


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その九字祈祷を終えられた後、
この後の行事に参加される修験者の皆さんが、
次々と護摩壇前に入って来られました。


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その修験者の皆さんの中に、ご住職もいらっしゃいました。
その後ろには、天狗が控えておられます。


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そして修験者の皆さんとご住職が、所定の位置に就かれました。
いよいよ豆まき行事の始まりです。


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修験者の皆さんによる銅鑼と法螺貝の演奏が始まると、
天狗が護摩壇前に登場しました。
錫杖を振りかざし、護摩壇の前で踊りだされていました。


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天狗が、護摩壇の周囲を時計回りに踊られます。
ちょっといろいろ写っていますが、右上に天狗がいらっしゃいます。


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天狗の踊りが、2周目に入られました。
すると、後ろから赤鬼も登場しました。
赤鬼は左手に松明、右手に剣を持たれています。


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続いて、青鬼の登場です。青鬼は、両手の斧を
銅鑼と法螺貝の音に合わせて振り上げておられます。


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さらに、黒鬼が槌を持たれての登場です。
天狗を含めて4者が護摩壇の前で踊られて、
この周囲を浄められておられます。


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黒鬼が護摩壇を1周されて、護摩壇の結界から出て行かれます。
天狗・赤鬼・青鬼は、先に結界の外におられます。


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そして、ご住職が本堂前に立たれます。
先斗町の舞妓さんも、その両側に立たれます。
そちらも、手に豆の入った桝を持たれています。
いよいよ、法住寺の豆まきが始まります。


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すると、そちらの方へ赤鬼、青鬼・黒鬼が迫ります。
これは、2018年に行われなかったことです。


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「鬼は外」
鬼たちが本堂前の方々の至近距離に近づいたとき、
その掛け声とともにご住職と舞妓さんが豆を撒かれます。


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豆を投げつけられた鬼たちが、慌てて逃げだしました。
要するに、豆を撒かれて鬼たちが退散します。


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ところが、鬼たちが再度臨戦態勢です。
どうやら、もう一度本堂前に迫るようです。


723-31.jpg
するとやはり「鬼は外」の掛け声とともに、
ご住職と舞妓さんが豆を撒かれます。
その豆に再び鬼たちが退散します。


723-32.jpg
豆を撒かれた鬼たちが、護摩壇前から退散されます。
自分は一度幼児の前で鬼の仮面(紙製です)を付けて
同じようなことをした経験があるのですが、
煎った大豆って、投げつけられると相当痛いですね。
鬼の皆さんは、大丈夫なのでしょうか?


723-33.jpg
続いては、豆の入った紙製の袋の入れた木箱の登場です。
これからご住職や舞妓さんだけでなく、
修験者の皆さんも加えた皆さんで、自分たちに豆を撒かれます。


723-34.jpg
こちらは、護摩壇の左(東)側です。
修験者のウチの数名と舞妓さんのウチのお一人が、
こちらにはいらっしゃいます。


723-35.jpg
「鬼は外 福は内」
掛け声とともに、豆の入った紙製袋が撒かれます。
参拝者が両手を差し出し、その袋を取り合われます。


723-36.jpg
修験者のお一人が、こちら(正面)側に来られました。
そして、木箱片手に、豆を撒かれています。
背後では、舞妓さんが周囲に豆の入った袋を撒かれています。


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さらに世話役の方々も参加されて、豆まきが続きます。
木箱には「七条大橋東詰 みささ菓舗」と書かれています。
1990年前後のバブル期まで
「七条須原」交差点で経営されていた和菓子屋さんで、
自分の小学校の卒業式でこちらの紅白まんじゅうを頂きました。


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そして世話役の方が、自分の目の前に来られました。
この方は豆まきをされず、こう叫ばれておりました。
「子供、おるか? 小さい子、おるか?」
どうやら取り合いになったために、
豆の入った袋が手に入らなかった参拝者たちに
その袋を配ろうとされているようです。


723-39.jpg
まぁこの日(2020年2月3日節分)は平日(月曜日)なので、
学齢期の子供はほとんどいらっしゃいません。
すぐに対象者に豆を配り終えると、
今度は高齢者に豆の入った袋を配られ始めました。
この方の配布が終わると、法住寺の豆まきが終わりました。


723-40.jpg
豆まきを一通り終えると、先斗町の舞妓さんが一礼されました。
これで、鬼たちと先斗町の舞妓さんはお役御免です。
ただ2020年は舞妓さんはすぐには帰られず、
この後の護摩焚き行事は参拝者として、
護摩壇脇にずっと立っておられました。

この後は節分会最後の行事の護摩焚きですが、
今回もだいぶ写真を貼り付けましたので、ここまでとします。

~次回は、法住寺の護摩焚きを取材します~

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第724回 最後は護摩焚き~法住寺の節分会2020~その6

724-1.jpg
前回ブログで、法住寺節分会のメイン豆まきが終わりました。
その直後、護摩壇の周囲に
修験者の皆さんが所定の位置に就かれました。
そして、その修験者の代表と思しき方が、正面に座られます。
今回は、法住寺節分会の最後の行事護摩焚きを取材します。
撮影日は、2020年3月3日節分の月曜日午後2時半。
今回は、40枚以上の写真を貼り付けます。


724-2.jpg
その代表者の右(西)脇に、ご住職が座られます。
その後、修験者が本格的に護摩焚きの手順が始まります。


724-3.jpg
周囲の修験者の方々が、九字を切られました。
また、こちらの法螺貝で護摩焚き法要が始まります。


724-4.jpg
すると、修験者のうち2名が祭壇の前に立たれました。
そして、その祭壇に一礼されます。


724-5.jpg
その2名が、こちらに来られました。
そして、修験者の代表者とご住職に一礼されました。
2名の方々は、それぞれ弓と矢筒を持たれています。


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そのうち弓を持たれていた修験者が、文言を唱えられます。
古文ではありますが、日本語を唱えられていました。
ですから経文ではなく、祝詞の類でしょうね。


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その様子を、先斗町の舞妓さんがご覧になっています。
2018年は護摩焚きまで残られなかったはずですが、
2020年は護摩焚きの最後までいらっしゃいました。


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そして弓を持たれた修験者が、東に青緑の鏃の矢を射ます。
こちらの色は、東を守護する四神獣青龍を表します。


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次は護摩壇に向かって、朱い鏃の矢を放たれます。
こちらの色も、南を守護する四神獣朱雀を表します。
こちらの弓を強く射ると、もちろん大惨事が起こります。
そのため弦は相当緩く、矢もふわりと浮かんですぐに落ちます。
それを参拝者が、取り合ってもらい受けます。


724-10.jpg
さらに西に向かって、白い鏃の矢を飛ばされます。
こちらの色も、西を守護する四神獣白虎を表します。


724-11.jpg
そして自分たちがいる北に向かって、紫紺の家を打たれます。
紫紺は黒の代用で、北を守護する四神獣玄武を表します。


724-12.jpg
その後、黄色い矢を祭壇に向けられています。
黄色は、四神獣に対して中央を表しています。
2018年に修験者のお一人が、こうおっしゃっていました。
「黄色は、ご本尊の不動明王を表しています」


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最後に北西(鬼門?)へ、四神獣すべての色の矢を飛ばされます。
これで、全ての矢を放たれました。


724-14.jpg
続いてまた別の修験者が2名出て来られて、
火の点いていない松明を交差させています。
すると、ご住職が立ち上がられました。


724-15.jpg
そして、ご住職が祝詞を唱えられました。
その後のご住職はこちらを発たれて、護摩壇の隅に移動されます。


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世話役のお一人が、祭壇から護摩壇前へ蝋燭を持ってこられました。
こちらを使って、修験者2名の松明に火を点けられます。


724-17.jpg
修験者2名が、火の点いた松明を護摩壇前に持ってこられます。
いよいよ護摩壇に、火がくべられます。


724-18.jpg
次に、修験者2名が松明を護摩壇に突き刺されます。
こうして、護摩壇が点火されました。


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ようやく護摩壇に火が点き、護摩焚きが本格的に始まります。
すると、その2名の修験者が護摩壇に水をかけられます。
そうやって、護摩壇の火(煙)を管理します。


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すると代表の修験者が、お経を唱えだされました。
文言から、般若心経でしょうか?


724-21.jpg
その直後、護摩壇の煙が急に倍増しました。
辺りが、煙一色となりました。
とは言え、これは異常事態ではありません。
護摩焚きはいったん煙が充満して、
その後水撒きによって落ち着いてきます。


724-22.jpg
例年通り、数分で護摩壇の火が落ち着いてきました。
すると代表の修験者が左手に護摩木を右手に小刀を持ち、
般若心経とは別のものを唱えだされました。


724-23.jpg
この小刀は、模造刀ではありません。
自分は真後ろにいるので小刀を振り回されると正直怖いのですが、
その辺はこちらの方が後ろを見ながら振り回されておられるので、
それ程危険はありませんでした。
代表の修験者は、手順通り護摩木の封を小刀で切られています。


724-24.jpg
封を切られてばらけた護摩木を
代表の修験者が、護摩壇の火の中へ放り込まれます。
護摩木には、参拝者の願いが書かれています。
この一連の動作が、厳密な意味での「護摩焚き」です。


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その間、他の修験者の皆さんはこちらに詰めておられます。
厳密には楽器の一種である独鈷鈴を振りながら、
時折おりんも楽器として鳴らされています。
六根清浄と唱えながら時折般若心経も織り交ぜておられます。


724-26.jpg
こちらの修験者2名が、ずっと水を護摩壇にかけておられます。
そのことで段々煙が落ち着いてはきたのですが、
その代わり煙に煤が混じりだしました。


724-27.jpg
こちらは、先程矢を射られた修験者です。
護摩焚きの進行を管理されているようです。
こちらの法衣や髪にも、煤が付き始めています。
よく見ると机の上にも煤が溜まりだし、
お経や段取り表が煤まみれですね。


724-28.jpg
煤まみれの煙越しにおられる先斗町の舞妓さんです。
平然としておられますが、そちらの方には煙はやって来ません。
代わりに、自分は結構な煤まみれになりました……


724-29.jpg
一通り護摩木を掘り込まれると、
代表の修験者はこちらの棒状の法具を持たれて、
目の前の石を叩かれています。
こちらも、祈祷の過程のようです。


724-30.jpg
そして、その工程の後は九字祈祷を唱えられます。
ここまでが、代表の修験者が祈祷される護摩焚きでの所作です。


724-31.jpg
そして、また護摩木を護摩壇に放り込まれます。
この所作から、九字祈祷までを何度も繰り返されていました。


724-32.jpg
護摩焚きも半ばが過ぎ、いったん護摩壇への水かけが中断されます。
そして護摩壇に水を掛けておられた修験者が、
周囲に置かれていた残りの護摩木を一気に護摩壇にくべられます。


724-33.jpg
右(西)側に続いて、左(東)側の護摩木も次々放り込まれます。
すると、護摩木がみるみる減っていきます。


724-34.jpg
護摩木が、護摩壇に次々放り込まれています。
慌てて放り込まれるので、修験者の一人の裾に
火が燃え移っていましたが、落ち着いて消火されていました。
(特に火傷など、されていない様子でした)


724-35.jpg
左(東)側の護摩木が全て護摩壇に放り込まれましたので、
そちらにいらした修験者も右(西)側に回り込んでこられました。
すると、こちらの護摩木もすぐになくなりました。


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すると、今度は本堂脇の紙袋に手を付けられます。
こちらには、昨年使われて2020年にこちらに納められた
破魔矢やお守りが入っています。


724-37.jpg
そして、その紙袋を護摩壇に放り込まれます。
これで火にくべるべきものは、全て放り込まれています。


724-38.jpg
そして、修験者の一人がマイク片手に一言おっしゃいました。
「これで、護摩焚きは終了です。2020年の節分会は以上です」


724-39.jpg
すると長い間座っておられた代表の修験者が、立ち上がられました。
これで、2020年の法住寺の護摩焚きが終了しました。


724-40.jpg
その後、他の修験者が一斉に立ち上がられてました。
ここから、こちらの後片付けが始まります。


724-41.jpg
すると代表の修験者さんが、自分にこちらを手渡されました。
護摩壇に付けられていた、黄色い護符です。
「普通は燃えるのだけれど、残るのは珍しい」
そうおっしゃっていました。
ちなみに、こちらは現在自分の財布に入っています。


724-42.jpg
その直後に、護摩壇周囲の結界が取り払われました。
さらに、机と椅子が撤去されます。


724-43.jpg
そうこうしているうちに、
消防署員の方々が護摩壇周囲に入って来られました。
この段階ではまだ護摩壇は燃え盛っていますが、
この直後に消防署員の手で消火されました。


724-44.jpg
同じ位置で、北を向きました。
甘酒お汁粉を提供されていた竈も、徐々に片付けられています。
ただ2020年法住寺節分会の行事は、まだ残っています。


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法壽寺境内の北側に、寺務所があります。
そちらで、天狗が笹の幹を持たれています。


724-46.jpg
天狗が、参拝者の朱塗りの盃に日本酒を注いでいます。
こちらは、健康長寿祈願の酒です。


724-47.jpg
自分も、そのお酒を頂きました。
自分は半年前に脳卒中を患いそもそもこの後出勤ですが、
まぁこの分量なら大丈夫でしょう。


724-48.jpg
では、こちらから法住寺を出ます。
この後は目の前の通りである三十三間堂廻りを約50m南下し、
三十三間堂南大門を抜けて塩小路に達し、
そこから延々西へ約20分歩いて京都駅から出勤しました。
(この日は夜勤で、午後5時半に勤務先に着く予定です)

これで、2020年の法住寺節分会を終了します。

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第806回 コロナ禍での法住寺節分会 その1

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「節分」は、元々旧暦の大晦日に当たります。
中国などの国では太陽暦の大晦日以上に祝賀ムードになりますが、
日本でも祝賀ムードになる地域もあって、
特に京都では様々な神社仏閣が節分会を開催します。

ところがコロナウィルスの変異種のオミクロン株が蔓延する中、
2021年同様、2022年も各神社仏閣が節分会を中止したり、
神官や僧侶のみで行う「居祭」にしたりしたところが大半です。
そういう状況の中ウチの近所の法住寺の様子を見に行ったのですが、
かなり規模を縮小して節分会を開催されていました。
その様子を短期連載します。


806-1.jpg
京都駅から206系や208系など
七条通を東に進む市バスに乗って、約12分。
こちらは、「博物館・三十三間堂」バス停です。
今回は、三十三間堂の東隣の法住寺に向かいます。
撮影日は、2022年2月3日節分の木曜日午後1時。
観光客は皆無でしたが、地元民が30人ほど来ていました。


806-2.jpg
カメラの用意をもたもたしていたら、自分が乗っていた206系市バスが
「東山七条」交差点を左折してしまいました。
現在「博物館・三十三間堂」バス停から、七条通を東に向いています。
約300m先の智積院勅使門前で、七条通は突き当たります。
ここから、目の前の横断歩道に進みます。


806-3.jpg
その横断歩道を渡らずに、七条通から北を向いています。
こちらから、京都国立博物館に入れます。


806-4.jpg
京都国立博物館に背を向け、七条通から南に向きました。
七条通から南に、2車線の道路が伸びています。
こちらの道を「三十三間堂廻り」と呼びます。
豊臣秀吉はこの辺一帯を
「大仏殿」を中心にした一大宗教施設にしましたが、
「三十三間堂廻り」は、当時から残っている道です。


806-5.jpg
七条通から、「三十三間堂廻り」を南に向いています。
右(西)側の塀の向こうが、その三十三間堂です。


806-6.jpg
七条通から「三十三間堂廻り」を約50m南下して、西を向きました。
三十三間堂には、こちらから入れます。
まぁ、ウチにいちばん近い国宝です。
三十三間堂は現在天台宗蓮華法院と呼ばれて妙法院の一部ですが、
元々鴨川以東の五条通~塩小路間は
今回ブログのメインの天台宗法住寺でした。
つまり、この三十三間堂は元々法住寺境内のお堂でした。
三十三間堂の庭園を「法住寺殿址」と呼ぶのは、
三十三間堂が法住寺の一部だった名残です。
(三十三間堂の様子は、第720回ブログ参照)


806-7.jpg
三十三間堂の門前から、「三十三間堂廻り」を南に向いています。
目の前に、この辺りに数少ない公衆トイレがありますね。
ずっと先に、「三十三間堂廻り」最南端の
三十三間堂南大門が見えます。
その門をくぐると、塩小路に突き当たります。
こちらは、元々豊臣秀吉が建立した大仏殿の南大門でした。
ちなみに南大門近くの土塀は安土桃山時代のものなので、
「太閤塀」と呼ばれて重要文化財に指定されています。


806-8.jpg
七条通から、「三十三間堂廻り」をずっと南下しています。
この道を境に右(西)側は三十三間堂ですが、
左(東)側にも様々な寺院が建っています。


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七条通から、「三十三間堂廻り」を約180m南下しました。
「三十三間堂廻り」より東側が、浄土真宗遣迎院派養源院です。
「浄土真宗遣迎院派」は天台宗からの分派で、
実は浄土真宗とはあまり関係がありません。
浅井長政の菩提を弔うためにお江の方が建立した寺院ですが、
淀殿の遺志を引き継ぐ形で江戸時代に入ってから完成しました。
俵屋宗達の絵画を日本一収蔵している寺院ですが、
伏見城の切腹現場の床をそのまま天井にした「血天井」でも有名です。
ただコロナウィルス蔓延防止特別措置発令により、
コロナウィルス蔓延が治まるまで拝観停止です。
(2022年1月から拝観停止です)


806-10.jpg
浄土真宗遣迎院派養源院の南側に、東に伸びる通路があります。
こちらを進むと、後白河天皇陵がいらっしゃいます。
今回ブログのメインの法住寺は平安時代末期に「法住寺殿」と呼ばれ、
後白河上皇が居住する「外御所」でした。
ですから、後白河上皇はこの法住寺で院政を行っていました。
その後法住寺は明治時代の「神仏分離令」まで、
法住寺は後白河天皇陵を守る「宮寺」として機能していました。


806-11.jpg
後白河天皇陵へ通じる通路の間に隣に、
今回ブログのメイン天台宗法住寺が建っています。
「三十三間堂廻り」最南端の寺院なので、ここからでも
三十三間堂南大門より南の塩小路の様子が見えます。
バス停からゆっくり歩いていると、修験者装束の方々が
法住寺の南側の唐門から出て来られました。
サイトに中止と書いてありませんでしたので半信半疑でしたが、
予定とだいぶ異なるタイミングで節分会の行事が行われていました。
ここから慌てて、この行列の後を追います。


806-12.jpg
修験者の行列から、法螺貝の音が大きく鳴り響きます。
その修験者たちやご住職の後から、
天狗と鬼の姿をした方々が北上されています。


806-13.jpg
その行列は法住寺の北側の門から、境内に入られました。
自分も、このままこの門をくぐります。

天台宗法住寺は、平安時代中期の988年藤原為光が建立しました。
この寺院の全盛は、平安時代末期1180年ごろです。
後白河上皇はこの地を気に入り、ここを「外御所」としました。
つまり、この寺院に後白河上皇が居住して政治を行いました。
ただ法住寺合戦の後は徐々に衰退して、
境内のお堂であった三十三間堂も同じ場所にありながら、
年代ごとに所属寺院を変えることになりました。
鎌倉時代以降は後白河天皇陵を守る「宮寺」として機能しましたが、
明治時代以降の「神仏分離令」によって
後白河天皇陵とこの寺院も塀によって分離されてしまいました。


806-14.jpg
先程の門から、法住寺境内に入ってきました。
鬼装束の方々が、境内最南端の本堂に入っていかれます。
ここから暫く本堂での祈祷ですから、参拝者はその場で待機です。
右(西)側を見ると、甘酒の屋台が並んでいます。
釜の数から、餅搗き後のお汁粉は中止されていると分かります。


806-15.jpg
その甘酒を提供する屋台を大写しにしました。
毎年湯呑みで甘酒を提供されているのですが、
コロナ禍の2022年は紙コップで提供されていました。
また、その紙コップを触る前に屋台におられる方々が
アルコールジェルで手指消毒されていました。
ただ法住寺節分会の行事が継続中でしたので、
今年(2022年)は甘酒を戴きませんでした。


806-16.jpg
甘酒の屋台の前を南下して、護摩壇の北側で立ち止まりました。
護摩壇の南側に法住寺本堂があって、
中でご住職と修験者が祈祷されています。
本堂の外には、鬼装束の方々が待機されていました。
周囲を見ると、参拝者は約30人ですね。
全盛期の2020年はもちろんのこと、2015年の半分以下ですね。
「餅つき」やお汁粉を振る舞うなどの行事が中止されているため、
前倒しで例年よりも進行が早くなっていました。


806-17.jpg
お汁粉用のお餅を丸めるのに、
例年花街から舞妓さんを呼ばれています。
今年(2022年)はその作業は無いようでしたが、
一応花街の舞妓さんを呼ばれてはいたようです。
確かサイトでは島原の太夫さんを呼ばれると書かれていましたが、
どう見てもこちらは、舞妓さんです。
祇園か先斗町か、宮川町上七軒かまでは分かりませんが……


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修験者とご住職の祈祷が、終わりました。
すると法螺貝を鳴らしながら、修験者が境内に出て来られました。


806-19.jpg
修験者たちは護摩壇や自分たち参拝者の脇を通り過ぎ、
甘酒の屋台前に移動されます。
その後ろから錫杖を持たれた天狗装束の方が付いて行かれます。


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天狗装束の方の後からは、赤鬼装束の方が付いてこられます。
赤鬼は、宝剣と松明を両腕に持たれていました。
赤鬼の後から、青鬼が付いてこられます。
青鬼は黒い斧を両手で持たれています。


806-21.jpg
青鬼装束の方の後には、修験者と黒鬼が付いてこられます。
黒鬼装束の方は、黒い小槌を持たれています。


806-22.jpg
黒鬼の後、最後列はご住職がいらっしゃいました。
ご住職も、参拝者の北側に回り込まれて、
そこから境内西側へ移動されます。


806-23.jpg
この行列は、境内北側から護摩壇の西側に回り込まれました。
そして、その護摩壇西側から
護摩壇の前に修験者たちが入って来られます。


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修験者たちとご住職が全員護摩壇前に入って来られると、
護摩壇南側で法螺貝、銅鑼、独鈷の鈴で演奏を始められました。
すると、天狗装束の方が錫杖を振りながら護摩壇前に現れます。


806-25.jpg
天狗装束の方が、楽曲に合わせて錫杖を振い舞い踊られます。
そして、そのまま時計回りに護摩壇の周囲を移動されます。


806-26.jpg
天狗装束の方が、本堂前に移動されました。
そして、本堂や参拝者に対して錫杖を振り回されます。
たぶん、この辺りの厄を払っておられるのでしょう。


806-27.jpg
天狗装束の方が護摩壇を1周されて、2周目に入られます。
すると、赤鬼装束の方が持たれていた松明に、火が灯されました。


806-28.jpg
左手に松明、右手に宝剣を持たれた赤鬼は、
銅鑼や鈴のリズムに合わせて、足踏みをされます。
続いて、赤鬼も舞い踊られます。


806-29.jpg
松明と宝剣を掲げて、赤鬼がリズムに合わせて
足を踏みしめてゆっくり歩かれています。
こちらも、護摩壇の周囲を時計回りに周回されます。


806-30.jpg
赤鬼に続いて、青鬼の登場です。
青鬼は、両手で斧を振り翳されています。


806-31.jpg
銅鑼や鈴のリズムに合わせて、青鬼は斧を振り下ろされます。
こちらも演奏に合わせて、舞い踊られながら時計回りをされます。


806-32.jpg
そして、最後は黒鬼の登場です。
黒鬼は、右手に小槌を持たれています。


806-33.jpg
黒鬼も銅鑼や鈴に合わせて、小槌を振われます。
……のですが、他の方よりも振りが小さいですね。
「小槌」という性質からでしょうか?


806-34.jpg
天狗と鬼たちが、護摩壇の周囲を時計回りに周回されます。
ただ黒鬼が登場した直後に、天狗が周回を終えました。


806-35.jpg
周回を終えた天狗装束の方が、護摩壇から去られます。
この方は、今年(2022年)はここでお役御免です。


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ただ鬼の皆さんは、この位置で引き止められました。
実は次回ブログまで、鬼の皆さんは登場します。


806-37.jpg
すると修験者の皆さんとご住職が、本堂前に集結されました。
代わりに、鬼の皆さんが護摩壇の北側に集結されます。


806-38.jpg
本堂前で、ご住職が桝を片手にMCをされています。
ご住職は、今後の予定を話されていました。
どうも参拝者に向けの豆まきが今年(2022年)は中止で、
境内に関係者が捲く豆まきだけを行われるそうです。
その後護摩壇で加持祈祷を行って、節分会が終了だそうです。
例年より、行事が半分になっていました。
そのため、かなりハイペースで行事が進んでいます。
ただ、だいぶ写真を貼り付けたので
今回はここまでです。

~次回は法住寺節分会の豆まきを取材します~

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第807回 コロナ禍での法住寺節分会 その2

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806-38.jpg
国宝の三十三間堂の東向かい天台宗法住寺境内にいます。
前回ブログで鬼装束の方々が奉納舞を行い、
その直後にご住職がこの後の予定を説明されています。
今回は、豆まきとその後取り仕切られた破魔矢の斉射を取材します。
撮影日は、2022年2月4日節分の木曜日午後1時半。
今年(2022年)は、かなり進行が早いです。


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今年(2022年)はコロナ禍の「第6波」の最中、
参拝者への豆まきが中止されています。
ご住職、修験者、舞妓さんが豆まきの準備を終えると、
護摩壇より北側にいらした鬼装束の方々が本堂前に向かわれます。


807-2.jpg
「鬼は外」
ご住職の一言を合図に、本堂前に集結された皆さんが
鬼装束の方々に豆を投げつけられます。


807-3.jpg
豆を投げつけられた鬼装束の方々は、護摩壇前から退散されます。
これで鬼装束の方々も、今年(2022年)の出番が終わりました。


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豆まきが終わって、舞妓さんが護摩壇前を退出されました。
そして、ご住職と修験者の皆さんが護摩炊きの定位置に就かれました。
ここから、護摩焚き前の厄払いが始まります。


807-5.jpg
右側の修験者さんが、護摩壇の前にマイクを設置されました。
こちらの方が、護摩焚き中のMCをされます。
ご住職は、他の重要な役目を果たされます。


807-6.jpg
先ずは、修験者の皆さんで九字祈祷を始められます。
しかも略式ではなく、正式な作法によるものです。


807-7.jpg
その間、本堂脇の窓から舞妓さんが護摩壇を覗かれています。
ここ数年、舞妓さんたちは最後までいらっしゃいます。


807-8.jpg
修験者のうち2名が、弓と破魔矢を手に祭壇前にいらっしゃいました。
そこで、本堂前の祭壇に向かってお参りです。


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そして、弓を持たれた修験者を先頭に時計回りに護摩壇を回られます。
ここから、破魔矢による厄払いが始まります。


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……と思いきや、先に護摩壇前でお祈りです。
般若心経などのお経ではなく、祝詞のように日本語で唱えられます。


807-11.jpg
お祈りを終えた修験者さんが、再び弓を握られます。
東に向かって、緑(青)色の矢をつがえられます。
緑(青)は、東の守護獣青龍を表します。
修験者さんは、この矢を遠くに向かって斉射されました。
(近くに斉射されたら、参拝者に当たって大惨事です)


807-12.jpg
続いて、本堂(南)に向かって朱い矢をつがえます。
朱は、南の守護獣朱雀を表します。
修験者さんは、こちらを高く天に斉射されました。


807-13.jpg
さらに、参拝者の多い西に向かって白い矢をつがえられます。
白は、西の守護獣白虎を表します。
こちらは弓を緩く絞って、斉射されました。
すると白い矢は勢いなく真上に上がって、すぐに落下しました。
落ちた破魔矢は、早い者勝ちで参拝者のものになります。


807-14.jpg
さらにさらに、こちら側(北側)に向かって黒い矢をつがえられます。
黒(玄)は、北の守護獣玄武を表します。
こちらも弓を緩く絞られて、斉射されました。
こちらの黒い矢も、自分の周囲で取り合いが始まりました。
ただ自分はカメラ片手なので、争いには不参加でした。


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そして、護摩壇(中央)に向かって、黄色い矢をつがえられます。
2018年に修験者さんに教えて戴いたのですが、
黄色は、不動明王さらには護摩壇自体を表しているそうです。
この直後に修験者さんは弓を下に構えられて、
護摩壇そのものに黄色い矢を斉射されました。


807-16.jpg
最後に、全ての色が混じった矢を北東に向かってつがえられます。
北東は、鬼門にあたります。
要するに、これで完全な厄払いが済みました。


807-17.jpg
全ての矢を射終えた修験者さんは、ご住職に黙礼されました。
すると、ご住職も一礼を返されました。


807-18.jpg
弓と矢を持たれていらした修験者さんが、
火の付いていない松明を持ってこられました。
このまま引火されれば、マイクも燃えてしまいますが……


807-19.jpg
さすがに松明をこちらに持ってこられただけで、
松明に火は灯りません。
護摩焚き直前の行事も、もうこれで最終です。


807-20.jpg
この状態でご住職が立ち上がり、お祈りを始められました。
ご住職もお経ではなく、祝詞のように日本語で唱えられます。
法住寺の寺史や不動明王の教え、
今日(2022年2月4日)の日付と護摩焚き成功への祈願などですね。


807-21.jpg
ご住職のお祈りが終わると、修験者さんが松明片手に
ランタンの方に向かっていかれました。
さらに、松明に半紙を取り付けておられます。
これは松明が燃えやすくなるように、されたことです。
つまり、護摩焚き点火の下準備が整われたようです。
ここから本格的に護摩焚きが始まりますが、
もうだいぶ写真を貼り付けました。
今回は、ここまでです。

~次回は護摩焚きを取材して、法住寺節分会が終了します~

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第808回 コロナ禍での法住寺節分会 その3

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807-21.jpg
国宝三十三間堂の東隣りの天台宗法住寺の節分会を連載しています。
前回ブログで護摩壇への厄払いが終わり、
いよいよ松明にランタンから点火されようとされています。
今回はここから護摩焚き祈祷を取材して、帰宅します。
撮影日は、2022年2月3日木曜日午後2時半。
久しぶりに、貼り付ける写真が40枚を越えました。


808-2.jpg
松明に点火されようとされていた修験者さんが、
半紙に火を点けてその半紙を床に放り投げられました。
その火が消える前に、松明に取り付けた半紙に引火されました。


808-3.jpg
松明に取り付けた半紙が燃え上がり、そのまま松明に引火しています。
松明への引火を確認され、修験者さんはその松明を掲げられました。


808-4.jpg
松明を掲げられた修験者さんが、護摩壇の前に移動されました。
そしてご住職や他の修験者さんの前で、
2本の火の点いた松明を交差されます。


808-5.jpg
さらに松明の交差を解かれると、
護摩壇に松明を槍のように突き刺されました。
写真では見えませんが、護摩壇の右側にも松明が刺さっています。


808-6.jpg
護摩壇に松明が突き刺さって暫くすると、
護摩壇から白い煙が上り始めました。
どうやら、護摩壇への着火に成功されたようです。


808-7.jpg
この白い煙は、松葉が燃えていることを示しています。
護摩壇は材木で組まれていますが、
その中には松葉がびっしり敷き詰めてあります。
松葉が次第に燃え上がると、
濛々と白い煙が立ち込めてきました。
すると、ご住職が護摩壇前から立ち去られました。
ご住職は、この後の仕事に備えられます。


808-8.jpg
そして、その白い煙で急に視界がなくなりました。
ただ、これはいつものことです。
祇園祭の役行者山のときも壬生寺の護摩焚きもこんな感じでした。


808-9.jpg
とは言え、他の修験者さんも煙まみれです。
よく見ると、髪の毛に煤が付き出しています。
そんな中でも、この状態でお祈りを始められています。
鈴の付いた独鈷を楽器のように用いて、お鈴も鳴らして
「六根清浄 疫病退散 交通安全 家内安全」
と繰り返しておられました。


808-10.jpg
さらに白い煙が、視界を遮ります。
修験者さんの一人が護摩壇に向かって祈祷されておられるのですが、
もう何が何やら全然わかりません。


808-11.jpg
そこで先程松明を持たれていた修験者さんが、
柄杓に入った水を護摩壇に撒かれます。
すると護摩壇の白い煙が治まって、こんな状態になります。
これで落ち着いて祈祷を続けられますが、
ここまでの流れも例年通りです。


808-12.jpg
煙が落ち着いてくると、護摩焚き祈祷も本格化します。
左の修験者さんが、中央の修験者さんに
護摩木を差し出しておられます。


808-13.jpg
中央の修験者さんが護摩木の封を小刀で切られると、
直後に護摩木を護摩壇に投じられました。


808-14.jpg
そして、それが終わると修験者さんが
また新たな護摩木を護摩壇に投じられていきます。
この護摩木には、予め参拝者がお祈りの言葉を書かれています。


808-15.jpg
すると他の修験者さんが独鈷やお鈴を手放して、
全員で九字祈祷を唱えられました。
中央の修験者さんは、まだ火に投じていない護摩木を
大きな枝で打ち付けておられます。


808-16.jpg
そして中央の修験者さんは、護摩壇にもその枝を打ち付けられます。
祈祷はこのように続けられているのですが、
例年よりも煙が黒いようにも思います。
あとで分かったのですが、護摩壇には
松葉以外にも小枝なども入っていました。


808-17.jpg
ここで修験者さんのうちの2人が、法螺貝を吹かれました。
ここから修験者さんたちは九字祈祷を止められて、
般若心経を唱え出されました。


808-18.jpg
すると中央の修験者さんは長い数珠を取り出されました。
そして、他の修験者さんと一緒に般若心経を唱え出されました。


808-19.jpg
とは言え、般若心経はいちばん短いお経です。
すぐに唱え終わられると、また独鈷とお鈴を持ち出されました。
そして、また楽器のようにリズムを取って
「六根清浄 疫病退散 交通安全 家内安全」
とお祈りの言葉を唱え出されました。


808-20.jpg
ここで暫くは、同じ状態が続きます。
例年なら人混みで移動は無理なのですが、
2022年は参拝者が少ないので、西側に回り込んでみました。
角度を変えると、こんな感じで祈祷されています。


808-21.jpg
その後、他の修験者さんの後ろにも回り込んでみました。
修験者さんが祈りながら、楽器のように法具を扱われています。
左右の修験者さんが、鈴の付いた独鈷を上下に振られています。
すると、独鈷の先の鈴がお祈りのリズムに合わせて
高らかな音色を出します。
中央の修験者さんは、お鈴をリズムに合わせて鳴らされていました。


808-22.jpg
その直後に独鈷を振られていた修験者さんのお一人が、
席を立たれて護摩木が積まれていたところに移動されました。


808-23.jpg
さらに数人の修験者さんが護摩壇前に集結されると、
護摩壇の周囲に積まれた護摩木を次々護摩壇に投じられました。
先程の修験者さんは1本1本祈祷しながら投じられておられましたが、
こちらは大量の護摩木を一気に投じられています。
……そうしないと、全ての護摩木を投じるのに
あまりにも時間がかかります。


808-24.jpg
そのうち、修験者さんのお一人が法螺貝を吹かれました。
すると修験者さんのお祈りが終了して、
修験者さん全員で護摩木を護摩壇に投じられます。


808-25.jpg
護摩木を投じられる修験者さんの人数が増えたので、
護摩壇の周囲に積まれていた護摩木がどんどんなくなっていきます。
その間、中央の修験者さんは休憩ですね。


808-26.jpg
そして、護摩壇周囲の護摩木は全て護摩壇に投じられました。
ただ、まだまだ護摩焚きは続きます。


808-27.jpg
護摩木を護摩壇に投じられた修験者さんたちが、
また元の席に就かれました。
そして、再び独鈷とお鈴で演奏されながらのお祈りが始まります。


808-28.jpg
するとMCを兼ねておられる修験者さんが、本殿脇に移動されます。
向かわれた先は一見するとゴミの山ですが、
旧年中にここで発行されたお守りやお札、破魔矢が入っています。


808-29.jpg
その直後に、修験者さんがそこで九字祈祷を始められました。
指を立てた右腕を振り回されておられるので、
略式だと分かりますね。


808-30.jpg
九字祈祷が終わると、修験者さんがこちらを持ち運ばれました。
そして、そのまま護摩壇に向かわれます。


808-31.jpg
さらに、その修験者さんは護摩壇の前に来られました。
そして、持たれていた紙かばんを護摩壇に投じられていきます。
先述の通り、紙かばんの中には旧年中のお守りお札、破魔矢などです。
この節分会は、収めたものを護摩壇で浄化する側面もあります。


808-32.jpg
その直後に、修験者さんのうちの2人が法螺貝を吹かれました。
その合図でお守りやお札などを護摩壇に投じられていた修験者さんが、
他の修験者さんがいらっしゃる場所に移動されてきました。


808-33.jpg
護摩壇前から戻って来られた修験者さんが、マイクを持たれました。
「以上を持ちまして、法住寺の節分会の護摩焚きは終了します」
そうおっしゃると、マイクを机の上に置かれました。


808-34.jpg
すると、今まで護摩壇の火加減を調節するため水を掛けられていた
修験者さんが一礼されました。
これで、2022年度の法住寺節分会はほぼ終了です。


808-35.jpg
その直後に修験者さんは、全員席を立たれました。
そして、護摩壇前に集結されました。
ここから、護摩焚きの後片付けが始まります。
先ずは、護摩壇を取り囲む結界を外されていますが……


808-36.jpg
さて、こちらは黒に見立てた濃紺の護符です。
黒(玄)は、北の守護神玄武を表しています。
後片付け中に使われなかった松葉やこのような護符など、
この後廃棄される呪術道具は
参拝者が持って帰ってもいいことになっています。
厄払いに財布に入れたり、かばんに収めたり、
燃え残った護摩壇に投げ込んだり、いろいろ用途があります。
自分もこの護符を持って帰ろうとしたのですが……
自分の脇にいらしたお年を召したご婦人が
修験者さんに、こうおっしゃいました。
「護符を持ち帰りたいのですが、残っていませんか?」
修験者さんたちが辺りを見回されたのですが、
もう護符は残っていません。
こういうものは、早い者勝ちが公然のルールです。
修験者さんたちが頭を下げて、
「もう残っていません。残念ですが……」
そう返事されました。
そうなると、一瞬の差で護符を手に入れた
自分にプレッシャーが掛かります。
まぁ毎年護符を持って帰っている自分は、今年は諦めます。
「こちらを差し上げます」
そう言って、こちらをこの直後に差し出しました。


808-37.jpg
修験者さんたちが後片付けをされている中、
ご住職と舞妓さんが本堂前に戻って来られました。
そして、MCがご住職に戻ります。
ご住職は、この後の動きを説明されました。
この時点で、法住寺の節分会はほぼ終了しています。
ただ2022年は、法住寺側がお汁粉や豆を振る舞っておられません。
2022年2月上旬はコロナ禍の「第6波」のただ中でしたから、
これは当然の処置なのですが、
袋に詰めた丸餅と煎り豆が人数分用意されているそうです。
帰る前に、こちらを戴けるとのことでした。


808-38.jpg
その直後に境内南側の唐門から、こちらの方々が姿を現されました。
制服から消防署員ではなく、この地区の消防団員と分かります。


808-39.jpg
消防団員の方々は法住寺境内に入って来られて、
そのまま護摩壇を解体されました。
護摩壇を解体された後、組木と燃えている部分を分けておられます。
ここから、護摩壇の消火に入られるのでしょうね。


808-40.jpg
護摩壇の前から、法住寺境内を北に向いています。
この先に、舞妓さんや修験者さんたちが向かわれています。
そちらに、たくさんの参拝者が集結されていますね。

なお今回ブログは、久しぶりに写真を40枚以上掲載します。


808-41.jpg
法住寺境内の北側に、参拝者の皆さんが並んでおられます。
先述の袋入りお餅と煎り豆を求められる方々の行列ですね。


808-42.jpg
法住寺正門前に法住寺の方丈があって、
そちらの前にテーブルを置かれて、お餅と煎り豆が載っています。
さらにご住職以外に、舞妓さん天狗装束の方が一緒におられます。
そして、舞妓さんが袋詰めの丸餅と煎り豆を参拝者に手渡されます。


808-43.jpg
そのテーブルを大写ししました。
丸餅と煎り豆以外に、鏡餅やお酒、醤油もありますね。
実は袋の中に福引も入っていて、
(全員分ではありません。入っていない方もあります)
そちらで鏡餅やお酒、醤油などが景品として当たります。


808-44.jpg
袋詰めの丸餅と煎り豆を受け取った参拝者が、次々帰られます。
という訳で、自分も正門から法住寺を出ます。


808-45.jpg
天台宗法住寺の前で、三十三間堂廻りを北に向いています。
では、この三十三間堂廻りを北上します。


808-46.jpg
法住寺の前から、三十三間堂廻りを約200m北上しました。
この左(西)側から三十三間堂に入れますが、
今回はこのまま三十三間堂廻りを北上して、七条通に出ます。


808-47.jpg
三十三間堂廻りから、七条通を西に向いています。
左(南)側の塀の先が三十三間堂で、右(北)側が京都国立博物館です。
ここからは、この七条通をそのまま西に進みます。


808-48.jpg
三十三間堂廻りから、七条通を約100m西に進みました。
こちらが、西向きの「博物館・三十三間堂」バス停です。
今回は、こちらから206系市バスに乗って京都駅に向かいます。

~これで、「2022年の法住寺節分会取材」を終えます~

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第1018回 法住寺で甘酒~法住寺の節分会2024~その1

「京のお店 今日のお品」カテゴリートップに
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前回ブログで「泉涌寺七福神巡り」の連載も終わり、
2024年も2月に入ってきました。
2月初旬と言えば節分ですが、
京都の神社仏閣では盛大な節分会を催します。
「京の道 今日の道」では毎年節分の連載を書きますが、
2024年も近所の法住寺に向かいました。


1018-1.jpg
京都駅北側市バスターミナルから、206系や208系など
七条通を東に進む市バスに乗って、約12分。
こちらは、「博物館 三十三間堂前」バス停です。
……と言う設定で、本当はウチから徒歩約10分です。
今回は、三十三間堂に隣接する法住寺の節分会に向かいます。
撮影日は、2024年2月3日節分の土曜日午前11時50分。
日差しが強くて、却って撮影に苦労しました。


1018-2.jpg
「博物館三十三間堂」バス停前で、七条通を東に向いています。
左(北)側が京都国立博物館で、右(南)側は三十三間堂です。
また七条通も約100mで突き当たっていて、
そこに智積院の勅使門が見えます。
京都国立博物館と北隣の豊国神社の辺りは、
安土桃山時代に豊臣秀吉によって大仏殿が建てられました。
また智積院も、安土桃山時代は
豊臣鶴丸の墓所があった祥雲寺でした。
つまり、この辺り(東山区鴨東地区)は
豊臣秀吉によって造営された一大宗教施設群でした。


1018-3.jpg
「博物館三十三間堂」バス停から七条通を約10m東に進み、
その位置で左(北)を向いています。
こちらが、京都国立博物館の入り口です。
ちなみに前田珈琲京博店へは博物館に入場しなくても、
こちらから入店できます。


1018-4.jpg
同じ位置で、七条通から南に向きました。
七条通から塩小路まで、「三十三間堂廻り」という道が伸びています。
右(西)側が、三十三間堂です。
約200m先に三十三間堂の南大門が聳え立っていますが、
元々は豊臣秀吉が建立した大仏殿の南大門でした。


1018-5.jpg
そうこうしているうちに、信号が変わりました。
では横断歩道を渡り、七条通南側歩道に移ります。


1018-6.jpg
七条通と三十三間堂廻りとの交差点に、
こちらの看板が立っていました。
これから向かう法住寺節分会の宣伝ですね。


1018-7.jpg
七条通から、三十三間堂廻りを南に向いています。
では、ここから三十三間堂廻りを南下します。


1018-8.jpg
七条通から三十三間堂廻りを約10m南下して、東を向きました。
ここから、三十三間堂に入れます。
ただ法住寺の節分会開始まで、あと数分です。
今回は、こちらに立ち寄る時間はありません。
……と言う訳で、今回はここは素通りです。
(三十三間堂に立ち寄った様子は、第300回ブログを参照)


1018-9.jpg
三十三間堂の入り口から、三十三間堂廻りを南に向いています。
三十三間堂の公衆トイレは、外側からも入れます。
この辺りの公衆トイレは、ここ以外は法住寺境内だけです。
ですから公衆トイレの位置は、しっかり覚えておく必要があります。


1018-10.jpg
公衆トイレの前で、三十三間堂廻りを南に向いています。
幟に書いてある「身代わり不動尊」とは、
今回ブログのメイン法住寺のご本尊です。
では、三十三間堂廻りを南下します。


1018-11.jpg
七条通から、三十三間堂廻りを約100m南下しました。
こちらは、浄土真宗遣迎院派養源院です。
浅井長政の菩提を弔うため、淀殿が豊臣秀吉にお願いして
この地にこの寺院を建立しようとしました。
淀殿の死後、お江の方が完成させました。
俵屋宗達の作品が、日本一収蔵されています。
また伏見城で割腹自殺した跡を天井に使用した
「血天井」でもよく知られています。


1018-12.jpg
養源院の前から、三十三間堂廻りを約50m南下しました。
三十三間堂廻り最南端に、
後白河天皇陵と今回ブログのメイン法住寺が建っています。


1018-13.jpg
養源院と法住寺との間に、このような路地があります。
この先に、後白河上皇の陵墓があります。
通常は公開されているのですが、
土曜日と日曜日、祝日は閉鎖されています。
(後白河天皇陵の詳細は、第299回ブログ参照)


1018-14.jpg
後白河天皇陵の南隣が、天台宗の法住寺です。
988年に藤原為光が建立した寺院ですが、
こちらが大きくなったのは後白河上皇が、
この寺院で院政を行ったからです。
当時は東山区鴨東地区一帯が、法住寺の境内でした。
三十三間堂も、もともとは法住寺のお堂の一つでした。
それが法住寺合戦で焼失して、
その後は後白河天皇陵を守護する宮寺として残りました。
明治時代になると神仏分離令によって天皇陵と分離させられ、
現在に至ります。
では、ここから法住寺境内に入っていきます。


1018-15.jpg
法住寺の門前で、様々なものが売られていました。
お札とか、お守りとか、そういうものが多いですね。


1018-16.jpg
法住寺の門をくぐり、すぐに北を向いています。
茶枳尼尊天と弁財天が、祀られています。
どちらも、女神様ですね。
この脇に、公衆トイレがあります。
こういうところでは、トイレの位置は要確認です。


1018-17.jpg
同じ位置で、法住寺境内を東に向きました。
こちらには法住寺庫裏の玄関がありますが、
節分会の間はこのようになっています。


1018-18.jpg
さらに同じ位置で、法住寺境内を南に向いています。
まるで露店が立っているようですが、
こちらで法住寺が甘酒を提供されています。


1018-19.jpg
先程の屋台の上に、こちらの台が置かれています。
甘酒を戴く前に、こちらにお布施を納めます。
10円玉も置かれていますが、
自分はこちらでは一律100円納めています。
この志納金が、来年度以降に節分会を続けるための資金です。
大勢の方々が安い金額しか納めないと、
だんだんこのようなことができなくなります。


1018-20.jpg
こちらが、法住寺で提供された甘酒です。
京都の甘酒は米麹由来なので、
アルコールが一切含まれません。
こちらを箸でかき回しながら、戴きます。
そう言えばコロナ禍を経由して、
器が湯飲みから紙コップに変わりました。


1018-21.jpg
甘酒を提供される屋台の周囲に、多くの方々が集まっておられます。
用意されたベンチや縁台に腰かけて
甘酒を戴く方々も多いですが、
そこに座れなかった方々はこの場で立ち飲みです。
自分も、一緒に立ち飲みです。


1018-22.jpg
甘酒片手に、護摩壇の北側に回り込みました。
またここは、枝垂桜の真下でもあります。
毎回法住寺節分会はこの角度で撮影していたのですが、
2024年は日差しが強くカメラから直接見た画面では
そもそも何が写っているかよく分かりませんでした。
(単に真っ白く光って見えました)
それが帰宅後に確認すると、
このようにしっかり写っていました。


1018-23.jpg
ただし撮影時は上手く撮れていたか分からなかったので、
2024年度は日差しが入らない場所を探して移動します。
まだ甘酒をすべて飲んでいなかったので、
紙コップ片手に法住寺境内を徘徊しました。


1018-24.jpg
……と言う訳で、法住寺境内を西に回り込みます。
護摩壇の南側に祭壇が置かれて、供物が並んでいます。
護摩壇には、発火用のたいまつも置かれています。


1018-25.jpg
祭壇の裏(南)側が、法住寺の本堂です。
本堂の左(東)側に赤い縁台が置かれていますが、
そちらに先斗町の舞妓さんが来られて、
この後搗き立ての餅を丸められます。
その時間が近付いてきて、
縁台の前に人が集まってきています。


1018-26.jpg
……と、ここで甘酒を飲み終えました。
そこで、先ほどの屋台に戻ります。
甘酒を飲み干した後の紙コップは、
この段ボールの中に収納します。


1018-27.jpg
甘酒を飲み干して、法住寺の護摩壇の東側に回り込みました。
目の前で、先斗町の舞妓さんが餅を丸められます。
ところが、かなりの方がこちらに集結されています。
この写真も撮影現場では真っ白い光しか画面に見えなかったので、
この位置での撮影は諦めて移動することにしました。


1018-28.jpg
この時点で、2024年2月3日正午です。
予定表ではそろそろ餅つきが始まるのですが、
まだその気配がありません。


1018-29.jpg
そう思って、先に本堂に参拝しようとしました。
すると本堂から住職が出てこられて、
石臼をあちらに置いて行かれました。
これは、間もなく餅つきが始まります。


1018-30.jpg
ということで、護摩壇の北側に戻ってきました。
よく見ると、本堂前で餅つきの準備が徐々に進められています。
ここから法住寺の餅つきが始まりますが、
もうだいぶ写真が貼り付けられました。
今回は、ここまでです。

~次回は、法住寺の餅つきを掲載します~

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ぴのぴな

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ぴのぴなと申します。
生まれたときから50数年
ずっと京都住まいです。
中2のころから
自宅近くを中心に
寺社巡りをしてきました。
このブログで,
本当に京都に来たような
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いい加減複雑になったので、
サイドバーの説明をします。
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京都市内の今の天気と
天気予報が分かります。

「京都桜100景」
ブログ用に
今まで撮った写真に
新たに撮ったものを加え
独断と偏見で桜の名所を
100選びました。
少しずつ更新して
ゆっくり完成させます。

「祇園祭の歩き方」
YAHOO知恵ノートを
こちらも利用して、
祇園祭宵山で回る
ポイントを書きました。
実際に回るときの
参考にしてください。

「京都市バス路線図」
京都市交通局発行の
京都市バスと市営地下鉄の
路線図を貼り付けました。
バス停や駅の位置以外に、
各観光地の位置関係も
これで分かります。

「京都市バス検索」
系統(「5系」とか)別に
市バスを検索できます。
各系統の停留するバス停や
バス停別時刻表が
貼り付けてあります。
京都観光に来られる前に、
今一度確認してください。

「嵐電(京福電気鉄道)」
京福電車(嵐電)のサイトを
そのまま貼り付けました。
電車の情報もありますが、
嵯峨野嵐山など
沿線の観光情報が
詳しく書いてあります。

「きょうもいろいろ」
ここと同じ
京都観光のブログです。
許可をいただいたので、
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だいあり~」
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こちらも、
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「写真缶」
京都周辺の写真と
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こちらも、
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「幼児連れで
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詳しく
書かれています。
こちらは、
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「京都パワースポット
体験」
京都の様々な情報を
連載されています。
こちらも、
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「京都散歩
日々の出来事と
三毛猫ブログ」
飼い猫と京都観光地の
様子を書かれた
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こちらも許可をいただいて
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「京都に夢中!
古都・京都
お祭りナビ」
これから始まる
京都のお祭りや
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こちらからお願いして、
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「春夏秋冬 京のくらし」
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記事は順番通り
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「京のお店 今日のお品」
緊急事態宣言後の
京都市街地で
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頑張っておられる
さまざまなお店と
その商品を
紹介して宣伝します。

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他の「道ブログ」とは
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「ここって、
何のブログなの?」
このブログの説明です。
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「限定公開」
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こうなりました。
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東京に行った記事です。
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「京都」
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入らない記事です。

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京都サンガの 試合観戦や
イベントの様子を
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ウチの近所なので、
一番よく行きます。

「伏見稲荷大社」
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初詣など
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「ゑびす神社」
毎年参拝しているので、
独立させました。

「清水寺から平安神宮」
京都の東山周辺です。
京都観光の
一番有名なコースです。
これから京都観光を
考えておられる方は、
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紅葉散策は含まれません。
そういうものに含まれない
短いものを集めました。

「京都桜案内」
桜の季節にあちこち
花見に行きました。
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「祇園散策」
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八坂神社・建仁寺など
祇園各地の散策です。

「祇園祭宵山散策」
祇園祭宵山を
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ゆっくり回ったので、
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参考にしてください。

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毎年少しずつ増えます。

「京都のお祭り」
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京都市内各地のお祭りを
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「松尾散策」
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松尾大社や法輪寺など
松尾を散策します。

「嵯峨野嵐山」
嵯峨野嵐山周辺散策です。

「京都駅前散策」
京都駅から
五条通にかけて
あちこち回りました。

「蹴上・鹿ヶ谷散策」
南禅寺のある蹴上や
哲学の道がある鹿ケ谷を
散策しています。

「太秦散策」
蚕ノ社や広隆寺、
映画村など太秦周辺を
散策しました。

「花園散策」
JR「花園」駅から
北側の衣笠山手前の
「きぬかけの路」に
かけて散策しました。
妙心寺や等持院など
並んでいます。

「松原通東から西」
清水寺~西小路間の
松原通を東から西へと
写真で追いかけます。
京都盆地を輪切りにして、
地域ごとの違いを
楽しんでください。

「松原通東から西」EX
松原通が終わる西小路から
京都盆地の西の端の
松尾までを書いています。
松原通の記事と
併せて読むと、
京都盆地の東西の様子が
よく分かります。

「三条通西から東」
嵐山から始まり、
名神高速道路
京都東インターまでの
三条通を西から東に
書いていきます。

「本町通北から南」
京都盆地の東側を通る
本町通を南から北に
進みます。

「寺町通南から北」
河原町通の1本西
寺町通を
五条通から北大路通まで
散策します。
[六原」経由で、
「本町通編」と
つながっています。

「烏丸通北から南」
「寺町通編」の最終回
今宮通から南に
十条通まで続きます。

「大和大路南から北」
本町通より1本東にある
大和大路を北上します。

「鞍馬口通東から西」
室町時代に
京都最北端の道だった
鞍馬口通を下鴨神社から
金閣寺まで進みます。

「きぬかけの路散策」
その金閣寺から西に
龍安寺や仁和寺経由で
北嵯峨まで進みます。

「塩小路東から西」
京都駅前の北側を
東西に貫く塩小路を
東端の智積院から
西端の梅小路公園まで
進みました。
そのあと、
七本松~佐井西通間の
{西塩小路編」も
続きます。

「千本通南から北」
平安時代の中心
旧朱雀大路である
千本通を
七条通から、
鷹峯まで進みます。

「高倉通南から北」
京都中心街を縦断する
烏丸通と河原町通の
中間を貫く高倉通を
北上していきます。
神社仏閣よりも、
飲食店の取材が中心に
なってしまいました。

「上立売通東から西」
今出川通の北側に伸びる
東西の道を散策します。
京都市街地屈指の
桜がきれいな通りです。

「若宮通南から北」
西本願寺と東本願寺の
中間点を通る小路を
北上しました。
京町家と古い商店街の
京都らしい町並みです。

「若宮通南から北」EX
「若宮通編」の最後から
三条通まで
若宮通の真北の通りを
北上していきます。

「釜座通南から北」
若宮通を真北に
延長した先の釜座通で
三条通~京都府庁間を
北上しました。
途中、二条城に
立ち寄りました。

「錦小路東から西」
四条通の1本北に伸びる
錦小路を東から西に
進みます。
錦市場から祇園祭鉾町へ
最終的に住宅街に
移動していきます。

「五辻通東から西」
上立売通と今出川通の
中間に伸びる五辻通を
東から西へと進みます。

「正面通東から西」
脳卒中のリハリビがてら、
比較的ウチに近い
正面通を
東から西に進みます。
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