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狸谷山不動院の火渡り祭が、昨日28日時々小雨の降る中で行われました。狸谷山不動院へは2度目ですが、火渡り祭は初めてです。
帰ってきたばかりなので、今日は本堂での「護摩法要」のところまでにします。
「狸谷山不動院」は交通安全・厄よけ祈願で有名で、東山の山腹の瓜生山の北西に位置し、山頂近くにある本殿へは長い石段(250段)の参道を上ります。
信楽焼のタヌキさんがいっぱいですが、「阪神タイガース優勝記念」の碑がちょっと寂しい。
狸谷山不動院 狸谷山不動尊
正式名は大本山一乗寺狸谷不動院といい真言宗の単立寺院です。本尊として不動明王像(咤怒鬼不動明王)を祀ります。「狸谷のお不動さん」の名で知られ、宮本武蔵が心の剣をみがいたといわれる武蔵之滝があり修行場として信仰されてきました。
平安時代に、この地が都の北東にあり鬼門であったので、守護神として桓武天皇勅願の不動尊を安置したのが始まりとされます。鎌倉時代の建長年間(1249-1256)には、現在の本堂内にある石窟に不動尊を遷して安置したといいます。
江戸時代、朋厚房正禅法師〈木食正禅養阿上人1687~1763〉は、若くして禅、律、真言、天台の四宗の要義を学び、また木食行を体得するため高野山に登りました。そしてさらなる高みを目指して参籠修行の場を探し求めていました。
正徳五年(1715)、洛北一乗寺村の狸谷と呼ばれるところに高さ、深さとも2丈からなる洞窟があることを知りました。かって、中には輝く尊像があり、それは建長3年(1249)に安置されたものと伝わっていました。
また慶長9年(1604)に剣豪宮本武蔵が滝に打たれて修行を続け、己に克つ不動心を感得したのもこの地であると知りました。この霊験を感じた朋厚法師(木食上人)は、この狸谷こそ自身が籠って行法を修行するにふさわしい場所と判断します。これが、狸谷山の開山で、享保3年(1718)朋厚法師31歳のときでした。
狸谷を拠点とした参籠、木食行は困難を極めました。そのさなかには熊野詣の難行苦行もあり、ついには熊野権現が山伏の尊形となって現れ、鉦、鐘木、杖の三種の神宝を授かったとされます。こうして狸谷山修験道が誕生しました。(宮本武蔵 修業の滝です)
法力を得た朋厚法師は、狸谷山修験道のご本尊として新たに自ら刻んだ身の丈5尺の石造不動尊像を据えます。
その尊容はかつて桓武天皇が平安京の城郭東北隅に鬼門守護として祭祀されたタヌキ(咤怒鬼)不動明王と同じといわれ、伝説の咤怒鬼不動明王が息を吹き返したと村人は歓喜し信仰の拠り所となっていきました(下の写真)。
本殿にて護摩法要が始まりました。約20名の狸谷山山伏が鈴懸姿にてお不動様に至心に経典を捧げます。
その後、修行場として各地から参籠者が馳せ参じて大いに繁栄して、狸谷山修験道の礎を築いた朋厚法師の参籠は足かけ17年にも及びました。(厳かながら勇ましい法螺貝、太鼓、そして、読経が堂内に響き渡ります)
かくして朋厚法師は人々の崇敬を集め、不動尊が安置された石窟には参拝者が絶えなかったといいます。(炎が高く燃え上がり、佳境にはいります。)
それから時は流れ、社会の変遷や為政者の干渉などもあり、明治の廃仏毀釈では残念なことに霊仏が草深く埋もれると云う嘆かわしい事態が起き、次第に荒廃してしまう地域が相次きました。
しかしながら明治の後期になって、狸谷山の法灯を護持すべく意を決した郷土の有志が立ち上がりました。(いよいよ火渡り祭が始まります。)
由緒ある咤怒鬼不動明王の再現を強く願い、誰もが参拝できるように山を伐り道を拡げ250段の階段を整備して、森林伽藍の基礎を作って、信心のための進路を開きました。(時折り小雨が降った日ですが、護摩壇の覆いも取られています。)
そして「朋厚法師の再来」を願う人々が、一乗寺の地で生まれ北海道の山寺で修行をしていた大僧正亮栄和尚を招聘し、昭和19年(1944)修験道大本山一乗寺狸谷山不動院として寺法を制定しました。(清水の舞台のようです。)
こうして、亮栄和尚は、寺門と修験道の両輪の繁栄を目指す「寺験興隆」を旗印に、狸谷山不動院中興第一世貫主として、狸谷山不動院を再興したのです。
明日は護摩壇に火が点けられ、燃え上がる炎、そして、火渡りの儀式をお届けします。
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