三井寺 1 近江八景 三井の晩鐘
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今日は京都から離れて越境します。(*_ _)人ゴメンナサイ 。
滋賀県の三井寺に訪れてから1年近くなりました。さっさと出しておかなくては。
三井寺は「近江八景」の一つである「三井の晩鐘」でも知られるお寺です。
三井寺 (説明はWikipedia)
正式には「長等山 園城寺(ながらさん おんじょうじ)」、天台寺門宗の総本山。
「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興されました。
三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦4年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上たびたびありました。
近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
大門(重文)-仁王門とも呼ばれる。
入母屋造の楼門(2階建ての門、下層と上層の境には屋根の出をつくらないもの)。
もとは近江の常楽寺にあった門を慶長6年(1601)、徳川家康が寄進したもので、墨書銘等から室町時代の宝徳3年(1451)の建立と推定される。
千社札もあんなに上まで。
日本三不動の一つで黄不動で著名な寺院。観音堂は西国三十三箇所観音霊場の第14番札所です。
金堂(国宝)
三井寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599)に再建した。
入母屋造、檜皮葺きの和様仏堂です。
屋根は最近葺き替えられたように綺麗ですね。
鐘楼(重文) 「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊るします。
この梵鐘は慶長7年(1602)の鋳造で、平等院鐘、神護寺鐘とともに日本三名鐘に数えられています。(形の平等院、銘の神護寺、音の三井寺・・・というそうです)
近江八景 三井の晩鐘
閼伽井屋(あかいや、重文)
金堂の西に接して建つ小堂、慶長5年(1600)、金堂と同じく北政所によって建立された。
堂内には天智・天武・持統の3帝の御産湯に用いられた閼伽井(あかい)と呼ぶ井戸があり三井寺の名の起こりとなった霊泉が湧出している。
閼伽井屋の正面上には、左甚五郎作の龍の彫刻があります。
昔、この龍が夜な夜な琵琶湖に抜け出して暴れる為、甚五郎自ら5寸釘で目玉に打ち込み静めたといいます。
どれが釘だか分かりませんが・・・
本尊は弥勒菩薩。去年の御本尊 御開帳の時に行きました。
三井寺は次回に続きます。
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