京都を歩くアルバム

2024年11月 7日 (木)

柳小路を歩く

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、裏寺町通・浄心寺の前の通り(裏寺エリア)を歩いたとき、途中にある「柳小路」に立ち寄りました。観光客や京都に住んでいる人にもあまり知られていない、京情緒あふれる小路です。

「焼鳥おこし〜熾〜」 焼き鳥屋さんで、土佐備長炭で焼く朝びきの地鶏と全国各地の美味しい地酒が楽しめます。串物も砂ずり、ハツ、青唐、銀杏、ねぎま、ツクネなどがあり、お酒の肴はせせり、長芋、厚揚げ、もろみなど、お米は秋鹿の全量山田錦です。

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「カシラ」 居酒屋で、名物の豚のカシラ焼は(¥160)は、国産豚を新鮮な状態で仕入れて備長炭で焼き上げ、脂がしつこくなく凝集された甘みがあり、1本食べると病みつきになるとか。お酒の相性も抜群で、お客がストップするまで出てきます。

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「マリーD」 カレー専門店で、赤ワイン煮込みの牛ホホ肉のカレーはじっくり煮込んで厚切のお肉がゴロリ、特選シーフードカレーにはエビ、イカ、ホタテ貝柱、ムール貝が、牛・豚・鶏の三品煮込カレーもあります。

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「楠-Kusunoki-」 今年の8月8日にグランドオープンした京都の和風立ち飲みバーです。新しくてまだ情報はありませんが、拡散希望だそうです。

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「静 しずか」 大正時代初期に創業したノスタルジックな居酒屋で、店内は当時の面影を残しカウンターの横には昭和のポスターが貼ってあります。酒の肴は串カツ、とり天、揚げだし、だし巻きがおススメとか。詩人の中原中也も訪れたそうです。

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「柳小路TAKA」 シェフは京都生まれで京懐石を修行後、イタリアミラノのNOBU/Armaniで10年以上板長を務め、2016年に帰国。地元京都の良さを再認識し、イタリアンと京料理をフュージョンした立ち飲み屋を開業しました。

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定番の焼き鳥に加えて、明太子の大葉巻き、ホタルイカの沖漬け、天ぷら、新鮮な京野菜など様々な料理が頂けます。裏メニューに「つくね串 卵黄とパルミジャーノ」があります。ここから数軒は「柳小路 はちべえ長屋」です。

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「酒呑にし川 柳小路店」 京都一ともいわれる日本酒の品揃えの居酒屋で、五条に「本店」があります。好みの味をいうと口に合うお酒を探してくれ、好きな銘柄を選ぶ3種飲み比べもあります。燻製・おでんなど日本酒に合う小料理があります。

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「八兵衛明神」 明治5年(1872)に新京極通りができたときに、このあたりの裏寺エリアも整備されました。ここは、歓喜光寺というお寺の境内で、工事の際に死んでいた3匹の狸がみつかりました。

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住民はそれらの狸を「八兵衛明神」「七兵衛衛明神」「六兵衛衛明神」として祀り、鎮守社とし3社が創建されました。こちらは「はちべーさん」として親しまれています。最近では、八にかけて信楽焼きの「八相縁起」の狸が八体置かれています。

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それぞれに商売上達、招恋、幸福満々、成績良好、心身健康、金運最高、勝運良調、家内安全のご利益があるとか。ちなみに、六兵衛明神は旧東宝公楽に、七兵衛明神は柳小路北の東西の通りにあった丸二食堂に祀られたそうですが、その消息は分かりません。

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「そば酒まつもと」 店主の松本宏之さんは名店「蕎麦屋 じん六」などで修業を重ね、平成25年(2013)に独立。厳選された国産蕎麦粉を使用した手打ち蕎麦とつゆは鰹節と昆布のだし効いています。お酒が飲めない人は入店禁止だそうです。

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「和風ぱん 梅鶯堂(うぐいすどう)四条柳小路店」 あんパンや黒豆パン、うぐいすパンなどは、十勝産の小豆をはじめ、京都産のお茶や酒粕などを使用。しば漬けや高菜をトッピングしたフランスパン、はったい粉の食パンなどもあります。

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「御二九と八さい はちべー」 新鮮な牛の内肉(ホルモン)を京野菜や旬の素材を使用した京料理とともに頂く「肉割烹」です。酒肴に刺身、焼き、煮物、お鍋や〆の中華麺まで、牛のさまざまな部位を、驚きの調理法で堪能できます。

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「nanako plus+(ナナコプラス)」 本物の食べる飴と飴を使った雑貨やアクセサリーのお店です。特許製法で飴に樹脂をコーティングしたチャームやピアス、ヘアゴムなどかわいいアイテムががたくさん並んでいて、このお店でした手に入らないそうです。

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「unico京都」 ウニコは東京代官山より発信のお店で、全国に9店舗展開するインテリアショップです。裏寺通からも入ることでき、柳小路では一番間口の広いお店です。

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バーの「柳小路 エンネN」 一昨年6月にお昼の「エンネ むつみ亭」を始めて、お酒と共におばんざいや季節の小鍋を楽しむことができます。柳小路の南端にきました。

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柳小路を抜けると、先日記事にした「花遊小路」の北の通りに出ます。そちらに寄り道してから再び柳小路に戻ると、マリーDに灯りがついていました。

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最後の写真は柳小路の南の入口で、柳の木がありました。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

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2024年11月 6日 (水)

萬福寺 回廊周辺の諸堂

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事では萬福寺の中央に並んでいる伽藍を見て回りました。 TOPは天王殿の前の参道で、菱形の平石を敷いています。龍の背の鱗を表していて、本来石の上を歩くことができるのは住持だけだそうです。

下の境内マップで中央の伽藍を左右対称に回廊が結び、今日は周辺の回廊に並んでいる重要な建物を半時計回り巡ります。赤の数字は七堂伽藍、それまでの日本の禅宗寺院とは異なり中国の明朝様式の配置だそうです。 

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回廊まで行く途中の南(右)に「文華殿」があります。宝物・資料の収蔵保管と展示を行い、隠元の遺品、中国伝来品、喜多元規、伊藤若沖、池大雅らの作品を所蔵し、黄檗文化研究所を併設しています。

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正面の東西の回廊、天井は「蛇腹天井」あるいは黄檗天井ともいい、龍の腹を表しています。夜でも行き来することができるように、天井から灯りが吊るされています。

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回廊の南東角にある「聯燈堂」 江戸時代の1789年に建立され、1973年再建。

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「鐘楼」(重文) 江戸時代の1668年に長崎の元奉行・黒川与兵衛の寄進です。

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向かいから見た鐘楼です。階上に梵鐘があり戦時中供出されましたが戦後再鋳。鐘は、朝4時半と夜9時に撞かれるそうです。

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「伽藍堂」(重文) 江戸時代の1669年に建立され、伽藍を守護する伽藍神を祀ります。 

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本尊として華光菩薩像を祀り、その前に中国・三国時代の武将・関関帝が立っています。華光菩薩像は昨日紹介した十八羅漢などの仏像を制作した范道生の作です。

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吊るされているのは「雲板(うんばん)」といい、食事や法要の際に、諸堂への出頭を促すために鳴らされます。その向うの右手は「斎堂」(重文)あるいは「禅悦堂」ともいい、1668年に徳川家綱が寄進した僧侶の食堂です。

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内部には范道生作の「緊那羅王菩薩立像」を祀っています。この日は中国物産展をしていました。

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魚の形をした「開梆(かいぱん)」は、儀式の時を知らせるために礼棒で打たれます。目を閉じない魚は不眠不休の修行を意味し、口から煩悩を表す泡を吐き出しています。向こうに授与所、右に曲がると売店や普茶料理の「黄龍閣」があります

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一昨日は急に萬福寺に行くことを思い立ったので、普茶料理をいただくことができませんでした(前日までの予約が必要)。前にある「香福廊(こうふくろう)」はカフェになっていて、ひやしあめを頂きました。

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一番奥の法堂の前を通って、左(北)の回廊の北西に「慈光堂」があります。一般の方の回向専門のお堂で、納骨を受け付けているそうです。

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この辺りの回廊でも中国物産を販売していました。かわいい子どもの衣装もありました。

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「禅堂(選佛場)」(重文) 江戸時代の1663年に前大老・酒井忠勝の寄金により建立された座禅道場です。斎堂と対称の位置にあります。禅堂は、斎堂、浴場(または東司)とともに三黙道場のひとつで、中では修行の一環として談笑することが禁じられています。

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「祖師堂」(重文) 江戸時代の1669年に建立され、伽藍堂と対称になっています。 

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祖師堂の中央には中国禅宗の祖「達磨大師坐像」とともに、左右に歴代住持の位牌が祀られています。

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「鼓楼」(重文) 鐘楼と対称の位置に1679年建立。朝4時半開静(起床)と夜9時の開枕(就寝)に鐘楼の鐘と鼓楼の太鼓を同時に鳴らし、時刻と消灯・起居動作の始終を知らせます。また賓客来山の際にも、鐘と鼓交を交互に鳴らして歓迎を表わします。 

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ところで、どうして中国僧の隠元が、日本に来て、幕府によって寺領が与えられて萬福寺を開創したのでしょうか? 江戸時代初期に長崎の唐人寺の崇福寺の住持に空席が生じ、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請しました。「鼓楼」

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隠元は既に高齢であったので弟子の也嬾性圭を派遣しましたが、途中船が難破して死んでしまいました。責任を感じた隠元は、30人ほどの弟子を率いて船に乗り、承応3年(1654)に長崎へ来港しました。「開山堂」

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隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う僧や学者たちが集まりその数数千ともいわれるほどの活況を呈しました。明暦元年(1655)妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津の普門寺の住持となりました。「松隠堂」

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 当初隠元の渡日は3年間の約束で、本国からの再三の要請もあって帰国を決意しました。下の「松隠堂」(重文)は、江戸時代、1663年に関備前守長政夫人性温の寄進により創建され、1694年に再建されました。

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すると、龍渓らが幕府をも巻き込んで引き止め工作に奔走し、万治元年(1658)には4代将軍・徳川家綱との会見にこぎつけました。家綱が隠元に帰依すると、当初は隠元を監視下に置いていた幕府も、国内に引き留めるために新寺の建立を提案しました。

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そして、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺を開創しました。隠元が萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664)には弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)に後席を移譲し、松隠堂で退隠しました。

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隠元は1673年に81歳で亡くなり開山堂に祀られています。隠元禅師が開いた萬福寺とその教義である黄檗宗は、当時の禅宗各派に大きな影響を与え、その改革の原動力となりました。この日(11月4日)は隠元禅師の生誕日で、開山堂で法要が営まれました。

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隠元禅師は、黄檗宗だけでなく原稿用紙や明朝体、インゲン豆やタケノコ、レンコン、スイカなどの農作物など多くのものを日本にもたらしました。このあと、当時の遺跡や珍しい塔頭を訪れました。

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最後の写真は隠元が乗って来た舟のミニチュアです。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

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