高専の魅力はいろいろあるが,「校風」もそのひとつと考えている.何とも「校風」とはとらえどころのない概念が出てきたと思われるかもしれないが,どんな学校にも学生(生徒)の特徴的な雰囲気というか「ノリ」が確かに存在することは誰しもが感じるところだろう.ここではそれを「校風」と呼ぶことにする.「校風」は過去の多くの先輩そして教師たちが作り上げてきたいわば無形財産である(群馬高専の場合,寮生の奇声(挨拶)といった難儀なものもあるが・・・).さて,学校祭などの伝統行事で色濃く現れる「校風」だが,私自身は普段の生活においてこそ重要だと感じている.その雑感を述べたい.
私が群馬高専の機械工学科に教員として赴任して2回目の冬(忘年会)を迎えた.これまでに,学生たちと触れ合って感じたのは,とにかく学生が「いい奴ら」だということに尽きる.学生同士の仲が本当に良いのだ.当人たちは別にそうでもないと言うだろう(実際にそう言っていた).だが,普通高校そして大学へと進学してきた私から見れば,高専生同士のコミュニケーションには互いを尊重しあう心を強く感じる.
友達同士ならば相互の尊重は当然だ.しかし,高専生の場合,その範囲が広いように思える.普段はあまりつるんでいないクラスメイトとも,機会があれば何の抵抗もなく楽しげに良くしゃべる.特に感心するのは,相手の話を最後まで良く聞くことだ.会話の主導権を無理に握ろうとする者はほぼ皆無で,相手の話を聞いた上で自分の言いたいことを言っている.コミュニケーションにおいて最も大切な素養が身についているのだ.
高専にはマニアックな趣味・嗜好の学生,はっきり言うとオタクが多い.また,服装が自由なのでオシャレな学生も多いが,ときには行き過ぎた格好の学生もいる.しかし,そういった個性が抑圧されることはない.互いの個性を「かなり変」だと思いつつも,対等に認め合い,先に述べたように互いの話に耳を傾けて,楽しい空気を作り上げていくことができるためだ.これが高専の根底にある「校風」だと私は思っている.
高専では,高校の授業と並行して技術者としての実習が入学1年目から開始され,気がつけば授業の方も高校レベルから大学レベルに移行している.慌ただしいスケジュールの中で,教員が呑気に学生同士のつきあい方を教育しているなんてことはない.学生が勝手に「校風」に染まっていくのである.それは1年生を見るとよく分かる.昨年は雰囲気が悪かった機械工学科の1年生たちであるが,この前ひょんなことから授業を見学したら,いまや2年生となった彼らは高専生らしい「いい奴ら」になりかけていた.
以上の話は群馬高専での私の経験であるが,かなりの部分が他の高専にも当てはまるのではないかと考えている.私は北海道札幌市の出身で,群馬高専に赴任する前に北海道大学において,苫小牧高専や旭川高専の学生たちと交友を結んでいる.彼らにも群馬高専生と共通する好ましい気質があった.というか,そもそも私が高専教員を目指したのは,彼らが「いい奴ら」だったからでもある.
学生集めは高専において非常に重要な仕事である.今後は,こうした「校風」の素晴らしさも高専の魅力として発信していければと考えている.特にオチのない文章で申し訳ないが,少し長くなってしまったので,このあたりで終わりとしたい.読んで下さった方,誠にありがとうございました.また,今回,このような機会を与えて下さった大和田純様に心より感謝申し上げます.
みなさんはじめまして。
川上@福井高専です。
4月から先生になった新米です。
Kosen Advent Calendarなるものに参加しないかという話がきたので、
記事を書いてみることにしました。
学生に伝えたいことについてです。
よろしくお願いします。
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日々学生と接している中で、
「その気持ちはわかる。でも・・・」ってことがあります。
授業中眠いし寝ちゃおう
学校さぼって遊びにいこう
ちょっとくらい期限過ぎてもいいだろう
・・・などなど
私も去年まで学生生活を送っていたので、
まだ学生気分が抜け切れていないところもありますし、
こういう気持ちはものすごくわかります。
実際、先生だって「休んでゲーセン行きたい!!今日新作稼働するのに!!!あばばばば」
って思ったりもします。
でも簡単にその誘惑にのってしまうのはよろしくないですね。
たぶん自分でもわかっているはずなんです。
行動を起こす前に考えてほしい。
その誘惑にのることで後悔することがないのかどうか。
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短いですねすいません。
>みなさん&自分
やらないといけないことをやってしまってから
年末年始の休みを存分に楽しみましょう!
石川 智浩 (産技高専 航空宇宙工学コース)
高専生活で宇宙関連の何かをやりたい学生にメッセージを送りたいと思います.
2009年1月23日,産業技術高専(旧航空高専)の宇宙科学研究同好会は種子島宇宙センターから人工衛星を打ち上げました.15cm角ほどの小さな人工衛星(KKS-1輝汐衛星:輝汐はきせきとよぶ)ですが,その目的は地球撮影・姿勢制御・新型スラスタの実証でした.衛星製作の何もかも初めてで苦労の連続ですが5年間かけて学生らとともに,地域の方とともに製作.衛星開発者全員が種子島でこの衛星が宇宙に飛び立つのを見ました.打ち上げの振動が体にまで入ってきてとても感動的でした.
航空高専衛星KKS-1(愛称:輝汐)
しかし残念ながら打ち上げ後,通信関係のCPUのプログラミングに不具合が見つかり,衛星は打ち上げ当時からいまだ制御できず.各方々から応援いただきましたが期待に添えず申し訳なく思っております.ただ全てがうまくいかなかったわけではなく,衛星からのモールス信号の電波はこの約4年間ずっと出続けています.それも他の大学の衛星とも引けをとらない電波強度.そのモールスを解読すると部分的にですが衛星電源電圧や充電電流,温度などがわかっています.だから今でも世界中・日本中のあちこちからKKS-1衛星電波の受信報告を聞きます.
あと実際はあまりお役に立てなかったと思っていたところ,複数のアマチュア無線家から「KKS-1衛星はいつも電波を出しているからアンテナ追尾の練習に丁度いい.」と聞き,意外なところで少しだけ役に立っているようで嬉しく思っています.しかしながら人工衛星としては失敗.この経験は次作る時への布石にしたい.最小限の成果になりましたがそれでも製作した学生たちはとても楽しかったと締めくくっています.
KKS-1衛星開発者たち
KKS-1衛星開発者たちに聞いてみました(半分は就職,半分は大学院進学).
「衛星を作ってどうだった?」
「なぜ衛星製作しようと思ったの?」
・・などなど,全員が宇宙・宇宙しているわけではなかった.見ると15才ごろにはこうなりたいという理想をもって,将来を見据えていた学生が多かった.
では,学生が超小型衛星の開発で学べる点は何だと思う?
多くの工学教育に有効な栄養素を含んでいると考えられます.高専生のみなさん!衛星はとっても勉強になりますよ.
ちなみに,衛星開発初期の状態は上の画像のような感じでした.ここから5年かけて一所懸命作ったわけです.最初はみんな同じスタートラインですよね.
種子島はどこにいってもキレイでした.我々は打ち上げ前日,竹崎荘という旅館に泊まりました.種子島宇宙センターのすぐ近く.夜空を見るとたまたま雲がなく流れ星は見放題でした(周りで一番明るい照明は自動販売機でした).食事の魚介類も身が締ってました.あと安納芋もおいしい.打ち上げ延期のリスクはありますが一度種子島に打ち上げを見に行くのはおススメですよ.
旅館そばの海岸
恵美の湯から.ロケットは3km先にあります.みんな打ち上げ待ち
私の知る限りですが以下の高専が宇宙関係の研究を行ったり,衛星を作る研究を始めているようです(他にもあるかもしれない.調べてみよう!).
釧路高専,香川高専,奈良高専,高知高専,大分高専,沖縄高専・・・
同好会の活動状況は以下のようにまとめます.高専生の高い能力はJAXAにも認められています(口頭ですが実際に高専生はすごいと言っていましたよ).是非思い切って!宇宙開発へ飛び込んでみてください!
高専生にとって数学を素敵だなと思う方法を考えてみましょう.
それは世界に羽ばたくためのモチベーションにもなります.
そのヒントは数学の思考の自由性にあると考えています.
なんせ自由にルールが作れますから.
かつてオイラーという数学者は,
1+2+3+・・・・と自然数を全て足した値を-1/12として求めました.
ええぇー? でも何故だろう?
そうです.非常識でも何かの不思議さを感じたとき,
数学的な探求がスタートします.
その後,上のオイラーの計算が何故意味があるかという
壮大な理論が構築されていきます.
点って何?線って何?数って何?
回るって数学的にどういうこと?
遺伝って何?などの素朴な疑問からスタートして,
いろいろとでたらめな説を言い合いましょう.
その中からなんとなくいいなあと思う考えを膨らませます.
その考えをもとにコンピュータなどを使って,
いろいろと計算をしていきます.
そして計算結果を眺めます.
ついに思わぬ法則を発見する時がきます.
自分が考えた自分だけの発見です.
その瞬間,数学を素敵だなと思う気持ちが芽生えます.
学校の数学から離れて,もっと自由な数学をやるんだ!
やるんだ!!やるんだ!!!
松田 修 (津山高専 一般教科)
みなさん,こんにちは。釧路高専電子工学科の山田です。
私は釧路高専の卒業生です。高専に入学してから吹奏楽部に入って楽器(フルート)を始めました。その後,教員になってから吹奏楽部の指揮をやっています。いまは,アマチュアオーケストラでも演奏しています。
30年近く楽器を吹いているなかで,多くの人から演奏の指導を受けてきました。プロの音楽家からフルートのレッスンを受けたときの典型的な様子を次に書きます。クラシック音楽の場合です。
曲を持ってレッスンに行くと,先生に「とりあえず吹いてみて」と言われます(この場合,生徒はもちろん私です)。事前に練習したように吹きます。
そのまま最後まで1曲吹かせるかすぐ止めるかは先生によって違いますが,いずれにせよ「もう一度最初から」と言われます。言われた通り最初から演奏すると,今度はすぐに「いや,そうじゃなくて最初の音は…」と修正指示が飛んできます。音の長さとか,強弱とか,発音の質とか,ビブラートの速さや深さなど,いろいろなことを注意されます。
なるべく指示されたように演奏し,それでうまくいけば曲は少し先へ進みます。うまくいかなければ,姿勢や呼吸,体の筋肉の使い方,アンブシュア(口の形),運指など技術的な問題について,あるいは音やフレーズのイメージなどについて「ここの部分はこうするんだよ」と教えられます。
演奏技術的な問題はその場で完全に直ることはあまりないので「まぁ練習しておいてね」ということになって,曲のもう少し先に進みます。しかし,すぐまた「いやそこはそうじゃなくて,もっとこう…」と指摘されます。そんな感じの繰り返しでレッスンは進み,あらかじめ決まった時間(個人レッスンなら1時間程度)になったら終了です。
先生が「ここはこう演奏しなさい」というとき,なぜその譜面を「こう演奏」するべきかを説明してくれる先生は,あまりいません。生徒はたいてい意味もわからず,言われる通りに演奏できるように練習を続けるのです。
ふつう音楽っていうのは,『感情を表現するもの』だといわれたりしますよね。しかし,音楽の指導者は演奏者に「この演奏でどんな感情を表現したいのか」などと聞くことはしません。ただ淡々と「ここはこう演奏しなさい」と伝え,それができれば「それでいいです」と言い,できていなければ「もう少し練習しておいて」と言うだけです。
では,その生徒が本番のステージで演奏したとき,その演奏には感情が表現されているでしょうか?表現されているとしたら,それはその生徒の感情でしょうか?それとも演奏方法を指示した先生の感情でしょうか?その演奏には,演奏者の個性があるのでしょうか?
話変わって,高専での授業で,どうしてこれを勉強しなければならないのかがわからないこと,簡単にいえば,何の役に立つのかわからないことがあるのではないかと思います。
学校で学ぶことの本質は,いってみれば「型」です。思考の型です。「こういう場合にはこう考える」というパターンを数多く経験することによって,その型を習得していくのです。
暗記科目でも同様です。多くのことがらを頭の中に,テストのために一時的にでも保持しておくためには,何らかの方略が必要です。分類して整理するとか,関連付けるとか,あるいは機械的に繰り返して覚えるとか,何でもいいのですが,とにかく覚えるという作業の型を自分なりに見つけることが求められます。
だから,高専の先生は「これはこういうものだ」と言い,それができなければ「もう少し勉強しなさい」と言うのです。音楽の先生が「ここはこう演奏しなさい」と言い,それができなければ「もう少し練習しなさい」と言うのと同じことです。それは「これが型だよ」ということであり,「型が身につくまで何度も繰り返しなさい」ということなのです。
さて,さきほどの「先生に言われたとおりの演奏」にも,その演奏者の感情や個性は入っています。人間ですから,完璧に言われたとおり演奏できることはなく,何らかの差があります。教えられた型から,ほんのわずかにはみ出した部分,それが演奏者の感情であり,個性になるのです。
型を身につけたうえで,そこからはみ出すことを「型破り」といい,歓迎されます。
型を身につけずに,勝手に振る舞うことを「型なし」といい,嫌われます。
工学の世界でも「創造性」ということがよく言われます。なにもないところから創造性は生まれません。既存の知識や技術を習得し,他者と関わる中で,そこから「ほんのちょっとだけ違った自分」を見出していくこと,それがその人にとっての創造性が発揮された部分です。はじめに型がなければ,そこからはみ出ることはできないのです。
学校のカリキュラムは,いってみればパッケージとして提供されているので,個人個人にとっては興味のあるものもないものもあるでしょう。また,将来役に立つものも役に立たないものもあるでしょう。
個別の技術に関しては,「すぐに役に立つものは,すぐに役に立たなくなる」ということも多いので,できるだけ普遍的なものを学校で教えようとすれば,必然的に「何の役に立つのかわからない」ものになりがちです。学校というところは,そういうものを提供するのが役割なのです。
学校での学びということを,その内容ではなく,型を身につけるプロセスとしてとらえてみてください。そうすれば,どんな意味のわからない授業からも学びが得られるでしょう。
みなさんはじめまして、小山高専で倫理・社会を担当している、非常勤講師の種村と申します。
さて、高専関係者のみなさんはご存知のとおり、小山高専のフレンドルフィン号は、今年の第25回高専ロボコンで、ロボコン大賞を受賞しました。
そんな小山高専のフレンドルフィン他のロボットを見学するために、みなさんは一度は、小山高専に足を運んでみたいと思うのではないでしょうか。
ロボットを見学した後は、おなかが減ると相場が決まっています。
小山高専の学食もなかなかリーズナブルでよいのですが、あいにく、お昼時しか開いていないうらみがあります。
そこで、この高専アドベントカレンダーでは、小山高専のまわりにある、おすすめの食べ物屋さんを紹介したいと思います。
まず、なんといっても「貴族の森」です。小山高専正門すぐ前、徒歩1分の立地は、まさに小山高専を見学に訪れたあなたのためにあるようなものです。中は、少し暗く、シックな感じです。日替わりパスタセットを頼めば、ドリンクもついてお得です。ピザやドリアもなかなかです。自家製のパンもいい具合です(昔は、パンのおかわり自由だったのだけどな…遠い目)。気が向いたら、入道雲パフェや、1万円コーヒーを注文するのもいいですよ。
次に、「四季の味 みらい亭」です。小山高専から、イオン方面に歩いて5分ぐらいです。ここのランチは、お値段の割に小鉢が多くて、なかなかよいと思います。私はチキンカツ定食か、日替わりランチを選んでいます。しかし、お刺身もおいしそうですよ。夜は、お酒も出すようです。
そして、小山高専にいったら、一度は味わってみたいのが、「てつじんラーメン」です。ここも、校舎から徒歩5分圏内です。小山高専の寮生は、かならず食しているといっても過言ではありません。ここは、一丁、てつもつラーメンを、もっとおなかがすいているのなら、Aセットのラーメン・もつ煮・半ライスを注文してみるとよいかと思います。半ライスといっても、ライスはおかわりできてしまいます。ラーメンにモツ煮の組合せ!これがいいんですよ。このスタミナが、小山高専の元気の源の一つになっているのです。きっと、こんな近くに、食べごたえがあるラーメン屋があることを羨ましく思うこと請け合いです。
穴場として「野菜直売所 ひな田」のお弁当はお米が美味しくておすすめです。場所は、小山高専の目と鼻の先です。野菜や果物が安く買えます。ドリンクも少しお安いです。ただ、最近高専生が、ここのお弁当の良さに気がついてしまったようで、お弁当の売り切れが早いのが難点ですな。そうそう、ひな田には、ちょっとレトロな瓶を引き抜く式のコカコーラの自動販売機があり、小山高専の学生の心をわしづかみにしています。
いかがでしたでしょうか。みなさんも小山高専に来たくなったでしょう。
小山高専は栃木県小山市中久喜大字にあります。大中小そろってますよ~。
長野高専 電子情報工学科 伊藤祥一
Kosen Advent Calendar By Teachersへの寄稿とは思えないタイトルですが、まぁいいんです。高専の現役学生に宛てて書きました。
2005年、私は松本市にある信州大学理学部に内地研究で滞在しており、クォークとグルーオンという素粒子の力学を解き明かすための研究生活に没頭しておりました。人間と会話するより、NECのSX-8にUNIXコマンドとFortran 77で話しかける方が本気で多かったよ。人間とした会話ってのも、現秋田高専の上林先生との「~/.zshrcってどう書くの」とかそんなことなんだけど。それはともかく、8月のある夜にテレビをつけたところ、たまたま情熱大陸で福山雅治特集をしていました。Talking FMリスナーなので眠くて死にそうだったにもかかわらず見入ってしまいましたが、番組内での彼の発言がとても共感するものでした。うろ覚えですが紹介します。
「売れない時期ってのは周囲に集まる友達も売れてない連中ばかりで、一緒に飲んでいるとみんな決まって『売れることがすべてじゃない』『金だけが人生じゃない』って言うんですよ。ぼくはそれって何か違うな、と思ったんです。売れたことなんかないわけですから。」
実際に売れてみてどうでしたか、とインタビュアが続けます。
「うーん、やっぱり売れることやお金がすべてではありませんね。」
デビューから15年以上(当時)もトップランナーの一人として走り続ける人ならでは重みのある発言でした。Nigel MansellというF1パイロットはその名も「走ってない奴は黙ってろ」という本を書いています。どちらも当事者になることの大切さを言っていると思います。いますよね、「○○なんて簡単だ」とか「○○したい」とかいう人。でも「今は忙しい」とか「いや、私は」とか理屈をこねて何もしない人。簡単に言うと評論家。みんなの周りにもいませんか、こういう人。もしくは自分がそうではないですか。こういうのは楽でいいんです。疲れないし責任もとらなくていいし、他人にこういう講釈をたれていれば自分が賢い人に感じられるから。ほとんどの場合は後出しじゃんけんの発言してりゃいいんだし。しかし、真剣にそれに取り組んでいる人にとってこういう評論家は激しくウザい、というか時間の無駄。頼むからごちゃごちゃ口出しすんな。おまえが言うようなことはこっちは百も承知でやっているんだ。口出しするんだったらオレより成果をあげてからにしろ。───実際に手を動かしている人からはこう見られているのに本人は「あーあ、わかってないなぁ」などとお利口さん気取り。これはなんとも格好悪いです。
なにか行動を起こすと言うことは、成果を得られるかどうかはわからない割にリスクだけはきっちり伴います。たとえばサラリーマンを辞めて起業する人は今までの何倍ものお金が儲かる可能性がある分、倒産して破産して一家離散してホームレスになっちゃって公園で寝ているところを近所のDQNにボコられるかもというリスクもあるわけ(←心配しすぎです)。これだけじゃなくて、資格を取るとか恋人を作るとか、何事も同じです。そのようなリスクを踏まえて(リスクを考えずに突撃するのは勇敢なのではなくてただのバカです)、実際に行動を起こし、全知全能を尽くして物事を成し遂げることの大変さと尊さを知ってもらいたいと思います。何もせずに安全なところから「○○しなきゃダメだよぉ」と言っている人よりも、何倍も格好いいと思います。少なくとも私はこうありたい。行動を起こしたあと、結果だけ見たら失敗したように見えてもその過程で得られるものは何倍も大きいはずです。それの繰り返しが君たちを大きく成長させます。イチローの打撃のビデオを見てゴチャゴチャと批評しているだけで3割バッターになれますか?いや、現に4割5割打っている人が3割バッターに「ここがいけない」と教えてあげるのはいいんだけどさ。そうでないなら、素振りの一つでもした方が、100倍、3割バッターへの近道だと思うね、あたりまえなんだけど。特に学生のうちは失敗が許されます。失敗しても、失敗の影響や責任はほとんど君たちには波及しません。君たちの気づかないところで、保護者の方や先生方が強力な防波堤になってくれているからです。しかし成功したら成果や賞賛はすべて君たちのものです。なんともおいしいです。ですから、ぜひ学生のうちに実際に当事者になって、いろいろなことに取り組んでもらいたいと思います。
幸いにも、プロコンやロボコンをはじめとして、高専を盛り上げてくれようとする人々(多くは手弁当です)による、たくさんのコンテストがあります。別の場所でのプレゼンのために、学生課の前に掲示されているこの手のポスターを数えに行ったら、数が多すぎて途中で挫折したくらいです。自分が輝けそうなコンテストを探して、打って出てみたらいい。ここにはほんのちょっと、打って出ようと思ってから行動を始めるためのエネルギーが必要です。F=maって真理なんだよ。止まっているものを動かすのにはすごく力がいる。でもいったん動き出したら全然いらない。調子に乗って飛ばしているところにブレーキをかけるのにもすごく力がいる。それはともかく、それらのコンテストに参加して、いざ終わりまで走りきってみると、いかに自分が井の中の蛙だったかがわかるはずですし、そこで受ける評価や賞賛は確実に次に踏み出すエネルギーになります。コンテストはなんかちょっとなー、ハードルたけぇなー、という人は、高専カンファレンスなんかに参加するだけでもいい。参加前と後で、世界の見え方が全然違ってくると思います。あの感覚は、若いときに同伴者なしで海外を旅するのと似たものがあると思います。授業中にコソコソとTwitterに文句を垂れ流しているとか、暇さえあればニコニコ動画をボーッと見ているだけとか、他人の作ったものの上で踊っているうちに冴えないおっさんになったらつまんないよ。積分ってのは、無限小の足し算なんだよ。だから、できることならいい方向に足し上げていってもらいたいものです。そうやって何十年後かに自分の先生を超えることが、一つの恩返しなんだと思いますね。
趣味の一つであるプラモデルのことについて書きます。あまり、ためにはならないと思います。
小さいころから、プラモデルが大好きで、記憶によると4歳ごろから作り出しました。当時は、お菓子のおまけのプラモデルをよく作っていました。両親が共働きであり、家に一人でお留守番のときは、ビッグワンガムというものを買ってもらっていました。そのビッグワンガムというのは、車や戦闘機などのプラモデルが入っており、それらは大変リアルなものでした。例えば、前輪がステアするものや、さらにはステアリングと前輪が連動するものすらあったように記憶しています。たくさんビッグワンガムのおまけを作りましたが、単色の出来栄えに物足りなさを覚え、間もなくして塗装をし始めました。ビッグワンガムのおまけは一般の水性塗料では塗装できない材質であったために、何度も失敗し、大変苦労した覚えがあります。
小学生になると、ちょうどZガンダムがテレビで放送されており、、、ガンプラに興味を持ち始めました。当時のガンプラは、接着剤が必須で、整形色も2色ぐらいあればいい方でした。さらに、形も、職人さんが原型を制作し、それをもとに金型を作る方式であったため、今のMGやRGと比べるのも酷な物でした。ですので、より自分が思う理想の形に近づけるために切った貼ったの改造に打ち込んでいました。しかし、小学生の時などはおこづかいが少なく、改造のためのパテや工具を調達することも大変でした。その中で、ものづくりの面白さやこだわりを持つことの重要さなどを学んだような気がします。
大学、大学院、さらには就職し、確実にプラモデルを作る機会が減りましたが、一年に最低一つは作るようにしています。現在、ガンダムのようなロボットではないですが、研究でリハビリロボットを製作しています。また、ロボコンの指導教員として、高専ロボコン用のロボットの製作指導をしています。
意識して、ロボットばかり作ろうしているわけではありませんが、小さいころからロボットばかり作っているな~と思います。
打田 正樹 (鈴鹿高専 機械工学科)
亀山@福井高専です。いつも大変お世話になっております。
この度は、『宣伝ツイートを見かけたときに酔っ払っていた』という理由から、Kosen Advent Calendar by Teachersという面白げなイベントに参加させていただくことになりました。テーマは、『高専に無知な大学院生は如何に高専を勘違いし、勘違いしたままロボコン指導教員となったか。勘違い教員は、普段何を考えているか』です。よろしくお願いします。
高専とのなれそめ
さて、早速ですが見出しの件、まずは私と高専のなれそめから話を始めたいと思います。あれはそう2006年、冥王星が準惑星に降格し、ソウル大学教授のES細胞研究ねつ造が発覚した年のことです。
私は博士課程を終えたばかりの学生で、かといって就職先も決まらず、だからといって落ち込む事もなく、毎日ごはんを沢山食べて、機嫌良く暮らしていました。(いわゆる『ごく潰し』)
むしろ、周囲の方が不憫に(もしくは鬱陶しく)思っていたらしく、とある日、准教授の先生が『んー、まあ、こんな学校もあるから受けてみればいいと思うよ』と、かなりとイージーな感じで福井高専という学校を紹介して下さったわけです。
「……高専ですか」
「知ってる?」
「……コロコロスットン号とかですかね?(※1)」
めちゃくちゃ古くて偏った知識しか持ち合わせていませんでした。
そんな私ですが、教職に就くつもりではいましたし、割とイージーな性格だったので、『高専とかよく知らんけど、まあいいか』と考え(考えてない)、履歴書を提出したわけです。
しかし、指導教授の先生が耳打ちするわけですよ。
「履歴書出すんなら、よう考えてからの方がいいで」
かなり深刻な感じだったので、おそるおそる聞き返しました。
「な、なんか問題あるんですか?」
「高専はあんまり研究できひんで(※2)」
「はぁ」
「あと、こっちのが重要やが、学生と酒が飲めん」
「それは、大問題ですね」(先生にとっては)
「それに君、ロボット作られへんやろ?」(当時は全然作ったことなかった)
「……全員ロボット作ってるって事はないんちゃいますか?」
「ほな、何やってんねん?」
「……実験とかですかね?」
今思えばそんな筈無いのですが、じゃあ他に何か知っていたかというと……。
というわけで、高専生の諸君は、どの学科に所属していようが、『ロボット作ってるか、実験してるかどっちかと思われている』と思っておいた方が無難です。(酒飲み教授と偏った教員調べ)
この勘違いは今も続いていて、楽しそうに青春を謳歌している学生を横目に、『そんな事してないで、工場の隅で実験とかすればいいのに』と思ってる教員が周りでうろうろしてるのは、学生にとって迷惑なことなのかもしれません。(が、やめません)
まあ、大学院生は、こうして高専教員になったわけです(特に高専出身ではない教員)
ポイント:
・外部の人間は、高専を殆ど知らないか、著しく勘違いしてるかのどちらか。(サンプル数1)
・高専をおおざっぱに説明すると、コロコロスットン号作ってる学校。もしくはその係累。
勘違い教員発生
こうして勘違い高専教員が発生した訳ですが、その勘違いは、仙人みたいな技官に遭遇したりしながら、着実に強化学習されていきました。(勘違いでは無かったということか?)
しかしその一方で、勘違い教員の理解と異なる事が、次々と起こり始めます。
例えば入試。
なんと、普通に成績の良い学生が入ってくるのです。しかも、副教科もできる。
これには、かなり衝撃を受けました。
高専は、こう……、もっと偏った学生が入ってくる所なんじゃないのか?」
これなら、入試で副教科を評価しない私立高校経由私立文系大学着という、世の中に沢山いそうな人種より、余程バランスが取れています。(あくまで学力的な意味で)
何かがおかしいと思いました。(おかしいのは自分)
まあ、事実は事実として受け入れるしかないのですが(良いことなのだから、受け入れれば良い……筈)、その一方で、私立文系の人々から『高専生は偏ってる』と思われてるわけですから不憫な話です。(事実無根)
だから、偏っているオーラをまとった受験生が面接に現れたりすると、『よし。君こそ高専生だ!』(偏見)と、つい高い点をつけてしまいそうになるのですが、いかんいかんと頭を振って公正な判断をしているので、ご安心下さい。
あと、これは逆の話ですが、PSPやDSを学校に持ち込んでいて、あまつさえ、授業中(C言語演習)に机の上に出ていたりする、という状況に
遭遇した時にもかなり驚きました。が、そこは偏った教員。いきなり怒ったりせず、冷静に観察します……と、その学生は、おもむろにケーブルを取り出し、PSPをパソコンに繋いだりするわけです。
「それ、何やってんの?」
「USBメモリに使ってるんです」
「……なるほど」
よし、君は高専生だ。(偏った教員による評価です)
いや、怒らなければならない場面の可能性も否定できませんが、休み時間にゲームだけしてる学生などより、ずっと高評価です。中間テストに10点足しても良いぐらいです。(足しません)
一方で、モンハンやっている癖に、アドホック通信の仕組みに何の興味も示さないような学生のゲーム機など、ゴミ箱に放り込んでやろうかとも思ったりします。が、そんな時にはかつての自分、年末に紅白も見ずに、指の皮ずる剥けになるまでツインビーをやり込んでいた事を思い出し、ぐっと我慢したりします。
遊んでるように見えて、きっと何か学んでる。筈。
だから、学生の皆さんは、教員の生暖かい視線に気付いたら、『自分はただ遊んでいるのではなく、何かを学んでいるんですよ』アピールをすると、評価が甘くなる場合があります。(問答無用で取り上げる教員もちゃんといます……というか多数派)
世渡りだけ上手くなられても困るのですが。(高専生には無用な心配(偏見))
ポイント:
・テクノロジは使ってナンボ。骨の髄までしゃぶり倒せば良い……と思ってるのは偏った教員だけで、普通の教員は取り上げます。
また、『テクノロジ』は携帯ゲームだけではありません。学校にはNCフライスや3Dプリンタ等、胸を熱くさせる設備が目白押しです。しかも、
それが比較的自由に使える所にある……にもかかわらず、誰も何も言ってくれません。
「3Dプリンタ使わせてください」
「何に使うん?」
「初音ミクを印刷するんです」(初音ミクである必要はない)(※3)
という依頼は全然無いわけです。
おかしいな。(おかしいのは自分)
まあ、全く関心が無いというわけではなく、NCフライスで彫った表札などを見せると寄ってきて、『僕の看板も作って下さい』等と言うのですが、『教えるから自分で作れ』と言うと、面倒くさそうに離れていくのです。
自分で初音ミクを作りたいと思わんのか!(初音ミクである必要は全く無い)
そんな風に、どうやったら学生に、『初音ミクを印刷させて下さい』と言わせられるのか、日々頭を悩ませているわけです。(初音ミクである必要性は全然全く無い)
普通の人生(『高専出ではない』という意味)を送ってきた者にしてみれば羨ましい環境を使わないなんて勿体ないと思うのですが、学校の図書館など使わず、さっさと帰宅していた高校時代の自分を思い出すと、『まあ、そういうものかもしれないな』とも思うわけです。が、10年後に後悔するのは間違いないので、使った方が良いと思いますよ。(そうとは限らない)
ポイント:
・教員は、学生が『初音ミク造らせて下さい』と言ってくるのを待ち構えています。(偏った教員に限る。なお、初音ミクに限定しない)
まあ、そういう風にならないのは、学生さんもやるべき事が多くて忙しいとか、周囲の環境が、そうなっていないとか、色々原因があるのでしょう。
例えば、環境といえばゴミです。
ゴミといっても、『生』や『燃える』ではなく『大型』。
子供の頃、私は大型ゴミがとても大好きでした。
大型ゴミの日には、朝から町内の一角に冷蔵庫やら洗濯機やらが野積みになっていて、回収業者が来るまで、バラしたり、持ち帰ったり、電球でキャッチボールするなど、心楽しく遊んだものです。(当然割れてガラスが飛び散る。今思えばextreme迷惑)
また、大型ゴミの日に限らず、道を歩いていると、何故か壊れた家電が放置されていたり、工事現場から木材を貰ってくるのは全く普通のことでした。
夜の散歩中に、ふらっと入った国道沿いの電話ボックスで、2400bpsの音響カプラを拾ったのも懐かしい思い出です。(これは朝になって怖くなり警察に届けたら、警官に「なんです、これ?」と言われました。音響カプラはレアな落とし物だったようです(1994年当時))
今の私があるのも、そういう経験があってのことだと思います。だから、ものづくりのための環境作りとして私達が出来ること。
それは、
ゴミはそのへんに捨てる。
NGです。
わかってます。
わかってますが、ジャンクなど壊してもいい物や、木・鉄などの原材料が身の回りにごろごろしているという状況でなければ、ものを作るという習慣は、なかなか身につかないのかもしれません。
一方で、高専という学校は、わりとそれに近い環境がある学校だと思いますので、在学中に何か作ろうと試みる。少なくとも、教員(偏っていてもなくても)が何か技を仕掛けてきたら、『ああ、遊んで欲しいんだな』と察して、優しい気持ちで接してあげて欲しいと思います。
勘違いによる部の発足と勘違いの再生産
まあ、そういう偏った教員なわけなんですが、学生の方もよく相手を見ています。ある日、とある学生(一年生)がやって来て言うわけです。
「僕はですね。高専にロボットを創る部活がないのはおかしいと思うんですよ」
「全くその通りだよね」(一年生に諭される偏った教員)
「部活作りたいんで、顧問になって下さい」
「よしきた!」(一年生に説得される偏った教員)
そんな風に、福井高専ロボット同好会は発足しました。
今では部に昇格し、部員も30名を数えるほどに成長したロボット部ですが、発足当時は新米教員と一年生三人が、何をしたら良いかも分からず、取り敢えず立ち上げた同好会だったわけで、あの頃のことを思い出すに、『まあどんな事でも、始めれば何とかなるもんだよな』と思います。
以上、偏った教員について書いてきましたが、ここまで極端に偏っていないとしても、学生をダシにして自分が遊ぼうと思っている教員、いやいや、学生と何か面白い事をしたいと思ってる教員は沢山いますので(偏った教員調べ)、尻込みしてないで、取り敢えず思いの丈をぶつけてみれば、何か変わるかも知れません。(※4)
ただ、偏った教員は、ロボコニストでハッカーで実験とゴミ拾いが大好きなスーパー高専生の登場を今か今かと待ち構えていますので、うっかり声をかけたせいで、やりたくない事までやらされて死に目に遭うという可能性も否めません。声かけは、自己責任でお願いいたします。
では、現役高専生の来室/中学生の皆様のご入学をお待ちしております、ということで、ご挨拶に代えて、次の先生にバトンタッチしたいと思います。
あり難うございました。
以下注:
※1:ロボコン89’に登場した久留米高専のロボット。『敵のゴールを塞いで妨害する』という、今やったら指導教員会議マシマシの技で試合を盛り上げた。
※2:風の噂によると、研究なんかしてると怒られるという時期もあったとかなかったとか。今は逆です。あと、何事も自分次第です。人のせいにするのはやめよう。
※3:3Dプリンタの使い道を模索中に、検索に引っかかりました。すごい難しそう。ちなみに、3Dプリンタを置く部屋の名称について、『はんだづけカフェ』に因んで、『さんじげんカフェにしましょう』と提案したら、『変な奴が寄ってくるだろ』と光速で却下されました。三次元なのに。
※4:皆さん忙しいので、なかなか動けないという可能性もあります。また、本気でそんな事したくないと思っている教員もいるかもしれません。ダムに穴を開ける前によく観察しよう。どっちに向かって崩壊するか分からないぞ。