7月の半ばころ、友人と話していた時だった。 「カロタセグで5日間、トロツコーで5日間を過ごしたくない? 住むところも、食事も全部ついているんだ。」 夏休みの予定など空白だったから、それは思ってもみない提案だった。
画家のレベンテが、毎年夏にカロタセグのアーティスト・レジデンスに参加することは知っていた。 実は、彼もその主催者のひとりであり、 今年はコロナ流行を受けてハンガリーなどからの参加者のキャンセルが相次いで、 主催者も困っているとのことだった。 誰でもいいというわけではないだろうが、 こうして声をかけてもらったのは光栄なことだ。 それも、家族全員で参加できるとのことで、 カロタセグやトロツコーはどちらも私たちのフィールドなので、 私たちにとってはまさに夢のような話だった。
その二日後、私たちは荷物をまとめて、 カロタセグ地方のスターナへ向かった。 気乗りしない長男をやっとのことで準備に急がせたり、 いつものように旦那が気まぐれを起こしたりと、 出発の直前まで、いざこざがあったことは言うまでもない。
スターナのプロテスタント教会前に車を止めて、 他の参加者の到着を待つ。 4時の待ち合わせのはずが5時になり、 6時頃になってようやく人が集まってきた。 「ほら、あの人が主催者のアティラだよ。」と友人のレベンテが示すと、 車から3人の子供たちが降りてきた。 長男と同じ年ごろの少年がいるのを見て、心の中でひそかに喜んだ。 主催者に自己紹介をすると、なんと2年前にシク村の我が家に レジデンスの参加者たちとともに遊びに来てくれた一人だったと気が付く。
目指す宿は、スターナの村からは遠い。 電車駅のすぐそばで、私たちも車のないころによく通った道だ。 雨でぬかるむ道を車で進むことはできないから、 村人に頼んでトラクターの後ろに荷台をつけて、荷物を運ぶことになった。 そして、荷物の見張りを二人の少年に任せて、 他の参加者は遠足気分で徒歩で向かうことになる。
けたたましいトラクターの機械音とともに、 たくさんの荷物とまだ知り合って間もない少年二人が出発していった。
村にある水飲み場で子供たちが遊びはじめたので、水のみ休憩。 昔は洗濯をするおばあさんの姿を見た場所だ。
小さな村を過ぎると、今度は原っぱの丘が待っていた。 そこからさらに、森の中へ。
森の山道はどろどろにぬかるみ、 長靴を履いてきた人は正解だ。 靴の底には厚い泥が張り付き、歩きにくいことこの上ない。 急に視界が晴れて、目の前に鉄道線路が現れる。
このスターナ駅は今から100年ほど前に、別荘地だったところで、 当時はハンガリーだったトランシルヴァニアの、著名人が家を建てていた。 中でも、トランシルヴァニアのハンガリー人にとって 精神的な柱であったのが建築家コーシュ・カーロイという人物。 トランシルヴァニア主義という、民族を超えた文化的な協力、統一を目指して、 第1次大戦後の新しい思想を担った。 コーシュが自分の住いにしたのが、この「カラスの城」と呼ばれる家だ。
その近くにあるのが、今夜の住いであるセントイムレイの家。 コーシュが友人の作家、セントイムレイ・イェヌーのために設計した屋敷だ。 トランシルヴァニアの民俗建築の基礎は、中世の建築にあるという 彼の言葉通りに、石の基礎と木製の屋根や壁が美しく調和している。 大きな屋敷の前では、主人の夫妻が出迎えてくれた。 気品のある初老の男性サボー・ジョルト氏は、セントイムレイ・イェヌーの孫に当たる人物。
民俗学者だった、旦那の父シェレシュ・アンドラーシュとも知り合いで、 舅の本「バルツァシャーグの民俗詩と習慣」も 彼の持つ出版社クリテリオン社から出たものだった。 氏の母親セントイムレイ・ユディットは民俗学者で、
特にトランシルヴァニアのハンガリー人の刺繍の研究で知られ、 生前知り合いになりたかった人物の一人だった。
「シェレシュ一家は二階の奥の、大きな部屋がいい。」とジョルトおじさんに言われ、 私たちは二階の部屋についた。 実は私たちは、一度ここに泊まったことがある。 3年前のイースターのツアーで、この住まいにどうしても心惹かれて、 不便な場所とは知らずに予約をしたのだった。 驚くことに私たちの今回の部屋もまた、その3年前に泊まったのと同じ部屋だった。 家具まで全部、コーシュが設計したというのだから、こだわり方が違う。
トランシルヴァニアに残る木の墓標をデザインしたテーブルや椅子にベッド。 そして、セントイムレイ・ユディットの刺繍作品や、 カロタセグのテーブルクロスがかかる調度品を眺めているだけで幸せな気分になる。
泥だらけのズボンや服を着替えて、夕食の後、眠りについた。 こうして、美しい住まいでの5日間がはじまった。
|