ディーノ・ブッツァーティ『神を見た犬』(関口英子訳 光文社古典新訳文庫)は、ブッツァーティの短篇を集めた傑作選。著者特有のブラックなお話も多いですが、優しいタッチの作品も混ざっています。原著は学生向きに編まれた作品集だそうで、それもあって、ソフトな感触の短編集に仕上がっている印象です。神や聖人を扱った作品が多いのも、意図的な編集なのでしょうか。 読みやすい短篇が収められているのはもちろん、解説や年譜等も充実しており、ブッツァーティ入門としては最適な短篇集となっています。
「天地創造」 全能の神のもとに、天使オドゥノムが携えてきたのは、ある惑星を創造するプロジェクトでした。惑星ならばもう沢山作ったという神に、天使たちは様々な生物のアイディアを示し、神はそれらを快く承認していきます。 しかし、一人だけ、高慢さで同僚たちにも疎まれている天使が示した案には承認をしかねていました。猿に似たその生物の名前は「人間」といいました…。 人間の誕生を描く天地創造のファンタジーです。神にも渋られていた人間がなぜ誕生したのか、そもそもそれが良いことだったのか悪いことだったのか…? 風刺の効いた作品となっていますね。
「コロンブレ」 船長である父親のもとに生まれ、海への憧れを持つようになった少年ステファノ・ロイ。しかし初めての船旅で、伝説の魚、恐ろしい鮫である「コロンブレ」を目撃します。父親によれば「コロンブレ」に目を付けられたら最後、相手を呑み込むまで、何年も付け狙われるというのです。 二度と海には関わるなと忠告されたステファノでしたが、海への憧れは絶ちがたく、コロンブレへの不安を抱きながらも、積極的に海の仕事に関わっていくことになります…。 恐ろしい怪物コロンブレを避け続けながら生きる男を描いた、寓話的な作品です。コロンブレの正体に気付いたときには、すでに人生は終わる寸前だった…という、「取り返しのつかなさ」感は強烈ですね。 コロンブレは、餌食になる人間とその家族にしか見えない、という設定も意味深です。
「アインシュタインとの約束」 プリンストンの街を散歩中のアインシュタイン博士は、見知らぬ黒人から声をかけられます。悪魔だと名乗る黒人は、彼の命をもらいに来たというのです。あと一か月あれば、研究が完成する、という博士の言葉を受けて、悪魔は博士に猶予を与えます。そして約束の期日が経ちますが…。 「悪魔との契約」テーマの作品なのですが、二段階のオチが待ち構えています。悪魔は、なぜアインシュタインのもとを訪れたのか? 皮肉の効いたラストは見事ですね。
「戦の歌」 王の軍隊は、勝利を重ね続け、山のような戦利品を手に入れていました。しかし兵士たちは、どこか悲し気な響きの歌を歌います。かってないほどの武運に恵まれ、悲しむ理由もないにも関わらず、兵士たちは歌を歌い続けます…。 勝利に次ぐ勝利を重ねる軍隊の兵士たちが、それにもかかわらず悲しみの歌を歌い続ける、という物語。進軍に成功しながらも一方的に進むだけで、凱旋はすることがない…というあたりに、ブッツァーティ特有のテーマが見えますね。 ブッツァーティ独特の「反戦小説」とも取れるでしょうか。
「七階」 七階建てのその専門病院は独自のシステムを取り入れていました。入院患者たちは、病気の程度によって各階に振り分けられていたのです。最も軽症の患者は七階、症状が重くなるに従って下の階に行き、一階ともなると、ほぼ望みのない重症患者が収容されていました。 最初は七階の病室に入れられたジュゼッペ・コルテは、病院の手続きや取り違えによって、次々と下の階に移されていきますが…。 最初は軽症だった男が、ひょんなことから、重症患者が入るべき下の階に移されていってしまうという不条理味強めのブラック・ユーモア短篇です。下の階に移っていく過程で実際に体調が悪くなったり、別の症状が出たりしているようで、その意味では精神的な不安が身体に影響しているようです。 主人公がかかっている病気(病院が専門としている病気でもありますが)が伏せられているのも、寓意的な要素を強くしていますね。 システムや組織の「手違い」で人間が「抹殺」されてしまう…という非人間性を読み取ることもできますし、病気とは何なのか? 純粋に肉体的なものだといえるのか? といったテーマを読み取ることもできそうです。 その不気味さと同時に、いろいろな解釈が可能な名作短篇ですね。
「聖人たち」 生前は普通の農夫だったものの、数百年を経て評価が高まり、聖人となった聖ガンチッロは、聖人たちが住む海沿いの家にやってきます。捌ききれないほどの請願を受けている同僚たちを見て、自分も何かしたいと考えるガンチッロは、ささやかな奇跡を起こしていきますが、人々はそれらをガンチッロの奇跡として受け取ってくれません…。 地味で実直な聖人が奇跡を起こしますが、なかなか認めてもらえない、という、微笑ましいファンタジー作品です。同僚の聖人マルコリーノと食卓を共にするシーンには味わいがありますね。 聖人たちが住む場所の、海水や煙までが神の一部である、という描写には、汎神論的な思想が窺えて、日本人読者には親しみが持てるところでしょうか。
「グランドホテルの廊下」 ホテルに宿泊していた「私」は、夜も更けてからトイレに行きたくなり、部屋の外に出ます。トイレに向かう途中でガウン姿の鬚の男と鉢合わせになりますが、目の前でトイレに入ることに気後れを感じた「私」はそのまま通り過ぎてしまいます。しかも鬚の男も同じような行動をしているらしいのです。 部屋のドアの前の引っ込んだスペースに身を隠した「私」は再度トイレに向かいますが、またしても鬚の男と鉢合わせしてしまい、トイレに入れずじまいになってしまいます。二人は互いの行動をうかがっていましたが…。 相手の目を気にしてトイレをやり過ごしてしまった二人の男が、互いの行動を牽制し合う…という、冗談の塊のような作品です。ただ、この感覚、読んでいて非常に共感できるもので、人間の日常感覚を上手く作品に落とし込んだ感じではありますね。結末の「やり過ぎ感」も楽しいです。
「神を見た犬」 ティスの村でパン屋を営むデフェンデンテは、伯父から財産を相続する際、その条件として、貧しい者たちに毎日50キロのパンを施すことを義務づけられ、嫌々ながらそれに従っていました。ある日人間に混じってパンをくわえてゆく犬を見つけたデフェンデンテは後を追いかけますが、その行き先は村のはずれの廃墟で暮らす隠修士シルヴェストロのもとでした。 彼と知り合いになったデフェンデンテは、その後、犬のガレオーネがパンをくわえていくのを黙認していましたが、シルヴェストロが亡くなった後はそれも惜しくなっていきます。人々は、主人が亡くなった後も村に現れ続けるガレオーネのことを、神を見た犬として、怖がり始めますが…。 主人である隠修士亡き後、神を見た犬として恐れられるようになった犬をめぐる奇談です。もともとモラルに欠けていた町の人々が、犬の目を意識してその行状を改めていきます。犬が本当に超自然的な存在なのか、神の威光に触れたのかどうか、については、はっきりしないのですが、殺されたはずなのに蘇っているように見えるシーンもあるなど、神秘的なヴェールに包まれている部分があり、いろいろ考えさせる作品になっています。
「風船」 オネートとセグレタリオ、二人の聖人は、地上ではだれひとり幸せでない、ということについて賭けを行います。オネートは、下界から貧しく幼い女の子の姿を見つけ出します。母親から風船を買ってもらった彼女の喜びは、まさしく幸せそのものでした。 しかし、通りがかった三人組の若者たちは、その喜びをぶち壊してしまいます…。 幼いがゆえの純粋な幸福感と、それに伴う絶望感を描いた作品です。風船を壊してしまう若者たちのタバコと、聖人が吸っているタバコが対比的に描かれているのも見事ですね。詩的な美しさのある作品です。
「護送大隊襲撃」 三年間の収監から解放された山賊の頭プラネッタは、仲間たちがいるかっての砦を訪れます。様変わりしてしまっていたため、本人だと気付かれなかったプラネッタは、同房の囚人のふりをして話をしますが、自分がもはや彼らの頭ではないことを実感し、そこを去ります。 一人で小屋に隠れ住むようになったプラネッタは、ある日現れた山賊志望の若者ピエトロを、まだ頭であるふりをして弟子とします。 プラネッタはピエトロの手前、ほとんど誰も成功したことがない護送大隊を襲撃する計画を立てていることを話します。護送大隊には莫大な租税を運ぶために、武装した大人数の護衛がいるのです。ピエトロはプラネッタを止めようとしますが…。 収監とそれによる体調の悪化から、その地位を追われてしまった山賊の元首領が、自らの意地をかけて護送大隊を襲撃しようとする物語です。 無謀な計画であり、実際に失敗してしまうのですが、そこに現れたのはある「救い」だった…という、哀感あふれるお話になっています。結末の情景はまるで叙事詩のような美しさに溢れていますね。
「呪われた背広」 とあるパーティで、見事なスーツを着ている男と知り合いになった「私」は、そのスーツがコルティチェッラという仕立屋の手になることを知ります。さっそく仕立屋を訪ね、スーツを作ったもらった「私」ですが、その見事な出来にも関わらず、妙な不快感を感じ、なかなか身につける気になりません。 ようやく身につけた際に、右ポケットに手を入れると、そこには一万リラ札がありました。仕立屋の忘れ物かと思いきや、ポケットに手を入れる度に一万リラ札が出てくるのです。欲に囚われた「私」は、忙しなく紙幣を取り出しにかかりますが…。 悪魔的な仕立屋が作った「呪われた背広」。際限なく金が引き出せるかのように見えますが、そこには邪悪な落とし穴が待っていた…という物語です。ろくなことにならないということが分かってからも、その誘惑には勝てない、という人間の愚かさが描かれており、風刺的な味わいも強いですね。
「一九八〇年の教訓」 冷戦の最中、ソ連の最高指導者クルーリンが急死します。西側陣営がほっとしたのもつかの間、アメリカ大統領フレデリクソンも心筋梗塞で死去してしまいます。その後も要職に就いている人物が次々と死に見舞われます。 どうやら人知を超えた力によって、地球上で権力者と見なされた人物は殺されているようなのです。命が惜しくなった人々は、進んで地位を投げ出すようになります…。 権力者たちが命惜しさに地位を投げ出すようになり、その結果、平和がもたらされる…という風刺的なアイディア・ストーリーです。ふてぶてしく権力者の地位に居座るド・ゴールが、それにも関わらず相手にされていない、という部分はブラック・ユーモアたっぷりですね。
「秘密兵器」 アメリカとソ連の対立は頂点に達し、ついにソ連はアメリカに向けて大量のミサイルを発射します。その直後、アメリカもソ連に向けてミサイルを発射します。世界の終わりを覚悟した人々は、ミサイルが白い煙のみを吐き出すのを見て安堵しますが、それは究極の「秘密兵器」でした…。 究極の「秘密兵器」の効果とは…? 互いに開発していた、冷戦を終わらせるための兵器が、結局は双方の立場を入れ替えるものに過ぎず、冷戦の構造は全く変わらなかった、という作品です。
「小さな暴君」 ジョルジュ少年は甘やかされた結果、小さな暴君といえる存在になっていました。おもちゃを買い与えても、ろくに見向きもせず、見せびらかしたいがためにそれらを集めていました。ジョルジュが出かけた際、少年の祖父は彼のトラックのおもちゃを触り壊してしまいます。 ジョルジュがおもちゃの破損にいつ気がつくか、家族は戦々恐々と見守っていましたが…。 わがままでつむじ曲がりの少年のおもちゃを祖父が壊してしまい、戦々恐々とするという物語。ドメスティックなテーマですが、どこか共感を覚える読者もいるのでは。
「天国からの脱落」 神のもとで永遠の幸福を約束された聖人たち。しかし、ふと下界の光景をのぞき見た聖エルモジェネは羨望の念に囚われます。そこには、夢と希望にあふれた若者たちが集う姿が見えていたのです。 永遠の幸福を捨ててでも、地上でやり直したいと、エルモジェネは神に懇願することになりますが…。 神に祝福された聖人が、若者たちの夢と希望を羨望し、地上で生活をやり直そうとする、という物語です。変化のない永遠の幸福よりも、失敗する危険があろうとも夢や希望を追い続けたい、というポジティブなお話になっています。
「わずらわしい男」 レモラと名乗る男が、勤務中のフェニスティのもとに面会に訪れます。聞いたこともないリモンタなる男の紹介で訪れたというレモラは、延々と自分の窮状を訴えます。あまりのわずらわしさに、フェニスティは、紙幣を渡してレモラを追い返すことになりますが…。 その「わずらわしさ」によって、人々からお金を巻き上げる詐欺師の物語、と思いきや、後半では事態はエスカレートしていきます。教会で同じ事を繰り返し、なんと神や聖人さえ彼を嫌がって逃げ出してしまうのです。ブラック・ユーモアたっぷりのファンタジー短篇です。
「病院というところ」 血だらけの彼女を抱きかかえた「僕」は、裏の門から病院の敷地内に入り助けを求めます。しかし、看護士は書類がなければ受け入れられないと突っぱねます。現れた医師もまた、入ってきた門について文句を言い始めますが…。 人の命がかかった状態でありながら、病院の入り方や受付など、独自のルールを言い立てて、状況を全く考慮しない医療関係者たちを描いた作品です。形は違えど、現実社会にもあり得る事態をデフォルメして描かれたと思しいですね。
「驕らぬ心」 都会の一角、廃車になったトラックで告解を始めたチェレスティーノ修道士のもとに、まだ若い司祭が告解に訪れます。彼は自分が「司祭さま」と呼ばれることに喜びを感じ、それが高慢の罪に当たるのではないかと心配していました。チェレスティーノは快く若者を赦します。 数年後再び訪れた若者は、今度は「司教さま」と呼ばれることに罪を感じているというのです…。 高慢の罪の告解に訪れた若い司祭が、訪れる度に地位がどんどん上がっていく…という物語。ささやかな「高慢」に罪を感じる若者の純真さに修道士は苦笑いしますが、その純真さゆえに、彼が評価されていくようになった、ということでもありましょうか。
「クリスマスの物語」 クリスマスの夜、神と共に過ごす大司教のために、司教館を整えていた秘書のドン・ヴァレンティーノ。みすぼらしい男が現れて、その場所に感嘆します。自分にも少し神を分けてくださいという男に、大司教さまから神を奪おうというのか、とドン・ヴァレンティーノは怒りますが、 その瞬間、建物の中から神が消えてなくなってしまいます。大司教のために、神を分けてもらおうと、外に出たドン・ヴァレンティーノでしたが…。 大司教のための「神」を無くしてしまった秘書が、それを探し回る…というファンタジー作品。この作品に登場する「神」は、神の威光を帯びた空気のような存在として描かれています。善人のそばに発生するようなのですが、我欲や吝嗇といった気持ちを抱くと消えてしまいます。 「神」を求めていく先々で、どんどんと「神」が失われていってしまう、というあたり、ファンタジーではありながら、シビアな雰囲気がありますね。本当に大事なものとは何なのか? という寓話的なメッセージも込められているようです。
「マジシャン」 作家の「私」は、家に帰る途中で、知り合いのスキアッシ教授に出会います。彼の素性ははっきりせず、マジシャンだと噂する者もいました。近況を訊かれた「私」は、疲れもあり、自信なさげに応答しますが、スキアッシは、現代において作家という職業は本当に必要なのかと、議論をふっかけてきます…。 現代における作家とその役割について、冷徹に語るスキアッシと、その言葉に滅入ってしまう作家の「私」の対話が描かれる作品です。 スキアッシの言葉の妥当性にはうなずきながらも「私」が自らの作家としての使命感と意味に目覚める後半の展開には爽快感がありますね。 ブッツァーティの作家としての矜持も窺えるようで、その意味でも興味深い作品です。
「戦艦《死(トート)》」 第二次大戦時、フーゴ・レグルス海軍少佐は「作戦第9000号」と題された秘密作戦が存在し、部下だったウンターマイヤーを始めとした多くの人間がそのプロジェクトに駆り出されていくのを目にしていました。しかし極秘のその作戦の内容は全く知らされず、戦後に至っても、その内容は明かされていませんでした。 レグルスはその作戦を調べていきますが、そのうちにそれは巨大な戦艦の建造計画だったのではないかと考えるようになります。折しも、行方不明だったウンターマイヤーが発見されます。 ウンターマイヤーは自殺未遂をし、死を迎える前の短い間に、戦艦フリードリヒ二世号のその後のことを断片的に語ります。終戦時にすでに完成していた戦艦は、投降することを良しとせず、そのまま運行を続けていたというのですが…。 その存在が秘匿されて続けていた、謎の巨大戦艦。終戦後も動き続けていた彼らは、いったい何と戦っていたのか? 一部の軍人の狂気から発した行動かと思いきや、実際に「敵」が現れ戦いを始める戦艦の姿に驚愕します。「敵」の正体は亡霊なのか、それとも異次元の存在なのか…。 神秘的な雰囲気に包まれた、戦争奇談です。
「この世の終わり」 ある朝、とてつもなく巨大な握りこぶしが町の上空に現れます。それが神による世界の終わりだと考えた人々は、あわてて告解をして救われようと、若い司祭を取り囲みますが…。 世界の終わりに直面した人々のエゴイズムを描いた作品です。それが本当に世界の終わりなのか、司祭に告解をしたところで救われるのか、全く分からない状態ながら、極限状況で何かにすがろうとする人間たちの心理が描かれており、迫力がありますね。
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