分身―あるいはわが小ロシアの夕べ (ロシア名作ライブラリー) (日本語) 単行本 – 2013/2/1 ロシアの作家、アントーニイ・ポゴレーリスキイ(1787-1836)の『分身 あるいはわが小ロシアの夕べ』(栗原成郎訳 群像社)は、自分自身の《分身》と出会い友人になった男が、夜な夜な語り合うという、幻想的な連作枠物語です。
ウクライナの地主屋敷で孤独に暮らす男の前に、自分自身の《分身》が現れます。親友となった二人は、夜ごとに対話を繰り広げることになりますが…。
作品全体は大きく第一部と第二部に分かれています。第一部は第一夜から第三夜、第二部は第四夜から第六夜と、さらに分かれています。主人公のアントーニイ(作者自身?)と《分身》が幻想的な小説や挿話をめぐって対話を繰り広げる、という体裁の作品になっています。 アントーニイがロマンティックな性分に描かれているのとは対照的に、《分身》がその超自然的な出自にも関わらず皮肉なリアリストとして描かれているのが特徴です。第一夜、出現直後の《分身》に対して、《分身》を見た人間は死んでしまうのではないかと恐れる主人公に対して、迷信に過ぎないと退ける《分身》の態度は実に皮肉です。
基本的には、短篇の幻想小説がいくつか挿入され、それに関して対話や、別の細かいエピソードが挟まれていく幻想的な対話編、といった趣の作品といっていいでしょうか。挿入される短篇はいずれも面白いですね。以下、個々に紹介します。
「イジードルとアニュータ」 フランス軍の迫るモスクワを舞台に、恋人アニュータのために軍務を捨てようとするイジードルは、母親に諭されて軍務に復帰します。しかし帰還した彼の前にあったのは焼失した自宅でした。その後、イジードルは夜な夜な何者かと話すようになりますが… 誇りと祖国愛のために恋人と母親を犠牲にしてしまった青年が幻影を見る…という幻想的な恋愛小説です。
「歯止めの利かない夢想の破局」 純真な青年アルツェストは、悪魔的な科学者アンドローニ教授の一人娘のアデリーナに一目ぼれしてしまいます。しかしアルツェストのお目付け役の「わたし」は、絶世の美女でありながら、おかしな態度を繰り返すアデリーナに不信感をぬぐえません。 恋に目が眩んだアルツェストは「わたし」の留守中にアデリーナと結婚してしまいますが…。 ストーリーがE・T・A・ホフマンの短篇幻想小説「砂男」そっくりで、明らかにオマージュと取れる作品です。ただホフマン作品にはあった主人公のトラウマであるとか、科学者の行動の動機であるとか、細部が微妙に変えられているため、作品から受ける印象は結構異なっていますね。主人公の精神的な苦しみがそれほど描写されないため、ホフマン作品よりからっとした印象の作品になっています。
「ラフェルトヴォの罌粟の実菓子売り」 ラフェルトヴォの罌粟の実菓子売りの老婆は、その実、魔女と噂される人物でした。甥のオヌーフリッチは彼女に悔い改めるように忠告しますが、老婆を激怒させ縁を切られてしまいます。しかしオヌーフリッチの妻イヴァーノヴナは娘のマーシャの持参金のため、夫に内緒で娘を連れ、老婆の家に和解を求めて訪れます。気をよくした老婆はマーシャにいずれ現れる求婚者と結婚しろと告げます。さらに、その家で老婆が連れた黒猫が人間の顔をしているの見てマーシャは驚愕します。 やがて父親が花婿にと連れてきた九等文官ムルルィキンの顔を見たマーシャは、それがかって目撃した黒猫の変身した姿と同じ顔をしているのを知ります…。 邪悪な妖術使いの老婆の呪いに囚われた娘が、それをはねのけるまでを描く怪奇小説です。黒猫(悪魔の化身?)が変身して婚約者として姿を現すのですが、その描かれ方にはどこかユーモアもあって、ホフマン風のキャラクターといってもいいでしょうか。 解説によれば、プーシキンの『ベールキン物語』にはこの作品の影響があるとか。
「駅馬車での旅」 駅馬車でフランス陸軍退役大佐ファン・デル・Kと乗り合わせた「ぼく」は、彼から奇妙なうち明け話をされます。かってボルネオに生まれた彼は、幼いころに島に住む凶暴な猿にさらわれ、雌の猿に養育されたというのです。 数年後、生家を見つけたファン・デル・Kは人間としての生活を取り戻しますが、彼の居場所を見つけた育ての親の雌猿トゥトゥは、彼のもとをしばしば訪れることになります。やがて成長した彼は、美しい娘アマーリヤと婚約します。ファン・デル・Kから育ての親の話を聞かされたアマーリヤは、自分を取るか育ての親をとるか、二つに一つだと恋人に決断を迫りますが…。 猿(おそらくオランウータン)に育てられた男の、奇妙な人生を描く物語です。野生動物の世界を身をもって理解しながらも、人間として生きざるを得ない男の葛藤がテーマとなっています。 育ての親の猿トゥトゥが情愛豊かで純粋に描かれるのも特徴で、その悲劇的な結末にはある種の感動がありますね。
第二部の第四夜は、小説でなくエッセイになっていて「なぜ賢明な人間が時として常軌を逸した愚行をなすのか」「人間の知能の程度はどのような方法で決定されるか」などのテーマが扱われています。 ちょっと皮肉なタッチで語られるエッセイで、現在で言うところの「自己啓発」的な内容として、今読んでもなかなか面白いところですね。人間の能力と特性について、オリジナルの図が挿入されるのも興味深いところ。
上記のようなエッセイが突然挟まれたり、正直あまりまとまりの感じられない構成ではあるのですが、挿入されたエピソード含め、ごった煮的な魅力のある作品であることは確かで、妙なエネルギーのある作品になっていますね。 《分身》が結局何者だったのか? などは明かされず仕舞いです。さらに言うと《分身》が自分の経験を語ったり、友人から聞いた話(友人がいる?)を語ったりと、普通の人間なのか超自然的な存在なのか、ちょっと微妙な描かれ方をしているところも面白いところではありますね。
ポゴレーリスキイ、ドイツ・ロマン派、特にホフマンの影響が強いとのことで、それは作品を読んでいても感じられます。「砂男」そっくりの「歯止めの利かない夢想の破局」はもちろん、「ラフェルトヴォの罌粟の実菓子売り」に登場するホフマン風な人物文官ムルルィキン、さらに言えばこの『分身』という作品の構成自体が、ホフマンの作品<セラーピオン朋友会員物語>に似ている、というのもその影響でしょうか。
テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学
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