奇妙な世界の片隅で ロシアの作家
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ユーモアと哀愁  高橋知之編訳『19世紀ロシア奇譚集』
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 高橋知之編訳『19世紀ロシア奇譚集』(光文社古典新訳文庫)は、知られざる19世紀ロシアの幻想小説を集めたアンソロジーです。全七篇収録ですが、トゥルゲーネフ作品以外は本邦初訳とのこと。
 全体に「軽み」「ユーモア」が感じられる一方で、物哀しさや哀愁の感じられる作品も多い印象です。

アレクセイ・トルストイ「アルテーミー・セミョーノヴィチ・ベルヴェンコーフスキー」 (1845)
 馬車が壊れたため立ち寄った村で、そこの地主「アルテーミー・セミョーノヴィチ・ベルヴェンコーフスキーの屋敷に世話になることになった「私」。アルテーミー・セミョーノヴィチは発明家の奇人で、「私」にたびたび奇怪な発明品を見せて回りますが…。
 奇人で発明家の地主に出会うという物語です。アルテーミー・セミョーノヴィチの発明がどれも役立たずでシュール。永久機関を真面目に考えているなど、エキセントリックの塊のような描写が楽しいユーモア奇談になっています。

エヴゲーニー・バラトゥインスキー「指輪」 (1832)
 貴族ドゥブローヴィンは、その優しさから農民たちを助けており、経済的に困窮していました。隣人のオパーリスキーは資産家ながら、吝嗇な変わり者との噂もありましたが、ドゥブローヴィンは援助を求めて訪ねていくことになります。
 ドゥブローヴィンと対面したオパーリスキーは、ドゥブローヴィンのしている指輪も見るなり、次々と彼に支援を続けることになりますが…。
 「魔法の指輪」をめぐる幻想的な物語です。願いをかなえる不思議な指輪が登場しますが、こちらをめぐって一人の男の不遇な人生が語られることになるという、ちょっと哀愁を帯びた物語となっていますね。
 最終的に超自然性は否定されてしまうのですが、挿話の形で語られる幻想譚はとても魅力的です。

アレクサンドル・ヴェリトマン「家じゃない、おもちゃだ!」 (1850)
 家の精ドモヴォイの住む二つの屋敷には、それぞれ祖母と暮らす少年ポリフィーリー、祖父と暮らす少女サーシェンカが暮らしていました。互いに過保護な状態のポリフィーリーとサーシェンカは、それぞれの理由から違う性別の格好をさせられ、互いに性別を勘違いしていたまま友人となります。
 長じて二人は恋仲となりますが、家をめぐる対立から喧嘩別れしてしまいます。一方屋敷の改築をめぐって二人のドモヴォイの間でも対立が発生することになります…。
 繊細で世間知らずの少年少女のロマンスと共に、家の精ドモヴォイの対立が描かれる、コミカルな雰囲気の幻想小説です。
 世間知らずで繊細に育てられたため、互いに奥手な少年少女が結ばれるのか?というパートと、ドモヴォイの対立からおもちゃの家が作られるパートが併行して進むことになります。超自然的な存在であるはずのドモヴォイたちが、屋敷の住人たちの社会的・経済的な経緯にその生活を影響されてしまう…というあたりも、妙にリアルで面白いです。

ニコライ・レスコフ「白鷲――幻想的な物語」 (1880)
 ガラクチオン・イリイチは、その魁偉な容貌に似合わず、善良で有能な男でした。彼はパーニン伯爵から名を受け、県知事Pの職権乱用について調べるために現地に派遣されることになります。
 現地で美丈夫の青年イワン・ペトローヴィチと出会ったガラクチオン・イリイチは、屈託のない青年に魅了されますが、青年は急死してしまいます。その直後からガラクチオン・イリイチはイワン・ペトローヴィチの幽霊に悩まされることになりますが…。
 幽霊に憑かれた男を描く幻想小説なのですが、青年の急死の理由も分からず、さらに幽霊となった青年が生前とは全く違った態度を取るなど、不条理度の高い作品となっています。
 ガラクチオン・イリイチは、青年を邪眼で殺したと噂され、本人はそれを迷信だとしていますが、こちらも本当にそうであるのかは分かりません。結末でも突然コミカルな雰囲気になったりと、オフビートな怪奇小説となっていますね。

フセヴォロド・ソロヴィヨフ「どこから?」 (1884) 
 「私」は、知識人である友人の「彼」のもとを訪れ歓談していました。しかし気が付くと、がらんどうの部屋の真ん中に一人立っていました…。
 死者と話した男の物語です。唐突に現実に引き戻されるシーンは戦慄度が高いですね。

アレクサンドル・アンフィテアトロフ「乗り合わせた男」 (1886)
 列車内で灰色のコートを着た小男に突然話しかけられた「私」。彼は「私」が五等官であるか頻りに尋ねます。男はなんと死者であるというのです。列車の事故で肉体が破損してしまった彼は天国にも地獄にも入れなくなっているといいます。同等の官位、なおかつ同様の状況で落命した人間から、肉体の一部を借り受け、死者の国に入るためにずっとさまよっているといいますが…。
 死者の国に行くために肉体を集めて回る幽霊の物語です。死者の国に入る条件として、同じ官位の体を集めないといけない、というあたり諷刺的です。素っ頓狂な結末といい、ブラック・ユーモア怪談として面白い作品です。

イワン・トゥルゲーネフ「クララ・ミーリチ――死後」 (1883)
 叔母と共に暮らす繊細な青年ヤコーフ・アラートフ。友人のクプフェルに誘われて行った音楽会で、魅力的な女優クララ・ミーリチと出会います。クララから熱い視線を感じていたアラートフは、後日クララから逢引きしたいという手紙をもらって彼女と会いますが、一方的に失望され、傷心で帰宅します。
 直後にクララが舞台上で毒を飲んで自殺したことを聞かされたアラートフは、彼女の過去を知りたいと彼女の生家を訪れることになりますが…。
 繊細な青年が、死んだ女優に憑かれていく…という幻想小説です。クララがなぜアラートフに目を付けたのか、なぜすぐに命を絶ったのか?ということは説明されず、実際アラートフがクララの生家で情報を聞いてもそれははっきりしません。
 幽霊がアラートフの前に現れるのですが、それが実際に現れているのか、アラートフの妄想なのかどちらとも取れるようです。
クララの行動及び死に関して明確な因果関係が示されないため、いろいろな解釈ができる魅力的な幻想小説となっていますね。

 こちらのアンソロジーの解説でも言及のある、ニコライ・カラムジンの短篇「ボルンホルム島」(金沢美知子編訳『可愛い料理女 十八世紀ロシア小説集』彩流社 収録)、ロシアのゴシック小説の先駆作だと言われているらしいのですが、こちらも読みましたので、一緒にご紹介しておきます。
 旅人である「僕」は、ロシアに帰るためロンドンから船に乗り込みますが、とある町で、憂鬱で悩まし気な青年がギターを伴奏に歌ったオランダ語の歌に魅了されます。その歌の中ではボルンホルムなる土地の名前が言及されていたのです。
 船旅の途次、デンマークのボルンホルム島に降り立った「僕」は、島の古城でスラヴの血を引くらしい博識の老人と出会い話をすることになります。
 夜に近くを散策していた「僕」は入り込んだ洞窟の奥に囚われているらしい衰弱した若い女性を発見しますが…。
 引き裂かれた恋人、古城に住む謎の老人、洞窟に幽閉された美女…。ゴシック小説のモチーフが多く散りばめられた短篇なのですが、それらの要素が発展しきる前に物語が閉じられてしまう、というところで、「習作」的な印象を受ける作品です。
 というのも、語り手の「僕」が出会った、青年と老人と幽閉された娘の間に何か関係があることはうかがわせておきながら、その真相が明かされないのです。
 青年と娘との間に禁断の恋があり、その「罪」のために娘は自らの死を望んでいるらしい…というところまでは読み取れるのですが、本当のところは何があったかは分かりません。作中で老人は真実を語り手に語ったことにはなっていて、それが「身の毛もよだつ話」と描写されているのに興味を惹かれますが、内容が語られないまま終わってしまうのには、ちょっと不満感が残りますね。
 ゴシック風味の作品ではあるのですが、ゴシック小説にはなりきっていない作品、という印象です。


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奇態な物語  ホルヘ・ルイス・ボルヘス編『ロシア短篇集 バベルの図書館16』
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 ホルヘ・ルイス・ボルヘス編『ロシア短篇集 バベルの図書館16』(国書刊行会)は、ボルヘス編の文学全集シリーズ〈バベルの図書館〉、その一巻として編まれたロシア文学アンソロジーです。ドストエフスキー、アンドレーエフ、トルストイの短篇三篇を収めています。

フョードル・ドストエフスキー「鰐 -ある異常な出来事、或いはアーケード街(パツサージユ)の椿事(パツサージユ)」 (望月哲男訳)
 ペテルブルグのアーケード街に有料で展覧されている鰐を見物に訪れたイワン・マトヴェイチは、鰐に食いつかれ、そのまま体を丸呑みにされてしまいます。
 妻エレーナ・イワーノヴナと友人の「私」は慌てて、興行主のドイツ人に鰐を切り開いて助けるように話しますが、ドイツ人はそれを拒否します。
 そんな中、鰐の中からイワン・マトヴェイチの声がします。彼は鰐の体の中でそのまま生きているというのです。
しかも彼は経済原則について話しており、興行師の立場に理解を示しさえしていました…。
 見世物の鰐に呑み込まれた男がそのままの状態で生存し、独特の理屈をこね続けるという不条理短篇です。
 呑み込まれたイワン・マトヴェイチを始め、周囲の人物が最初は驚きこそすれ、鰐の体で生き続ける男の存在を普通に受け入れてしまうあたり独特の雰囲気ですね。
 飽くまで「経済」や「金」にこだわる人々にも苦笑してしまいますが、鰐の体の中が解説されるあたりも奇妙で面白いです。内臓はなく空っぽで、周囲の皮は伸びるため一人どころか何人も入れそうだというのです。
 妻や友人の「私」も一緒に入らないかと誘われるなど、ブラック・ユーモアも利いています。

レオニード・N・アンドレーエフ「ラザロ」(金澤美知子訳)
 死んでから三日三晩経過して復活したという男ラザロ。しかし彼と接した生者の人々は、その眼差しに恐れをなし、段々と彼の周りを離れていきます…。
 死して後、キリストによって復活させられた男ラザロの伝説をテーマに描かれる宗教的な幻想小説です。しかし蘇りの「奇跡譚」ではなく、蘇った男ラザロが「死」をふりまく…という凄まじくダークなトーンに彩られた作品となっています。
 蘇ったといえど、ラザロはむしろ死者に近い存在で、彼に接した人間は暗い情念を植え付けられてしまいます。陽気なローマ人も皇帝さえもが、その心を傷つけられてしまうのです。その忌まわしさのあまり、皇帝がラザロを殺すことさえ憚ることになるという展開も強烈ですね。
 ラザロの眼差しによって精気が奪われてしまう…ということで、吸血鬼テーマの作品としても解釈できるようで、実際、エレン・ダトロウ編の吸血鬼小説アンソロジー『血も心も 新吸血鬼物語』(新潮文庫)には吸血鬼小説としてこの作品が収録されています。

レフ・トルストイ「イヴァン・イリイチの死」(川端香男里訳)
 控訴院判事イヴァン・イリイチが、45歳で死を迎えるまでが、彼の過去の人生を振り返りつつ語られるという作品です。
 それなりの収入と立場があり、妻子にもめぐまれ、娘には良い婿もいる。世間的には成功者であるイヴァン・イリイチが、その実、妻との間は終始上手く行っておらず、病を得てからは自分の人生に問題がなかったのかと考え込むことになります。死への恐怖に囚われ、臨終の数時間前まで肉体的・精神的に苦しむさまが描かれていくあたりの迫力は強烈ですね。
 イヴァン・イリイチの病がどのようなものであるかは最後まではっきりしないのですが、これは飽くまで死に相対し自らの生を振り返るイヴァン・イリイチを描くのが主眼であるがゆえに、病の詳細はあまり関係ない、というところなのでしょうか。
 主人公に最終的に「救い」が訪れることになり、その意味では本来、ヒューマニズムの文脈で読まれる作品なのでしょうが、イヴァン・イリイチの抱く死への恐怖、過去の悔恨だけでなく、肉体的な衰弱や、その過程での家族からの孤立など、主人公の孤独感・絶望感が描かれる部分は恐怖小説といってもいいほどですね。



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魂の飛翔  アレクサンドル・グリーン『輝く世界』
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 アレクサンドル・グリーンの長篇『輝く世界』(月刊ペン社)は、空を飛ぶことができる男と、彼が社会に与える影響を描いた、幻想的な小説作品です。

 ある日突然「太陽サーカス」の支配人の前に現れ、自らの特技を売り込んだ「二重星の男」。一回切りの条件付きで出演を承諾したその男ドルートは、物理的な法則を無視して空を飛び回る能力を持つ男でした。最初は熱狂していた観衆も、ドルートの超自然的な力に恐れを感じ始め、パニック状態になってしまいます。
 一方、観客の中にいた大臣の美しい姪ルナ・ベグエムは、ドルートの姿に運命的なものを感じていました…。

 空を飛ぶことが出来る男ドルートと、彼が社会や特定の人々に与える影響を描いた、幻想小説作品です。ドルートの能力は文字通り空を自由自在に飛べる、というもの。彼にとって飛ぶことは「自由」と同義であり、サーカスへの出演も、その能力をさび付かせない練習のようなものでした。
 ドルートの飛行を見た者たちの反応は二つに分かれ、彼の自由な精神に同調するものと、彼を社会への敵とみなす者、二種類に分かれていました。ドルートを危険分子と見なすようになったサーカスの支配人や大臣などは、彼を捕らえたり殺したりしようとします。
 大臣の姪ルナは、ドルートの能力に憧れを抱きながらも、彼は世界の支配者になるべきだとして彼を焚きつけますが、ドルートはルナの思想に失望し、二人は袂を分かつことになります。ドルートを「敵」と思い込んだルナは様々な部下を使って彼を追い詰めていこうとします。ルナの追手から逃げ出し、ドルートは自由を貫徹できるのか?というのが、一つの読みどころになっていますね。

 ドルートの飛行能力に関しては、科学的にせよそうでないにせよ、特に説明はされず「そういう能力」とされています。飛行は彼の自由な精神の表れでもあり、それを抑圧する社会は、著者グリーンの生きていた当時の社会の反映でもあるのでしょう。
 露骨にドルートを「社会の敵」として否定する人々とは違い、ルナに関してはドルートに対して両義的な思いを抱いています。彼への崇拝の念が反転して恨みになってしまったような風でもあるのです。ルナの精神が「救われる」のかどうか? というのも興味深いところですね。

 ドルートの飛行が描かれるシーンは非常に幻想的でロマンティック。そして、彼の生き方や思想も夢想家そのものです。その一方、彼が生きる社会はその夢想家気質を許さずに排斥しようとします。そこに現実と幻想の相克、というテーマを見てみることもできますね。
 全体を通して非常に美しい幻想小説です。周囲や社会の排斥にも関わらず、主人公ドルートの信念が全く揺るがない…というところも、そのポジティブかつ夢想的な雰囲気の理由の一つでしょうか。


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驚異(脅威)の発明  アレクサンドル・ベリャーエフ《ワグナー教授》シリーズ

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アレクサンドル・ベリャーエフ『眠らぬ人 ワグナー教授の発明』(田中隆訳 未知谷)

 天才科学者ワグナー教授のとんでもない発明とそれによるトラブルが描かれていくという、コミカルなSF・幻想連作集です。
 研究の活動時間を増やすために眠らなくなったワグナー教授を描く「眠らぬ人」、ある組織に囚われた教授が、脱出のため物質を透過する体になるという「本棚からの訪問者」、教授の実験により地球の自転速度が変えられて重力が変化してしまうという「奈落の上で」、教授の活躍と噂される事件とその真贋を教授自身が付け加えるというエピソード集「作られた伝説と外伝」を収録しています。
 天才科学者ワグナー教授の発明によって、思いもかけない事態が起こるというSF・幻想小説集です。アイディアの突拍子のなさはもちろん、それによって人間や世界の様子が一変してしまうという、奇想SF的な味わいも強いですね。

 表題作「眠らぬ人」では、寝ている間に活動できなくなるのを惜しんだワグナー教授が、睡眠に抵抗する物質を発見し、夜の間も眠らずに活動するようになる、という物語。さらに疲労に抵抗する物質、また左右の脳、左右の眼球がそれぞれ別の作業ができるようにし、結果的には従来の何倍もの活動ができるようになるというのです。「睡眠」や「疲労」はある種の病気に過ぎない…とする考え方は面白いですね。
 ワグナー教授の研究に目を付けた秘密組織にさらわれてしまい、そこから発明を使って脱出する…という展開も楽しいです。

 「本棚からの訪問者」は「眠らぬ人」の直接的な続編。秘密組織から逃げ出したワグナー教授が再度囚われの身になり、そこから再び逃げ出すまでの顛末を描いた物語です。脱出のため、物質を透過させる体になったワグナー教授の活躍が描かれます。
 メインとなるこの「透過」モチーフも面白いのですが、興味深いのは、幽閉中のワグナー教授が発明するガラス球が描かれる部分です。ガラス球の中に小宇宙を想像し、その中の惑星には人類にも似た知的生命体が生まれてくるというのです。しかもその時間の速度は現実世界よりはるかに速いといいます。
 SFで言うところのいわゆる「小宇宙」テーマのエピソードです。本作は1926年発表、有名な同テーマ作品、エドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」が1937年発表なので、ハミルトン作品よりも速い発想ですね。

 「奈落の上で」では、ワグナー教授の実験により地球の自転のスピードが変えられ、重力が変化してしまいます。重力が弱まり、まともに歩けなくなるのを手始めに、大気もなくなってしまい呼吸もできなくなってしまいます。人類と地球が滅亡寸前になってしまうという、<破滅もの>作品となっています。
 脱力してしまう結末が待ってはいるのですが、それまでの展開はシリアスかつ迫力のあるもので、ちょっと「怖さ」も感じられる作品になっていますね。

 「作られた伝説と外伝」は、ワグナー教授の活躍とされる「伝説」が語られ、その真贋が教授自身によって裏書される…という体裁の小エピソード集。ワグナー教授のプロフィールが紹介される「眠らぬ人」、競走馬がおかしくなり、その真相をワグナー教授が推理するという「馬の話」、ワグナー教授によって巨大化されたノミが人々を襲う「ノミについて」、寒さを防ぐため人為的に人間の体熱を上げることにより起こるトラブルを描いた「熱人間」のエピソードが収録されています。
 全体に「ホラ話」的要素の強い楽しい作品になっています。中でも「ホラ話」度が高くて面白いのが「ノミについて」。パリで、ノミの一座に出会って興味を持ったワグナー教授は、ノミを大きくする実験にとりかかります。人間大にまでノミを大きくしたところ、ノミは逃げ出し、人間を襲っては血を吸うようになってしまいます…。
 巨大化したノミに襲われてしまうという、モンスター・パニック・ホラー的エピソードです。体の何倍もジャンプするというノミの特性が、人間大になっても維持されているため、捕まえようとしても瞬時に逃げられてしまうのです。一跳びで数百メートル移動してしまうというのだから、そのスケールには驚いてしまいます。
 ワグナー教授によって、人間も長距離をジャンプできる装置が開発され、それをつけた部隊が編成される、という展開も楽しいですね。

 ワグナー教授、研究一辺倒で、それ以外はどうなっても構わない、というスタンスの人なので、彼の発明によって時に膨大な被害が出ても全く気にしません。町中の人々が眠ってしまい事故が起こって死者が出たり、地球が滅亡しかかっている場合でも全然気にしなかったりと、まさにマッド・サイエンティスト、といった感じですね。
 底抜けに楽しいSF・幻想小説揃いで、読んでいて爽快な作品集となっています。



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アレクサンドル・ベリャーエフ『アフリカの事件簿 ワグナー教授の発明』(田中隆訳 未知谷)

 天才科学者ワグナー教授の発明をめぐる、スラップスティックなSF・幻想短篇を集めた作品集です。
 空を飛ぶ絨毯を発明したものの、それには思わぬ弱点があった…という「空飛ぶ絨毯」、半永久的に水車を回す謎の動力機械を描いた「悪魔の水車小屋」、豪雨による土石流により瀕死で帰還した助手の脳だけを蘇らせるという「アムバ アフリカの事件簿1」、人間並の知性を持つゾウの秘密が描かれる「ホイッチ―トイッチ アフリカの事件簿2」の四篇を収録しています。

 天才科学者ワグナー教授の恐るべき発明品と、それによって引き起こされるトラブルを描いた、ユーモアSF・幻想小説集です。
 ワグナー教授は非常に合理的な考え方の持ち主で、常識に囚われない科学者。その一方、道徳や倫理にはあまり注意を払っていないため、時にはとんでもない事態を引き起こしてしまいます。そうした社会のしがらみとぶつからない発明の場合だとしても、発明品に大きな穴があったりと、そちらはそちらでトラブルが起きてしまうのです。
 飛行機械を作ったものの、止め方を考えていなかったり、半永久的な動力源を作ったはいいが、それが普通の人間には認められないような要素が使われていたりと、天才ではありながら、マッド・サイエンティスト的な人物なのです。
 どれも楽しい作品が収められていますが、連作となっている「アムバ アフリカの事件簿1」「ホイッチ―トイッチ アフリカの事件簿2」が一番印象が強いでしょうか。

 「アムバ」では、死んでしまった科学者の助手の脳だけを取り出し、それを生かそうという物語。脳をいじくったり、動物の目玉をつないでみたりと、これぞまさにマッド・サイエンティスト、という感じの行動が描かれます。
 アフリカの現地人の風習として、動物を生きたまま肉を削り取って食べるという行為が描かれるのですが、ワグナー教授がそれに憐れみを持ってとどめをさしてやる、というシーンが第三者的な視点から描かれます。教授の人情深い一面が描かれている…と思わせておいて、その実、自分の研究のためでしかなかった…というのが分かるあたり、非常にブラックな味わいです。

 「悪魔の水車小屋」でも、水車小屋の動力源として謎の機械が作られるのですが、その正体に関する部分もブラック・ユーモアに満ちています。

 「ホイッチ―トイッチ」は、サーカスで飼われていた、人間並の知性を持つゾウ「ホイッチ―トイッチ」が逃げだし、そのゾウの秘密について語られていくという物語。 リリカルな動物ものか、と思いきや、知性のあるゾウは、これまたワグナー教授の実験によって作り出されたものだった、ということが判明します。連作になっている「アムバ」と続けて読むと、ゾウの秘密もうっすら分かるようになっているのですが、その真実もとんでもないですね。
 風変わりな発明品とそれによるトラブルが描かれるシリーズなのですが、時にはやり過ぎかとも思えるブラックな展開もありと、非常に楽しい作品集となっています。

 『眠らぬ人』の方が先に刊行されてはいますが、内容は特に時系列順にはなっていないので『アフリカの事件簿』と、どちらから読んでも大丈夫です。

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海と陸の恋  アレクサンドル・ベリャーエフ『両棲人間』
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 アレクサンドル・ベリャーエフの長篇『両棲人間』(細江ひろみ訳 このごろ堂書房)は、海でも陸でも生きられる「両棲人間」をめぐる、SF幻想冒険小説です。

 真珠を扱う商人のズリタは、海を荒らしているという「海の悪魔」を目撃します。「海の悪魔」が意思の疎通が可能な生物であることを知ったズリタは、彼を捕らえて、自らの商売に利用しようと考えていました。ズリタは、腹心の部下であるインディオのバルタザールと共に、ある作戦を考えます。
 一方、科学者サルバトール博士は、貧しいインディオたちの病気やけがを治してやることで、彼らから敬われていました。博士に孫娘の命を救ってもらったことで恩義を感じた老インディオ、クリストは、博士に仕えることを決心します。
 クリストが博士の住まいで見たのは、見たこともない不思議な動物たちでした…。

 陸でも海でも生きられる「両棲人間」をめぐる作品です。「海の悪魔」の存在を知った悪徳商人のズリタが、その生き物を捕らえて利用しようと考えます。「海の悪魔」が「両棲人間」の青年であることは序盤で判明するのですが、彼がズリタの魔の手から逃れられるのか?というのがメインのストーリー。
 そこに青年の数奇な生まれによる家族関係や、青年が恋した娘を挟んだ恋愛関係などが絡んで、複雑な物語となっていきます。とくに恋愛部分に関しては、ヒロインをめぐって、青年とズリタ、そしてヒロインを援助していた男性の存在も明らかになり、四角関係的な状態となり、こちらの展開も興味深いですね。

 詳細はなかなか明かされないのではありますが、天才科学者サルバトール博士が登場し、彼が生物をいろいろ改造していることが明らかになった時点で、「両棲人間」の正体もほぼ予想がつく形にはなっています。
 「両棲人間」の身体的な特性が描写されるシーンは非常に面白いですね。水の中に適応したがゆえに、長時間の陸上生活には困難を感じるようになったり、その一方恋人と過ごすためには陸にいなければいけないなど、「陸」と「海」どちらに生きるべきなのか? という選択も描かれていくことになります。
 また後半では、「両棲人間」を含め、人間や動物の「改造」が許されるのか? といった倫理的・宗教的なモチーフも登場し、ちょっとした哲学風味もありますね。
 娯楽作品としても面白い作品ですが、科学的・哲学的な思索も登場するなど、知的な刺激もある作品となっています。

 こちらの『両棲人間』、Amazonのペーパーバックで購入できます。翻訳も読みやすいのでお勧めです。
 https://www.amazon.co.jp/dp/B09LGN94LF

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つながってゆく物語  グリゴリー・オステル『いろいろのはなし』

いろいろのはなし (はじめて出逢う世界のおはなし―ロシア編) 単行本 – 2013/2/1


 ロシアの作家グリゴリー・オステル(1947~)の『いろいろのはなし』(毛利公美訳 東宣出版)は、遊園地の園長が木馬たちに語る物語がどんどんと枝分かれしていくという、ナンセンスな童話作品です。

 閉園後の遊園地で、メリーゴーランドの七頭の馬たちは、園長からお話をしてもらうのが習わしになっていました。しかし園長によれば、残っているお話は一つだけだというのです。園長は最後のお話を語り始めます。
 わがままな少年フェージャは、母親にアイスクリームを買ってもらえなかったことから、癇癪を起します。人々や動物たちを片っ端から罵倒した上、砂の上で指を入れて砂をほじくり出します。ほじくるのをやめるように「地球」からたしなめられますが、言うことを聞かないフェージャは、「地球」から放り出されて、宇宙へ投げ飛ばされてしまいます…。
 お話が終わってしまいそうになるころ、馬の一人プロスタクワーシャは合いの手を入れ、お話に脇役として登場したおばあさんと若いおまわりさんについて訊ねます。やがて、そのおまわりさんイワンとおばあさんのマリアについてのお話が始まることになりますが…。

 お話が終わりそうになったときに、話の中の別の登場人物についてのお話が始まり、さらにそこから別のお話が生まれていき、といった感じで連鎖的に物語がつながっていくという童話作品です。
 お話に登場する人物たちも一回きりの登場ではなく、繰り返し登場します。レギュラー的なキャラクターたちに関しては、同時進行でお話が進行するのも面白いですね。あるキャラがどこかへ出かけている間に、別のキャラが別のお話の主人公になったりするのですが、最終的にはいくつもに別れたお話がちゃんと収束するところにびっくりします。
 さらに枠となっている園長と木馬たちのお話も、たびたび挿入され、彼らの掛け合いによってお話の内容が変わっていく、というのも面白い趣向です。

 七頭の馬のうち、主に活躍するのは、賢いプロスタクワーシャ、怖がりのサーシャとパーシャの三頭です。
 お話が怖い局面になるとサーシャとパーシャが怖がるため、そのたびに違う物語に切り替わったりするのも、メタフィクショナルな感じがあって面白いですね。

 それぞれのお話は、動物が人間と同様に動いて話すという擬人化ファンタジーとなっていますが、その展開はナンセンスで楽しいものばかり。いたずら好きのヤギや人助け好きの子猿たち、正義漢のウサギなど、登場する動物たちもエキセントリックで楽しいキャラが多くなっています。
 逃げ出したきりお話の中でずっと走り続けている猫のアクシーニャ、盗まれたズボンがちっとも見つからない詩人のパンプーシキンのエピソードなども人を食った味わい。

 最終的には、多数の人間や動物たちが同時にお話を進行するという群像劇のようになり、大団円を迎えます。そこに違う層の大枠となる物語が絡み合い、不思議な読み味の物語になっています。子ども向けのファンタジー童話ではありながら、大人が読んでも充実した読後感があります。


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ロシア妖怪幻想  テッフィ『魔女物語』

魔女物語 (群像社ライブラリー) 単行本 – 2008/9/1


 20世紀初頭に活躍したロシアの女流作家テッフィ(1872-1952)の『魔女物語』(田辺佐保子訳 群像社ライブラリー)は、ロシアの妖怪をテーマに描かれた、モダンな連作幻想小説集です。
 各編、ロシアに伝わる伝統的な妖怪や化け物がテーマとなっているのですが、具体的な実体として妖怪が登場するというよりは、物語の背景や事件の原因として、それらの存在がいることが匂わされる…というタイプの作品が多くなっています。
 ただ、民話・メルヘン風に語られる物語もあれば、伝聞で語られる都市伝説風の物語、語り手(テッフィ自身?)による散文詩風の作品など、そのバリエーションは様々です。
 連作の序盤は理性的な語り口だったものが、後半になるにつれて語り口が熱を帯びていき、それに伴って、妖怪たちの実在感も濃くなってくる、という印象を受けますね。ことに最後の作品「ヤガー婆さん」は伝説を語ったエッセイとも散文詩とも取れる作品ですが、その語り口は非常に情熱的ですね。

 魔女と噂される小間使いの不可思議な行動を描く「魔女」、ぞっとするほど醜く不気味な赤ん坊の物語「吸血鬼」、居候に押し掛けてきた母娘と娘を見守る精霊を描く「ドモヴォイ」、野性的で奔放な令嬢を描いた「レシャチーハ」、家につく家鬼の伝説を語った「家鬼」、風呂小屋に現れる邪悪な風呂魔(バーンニク)を語る「風呂小屋の悪魔」、美男子に恋した小間使いの悲劇を描いた「ルサールカ」、人間が動物に化けたり、化けさせられたりするという変身物語のエピソードを語る「化け物たち」、美しい娘に叶わぬ恋をした青年が犬に変身するという「妖犬」、自殺者が出た屋敷に怪奇現象が頻発するという「幽霊屋敷」、悪魔にさらわれたことがあるという噂のある指物師を描いた「うろつく死人」、まじない師の生まれ変わりを描いた「まじない師」、新居で不気味な召使と一緒に残された妻の恐怖を描いた「ヴォヂャノイ」、病を抱えた妻が狼を恐れるという「狼の来る夜」、バーバ・ヤガーについて語った幻想的・私的なエッセイ風小品「ヤガー婆さん」を収録しています。

 作中でも長めで力作といえるのは「妖犬」でしょうか。美しく奔放な娘に叶わぬ恋をした少年は、犬になってそばにいたいという言葉から冗談半分に、娘から犬になってほしいと言われます。戦争になって後、ボヘミアン風の生活をして山師のような男から離れられなくなった娘は、彼から離れようとしますが…。
 ゴースト・ストーリーと呼ぶべきか、変身物語と呼ぶべきか、結末で起こる怪異現象が現実なのか超自然現象なのかはっきりない…という部分もモダンな怪奇小説となっています。

 一番怖いのが「ヴォヂャノイ」。夫と共に新居に引っ越すことになった妻クラーヴジェニカ。自分だけ後から向かうことになっていたものの、たどり着いた家には見知らぬ農婦しかおらず、夫は所用で家を空けるという知らせが残されていました。夫は先に使用人だけを雇っておいたというのです。
 農婦のマーリヤを買い物にやった直後、再び雇われたという別の女クラーシャが現れますが、その体格は骨太で男のようにしか見えません。マーリヤは、あの女は実は男のイワンであり水の魔(ヴォヂャニク)だと話します。一方クリャーシャは、マーリヤは狂っており、亭主を殺したのだと話しますが…。
 夫の不在中に雇った二人の使用人がどちらもおかしなことを言いだし、不安に駆られる妻を描いた作品です。片方は妖怪であり、片方は精神異常者であると、互いに言い募るのですが、どちらも精神的におかしい可能性もあるのです。孤独な妻の恐怖感が描かれたサイコ・スリラーとも読める作品ですね。

 テッフィ、もともとユーモア作家として名を成した人だそうで、この作品集でもその筆致の軽やかさは目立っていますね。ロシア革命後、亡命後のパリで作家活動を続けており、この『魔女物語』もパリで書かれたそうです。
 ちなみに、テッフィの本業である、ユーモア作品を収めた作品集も邦訳が出ています(町田晴朗編訳『テッフィ短編集』津軽書房 2006年)。


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ウクライナの妖怪たち  オレスト・ミハイロヴィチ・ソモフ『ソモフの妖怪物語』

ソモフの妖怪物語 (ロシア名作ライブラリー) (日本語) 単行本 – 2011/3/1


 オレスト・ミハイロヴィチ・ソモフ『ソモフの妖怪物語』(田辺佐保子訳 群像社)は、ゴーゴリやプーシキン以前に、ロシアの民間伝承や妖怪などをテーマにした作品を残したウクライナの作家ソモフ(1792-1833)の作品集です。

 美しい娘の姿をした妖怪に命をとられてしまう勇士を描く「クパーロの夜」、失恋のショックから水死して妖怪ルサールカになった娘を母親が取り返そうとする「ルサールカ」、魔女の噂のある老婆の娘と結婚した男の恐怖体験を描く「キエフの魔女たち」、豪傑の男が悲劇を示す鬼火と遭遇するという「鬼火」、家に住み着いた妖怪キキモラを追い出そうとまじない師を雇うものの逆効果になってしまうという「キキモラ」、怠け者の息子が死んだ父親の導きで賭けをして魔法の小骨を手に入れるという「寡婦の息子ニキータの話」、愚か者の息子が妖術師の養父の真似をして人狼に変身するという「人狼」、人を殺し恐れられていた大熊を旅の商人がその大力で退治するという「骨砕きの大熊と商人の息子イワンの話」を収録しています。

 どの作品にも妖怪や精霊などが登場するのですが、それらが明確なものとして出現する作品もあれば、作中でそれらが実在するのか疑われているタイプの物語もありと、その描かれ方も様々です。
 キリスト教の信仰と、それ以前の異教の伝承や迷信が入り交じっているとことも独特の味わいですね。全体に素朴でシンプルな昔話、といった感じの作品が多いのですが、シンプルだけに力強く、迫力のある作品もあります。
 なかでは、「キエフの魔女たち」「寡婦の息子ニキータの話」が印象に残ります。

 「キエフの魔女たち」は、母親が魔女との噂もある娘カトルーシャの美しさに惹かれたコサックのフョードル・ブリスカフカが、噂も気にせず彼女と結婚することになるという物語。
 夜に魔術のような行為を行い秘かに出かける妻の行動を怪しんだ夫は、妻の行為を真似してまじないを行います。飛ばされて来たのは、魔女や化け物たちの集まるサバトでした…。
 愛する妻が魔女だった、という夫の恐怖体験を描く恐怖小説です。妻は母親によって呪われており、自分の行動を制御できない、というところも興味深いですね。怪物や魔女たちが集まるサバトのシーンにはかなりの迫力があります。

 「寡婦の息子ニキータの話」は、怠け者の主人公ニキータが、父親の霊の導きで、他の死者と賭けをして魔法のアイテムを手に入れるという物語。ニキータは小骨遊びの名人でなんとか魔法のアイテムを手に入れるのですが、失敗したら命がない、という切迫した状況が描かれます。
 そんな命を賭けて手に入れたアイテムも、妻の贅沢と息子の不用意な行動で失われてしまう、という結末も皮肉めいていて面白いところです。
 そもそも男が、父、息子、孫と、三代通して皆怠け者というのが笑ってしまうところではありますね。

 笑える、といえば「人狼」もかなりユーモラスな物語です。
 その村はたびたび狼に襲われていましたが、その狼は妖術師として恐れられるエルモライ老人の変身した姿だと言われていました。老人の蓄えた財産を狙う美しい娘アクリーナは、美男子ながらおつもの足りない老人の養子の青年アルチョームを誘惑します。老人の様子を探ってほしいと頼まれたアルチョームは、養父が妖術で人狼に変身する姿を目撃します。妖術を真似して、自らも人狼に変身したアルチョームは、村人たちを脅かそうとしますが、生来の臆病さから逆に追い詰められてしまいます…。
 妖術師の息子が父親の真似をして人狼になるものの、殺されそうになってしまう、というユーモラスな怪奇作品です。この手の話ではたいてい滅ぼされてしまう妖術師が滅ぼされず、天寿を全うしたり、その愚かな息子も賢い嫁のおかげで幸せに暮らす…という、なんとも人を食った結末も楽しいですね。悪人である妖術師も、ずるい娘も、愚かな息子も皆幸せになってしまうという、ユニークな作品です。


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自分との対話  アントーニイ・ポゴレーリスキイ『分身 あるいはわが小ロシアの夕べ』

分身―あるいはわが小ロシアの夕べ (ロシア名作ライブラリー) (日本語) 単行本 – 2013/2/1


 ロシアの作家、アントーニイ・ポゴレーリスキイ(1787-1836)の『分身 あるいはわが小ロシアの夕べ』(栗原成郎訳 群像社)は、自分自身の《分身》と出会い友人になった男が、夜な夜な語り合うという、幻想的な連作枠物語です。

 ウクライナの地主屋敷で孤独に暮らす男の前に、自分自身の《分身》が現れます。親友となった二人は、夜ごとに対話を繰り広げることになりますが…。

 作品全体は大きく第一部と第二部に分かれています。第一部は第一夜から第三夜、第二部は第四夜から第六夜と、さらに分かれています。主人公のアントーニイ(作者自身?)と《分身》が幻想的な小説や挿話をめぐって対話を繰り広げる、という体裁の作品になっています。
 アントーニイがロマンティックな性分に描かれているのとは対照的に、《分身》がその超自然的な出自にも関わらず皮肉なリアリストとして描かれているのが特徴です。第一夜、出現直後の《分身》に対して、《分身》を見た人間は死んでしまうのではないかと恐れる主人公に対して、迷信に過ぎないと退ける《分身》の態度は実に皮肉です。

 基本的には、短篇の幻想小説がいくつか挿入され、それに関して対話や、別の細かいエピソードが挟まれていく幻想的な対話編、といった趣の作品といっていいでしょうか。挿入される短篇はいずれも面白いですね。以下、個々に紹介します。

「イジードルとアニュータ」
 フランス軍の迫るモスクワを舞台に、恋人アニュータのために軍務を捨てようとするイジードルは、母親に諭されて軍務に復帰します。しかし帰還した彼の前にあったのは焼失した自宅でした。その後、イジードルは夜な夜な何者かと話すようになりますが…
 誇りと祖国愛のために恋人と母親を犠牲にしてしまった青年が幻影を見る…という幻想的な恋愛小説です。

「歯止めの利かない夢想の破局」
 純真な青年アルツェストは、悪魔的な科学者アンドローニ教授の一人娘のアデリーナに一目ぼれしてしまいます。しかしアルツェストのお目付け役の「わたし」は、絶世の美女でありながら、おかしな態度を繰り返すアデリーナに不信感をぬぐえません。
 恋に目が眩んだアルツェストは「わたし」の留守中にアデリーナと結婚してしまいますが…。
 ストーリーがE・T・A・ホフマンの短篇幻想小説「砂男」そっくりで、明らかにオマージュと取れる作品です。ただホフマン作品にはあった主人公のトラウマであるとか、科学者の行動の動機であるとか、細部が微妙に変えられているため、作品から受ける印象は結構異なっていますね。主人公の精神的な苦しみがそれほど描写されないため、ホフマン作品よりからっとした印象の作品になっています。

「ラフェルトヴォの罌粟の実菓子売り」
 ラフェルトヴォの罌粟の実菓子売りの老婆は、その実、魔女と噂される人物でした。甥のオヌーフリッチは彼女に悔い改めるように忠告しますが、老婆を激怒させ縁を切られてしまいます。しかしオヌーフリッチの妻イヴァーノヴナは娘のマーシャの持参金のため、夫に内緒で娘を連れ、老婆の家に和解を求めて訪れます。気をよくした老婆はマーシャにいずれ現れる求婚者と結婚しろと告げます。さらに、その家で老婆が連れた黒猫が人間の顔をしているの見てマーシャは驚愕します。
 やがて父親が花婿にと連れてきた九等文官ムルルィキンの顔を見たマーシャは、それがかって目撃した黒猫の変身した姿と同じ顔をしているのを知ります…。
 邪悪な妖術使いの老婆の呪いに囚われた娘が、それをはねのけるまでを描く怪奇小説です。黒猫(悪魔の化身?)が変身して婚約者として姿を現すのですが、その描かれ方にはどこかユーモアもあって、ホフマン風のキャラクターといってもいいでしょうか。
 解説によれば、プーシキンの『ベールキン物語』にはこの作品の影響があるとか。

「駅馬車での旅」
 駅馬車でフランス陸軍退役大佐ファン・デル・Kと乗り合わせた「ぼく」は、彼から奇妙なうち明け話をされます。かってボルネオに生まれた彼は、幼いころに島に住む凶暴な猿にさらわれ、雌の猿に養育されたというのです。
 数年後、生家を見つけたファン・デル・Kは人間としての生活を取り戻しますが、彼の居場所を見つけた育ての親の雌猿トゥトゥは、彼のもとをしばしば訪れることになります。やがて成長した彼は、美しい娘アマーリヤと婚約します。ファン・デル・Kから育ての親の話を聞かされたアマーリヤは、自分を取るか育ての親をとるか、二つに一つだと恋人に決断を迫りますが…。
 猿(おそらくオランウータン)に育てられた男の、奇妙な人生を描く物語です。野生動物の世界を身をもって理解しながらも、人間として生きざるを得ない男の葛藤がテーマとなっています。
 育ての親の猿トゥトゥが情愛豊かで純粋に描かれるのも特徴で、その悲劇的な結末にはある種の感動がありますね。

 第二部の第四夜は、小説でなくエッセイになっていて「なぜ賢明な人間が時として常軌を逸した愚行をなすのか」「人間の知能の程度はどのような方法で決定されるか」などのテーマが扱われています。
 ちょっと皮肉なタッチで語られるエッセイで、現在で言うところの「自己啓発」的な内容として、今読んでもなかなか面白いところですね。人間の能力と特性について、オリジナルの図が挿入されるのも興味深いところ。

 上記のようなエッセイが突然挟まれたり、正直あまりまとまりの感じられない構成ではあるのですが、挿入されたエピソード含め、ごった煮的な魅力のある作品であることは確かで、妙なエネルギーのある作品になっていますね。
 《分身》が結局何者だったのか? などは明かされず仕舞いです。さらに言うと《分身》が自分の経験を語ったり、友人から聞いた話(友人がいる?)を語ったりと、普通の人間なのか超自然的な存在なのか、ちょっと微妙な描かれ方をしているところも面白いところではありますね。

 ポゴレーリスキイ、ドイツ・ロマン派、特にホフマンの影響が強いとのことで、それは作品を読んでいても感じられます。「砂男」そっくりの「歯止めの利かない夢想の破局」はもちろん、「ラフェルトヴォの罌粟の実菓子売り」に登場するホフマン風な人物文官ムルルィキン、さらに言えばこの『分身』という作品の構成自体が、ホフマンの作品<セラーピオン朋友会員物語>に似ている、というのもその影響でしょうか。

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プロフィール

kazuou

Author:kazuou
男性。本好き、短篇好き、異色作家好き、怪奇小説好き。
ブログでは主に翻訳小説を紹介していますが、たまに映像作品をとりあげることもあります。怪奇幻想小説専門の読書会「怪奇幻想読書倶楽部」主宰。
ブックガイド系同人誌もいろいろ作成しています。



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