奇妙な世界の片隅で カナダの作家
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不穏な未来  イアン・リード『もっと遠くへ行こう。』
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 イアン・リードの長篇『もっと遠くへ行こう。』(坂本あおい訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)は、ある出来事をきっかけに夫婦間の関係性が変わっていくという、不穏な心理スリラー作品です。

 田舎の農場で暮らす男ジュニアとその妻ヘン(ヘンリエッタ)。彼らの前にある日現れたのは、<アウターモア>なる組織から来たという男テランスでした。テランスがいうには、ジュニアは宇宙移住計画の候補に選ばれたというのです。そのため一時的な仮移住を行う必要があり、その期間は長くなる可能性があるといいます。
 ジュニアをよく知るため、そしてその家族であるヘンをサポートする必要があるとするテランスは、たびたび彼らの家を訪れることになりますが、彼の訪問をきっかけに、ジュニアとヘンの間には奇妙な壁が出来始めていました…。

 あまり人付き合いはなかったものの、特に問題なく過ごしていた夫婦ジュニアとヘンが、テランスの訪問を機に、夫婦間の溝を深めていってしまう…という心理的なスリラー作品です。
 人間の宇宙移住計画を進めているという<アウターモア>から来た男テランス。彼はジュニアがその計画に参加することを疑わないような態度で、どんどんと話を進めてしまいます。ジュニアはテランスの存在を鬱陶しく思いながらも、インタビューを受けたり、センサーを付けたりと、彼の言うがままになってしまいます。
 一方、妻のヘンは、テランスが現れてから、夫との間に距離を取るようになってしまいます。ジュニアの態度に気に入らない部分があるようなのですが、それに関してもはっきりとは明言せず、そのためジュニアも不安定な気分になってしまうのです。
 夫婦の関係性はどうなってしまうのか? ジュニアは本当に宇宙移住計画に参加するのか? そもそもテランスの言う計画は本当なのか? さらにヘンが抱いている夫への不満とは何なのか? 明確な情報が与えられないこともあって、様々な部分で疑問が発生するという、不穏の塊のような物語になっています。

 物語はジュニアの視点から語られていきます。大人しく、争いごとを好まないらしい性格のジュニアだけに、妻に対しても、自分に悪いところがあれば直したい、というスタンスで対するのですが、妻は一方的に彼に対して心を閉ざしてしまいます。
 さらに、後半で反抗の姿勢を見せることにはなるのですが、基本的にはずっとテランスの言うがままを受け入れてしまうジュニアの心理にも不可解なものがありますね。

 後半で「ある真実」が明かされることにはなるのですが、それが明かされたところで物事は解決せず、また別の問題点が現れることにもなります。そこで現れるのは、アイデンティティーの問題を始め、人間とは何か、人と人とが関わるとはどういうことなのか、といった哲学的な諸問題。
 「真実」が明かされてから、前半の展開を振り返ると、また物語の違った面が見えてくるという、なかなかに意味深な内容となっています。

 肝心な部分でネタバレがしにくい作品なのですが、読み終えた後、読んだ人同士で話し合いたくなるような、「問題意識」の強い作品になっていますね。心理的・哲学的スリラーの秀作かと思います。


テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

理屈の合わない物語  エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』
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 エリック・マコーマックの短篇集『隠し部屋を査察して』(増田まもる訳 創元推理文庫)は異色の味わいの短篇が集められた作品集です。しばらく品切れでしたが、昨年復刊され、入手しやすくなりました。

「隠し部屋を査察して」
 峡谷のへりのフィヨルドの近くに立てられた六棟の建物。建物には〈隠し部屋〉と呼ばれる地下室があり、そこには人間が囚われていました。それぞれの管理人が管理している〈隠し部屋〉を、〈査察官〉である「わたし」は定期的に査察していましたが、囚われているのは、皆、異様な人間ばかりでした…。
 〈査察官〉である語り手が、六つの建物に幽閉されている人々の風変わりなエピソードを語っていくという物語です。政府に危険だと判断された人々が囚われているようなのですが、その危険の質は様々。複製の木で人工の森林を作った男、天才的な機械の発明家、様々なものを吐き出す絶世の美女、巨大なガリオン船の模型を作り上げた男、人工の山を建造しようとした男、町中の人間のアイデンティティーを交換した町の町長など、幽閉されている人々がどれも異様な人間ばかりなのが面白いですね
 いつまで彼らは幽閉されているのか、その目的は何なのか? 政府の正体も分からず、査察官をしている男がなぜこの仕事をやらされているのか、といったあたりも明確になりません。至極曖昧に進む物語なのですが、そこがまた魅力でもありますね。短篇内にさらに挿話が詰め込まれた形で、奇妙な味の物語のショーケースといった趣の作品です。

「断片」
 1972年の夏、「わたし」はロバート・バートン「憂鬱の解剖学」の一節について調べるために、スコットランドに戻っていました。その一節とは、ヤコブス・スコトゥスが述べたという、純潔、沈黙、盲目の誓いを終生守り続けたという古代スコットランドの隠者についての文章でした。
 古文書の中にようやく原典らしき文章を見つけますが、そこに記されていたのは、ある〈教団〉における恐るべき行為でした…。
 ある宗教団体がその宗教的熱情のあまりに行った恐るべき苦行の実体が描かれます。外部の誘惑から身を守るため、人間の生来の感覚を取り去ってしまっても、人間は生きる意欲を失わずにおれるのか? といった感覚遮断の実験にも似た物語となっていますね。

「パタゴニアの悲しい物語」
 生きたミロドン(ナマケモノの祖先)を見つけるため、パタゴニアに上陸した探検隊の隊員たちは、夜に焚火をしながら話を始めます。隊長が話したのは、蜘蛛の神の守護者にするため、呪術師たちによって監禁され異様な訓練を受けさせられる少年の物語、大工のジョニー・チップスが話したのは、聖人として列聖するため墓を開けられたトマス・ア・ケンピスのまつわる物語、さらに一等機関士が話したのは、母親が行方不明になった後、調子を悪くした外科医の四人のこどもたちにまつわる物語でした…。
 夜に焚火の周りで、探検隊の面々が話す奇談が語られていくという一種の枠物語となっています。三つの挿話が語られます。どれも怪奇幻想味が濃いエピソードですが、一つ目と三つ目のエピソードの印象は強烈ですね。
 一つ目のエピソードでは、南ボルネオのある村で行われる奇怪な慣習が語られます。崇拝する蜘蛛の神の守護者とするために、生まれたばかりの赤ん坊の頃から、体を奇怪な形に変形させていく、というのです。これだけでホラー長篇一つできそうな、不気味なテーマの挿話になっています。
 三つ目のエピソードは、妻が行方不明になった後、その夫の外科医の四人のこどもたちが体調不良を起こす、という物語。外科医がこどもたちに何かしたのではないか…と予想できるのですが、それが思いもかけない方向に展開していきます。
 三つ目のエピソードは、後に長篇『パラダイス・モーテル』でも転用されています。作者自身も魅力的と感じていたモチーフだったのでしょうか。

「窓辺のエックハート」
 警察署に飛び込んできた女性がエックハート警部に語ったのは、奇妙な死亡事故でした。殺し屋の男性と恋人関係にあった女性は、かっての殺人現場を訪れ、その場で愛の行為を行っていたというのです。ガラス製のテーブルが割れるという事故の結果、男性は死んでしまったというのですが、その家がどこであったか分からなくなってしまったのだというのです。
 帰るところがないという女性を警察署に泊めるものの、署を抜け出した女性はそのまま外で凍死した状態で発見されます…。
 不可思議な男女の死をめぐる事件と、それについて考える警部の思考の流れが描かれる作品です。全ては女性の妄想か嘘だったのではないかと思わせながら、それがさらに一転し、結局真相はまた分からなくなっていく…という不条理味の濃い物語となっています。ひたいから血がふきだすという男性の描写は「聖痕」を思わせ、どこか宗教的な香りもありますね。

「一本脚の男たち」
 炭鉱町ミュアトン、鉱山で働いていた男たちがエレベーターの落下事故に巻き込まれ、大量の死傷者が発生します。普段から訓練していた片足を犠牲にする方法で、かなりの人数の人間が命を救うことに成功しますが、生き残った人間はみな片足になってしまいます…。
 鉱山の悲惨なエレベーター事故が、本や記事の引用と言う形でドキュメンタリータッチで語られる短篇です。悲惨な事故にも関わらず、村に住む多くの男が一本脚になってしまったため、その情景に妙なおかしみが発生してしまうという悲喜劇が描かれています。
生き残った人々のインタビューが語られる結末には、哀愁が感じられますね。
 この短篇の内容は、「パタゴニアの悲しい物語」同様、長篇『パラダイス・モーテル』にも流用されています。

「海を渡ったノックス」
 スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスは、愛猫クルーティと共にガレー船に乗り込んでいました。フランス軍に捕らえられ奴隷となっていたものの、その傲岸不遜な性格から周囲に恐れられていました。新大陸に辿り着いたノックスは、持ち前の荒っぽい方法で、現地人に改宗者を増やしていきます。やがて酋長の娘の病気を治してほしいと頼まれたノックスは思い切った手段を取りますが…。
 スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスの新大陸における活動が、三人称と一人称、交互に描かれていくという物語です。宗教的な熱情にあふれた人物といえば聞こえはいいですが、その実は異様な欲望に憑かれたサイコパス的な人物。ネズミを豚に食べさせたり、果ては妹を生きたまま豚に食べさせるなど、狂気に満ちた人物です。
 史実では、ジョン・ノックスは長老派(プレスビテリアン)の創立者とされる人ですが、マコーマックは彼を異常人格者として描写しているのが面白いところですね。

「エドワードとジョージナ」
 堅物で大人しい男性エドワード・バイフィールドは、妹のジョージナと共に暮らしていました。エドワードはたびたび妹のことを話し、その仲睦まじさから、いわれのない噂話も立てられるほどでした。病気で体調を崩したエドワードはそのまま亡くなってしまいますが…。
 大人しい兄エドワードとは対照的な妹ジョージナ。性格は異なるものの、その仲は睦まじいものでした。兄が亡くなったことにより、兄妹の秘密が明らかになるというサイコ・サスペンス的な作品です。結末には、ゴースト・ストーリー的な感触もありますね。

「ジョー船長」
 少年のわたしは祖父の友人ジョー船長になついていました。1940年に中央スコットランドの村に一人でやってきたという、六十がらみのジョー船長は、ある日祖父に打ち明けたという秘密を少年にも話します。それは信じがたい話でした…。
 不思議な老人の抱える秘密とは? ジョー船長の話は真実なのか、それとも妄想なのか? 時間に関する人間の感覚についての寓話とも読めそうな作品ですね。

「刈り跡」
 一年前のある日突然現れた<刈り跡>。それが通った後には、幅百メートル、深さ三十メートルの巨大な溝が残されていました。時速千六百キロの猛スピードで西へ向かった<刈り跡>は、ぶつかったもの全てを消滅させていきます…。
 通り過ぎるものすべてを消滅させる、謎の現象<刈り跡>について語ったSF的作品です。海や水があるところが消滅しても、水の流れはそのままであるのに、そこを通る生物は落ちてしまうなど、その物理的な法則もどうやら尋常ではないようなのです。
 町や都市がまるごと消滅したりと、その被害は甚大なのですが、その割にその語り口には悲壮感が全くないという、あっけらかんとした作品となっています。その現象についての説明もなされずに唐突に始まり唐突に終わるなど、不条理味が濃いですね。
 <刈り跡>に遭遇した日本の様子についても語られ、そのあたりも興味深いです。

「祭り」
 とある町の三日間にわたる祭りに参加した男性と女性のカップル。夜の体育館で行われる催し物は風変わりでショッキングなものばかりでした。一日目はある女性の出産風景、二日目は大量の虫の行列、そして三日目に行われたものとは…。
 ある町の「祭り」の風景と、それに参加した一組のカップルを描いた作品です。三日間にわたるどの催し物も異様なものばかりで、二日目のものに至っては明らかに超自然的な現象が起こっています。また三日目の催し物では男性が直接参加することになり、
その運命も決定的に変えてられてしまうことになるのです。
 三日間の催し物の内容にも脈絡がなく、男性が体験する出来事も不条理性が非常に濃いです。祭りの目的も明かされず、全体が悪夢の集合体のような短篇となっています。

「老人に安住の地はない」
 クリスマスパーティーの席上、その老人は従軍していた大戦中にドイツ兵の少年を殺してしまった体験について語ります。その経験を後悔しているという老人は、何度も同じ夢を見るといいます。
 その夢の内容は、少年兵の殺害を行った直後に、いつの間にか立っていた自室の抽斗の中、メモ用紙の束の上に血まみれの銃剣を置く、というものでした。目覚めてから、机の中に銃剣がないか確認をするものの、当然ながらありません。
 老人の話を聞いた若者は、自分が見た夢について語り出しますが…。
 罪の意識に苦しむ老人が見続ける悪夢。その救いが別の方向からやってきたかと思いきや、結局は救いとはならなかった…という重いテーマの作品になっています。複数の人間が互いに絡み合うような夢を見ているという、ボルヘスを思わせるようなモチーフが扱われていますね。

「庭園列車 第一部:イレネウス・フラッド」
「庭園列車 第二部:機械」

 「庭園列車」とその考案者イレネウス・フラッドについて語られる二部作です。
 一部では、「庭園列車」を作り上げた人物イレネウス・フラッドの不可思議な人生について語られます。胎児の頃に人工的なプラスチックの子宮に写され、水槽で魚たちと共に育ったという伝説まがいの噂、そして南太平洋の島オルバでの性的なイニシエーション体験など、フラッドの過去の体験が語られていきます。
 中心となるのは、美女ワトノベに導かれて島で体験する性的なイニシエーション体験の部分。その場所での文化・慣習が独特です。男性はサルガという麻薬と共に育ち、その麻薬を手に入れる代償として、少しづつ身体の一部を切断していくというのです。しかもその身体の欠損自体が社会で尊ばれているという、倒錯した社会が描かれる部分も興味深いですね。
 二部では、実際に作り上げられた「庭園列車」を体験するフラッドの様子が、文学的な文章で色彩豊かに描かれていきます。「庭園列車」のそれぞれの車両が、北方の森、大河、高山、大海原、砂漠、ジャングルなど、大自然を模した具体的なシチュエーションの場所として構成されているという趣向らしいのです。三週間前に車両に乗り込んだフラッドは未だに行方不明であり、彼が生きているのか…といった謎めいたニュアンスの結末も面白いです。

「趣味」
 下宿人を探していた夫婦のもとに現れた、元鉄道員の老人。彼は地下室で暮らすことになりますが、長らく部屋に籠もり、趣味である鉄道模型を作っているというのです。食事も取らず作業に熱中しているらしい老人が気になった夫婦は、ある日地下室の扉を開けますが…。
 あまりにもリアルな鉄道模型がもう一つの世界を創造してしまう…というテーマの幻想小説です。地下室に現れた列車がどこにつながっているのか、その世界の人々はどこから来たのか、など謎めいた要素が多く、想像力を刺激する作品となっていますね。

「トロツキーの一枚の写真」
 カルト教団の教祖が絞首刑で死んで後、その死体と交わった女性から生まれた双子の兄妹。牧師となった兄は倒錯した宗教観から殺人鬼となり、妹は人の死の瞬間を撮影する写真家となります…。
 数奇な運命を生きることになった写真家アビゲイルの生涯を描いた物語ですが、異様な人生を送ったその母や兄のエピソード、アビゲイルがわずかの間だけ接触したトロツキーのエピソードなどを交えて多様な側面から描かれる文芸風味の強い作品です。
とはいえ、そこはマコーマック、猟奇的・性的なエピソードが多々語られ、グロテスクな印象を強く与えるようになっていますね。
 「死」に執着し、自らの死をも被写体として収めようとするアビゲイルの異様な情熱が描かれる部分にはインパクトがあります。

「ルサウォートの瞑想」
 ジョン・ジュリアス・ルサウォートは、亡き友人である、アゾレス諸島出身の捕鯨の名人ダ・コスタのことを思い出していました。フォード自動車会社で働くようになったダ・コスタは、目にするものが突き刺すような苦痛に感じられると訴えたのを手始めに、音や食べ物、においまでもが苦痛になってきていたというのです…。
 野生社会で生きていた男が文明社会に適応できずに自滅してしまう話、なのですが、五感が周囲の世界を否定してしまっているような、その異様な症状が、比喩的な文章をもって語られていくところに特色があります。

「ともあれこの世の片隅で」
 アパルトマンの地下にある汚い部屋で、「作家」である老人は、様々な物思いにふけっていました…。
 有名作家へのインタビューに答えるという形式で、自称「作家」の老人の考えや述懐が語られていくという作品です。ウォルター・スコットを崇拝しているらしい老人の語る内容は、妄想に近く、立派な屋敷や資産家のパトロンなど、現実とは乖離した内容のようなのです。その合間には、若くして亡くなってしまったパートナーの女性への思慕が挟まれていきます。
 大げさな質問項目に対しあり得ない内容を答えていくという諷刺的なテーマを扱っているのですが、老人のかってのパートナーに対する思いや、人生に対する羨望の念などが入り混じり、どこか哀愁を帯びた味わいの作品となっていますね。

「町の長い一日」
 ホテルを探してその町を歩いていた「わたし」は、出会った人々から、様々に風変わりな話を聞かされることになりますが…。
 「隠し部屋を査察して」同様に、一つの短篇内に様々に奇妙な味わいのエピソードがいくつも埋め込まれた作品です。疫病で死んだ娘を荷車に乗せて運ぶ女、幼い頃から行く先々で家族に命を狙われ続ける男、整形手術を繰り返してつぎはぎだらけになった絶世の美女、ニトログリセリンを飲まされ人間爆弾となった詩人の男のエピソードなどが語られます。中でも、家族に狙われ続ける男のエピソードは謎めいていて、特に魅力があります。

「双子」
 少年マラカイの体には生まれつき二つの人間が住んでいました。話す際にも同時に別のことを話すために、別の人間には彼の言うことが理解できないのです。十八歳になったとき、突然顔の左側に黒い布をかぶせて現れた彼は、言葉も通じるようになり、心優しい少年になっていました…。
 生まれつき二人の人間を宿す一人の少年を描いた物語です。その少年マラカイは悲劇的な最期を迎えることになるのですが、後半ではまた別の「双子」の存在が描かれます。語り手の「わたし」も「双子」である可能性が示唆されるなど、「双子」のモチーフが散りばめられた作品になっています。

「フーガ」
 川沿いの高台にそびえる建物の書斎で読書をしている男。彼が読んでいるのは警察官のヒーローが活躍する物語でした。一方、読書している男を憎む別の男は、彼を殺そうとナイフを構えていました…。
 作中の登場人物が読んでいる本の中の登場人物が現実(作中内の世界)に現れる…というテーマの幻想小説です。冒頭にコルタサール(アルゼンチンの作家フリオ・コルタサル 1914-1984)の文章が引用されることでも示唆されるように、コルタサルの短篇「続いている公園」のオマージュとして書かれた作品のようです。
 コルタサル作品は、読んでいる本の中の登場人物が現実(読書している男がいる世界)に現れて、現実世界の人間が殺されてしまう…という幻想小説なのですが、マコーマック作品は、これを変奏した形になっていますね。
 「フーガ」では、本の中から現実に現れるのが殺人者ではない人物となっていて、読書している男をめぐってそれぞれがそれぞれを追う…という構造になっており、それがタイトル「フーガ」(遁走(とんそう)曲。前に出た主題や旋律が次々と追いかけるように出る曲。)の所以でしょうか。


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謎めいた物語  エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』
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 エリック・マコーマックの長篇『パラダイス・モーテル』(増田まもる訳 創元推理文庫)は、数十年を経て、幼き日に祖父から聞かされた猟奇的な事件の登場人物たちと関わり合うことになった男の不思議な体験を描いた小説です。

 鉱山町ミュアトン、両親と祖母と暮らす少年エズラ・スティーヴンソンの家に、三十年前に失踪した祖父が突然姿を現します。祖父のダニエル・スティーヴンソンは、自身の死期を知り、家族のもとで死にたいと帰ってきたというのです。船員を始め、様々な職業を経て世界を遍歴してきたというダニエルは、孫のエズラに沢山の話をすることになります。接してから一週間足らずで亡くなったダニエルの話の中でも、ある一つの話をエズラは忘れられないでいました。
 それは《ミングレイ》という帆船に船員として乗り込んだダニエルが、パタゴニアで船の機関士ザカリー・マッケンジーから聞いたという話でした。
 ザカリーがこどものころ、ある島の町で外科医の美しい妻が行方不明になるという事件がありました。その直後に医者の四人のこどもたちが体調不良を訴えます。こどもたちを診察したところ、彼らの腹には開腹手術の跡がありました。切開した傷口から出て来たのは、思いもかけない異物だったといいます。しかもザカリー自身の腹にも傷口があったのです。
 三十年後、祖父の話を思い出したエズラは、パートナーのヘレンと話しているうちに、祖父から聞いた話が真実だったのかを確かめたい思いにかられ、友人の大学教授ドナルド・クロマティに調査を依頼することになります。
 その直後から、エズラは様々な人物からマッケンジー家のこどもたちのその後の生涯について、間接的に耳にすることになりますが…。

 幼き日に祖父から聞かされた猟奇的な事件を思い出した語り手エズラが、数十年後にその事件の調査を親友に依頼すると同時に、自らも事件の関係者であるこどもたちのその後の情報に次々と遭遇することになるという、奇妙な味わいの作品です。
 発端となる猟奇的な事件も興味深いのですが、当事者のこどもたちのその後の生涯も奇想天外。親から精神的な疾患を受け継いでいたのか、それともそういう運命だったのか、四人のこどもたちは、それぞれとんでもない事件に遭遇し、不幸な人生を送った顛末が語られます。

 マッケンジー家のこどもたちのエピソードに限らず、作中で言及されるエピソードは、どれもこれも風変わりで魅力的です。
 目玉を引っ張り出し頭の後ろにまで伸ばすという未開の部族、記憶喪失者たちに新しい肩書きとアイデンティティーを与えるという《自己喪失者研究所》、フリークスたちが現れ芸をするナイトショー、体に大量の串を突き刺す芸人など。

 語り手のエズラが、数十年の時を挟みながら、なぜ突然マッケンジー家のこどもたちと関わることになったのか。その「偶然」は本当に偶然なのか。しかも当の本人たちには全く会えず、それらのエピソードはみな間接的に別の人物から聞かされることになる…というのも意味深です。さらにエズラが語る話の聞き手となるパートナーのヘレンも、どこか神秘的な女性で捉えどころがありません。
 本当に事件はあったのか? エズラが遭遇したこどもたちは本当に事件の関係者なのか? そもそも祖父の話は本当だったのか? 様々な謎が混在し、全てが混沌としていきます。

 各章の冒頭で、謎の作家の文章が引用されるのですが、この内容によって更に謎が深まっていきます。後半、この作家の正体について語られることになりますが、結局真相は闇の中…というのも人が悪いですね。
 事件の謎が次々と繋がっていくように見えながら、結局はそれが真実なのかは分からない…という茫洋とした雰囲気がたまらない魅力となっています。
 魅力的な謎を提示しながらも、ミステリ的な「真相」が明かされる…というタイプの物語ではないのですが、そこがまた逆説的に魅力となった作品だと思います。不条理かつシュール、奇妙なブラック・ユーモアにあふれた物語です。

 なお、この作品の核となる、外科医とその家族のエピソードは、マコーマックの短篇「パタゴニアの悲しい物語」(増田まもる訳『隠し部屋を査察して』創元推理文庫 収録)に登場するエピソードが元になっています。また、鉱山町の鉱夫たちが事故で一本脚になってしまうというエピソードに関しては、短篇「一本脚の男たち」(増田まもる訳『隠し部屋を査察して』創元推理文庫 収録)の内容が流用されていますね。


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非凡な人生  エリック・マコーマック『雲』

雲 (海外文学セレクション) 単行本 – 2019/12/20


 エリック・マコーマックの長篇『雲』(柴田元幸訳 東京創元社)は、19世紀スコットランドで記された奇怪な雲についての古書と、その本によって過去に向き合うことになった男の人生を語った幻想的な作品です。

 鉱業関係の会合に出るため、カナダからメキシコのラベルダに来ていたハリー・スティーンは、現地の古本屋で『黒曜石雲』というタイトルの古書を見つけます。本には、突如現れた黒い雲によって奇怪な事件がいくつも引き起こされた、という事実が記されていました。
 表紙にある「ダンケアン」という文字に惹かれてその本を購入したハリーでしたが、彼は若い頃にその町に短期間滞在したことがありました。そこで彼は失恋をし、それが原因で世界中を旅をすることになったのです。
 19世紀スコットランドの牧師マクベーンが著したらしい『黒曜石雲』について、ハリーは、グラスゴーのスコットランド文化センターに問合せをすることにします。本に興味を抱いた学芸員スーリスの調査により、古書の来歴が少しづつ判明していきますが、同時にハリーは、子ども時代からの過去を回想していくことになります…。

 メキシコの古書店で見つけた19世紀スコットランドの古書『黒曜石雲』。その本には突然現れた雲に関わる奇怪な事実が記されていました。ハリーはその本について学芸員に問合せを行います。それ以降は、本の内容に関わる事実が追求されていくのかと思いきや、そうはならないのが面白いところ。
 物語の区切りで、たびたび古書についての調査内容が挟まれることにはなるのですが、作品の大部分は、古書をきっかけとして、ハリーが過去の人生を回想していく、という流れになっています。

 大筋だけを見ると、ハリーの人生は波乱に富んではいるものの、至極まともな物語です。両親を失い、失恋をして、そのショックから世界中を放浪することになります。しかし、ハリーが様々な場所で出会った人々から聞くエピソードが、それぞれ非常に風変わりで面白い話ばかりなのです。
 常識では考えられない、グロテスクで破天荒な話の数々。序盤で言及される『黒曜石雲』に記された話も相当不思議なのですが、それに劣らぬファンタスティックな物語が語られていき、ハリーの冒険行と共に、読者の興味を惹かずにはおきません。

 数えきれないほどの風変わりなエピソードの中でも、特に印象に残るのは、後半で登場する、「透明」になれる力を持つ女性グリフィンに関わるエピソードでしょうか。もともと他人からその注意をそらすことで存在を隠してしまうという特殊な能力を持つ女性が、さらに研究機関による脳手術によって良心を取り払われ、非常に危険な人物になってしまったというのです。彼女と出会って以来、ハリーの強迫観念の一つにもなってしまうという意味で、重要なエピソードでもありますね。
 また、頭を狂わせた芸術家と学者ばかりを収容したイールドン・ハウスのエピソードも興味深いです。そこの最も印象的な収容者として紹介される元言語学教授アーティモアは、言語の研究のため、幼い子どもを言語なしで育てようとしたというのです。

 端々で言及されるエピソードも風変わりですが、ハリーの人生に関わってくる人物たちも、一見正常なものの、どこか奇矯な要素を持っている人物が多いです。彼らに比べれば、主人公ハリーは相当に常識的な人物ですね。
 ハリーは、恋に対してロマンティックな思いを抱いており、人々の不幸な人生にも心を痛めるなど、理想主義的な人物として描かれています。破れた恋は、その後もずっと尾を引いており、その後の人間関係にも影響を与えることになります。『黒曜石雲』をきっかけとして、故国に舞い戻ったハリーは、自らの人生に決着をつけることにもなるのです。
 本筋には直接関係しない、装飾となるエピソードはともかく、主人公ハリーの人生の変転を描く部分は、常識的な展開がされており、クライマックスにおいても、ごく普通の「家族小説」の趣が強いです。ただ、結末に現れる奇怪な展開はかなり不穏で、マコーマック作品、やはり一筋縄ではいかないな、という感を強くします。
 ひとりの男の様々な経験や成長、そしてその人生を描いた「教養小説」的な感触を受ける作品なのですが、その語りの中で、自然と湧き出てきてしまうグロテスクな挿話やエピソードは、マコーマックならではの味わいなのでしょう。
 わりと厚い本ではあるのですが、非常に読みやすく、マコーマック入門書としても良い作品なのではないかと思います。


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過去と孤独  キット・ピアソン『床下の古い時計』

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床下の古い時計 単行本 – 1991/1/1


 キット・ピアソンの長篇『床下の古い時計』(足沢良子訳 金の星社)は、少女が古い懐中時計の力により過去にさかのぼり、子供のころの母親と出会うという、時間ファンタジー作品です。

 離婚を前提とした父母の話し合いの中で、12歳の娘パトリシアは、しばらくの間、母ルツの妹であるジニー叔母夫婦のもとに預けられることになります。おとなしいパトリシアは、活発ないとこたちとの間に壁を作ってしまい、孤独感を抱えていました。
 一人で過ごしていたパトリシアは、たまたま小屋の床下に隠されていた古い懐中時計を見つけます。それは彼女の祖母ナンの持ち物だったらしく、若くして亡くなった婚約者ウィルフレッドからのメッセージが刻まれていました。
 時計のねじを巻いて、外に出てみたところ、そこで少年二人と少女一人のきょうだいたちに出会います。しかしパトリシアの姿は彼らには見えないようなのです。彼らの顔に見覚えを感じたパトリシアは、彼らが、昨夜見た母親とそのきょうだいたちの古い写真と同じ顔であることに気がつきます。
 どうやらパトリシアは、35年前、母親ルツが子供のころの時代に来ているようなのですが…。

 両親の不和、独立心の強い母親との軋轢に悩む少女パトリシアが、叔母の家に預けられるものの、そこでも人間関係に悩みます。ふと見つけた古い懐中時計の力により、子供時代の母親がいる過去に行ったパトリシアが、立場は違えど、孤独感を抱えているらしい母親の姿を見て、そこに共感を抱き、母親の気持ちを理解しはじめるようになる…という作品です。
 いわゆるタイムトラベルを扱っていますが、あくまで主人公側は傍観者で、一方的に物事を見るだけ、という形になっています。相手側には自分の姿が見えず、物理的に干渉することもできません。それゆえ過去に起こったことをただ目撃するだけなのです。
 ただ、主人公パトリシアが目撃するのは、母親ルツの少女時代であり、それらを目撃することでパトリシアの中の母親や家族観が変わっていき、母親への理解を深めると同時に、自らも現実的に成長する、という物語になっています。

 パトリシアはおとなしい少女で引っ込み思案、活発で元気ないとこたちとなかなか親しくなれず、孤独感を抱えてしまいます。特にいとこの一人で美しい少女ケリーからは嫌われてしまいます。ふと見つけた時計の力により、母親の過去の姿を見ることになりますが、そこで目撃したのは、活発で独立心旺盛な少女の姿でした。
 何か目立つことをすると「女の子なのだから」とたしなめられてしまい、また兄のゴードンやロドニーと一緒にいたずらをしても、彼女だけがしかられることになるのです。家族から浮いてしまい、孤独感を抱えるルツの姿にパトリシアは共感を抱くことになります。
 とくに母親のナンとの軋轢は根深いものがあり、大人になったルツとナンとの仲も良くないことをパトリシアは知っているだけに、そこにも興味を抱くことになります。
 小さいころにあったきりで、祖母に対してほとんど知識がないパトリシアが、過去で若いころの祖母の姿を見るのとほぼ同時期に、叔母の家にやってきた年老いた現実の祖母にも出会うことになる、というのは面白い展開ですね。

 時間が経つにつれて、ケリーをはじめとするいとこたちとも仲良くなっていき、孤独感を解消することになるパトリシア、過去の母親を通して理解を深めるものの、現実の母親との仲が良くなったわけではありません。
 父母の離婚が進むなか、現実世界で迎えに来た母親ルツとパトリシアは理解し合えることができるのか…?というところも読みどころですね。
 娘のルツに厳しく接していた祖母ナンもまた、自らの婚約者を失っており、彼女なりの考え方をしていたことも示されます。ルツとパトリシアの親子間だけでなく、過去にさかのぼるナンとルツの親子間の愛憎もまた描かれることになり、三代にわたる家族について考えさせられることになるという、真摯なテーマの作品ともなっています。

 最終的には、家族やいとこたちとの絆を築くことに成功するのですが、序盤、人間関係に悩む主人公の孤独感の描写は強烈です。叔母の手前、いとこたちと遊んでいるふりをして一人で過ごすことになるパトリシアが描かれるシーンでは、そのいたたまれなさは印象深いですね。
 広い意味での家族の問題を扱った作品で、タイムトラベルという空想的なテーマを使用していながらも、その手触りは非常に現実的なファンタジー作品になっています。大人が読んでも読み応えのある秀作です。


テーマ:海外小説・翻訳本 - ジャンル:小説・文学

理想の家族  キット・ピアソン『丘の家、夢の家族』

丘の家、夢の家族 単行本 – 2000/10/1


 キット・ピアソンの長篇『丘の家、夢の家族』(本多英明訳 徳間書店)は、幸せな家族に憧れる少女が、理由も分からないまま、願った通りの「夢の家族」の一員になるというファンタジー作品です。

 バンクーバーで母親リーと暮らす少女シーオは、家族に憧れていました。母親のリーは16歳でシーオを生んだものの、父親は行方知れず、自分自身もまともな定職に就かず、娘のシーオを放置していました。
 ボーイフレンドの出来たリーは、シーオを姉のシャロンに預けようと考えます。シャロンの住むビクトリアに向かうフェリーの中で、仲の良さそうな四人きょうだいとその両親に出会ったシーオは、彼らのような家族の一員になりたいと強く願い、その直後に意識を失ってしまいます。
 目を覚ますと、彼女はなぜかフェリーで出会ったカルダー家の家族の一員となっていました。夢のような家族と幸せな生活を送るシーオでしたが…。

 経済的にも精神的にも孤独な少女シーオが、幸せな家族の一員になりたいと願った結果、何らかの理由でその願いが叶うことになる…というファンタジー作品です。
 主人公のシーオは不遇な少女で、母親からは育児放棄に近い扱いを受けています。食べ物もろくに与えられず、衣服などもほとんど買ってもらえません。母親にボーイフレンドができればほとんど放置状態、時には物乞いの真似までさせられています。
 彼女の唯一の楽しみは本を読むことぐらいで、図書館から本を借りてきては読みふけっていました。物語に没入することは現実世界から逃れたいという思いの表れでもあり、そのため本を読んでいないときでも、現実逃避のあまり空想をしがちで、学校の授業もろくに頭に入らないのです。
 カルダー家での生活を体験している時期には、本に対する興味が薄れてしまうというのも、もともと現実逃避の要素が強かったゆえでしょうか。

 シーオが夢見ていた家族との生活は、空想していた理想の生活そのものなのですが、何らかの原因で起きていた不思議な出来事は、また何らかの原因によって終わってしまうことになります。
 空想か夢だと思っていたカルダー家の人たちとの生活ですが、カルダー家やその住人たちが実在することが分かり、シーオは再び彼らの一員になりたいと、彼らに接触することになります。しかし、一緒に暮らしていたときは理想の家族だったはずのカルダー家の人たちも、思っていたほどの理想的な人物たちではなく、不平不満を訴えたり、仲違いしたりと、ごく平凡な普通の家族であることが徐々に分かってきます。
 また、カルダー家の人たちに憧れるあまり、彼らと比較して、持て余していた友人のスカイも、そこまで嫌な人間ではないことも分かってきます。

 後半では、自分の空想や理想を通して観てきたカルダー家の人々や友人に対して、彼らを等身大の現実的な存在として受け入れるシーオの成長が描かれていきます。
 それは母親のリーに対しても同様です。最後まで母親としても人間としてもあまり成長の見られないリーに対して、なるようにしかならない、しかし自ら主張すべきことは主張する、という現実的な落としどころを見つけるという展開は、ファンタジーとしては夢がないところではあるのですが、非常にリアリティがありますね。

 ヒロインが本好きということで、様々な児童文学やファンタジー作品が言及されるのも、楽しいところです。『砂の妖精』『ふくろ小路一番地』『シャーロットのおくりもの』『ナルニア国ものがたり』『ツバメ号とアマゾン号』『若草物語』など、
名作のタイトルが多く言及されています。
 シーオの出会うきょうだいが四人であるのは、『砂の妖精』に代表されるイーディス・ネズビット作品の主人公たちの構成を思わせるところがあり、シーオの空想が反映されていると考えてもいいのかもしれません(ネズビット作品の主人公の子どもたちは四人か五人のきょうだいであることが多いのです)。

 主人公シーオが夢の家族の一員になるという、一種の超自然現象に関する部分の解釈もユニークです。ある種の「現実改変」に近い扱いなのですが、仮定されるその原因も独特の設定になっています。
 シーオが主人公であり、彼女の成長を描く物語ではあるのですが、彼女の物語自体がまた別の人物の人生の物語でもあったことが分かるという結末には、感動がありますね。それに伴って、物語がメタフィクショナルな展開を見せるところもユニークです。
 夢と現実、両方を見据えた上でリアリティーは失わず、なおかつ物語の楽しみを味あわせてくれる、現代ファンタジーの秀作かと思います。


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大いなる犬たち  アンドレ・アレクシス『十五匹の犬』

十五匹の犬 (はじめて出逢う世界のおはなし カナダ編) (日本語) 単行本 – 2020/11/27


 カナダの作家アンドレ・アレクシスの『十五匹の犬』(金原瑞人、田中亜希子訳 東宣出版)は、ギリシア神話の神々によって人間の知性を与えられた十五匹の犬たちを描く、寓話的ファンタジー作品です。

 カナダ・トロントのレストランバー〈ウィート・シーフ・タヴァーン〉で、話し合っていたギリシア神話の神アポロンとヘルメスは、ある賭けをします。それは何匹かの動物に人間の知性を与え、そのうち一匹でも死ぬときに幸福だったらヘルメスの勝ち、皆が不幸であればアポロンの勝ち、というものでした。
 近くの動物病院にたまたま預けられていた十五匹の犬が対象となり、人間の知性を与えられた犬たちは変化を始めることになりますが…。

 神によって知性を与えられた犬たちを描く、寓話的要素の濃いファンタジー作品です。 主人公の犬たちが十五匹もいるということで、群像劇的に複数の犬が描写されていくのかと思いきや、序盤からどんどん犬が死んでしまうのに驚きます。病院で安楽死させられてしまう犬を別としても、群れの中での序列をめぐっての争い、どう生きるのかの方針をめぐっての争いなど、人間並みの知性を持ったとしても、犬としての本能自体がなくなったわけではなく、群れの中で、次々と争いが発生してしまうのです。

 犬たちの中でも何匹かの犬がメインに描かれます。群れの中で一番の力を持つリーダー的存在のアッテカス、与えられた知性を使い思索を深めるマジヌーン、感性豊かで詩を作る芸術家的なプリンス、日和見主義者にして利己主義の塊であるベンジー、この四匹が中心となって物語が展開していきます。
 知性を持とうが、飽くまで犬として生きるべきだとするアッテカスは、自分と考えが合わない者、邪魔になる者を殺したり追放したりします。与えられた知性を使おうとするマジヌーンとプリンスは、ことに彼にとっては目障りであり、相容れない二匹は群れを離れることになるのです。
 自分の意に従うものだけを群れに残したアッテカスは、犬本来の生活を強要しようとしますが、従来と同じ生き方はできず、かといって本来の本能もなくなったわけではなく、群れの序列などをめぐって、血で血を洗う抗争も起きてしまうのです。
 従来通りの生活をしようとするものの、知性があるがために、犬たちの行動が「犬のふり」のような不自然な形になってしまう…というのも面白いところですね。

 登場する場面も一番多く、おそらく主人公として描かれているマジヌーンは、アッテカスとは対照的に、与えられた知性を精一杯使おうとします。あるとき出会った人間の女性ニラと良好な関係を結んだマジヌーンは、人間の言葉を学び、言葉によって彼女と交流していくことになります。
 深いところでニラとつながりながらも、犬としての本能から彼女とその恋人に対して序列を意識してしまったり、共に鑑賞した人間の芸術作品については異なった意見を持つなど、犬と人間との世界観や文化の違いが描かれている部分は、哲学的で面白いですね。

 詩を作り続けるプリンスや思索的なマジヌーンなど、知性によって幸福な体験を得る犬も少数ながらいますが、ほとんどの犬は大体において不幸であり、残酷な死を迎える犬たちが大部分となっています。圧倒的な力で群れを支配するアッテカスもその例外ではなく、全体に非常にシビアな物語となっています。
 知性を持っていても、本能的に犬たちは群れの序列を求めてしまい、互いに公平な関係を結ぶことができません。そこに知性を持つがゆえの不満が重なり、群れの中での争いが発生してしまうのです。
 その点、利己主義者であり、ずる賢く立ち回るベンジーのキャラクターも印象的です。力の強いアッテカスに服従しながらも、常に裏をかく方法を探したかと思うと、再会したマジヌーンを利用しようとしたり、さらに人間たちにも取り入るという、日和見主義的な言動を繰り返すのです。

 メインとなる犬の他にも、序列は下のほうでありながら常に上をうかがう野心的なマックス、凶暴な双子の兄弟フラックとフリック、姉妹のような友情を結ぶことになるアイナとベルなど、知性を持った犬たちの姿は、人間以上に人間的に描かれています。

 アポロンとヘルメス以外にも、ゼウス、運命の三女神など、ギリシャの神々が多数登場し、何人かは犬たちの運命にも干渉することになります。神々の介入によって犬たちの運命はどうなるのか? 死を迎える際に幸福に死ねる犬は一体誰なのか? アポロンとヘルメスの賭けはどうなるのか?
 どの犬がどんな運命を迎えるのか、彼ら同士の関係性はどうなるのか、とてもスリリングな物語になっています。犬としての生き方と人間的な知性との相克など、哲学的な部分にも読み応えがあり、いろいろと考えさせるところもありますね。傑作といってよい作品だと思います。


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孤独の終わり  イアン・リード『もう終わりにしよう。』

もう終わりにしよう。 (ハヤカワ・ミステリ文庫) (日本語) 文庫 – 2020/7/16


 イアン・リードの長篇『もう終わりにしよう。』(坂本あおい訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)は、男性の両親が住む農場へ挨拶に行くカップルが、心理的な危機を迎える…という幻想的なスリラー作品です。

 付き合いたてのカップルである、ジェイクと「わたし」。二人はジェイクの両親が住む農場に挨拶に向かっているところでした。しかし「わたし」は、二人の関係を終わりにしたいことを言い出せずにいました。
 しかも、以前から「わたし」のもとには見知らぬ男からの不可解なメッセージがいくつも留守電に残されていました。車で農場に向かう途中にも、何度もその男かららしい電話がかかってきますが…。

 男性の両親のもとに挨拶に向かうカップルを描いていますが、女性側は別れを切り出すことを考えていた…という、一見すると心理スリラー的作品に見えるのですが、その実、そうしたジャンル分類には収まらない奇妙な味わいの作品です。
 ジェイクの言動が不自然なこと、「わたし」の来歴が曖昧なこと、「わたし」に電話をかけ続けてくる謎の男のメッセージも意味が不明であるなど、不穏の塊のような物語で、どこか超自然的な雰囲気さえ漂わせており、実際その読み味もホラーに近いです。

 カップルの物語の合間に挟まれる、殺人か自殺に関わる捜査らしきパートも、最初のうちは全体の物語とのつながりが全く分からず、作品の不気味さを増しています。
 結末では事件の真相が明かされ、それによって、それまでの不可解な点が伏線として機能していたことが分かるのですが、それでも多数の不明点が残るなど、不条理度の高い作品になっていますね。

 メインのテーマは、おそらく「孤独」とその「救済」なのではないかと思います。主人公の二人のカップルは、恋人でありながら、それぞれ孤独を抱えており、二人の間にはどこか壁のようなものがあります。
 それでも二人が一緒にいるのはなぜなのか? 女性側の「わたし」が別れを切り出さないのはなぜなのか?
 その理由が示されるラストには、非常に説得力がありますね。
 こうしたテーマをこのような不条理スリラーのような形で描いているのは、試みとして新しく、一読の価値がある作品なのではないかと思います。


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物語を続けよう  トマス・ウォートン『サラマンダー -無限の書-』
4152085002サラマンダー―無限の書
トマス ウォートン Thomas Wharton 宇佐川 晶子
早川書房 2003-08

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 読み続けても終わらない、無限に続く本。それは、本好きの人間が夢見る究極の願望です。カナダの作家トマス・ウォートンの作品『サラマンダー -無限の書-』(宇佐川晶子訳 早川書房)は、真っ向からそのテーマを扱った力作。
 舞台は18世紀、オスマン・トルコとの戦争で息子を、出産で妻を失った、スロヴァキアの貴族オストロフ伯爵は、領地の城に閉じこもってしまいます。パズルや暗号など、謎かけの熱狂的な愛好者である伯爵は、自らの城を機械仕掛けに改造する作業に没頭します。
 城内のあらゆる部屋や家具は、機会仕掛けにより、次々とその場所を変えるようになります。そしてその中核にあるのは図書館でした。

 客が芳香を放つ風呂を楽しんだり、淫らな気分で召使いを追いかけたりしていると、目に見えぬギアの震音とともに、岩のように堅牢だったはずの仕切がうしろへ滑走し、本棚やら読書机やらががたごととそばを通過し、しばしばそのあとを伯爵当人が時計を見ながら、家具の進み具合の正確さとタイミング以外いっさい眼中にない様子で歩いていくといったありさまだった。

 城内の本の管理をするのは、伯爵の娘イレーナ。今や、たった一人の家族となったイレーナを、伯爵は溺愛していました。婚期を迎えても、まったく結婚する気のないイレーナでしたが、伯爵は、娘が自分の助手としても有能であることを発見して以来、城内の人間の数を減らし、ひたすら機械仕掛けを増やしていました。
 ある日、城にとどいた本の仕掛けに感心した伯爵は、ロンドンから、それを作った印刷職人フラッドを呼び寄せます。そして、フラッドにつきつけられた課題とは驚くべきもの。なんと、無限につづく本を作れというのです!
 フラッドは、難題に対し試行錯誤を続けますが、やがてイレーナとの間に恋が芽生えます。しかし、二人の仲を知った伯爵は、激怒し、フラッドを地下牢に幽閉してしまうのです。
 そして十数年後、フラッドの独房を一人の少女が訪れます。

 「こんにちは、シニョール・フラッド」彼女は英語でいった。「わたしの名前はパイカ。あなたの娘です」

 フラッドが幽閉から解放された理由とは? 彼女は本当にフラッドの娘なのでしょうか? やがてフラッドは、パイカとともに「無限の書」を求めて旅に出ることになるのです。そしてイレーナの行方は…?
 書物をめぐる幻想小説、なのですが、作品中にあらわれるガジェットがことごとく魅力的。無限に続く本、機械仕掛けの城、動く書棚、人工庭園、驚異の小部屋、自動人形、女海賊。何より全体を通して、書物や本に対する愛情が感じられるところが、本好きにはこたえられないところです。
 前半のオストロフ伯爵の城での「無限の書」作りのくだりは、もう素晴らしいの一言につきます。動く図書館とも言うべき城のからくりは、どれも魅力的です。そして機械仕掛けの城で繰り広げられる、フラッドとイレーナのロマンスもなかなか。
 ただ、幽閉されたフラッドが、娘とともに旅に出る後半になると、どうも作品のトーンが異なってくるのに気がつきます。海洋冒険小説的な色彩が濃くなってくるのです。フラッド父娘はつぎつぎと仲間を加え、世界中の様々な都市を訪れることになります。ヴェニス、アレキサンドリア、スリランカ、マダガスカル、広東など、その旅はエキゾチックかつファンタスティック。ストーリーの合間に、本編とは独立したエピソードもはさまれ、これはこれで飽きさせません。
 ただ、上にも書いたように、「無限の書」作りに対する焦点がぼけてくるきらいがあるのは否めません。目的自体がなくなったわけではないものの、旅の途上の異国の風物や冒険の方が、前面に出てくる感じなのです。その点、作品冒頭のトーンで、話が進むと思っていると、ちょっとはぐらかされます。端的に言うと、前半と後半とで、どうも違う話のようなのです。
 主人公だと思っていたフラッドが、あまり積極的に活動しないのも、ちょっと気になります。オストロフ伯爵に幽閉されてからは、ほとんどいいところなし。対して、その後は娘のパイカが主に活躍することになります。しかしそれでも「無限の書」作りが明確に達成されるわけでもなく、結末もどうも曖昧なのがちょっと弱い。
 そして、致命的に弱いのは、やはり作中での「無限の書」の扱いでしょう。「無限の書」というからには、それなりの魅力を感じさせなくては駄目だと思うのですが、この作品では、その内容も明確に示されず、曖昧なまま終わってしまいます。前半は、内容というよりもむしろ物理的な仕掛けで「無限」を作れないかという試み、後半になってからは、象徴的な「無限」として、話をにごしてしまうのです。まあ強いて解釈するなら、後半の冒険行そのものが、すなわち終わらない旅であり、「無限の書」である…、ともとれなくはないのですが。
 さらに言うなら、伯爵やフラッドが、なぜ「無限の書」に取り憑かれるようになったのかという点にも、あまり説得力が感じられません。この「無限の書」の魅力を読者に感じさせることができたなら、本作は、もっと素晴らしい作品になったと考えると、ちょっと残念です。
 ちなみに、読み終えた後、思い浮かべたのは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』(文春文庫)でした。後半の旅のパートで訪れる、アジアやアフリカの都市の雰囲気など、実にそっくりです。ペダントリーも作中にばらまかれており、澁澤龍彦が好きな方なら楽しめるのではないでしょうか。

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プロフィール

kazuou

Author:kazuou
男性。本好き、短篇好き、異色作家好き、怪奇小説好き。
ブログでは主に翻訳小説を紹介していますが、たまに映像作品をとりあげることもあります。怪奇幻想小説専門の読書会「怪奇幻想読書倶楽部」主宰。
ブックガイド系同人誌もいろいろ作成しています。



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