人生で初めて映画館で観た映画はなんですか。
取り立てて映画好きなわけでなく、ただジブリ作品だけは、映画館で映画を見られるようになってからほぼすべて劇場で観てきた。
わたしが人生で初めて大スクリーンで見た映画が『千と千尋の神隠し』だったからかもしれないが、そういう意味では、このコロナ禍に打ち出された「一生に一度は、映画館でジブリを。」のターゲット層には当て嵌まっていないな、と思う。
キャッチコピーのターゲット層にいないことで腹を立てていたりする訳ではないけれど、奇しくも同じそわつくようなすこしのさみしさは19年前のものとおなじだった。
「トンネルの向こうは、不思議の街でした。」は糸井重里氏のお馴染みの公式キャッチコピーだが、たしか当時はもうひとつアオリがあったように覚えている。
「今10歳の子どもたちと、かつて10歳だった大人たちへおくる」
あまりにうろ覚えだし、少し調べてみてもCMや予告に出てこないので、もしかしたら実在したキャッチコピーではなくパンフレットや徳間アニメ絵本などでの監督発言なのかもしれない。でもかつてこれに入れてもらえなかったわたしの感じたすこしのさみしさは本物だったと思えてならない。
19年経って、あらためてあの公開当初ぶりに映画館で観ようと思った。千尋よりも、お母さんのほうの年齢に近づいてしまったほどの歳月が経っている。今まで六本木での企画上映など映画館で再び見る機会はいくつかあったはずだった。ぶ厚いVHSも、Blu-rayディスクも持っているのに金曜ロードショーも時間さえ取れれば必ず点けるくらい、テレビでなら何度も観ている。それに、いちども映画館で観たことのない2タイトルも同時に上映開始していた。でもなんの躊躇いもなく、じゃあ千と千尋だな、とおもった。
これはトトロからそうだけど、リクライニングなんかじゃない普通の座席に寝っ転がる、ルールを守らない千尋の車の乗り方がうらやましかった。ふたつの映画の引越しのシーンそのものは全然違うのに、ごちゃごちゃの車が秘密基地みたいで、大人になって見ても主人公のいる場所って感じがした。抱える花束を見て、はじめて、ああスイートピーか、と気づく。母親がスイートピーを好きなことをふと思い出した。
いい香りの、とにかくしおれやすい花束だけど、花言葉は「門出」で、クラスメイトがちゃんと考えてお母さんとでも買ってきてくれたのかなと思えて、友達がいてわかれを惜しんでもらえるぶちゃむくれのどこにでもいる女の子というパッケージが余さず伝わる。今更だけど、無意味なものが画面のどこにもないんだな。
あんなに怖かった祠も石像も全然怖くなくなっていた。回数を見ているのはもちろんだけど、知らない領域ということが怖さに直結していたんでしょうね。誰かが何かを祈ってつくって置いたことがわかるから、人文系の学びを無駄だと思えない。
「祠よ。神様のおうち」と答えられるお母さん、めちゃくちゃいいなと大人になって気づいた。根っこがちゃんとしてるというか。道端に転がって山になってる祠見て意味まで教えられる大人。まあこれについては、いちばん有名な岡田先生の考察を分けて考えられないな、とは思いますが。「神様のおうち」に何かを願ったり呪ったり祈ったりした人なんだろうと思う。最初に連想するのが水子なのはわたしだけじゃないとおもうし。
そういえば車にまるで興味のない人生を送ってきたから四駆って言葉をこの映画で知ったな。映画自体では聞かないけど絵本の地の文に出てくるカンテラとかもそう(沼の底に着いてから迎えに来てくれるあいつ)。幼少期に徳間アニメ絵本から得た語彙で育ちすぎた。
「あはい」に「異界」、誰そ彼時の交差点、川と水場の役回り、よもつへぐい、それらを学ぶときなんの障碍もなかったのは、きっといつだって根底にこの映画があったからだ。ひさしぶりに学生時代を思い出した。学びが次への扉を開いてくれる感覚をはじめてあじわえた場所で、ふりかえるとただただ楽しかった日々。
ヘーゼルの瞳が印象的すぎるハク、いつ見ても美少年ですごい。20年経ってもなお、この顔は美しい・このキャラクターは妖しい美少年だとわかるの、一体どういう意匠なんだ。大画面で見つめ続けてはじめて気づいたのは、顔立ちがこんなにはっきり左右非対称なんだこのひと、ということ。神様が具現化したにしては左右非対称の美を解しすぎていませんか。他の神様たちってオシラ様とかオオトリ様とか左右対象なんだけど、ハクはアップになると常に瞳の開き具合とか、かたちとか、眉毛の高さがちがっていてすごかった。それでもずっと美しい。これが彼がまだ神になっていないということのあらわれならスタジオジブリも協力した作画担当の会社もバケモノ。
神木隆之介大先生、いついかなるときも最高の生き物でいらっしゃって最高。リンちゃん、大人になってから見てもこんな女の子になりたかったなと思わせてくれてだいすき。当時の予告テレビCMに「特別出演:ススワタリ」とあったのを思い出してにやけてしまった。トトロから派遣されてきちゃったのかな。
何度見ても新鮮にうつくしくおどろおどろしくかわいくてすごい。観てるあいだずっと、これが20年前のアニメなのか、ってなんどもなんども思わされた。
「ふたたび」という曲があって。サウンドトラックにも収録されている、銭婆の家から龍のすがたのハクと湯屋に向かうときのBGM。
もともとはインストの曲だけど、2008年の久石譲さん武道館コンサートの際に鈴木敏夫プロデューサーの娘さんによって歌詞がつけられ、平原綾香さんが歌ったことによってわかりやすくなった気がしてさらに好きになった。
ずっとずっと昔に
触れたことのあるあのぬくもり
からはじまる、体になじみきったメロディが喉の奥を焦がした。頭のなかの歌詞とともに、眼前の大スクリーンにはいつ見てもうつくしいジブリ屈指の飛行シーン。二人の瞳から大粒の涙がこぼれる前に、泣いてしまっていた。
このときやっと気づいた。これはきっとハクのための歌だったのだ。
ジブリの都市伝説、というやつが嫌いだった。というか今でも苦手だ。それでもテクスト論を学んでから、地の文のどこが恣意的に嘘をついている可能性があるのか、ということはわたしにとってけっこう大きな興味として根付いてしまった。
だからというわけではないけど、ハクはまだ神様ではない(論拠は色々あるにせよ夜になる前に千尋に見えている・はたらきかけられること)という考察論にはとくに否定的でない。兄かどうかまでは確信が持てないけれど、その点には納得がいく。詳しくはググって岡田おじさんのnoteなどを読んでみてください。
あなたが照らしてくれた道を いま ひとり歩こう
まっすぐ前を向いて 立ち止まらず
これが、まだ神様見習いのハクが千尋にコハク川と名づけられたことによって神様になるシーンに流れている。存在があるから名づけられるのではなく名づけられたから発生し存在し続けられるというきまりは、奇しくも記紀ですらみられるこの世のことわりだ。この時点でハクは神様へと歩みを進めた。
忘れないでいたなら
いつかまた会える そう信じてる
これをずっと千尋の気持ちだと思っていた。ちがった。ふたりが「一度あったことは、忘れないもの」で「思い出せないだけ」だったから、ハクがここで千尋と再会できたのだ。
神様になったハクと万が一もういちどもとの世界で千尋が会えても、それは「また」ではないのではないか。もうここで再会は果たされていて、のちの神様になったハクは千尋を助けたハクと同一とは言えないんじゃないか。
夢見る中高生の頃に、きっといつか再会すると信じていたこころと、どうしたってこれが最後だろうとわかってしまう説得力に納得できる理性とが、相反してはいてもわたしのなかでどちらも出ていかなかった。さみしい気持ちと会えてよかったという気持ちとこれからもずっとひとり忘れないで悠久のときを刻むハクに想いを馳せる気持ち、ぜんぶ抱え込めなくて泣きつづけてしまった。
「振り向かないで」をやり過ごしたのに、荘厳とすら言えるエンドロールでまた涙が止まらなくなってしまって。
これはでも、けっこう後ろ暗い涙だった。作品に対してというよりは、亡くなられた方のお名前とかがあるので、19年という歳月の重みと、全然思い通りになんかいかなかった人生というクソゲーとに突然ずどんと悲しくなってきちゃったのかなと今は思う。最悪の泣き方だ。家でやれ。
動くセル画の乗っからない背景だけのエンドロール、どの作品でもぐっとくるけど、こと千と千尋は、誰もいなくなっても「こう」なのだとしめしてくれるようでよすぎる。誰も神様を信じなくなっても、四季折々の花々は咲きつづけてくれるだろうか。リンちゃんたちは、食いっぱぐれないで海の向こうの街で暮らせるだろうか。
思った通りの人生なんて歩めなかったけど、この映画はきっと1mmでも人生を好転させてくれたと信じている。
絵を描くのもこうして文を書くのも仕事にできなかったけど、好きなものは増えた。自分でも、両腕いっぱい抱えて常にこぼれそうなほど、好きなものが多い人生を歩めていると思う。
千尋になれなかったわたしへ、人生はクソだしわたしはわたしのことが好きになれませんでしたが、あなたがめっちゃくちゃに怖がりながらも映画館から出ずに最後まで観てくれたので、わたしは人生に愛せるものをたくさん得ました。ありがとう。
次は、勉強って無意味じゃないんだと初めて思えた映画こと、もののけ姫にしようかな。