川流桃桜の日々の呟き 2021年10月
FC2ブログ

遺伝子ワクチンの「成功」が開いた未知への扉を理解する為のヒント

須田桃子著『合成生物学の衝撃』のレビュー。




 2020年から遺伝子操作技術業界がやたらと賑やかになった。弾みをつけたのは勿論COVID-19「対策」として採用された各種の遺伝子ワクチンだ。各種データや警鐘を鳴らす世界中の科学者達の警告に目を通している人ならとっくに解っている通り、これは生物兵器としか言い様の無い代物で、既に2021年の春頃には、世界中で展開されているCOVID-19ワクチン接種が人類史上最悪の医原性災害(薬害事件)に発展するであろうことは明白になっていた。この「成功」に勢いを得て製薬業界やバイオテクノロジー業界は飛躍的に収益を伸ばし、特に遺伝子編集技術の可能性は、パンデミック詐欺の首謀組織のひとつである世界経済フォーラムが推進する「第四次産業革命」の目玉となるものとして喧伝され始めた。WHOはヒトゲノム編集についての包括的なレビューの作成に乗り出し、遺伝子操作された蚊の放出は世界各国で既に実際に行われている(ビル・ゲイツは「モスキート週間2021」などと銘打ってこれを宣伝した)。各種遺伝子ワクチンから始まって、遺伝子工学によるあらゆる有機体の書き換えが最早公然と唱えられており、特にデジタル技術との組み合わせにより、これまでに無い大量監視や金融システムの根本的再編の可能性が現実のものとして迫って来る様になった(これは同時進行で進められている気候変動詐欺によるSDGs詐欺でも重要な要素となることが予想される)。
 そこで「ヤバい、この分野について勉強せねば!」と思って私が慌てて読んだ文献の中で多少はお薦めなのがこれ。遺伝子編集技術により近年弾みがついた「合成生物学(工学としての生物学)」と云う分野が孕む諸問題について、限定的ながら逃げずに調査を行っていて、「グレート・リセット」の現状を考察する上で参考になる。同テーマを扱った、例えばNHKの似た様なタイトルの『ゲノム編集の衝撃』が、頭にお花畑でも咲いてるのかと思う程能天気な調子で、「あんなことも出来る、こんなことも出来る、わーすごい」と云う、新しいオモチャを得た小学生の様なノリで書かれているのに対し、こちらは同じインタビュー集でも、資金源や倫理的な諸問題、デュアルユースが絡むリスク等について臆せず踏み込んでおり、特に浅くではあるがDARPA(米国防高等研究計画局)との関係に触れている点は、他に類書が少ないので高評価。経済的な諸々のインパクト、合成生物学が社会の仕組みを変える可能性について言及が無いのは残念だが、まぁこの薄い本にあれこれ求め過ぎるのも酷と云うものだろう。「現場の科学者達は実際にどんなノリで研究を進めているのか」を知れるだけでも仲々貴重だ。この分野については早急に世論の関心を喚起せねば危ない気がする。
 尚、書かれたのは2017年で、2021年に書き足しが為されているが、不思議なことに著者はCOVID-19ワクチンの実態について何も御存知無い様だ。ワクチンマフィア共のデタラメだらけの宣伝文句を真に受けて、検証した形跡が無い(公式情報を確認しただけでも直ぐ解る嘘なのだけれども)。残念なことだと思う。

ユニバーサルマスクについての短い比較宗教学的エッセイ

2021/10/29(金)の呟きより


古来如何にして世界は変容して来たか

ヒトはイニシエーション(通過儀礼)に於て共通の(屢々恐怖や苦痛や不快さを伴うことも有るが、人々の精神や肉体を完全に破壊してしまう程ではない)体験を共有することにより、緩んでほつれた共同体の結束を結び直し、自分達が共同体の不離不可分の一部であることを確認し、共同体秩序の再生を図る。

その際、単なる物理的な意味でどんな行動が求められるのかは必ずしも重要ではない。第一に問われるのはそれらの行為が象徴として持つ意味であって、その外殻は一定の要件さえ満たせば何でも良い。

共同体の成員達に共通の傷を負わせ、共通の神話を担っていることを自覚させ、共通の宇宙像の中に住まうことを可能にするものであれば、形式は何でも良いのだ。

それは例えば身なりや服装、名前や言葉使いを変えることであっても良いし、何かの試練や儀式を経ることであっても良い。

何等かの肉体的な改造を施す工夫も世界中で行われているし、参入者をそれまでの旧世界の秩序から切り離す心理的な効果が得られるものであれば、ヒトの想像力の及ぶ限り、どんなものでもそれは象徴としての意味を帯びる様になる。

旧世界の秩序から切り離された参入者は、そこで宙ぶらりんの状態になり、一旦意味の真空状態に留め置かれる。参入者はそれまでの名前を奪われ、生活パターンを奪われ、姿形を奪われて、未規定の混沌のまま、意味の子宮へと投げ戻される。そしてそこで新たな存在様式を与えられるのを待ち受ける。

共同体がそこに新たなアイデンティティを投げ入る。「お前はこれである」と云う命法が疑い得ないものとして、参入者に新たな名前、新たな役割、新たな地位、新たな人格を与える。

通常なら混乱するであろう参入者は予め「お前は今までのお前ではない」と云う否定のプロセスを受け入れることによって、新たな存在意義に対する心理的抵抗を減らし、鋳直されることに同意することが出来る様になる。

それまでの自分は死に、新たな自分が生まれる。適切なコンテクストを与えられることによって単なる体験は象徴として世界と自己の再生を意味する様になり、参入者はそこで初めて共同体の成員(共同体の維持と再生産に関与する権限を持った者)として認められることになる。

旧世界と新世界との断絶の乗り越えは、意味の一時的な「カッコ入れ」によって可能となる。社会化は、世界秩序に一種のテロルによって亀裂を生じさせ、人為的に認知的不協和を引き起こす状況を作ることによって実現されるのだ。

象徴を用いたそれは一種のお芝居であり「ごっこ」だが、ホイジンガが指摘する通り、「ごっこ」は、それが行為者によって真剣に遂行される限りに於て享楽され得る。不真面目な「ごっこ」は「ごっこ」ではない。そこには真剣になるべき確たる意味が存在するかの様に振る舞わなければならない。

意味が有るかの様に振る舞うことによって、それは実際に意味の有るものになる。社会の成立に於ては振る舞いが実体を規定するのであって、その逆ではない。社会は「ごっこ」によって可能となる。それは外部の者にとっては意味を持たないが、内部の者にとっては侵すべからざる意味を持つことになる。

その成立は一種の暴力行為であり、それ自体はそれ以上遡ることの出来ない無根拠性を背負うことになる。だが神話の創造は絶対性を帯びなければならない。その起源は問うてはいけないものなのだ。従って疑念の素振りはタブーとされる。

秩序の外側へ出ようとする眼差しはそれ自体が打ち立てられた新秩序に対するテロルと見做され、排斥の対象となる。共同体はその根源的基盤を、常に成員の目から隠し続けなければいけないのだ。

「始まりを問うな。」社会にとってこれは至上命題だ。

私が今述べたプロセスは、カルト集団の洗脳の手口としても記述可能だろう。更に言うなら、こうしたプロセスにかんする知見は現在行動心理学と云う形で人身操作の為の兵器化として実際に利用されている。だが一概にこのプロセスに「洗脳」と云う呼称を適用するのは些か早計に過ぎる。

私がここで言いたいのは「あらゆる社会化は洗脳の様なものだ」と云うことではない。世界を無意味さの深淵から救い、それを意味と秩序を持った生きるに耐え得るものにするプロセスは、どれも似た様な構造を持つものだと云うことだ。

それは社会的存在としてのヒトの普遍的特性として捉えられるべきものだ。

これはあらゆる社会(国家、家族、共同体………このエッセイは極く緩く為された即興の考察なので、これらも極く緩い意味で捉えて貰いたい)に於て多かれ少なかれ普遍的に見られるプロセスなのであって、あらゆる社会化は多かれ少なかれこの認知的不協和の乗り越えのプロセスを抜きにしては成立しない。

世界の無根拠性を馴致するには、共同体全体が聖性を基軸として回転する宇宙秩序を展開し、神々が嘉したもう演劇を奉納することにより、単なる物理的な事象や行為に象徴としての意味を帯びさせなければならない。これは一種の根源的社会契約とでも呼ぶべきものだ。

あらゆる社会は、世界秩序の無根拠性を、従ってそれが暴力的に打ち立てたれたものであると云う事実を、人々の目から隠し続けなければならない。

若者は刺青の痛みに耐えることによって、単に身体に模様を描き込んでいる訳ではない。参入者は象徴的行為によって世界の空無に耐え、直接覗き込むことの出来ぬ深淵から意味を捥ぎ取って来ることを期待されているのだ。

痛みや恐怖や不安が、それにより実質的な意味を与える。「これ程私の肉体や精神にとって意味を持つものが、共同体全体にとって意味を持たぬ筈が無い………。」

共同体の新陳代謝にとってはそれが必要なことなのであり、世界を再生させることの出来ぬ者は、世界を死滅へと導く忌むべきものとしての烙印を押されなければならない。意味を深淵から持ち帰れぬ者は共同体全体にとって脅威なのであり、共同体が存立する意味そのものを否定する敵なのだ。


ユニバーサルマスクは世界変容の為の舞台装置だ

この意味で、ユニバーサルマスクもイニシエーションと同じ特徴を持つ。

万人(子供も含めて)があらゆる場で常時マスクを着用することによって、人々は表情を奪われる。顔を奪われる。顔情報によるコミュニケーションを奪われる。同時に呼吸を阻害され、常に低酸素状態で活動することを強いられる。

(「雑菌」と総称される)様々な微生物を顔の周りに大量に付けたまま活動することを強いられる。免疫系を低下させ、ストレスを溜め、自分を慢性的に不健康な状態に追い込むことを強いられる。

パンデミック詐欺を人々に信じさせる心理的なトリックには、メディアを使った膨大な量の偽情報プロパガンダや社会的距離、手洗い消毒、様々な「自粛」等様々なものが存在するが、その偏在性と視覚的表象の判り易さと云う点では、ユニバーサルマスクが群を抜いている。

それはゴム紐を耳に掛けるだけで、簡単に人々をそれまでの日常スタイルから切り離す。それは人の集まる所であれば何処でも見られるし、目の見える人であれば誰にでも判るし、常にそこに在る。無ければ直ぐに判るし、誰かこのゲームに参加していない者が居れば直ぐに見分けがつく。

参加者が内心でどう思っているかは、この際全く問題にはならない。

目に見える表象がここでは全てなのであって、参加者全員が「私は公式の物語に疑問を抱いていない。私は公式の物語を支持する。私はこの物語に参加している。私は異分子ではない。社会全体の再生可能性は保障されている」と云う意思表示を四六時中行うことこそが確認されねばならないことなのだ。

人は他の大勢が信じているものを信じ易い。これ以上は無い程に視覚化された同調圧力が、公式の物語の信憑性を裏書きすることになる。

科学的データに基付いてユニバーサルマスクの必要性、有効性、安全性を信じていない人であっても、仮に同じ意見を持っている他の大勢の人々から切り離され、コミュニケーションを取る手段を奪われたとしたら、恐らく長期間の精神的孤立に耐え得る者は極く少数だろう。

ヒトは何を信じるにも他者の承認を必要とする。ヒトは他者に承認される経験を繰り返して初めてヒトに成る。他者の承認を或る程度必要としなくなるのは、精神的な成熟を果たしてからの話だ。根源的な不安は常にヒトの精神の基底に横たわっている。

強大な外敵の脅威のミームが繁茂している状況では、ヒトは自らの在り方を問い直さざるを得なくなる。呼び覚まされた根源的な不安は、何時にも増して他者の承認を求めろと急き立てる。マスクはそれに対する手軽な回答を与えてくれる。「大丈夫、皆同じだ。私達は同じ電車に乗っている。」

(言ってしまえば私自身のこの種の情報発信も、同種の根源的な不安に根差していると言っても良い。

現代資本主義社会の比類無く強力なプロパガンダシステムの一翼を担っているのは(元々は軍事目的で開発された)インターネットだが、これが支配と同時に草の根の連帯の可能性を繋いでいてくれなければ、私自身も疾うにこの狂気に呑み込まれていたかも知れない。

このエッセイは私自身の不安を問い直し再確認する作業でもある。)

ユニバーサルマスクは社会全体に向けたメッセージなのだ。それが防護しているのはウィルスに対してではなく、世界秩序の崩壊に対してだ。「社会は守られている。私達一人ひとりの参画によってそれが可能になっている」と云う安心感こそが、その「効果」を保証する。

数字で測られるデータではない、生きた人間の生の実感こそが、その意味の根幹を形成している。

それはウィルスからの防御ではなく、心理的救済への約束と相互確認なのだ。


COVID-19「対策」による救済は原理的に不可能だ

だが残念なことに、その救済は訪れない。パンデミック詐欺の全体が似非科学に基付いていることを理解している人の多くが恐らく気付いていることだろうが、この状況は意図的に作り出されたものだ。

そこには人心操作と云う明確な目的が有り、科学的知見に基付くその為の戦略が存在する。これが自然発生したものであれば、社会の力学に従って自然の流れに沿って状況が展開して行くことを期待出来るが、今回はそうではない。

この状況は救済が決して訪れないように入念に仕組まれたものなのだ。

資本主義は民衆の団結を嫌う。冷戦が表向き終結して「共産主義の脅威」が無くなると、新自由主義と云う形で資本主義はそれまでの戦後30年程の社会主義的な仮面を本格的にかなぐり捨て始めた。

搾取の対象はそれまでグローバルサウスの「開発途上国」や「未開発国」が主だったのだが、世界経済の金融化の加速を以てしても搾取のフロンティアの開拓に行き詰まった資本主義は、自国の国民をも直接に標的にする様になった。

民衆運動の組織的基盤である労働組合潰しに始まり、段階的に中間層が破壊されることによって、人々は抵抗の力を徐々に奪われて行った。生活は苦しくなって行ったが娯楽はふんだんに供給され続けた為、人々は現状認識能力を低下させられるが儘になって行った。

グローバルに寡占が進んで大政翼賛化が進んだプロパガンダシステムはフェイクニュースの手法を発達させて国際的な連帯の可能性の芽を摘んで行った。

次々と創出される新たなカテゴリーは「多様性」の名の下で人々を孤立させ、何でも良いが「搾取される労働者階級」以外のとにかく何かとして人々のアンデンティティを再規定した(それによって確かに救済される人々も居たことが問題の認識を遅らせることになった)。

そしてグローバルパワーエリート層は「人類の存亡を脅かす恐怖の殺人ウィルス」と云う物語によって、到頭人々を直接物理的に隔離する手法を編み出した。

「無症状者からの感染」なる物語は、元々「健康体の人を病人に仕立て上げ、『患者』にして治療費をふんだくる」と云う従来の商業医学の手法を更に洗練させたものだが、これにより万人は万人に対する潜在的な脅威へと変容することになった。

「万人の万人に対する闘争」は、ホッブズが全く想像すらしていなかった形で物質的に実現することになった。

今や誰もが潜在的なウィルス保持者であり、他者の生命を脅かす可能性の有る災厄であり、無自覚なバイオテロリストなのだ。

子供達はおじいちゃんやおばあちゃんを殺しかねない殺人者予備軍であり、出来ればそこに存在しない方が良いものであり、どうしても存在したいのであれば囚人の様に服従の証を提示し、適切に管理・監視されることを必要とする厄介者と化したのだ。

人類はお互いの為に存在しない方が良い(そして地球環境の為にもその方が良い)のだ。私達は普通に呼吸して話をしてコミュニケーションを取るだけでも特別な承認を必要とする忌むべき罪人なのであり、勿論抵抗運動なぞは永久に禁止されるべきだ。

素直に従わない者は世界の再生を望まない異教徒であり反乱分子であり、あらゆる罵声を以て罵られ、時には暴力的に排除されるべき病原体なのだ。

「原罪」の観念はここに物質的に受肉した。私達は普通に生きているだけで罪深い穢れた存在なのであり、世界の真理を占有している賢明な専門家達が命じるところに従わなければ、救済は決して訪れないだろう。

私達は互いの悍ましさに嫌悪感を抱きつつ、生命を長らえる為に人生を諦める術を学ばなければいけないのであって、その為には隣人とは距離を取らなければいけない。親は子と離れて生活すべきであり、一次的な肉体的触れ合いは禍いを呼ぶ愚行だ。

慢性的な分断と孤立こそが「新常態」の基本形であり、新世界秩序に於ける日常生活は、デジタルID/現代版パノプティコンが可能にする監視資本主義の進化型により、ビッグブラザーの監視下でのみ可能になる。

私達は互いの顔を見ること無く、不可視の監視者に生体認証データを提供し続けることで生活を許されるのであって、サッチャーの「社会なるものは存在しない」と云う理念は、ここにテクノクラート達の長年の夢の結晶として具現化する。

そこに争いは無いだろう。と云うよりも寧ろ、争いは不可能になるだろう。一方的な服従のみが人々に求められることであって、好しからざる言動を取る者はデジタルIDにより社会生活に制限が掛けられたり、デジタル通貨の使用に制限を課されたりするだろう。

あらゆる個人データがデジタル化された社会に於て、懲罰は即時に直接的に確実に行われる。グレート・リセットやSGDsと云った資本主義再起動構想の掛け声の下、社会全体が静かに強制収容所へと移行する。

それはケガレが常態化した世界だ。統計数字の操作により、権力者達の都合によって何時でもハレの瞬間は演出出来る。だがそれは続かない。パンデミック詐欺に於ては万人は須く穢れた存在であり、忌むべき烙印を押された罪の塊だ。

そこに横の連帯や団結の可能性は無い。有り得るとすればそれはそれらが新世界秩序にとって利益となる場合だけであり、そうでないものは黙殺や中傷、時には積極的な弾圧の対象となる。

ケガレ=気枯れが常態化した状態では当然人々の生命力は萎れる一方だ。新常態は、人々が穢れを払うことを許さぬ体制であり、従って社会の生命を更新することが不可能な体制だ。

社会は緩やかに窒息死する。世界の再生は訪れない。人々は死ぬことを許されず、従って再生も無い。死なないことが生きていることであり、人々はそれに満足すべきだと教えられる。

「共同体」は最早存在しない。人々が共同で持っているのは穢れだけだ(その一方で公共財は全て投資家達に金儲けの機会を与えるべく、持続可能性の大義名分の下で投げ売りされることになる)。

これが終末カルトであれば、予言者の予言が外れる度に人々の信仰は認知的不協和を超えて強化されるが、限度を超えれば最終的には集団自決に至るか、或いは自然消滅に至る。

新常態に自然消滅は有り得ない。「万人は穢れている」と云う前提が覆らない限りは、ファシズム2.0から人々が解放されることは無い。

そしてもう一方の可能性は人類史上初の遺伝子殺人ワクチンの展開により、コロナカルト信者達の全く与り知らぬところで密かに進行している。現時点で判明しているだけでそれは既に史上最悪の医原性災害だが、その被害が何処まで及ぶかは、まだ誰に正確なところは判らない。

長い長い冬を前にして、私達は唯不確かな推測を巡らせることしか出来ない………。


問題は科学ではない

この先に再生が無いのは確かだ。だがそれに気付いている人々は状況を引っ繰り返す為の方法をあれこれと模索してはいるが、世界全体で見れば今だ決定打と呼べる様な動きは見られない。

この国だけでも、他の国々の様に政府に強制された訳でも無いのに、既に7割を超える人々が自分の身体を物理的な意味で毒物生成工場に変える為の措置を済ませてしまった。

再度確認するが、問われているのは科学ではない。社会全体が脅かされていると感じられている時、問題になるのは聖なる秩序であって、賭けられているのは生を耐えられるものにする世界の意味だ。

自分達が共同体の成員として共同体を再生させる能力が問い直されているのであって、ウィルスは一義的には象徴としての意味しか持たない。

(そもそも殆どの人は―――医師も含めて―――疫学の知識など持ち合わせてはない。TVや新聞で御用学者が言っていることをその儘鵜呑みにしているだけだ。)

理解すべきはウィルスの科学的特性ではなくして、それが偽りのパンデミックと云う舞台に於て担っている役柄や設定だ。「それは科学的には無意味だ」と叫ぶことは「世界は無意味だ」と虚空に向かって叫ぶのと同じ程度の意味しか持たない。そんな台詞はこの舞台の上では出番は無いのだ。

何よりも先ず再考されなければならないのは科学的知見ではなく、科学的知見の提示のされ方だ。科学ではなく、「人々にとって科学の権威と思えるもの」こそが重要なのだ。

科学とはそもそもヒトの自然なものの捉え方にそぐわないものだ。ヒトは科学的な思考が出来る様に出来てはいるが、日常に於て科学的な思考を行う様には出来てはいない。科学的な思考は可能性の領域の話であって、現実の話ではない。

それはプロパガンダの問題であり、信頼の問題であり、人々が心の拠り所を何処に求めるかと云う問題だ。

私はここでマスク信者のことを「合理性を説いても無駄だ」と貶めたい訳ではない。目の前の現実を理解するには、単純な合理性とは異なる基準を用いないと無理だと云うことを指摘したいのだ。

このエッセイに於て私は何等かの結論に至りたい訳ではない。これはこの一見狂気としか見えぬ現実を何とか理解しようとする試みのひとつに過ぎない。

私はこの狂った世界と何とか折り合いを付けたい。その為には先ず腹を立てず、結論を急がず、泣き言を言わずに目の前の現象に誠実に向き合うことから始めなければならない。その為のラフスケッチだ。

共産主義体制を見下して疑問に思わない日本人

2021/10/28(木)の呟きより


どんな体制の国であろうと、戦時中に呑気に選挙をやったりはしない(ルーズヴェルトだって大戦中は5期も務めた)。共産主義体制は権威主義的だと屢々非難されるが、共産主義体制とは資本主義体制から絶えず様々な攻撃を仕掛けられることを意味している。

その点の事情を斟酌せずに一方的に共産主義体制を非難するのは不当だ。そう云う人は経済制裁を受け、そこら中に工作員が入り込み、大規模なプロパガンダ攻撃を受け続ける状況で暮らすことがどんなことか、一遍想像してみれば良い。

日本は宗主国のいいなりになっているから民主主義の真似事が許されているだけだ。逆らえば即刻潰されるが、日本人の大半は従順だ。比較的恵まれた環境に置かれている者が不利な状況に置かれている者を見下して非難するのは恥ずべきことだ。

与えられたお仕着せの民主主義さえ満足に運営出来ない国の人々が、曲がりなりにも自力で革命を成し遂げて貧困を脱出する道を切り拓いて来た国々を見下すとか、これが洗脳の結果でなくて何なんだろう。

共産主義体制が強権的人権無視に走ったりしない、などと言っている訳ではない、侵略に抵抗する為の闘争は真空状態で起こっている訳じゃないんだから、綺麗事では済まない部分も当然出て来る。汚いことをやる連中も当然居るし、腐敗だって蔓延るだろう。

だが完成形で出て来る革命なんてこの世には存在しない。革命とは絶えざる闘争であって、常に不完全なものだ。闘争が終わるのは、それが真の革命であることを止めた時だけだ。

忘れるべきではないのは、資本主義体制が共産主義体制に戦争を仕掛けているのであって、その逆ではないと云うことだ(その逆であるかの様な宣伝が日々為されてはいるが)。

私達は今まで加害者サイドに居てその恩恵を受けて来た立場に居る訳だが、冷戦が終わって「共産主義の脅威」が無くなると共に、資本主義はその冷徹な牙を自国民にも(再び)向け始めた。

今起こっている危機は資本主義が生み出したものであって、今述べた様な資本主義と共産主義との関係を見誤ったままだと、今後の状況判断も誤ることになる。反共洗脳の病理をどうやって取り除くかは、今後の大きな課題だろう。

今年(或いは今年以降も)インフルエンザワクチンを打つべきではないと私が考える9つの理由

2021/10/21(木)の呟きより


「コロナワクチンは絶対に打たないけど、悪目立ちするのが嫌だからインフルエンザワクチンは打つ」と仰る介護関係者の方と話をしたので、取り敢えず今ざっと思い付いた限りで、今年インフルエンザワクチンを打つべきではないと、素人なりに私が思う理由を挙げてみます。


インフルエンザワクチンはそもそも

1.必要ではないし、
2.有効ではないし、
3.安全でもない。


これらについては説明は省略します。関連書籍とかを読むなりして下さい。

インフルワクチン接種が医学的には無意味な危険行為でしかないことを承知した上で、それでも打つ、と云う判断も、まぁ有り得るとは思います。


4.インフルワクチン接種がCOVID-19感染の悪化に繋がると結論付けた論文が昨年から複数書かれている。

これらにについて有効な反証が為されたと云う話は聞かないので、恐らくこれらの知見は正しいものと仮定して良いかと思います。

コロナ「対策」の最中にコロナ感染リスクを上げる様なことをわざわざやらかすのは馬鹿気ています。


5.インフルワクチンと間違えてコロナワクチンを打ってしまう事案が発生した。

同様の事故が今後も起こらないとは限りませんし、他にも色々な事故が相次いでいます。現行の政府や厚労省によるワクチン全般の供給や品質管理体制は信用出来ません。


6.インフルエンザワクチンのアジュバンド候補として毒である酸化グラフェンの研究が何年も前から行われている。

これは可能性の話に過ぎませんが、ビッグファーマの数々の前科を考えると、実用化されているインフルワクチンに既に酸化グラフェンが使用されていて、その事実が成分表示に反映されていない可能性を排除出来ません。

(実際、インフルワクチン内に酸化グラフェンらしきものを確認した、と云う報告も有ります。)破廉恥な嘘吐き常習犯達の正直さを、自分達の命や健康を犠牲にしてまで信じてやらねばならない理由は有りません。


7.遺伝子ワクチン接種者のADEが具体的にどんな条件が揃った時に発動するのかよく分かっていない。

4.と関連するかも知れませんが、コロナワクチン接種者がインフルワクチンを接種する場合と、コロナワクチン接種者の近くに居る人がインフルワクチンを接種する場合、双方の場合に於て、これがADEの引き金になることは無いと云う保証は得られていません。

とにかく何もかもが未知の領域の話ですので、わざわざ人体実験に参加して自分達の身でその結果を確認してやらねばならない理由は無いと思います。遺伝子ワクチン接種済みの人が大勢居る今の状況では、未知のリスクを背負うことになるのだと云う事実を重く受け止めるべきだと思います。


8.1.~7.に関連して、インフォームドコンセントが有名無実化している。

人々に必要な事実を伝えない企業、政府、御用学者、医師等は信用出来ないし、接種と云う形でそうした嘘と腐敗を黙認することは、結果的にその嘘と腐敗に加担することになります。これは道徳的な見地からして好ましくありません。

他にサイトカインストーム/免疫暴走の話も入れようかと思ったのですが、現段階では私もよく解っていない部分が有って上手く説明出来る自信が無いので、今回は外しておきます。

取り敢えず、コロナワクチン接種とインフルワクチン接種は全く関連の無い別々の事象だ、と考えるべきではないと云う点は強調しておきたいと思います。どの要素を無視して良いかを現時点で断言出来る人は、世界中に誰も居ないのではないでしょうか。

今は恐らく史上最悪の医原性災害の真っ最中です。今まで誰もやったことの無い空前の規模での人体実験が進行中です。免疫系を徒らに刺激する様な行為はどんなことであれ、未知の危険に繋がる可能性が有るものと心得ておくのが良いのではないでしょうか。杞憂だったら後で笑えば済む話ですが、後悔は先に立ちません。

付記:もうひとつ思い付きました。


9.COVID-19以外でも遺伝子ワクチン開発が進んでいる。

コロナワクチンの「成功」により、遺伝子工学を様々な分野に応用しようとする動きが活気付いています。ワクチンも勿論そのひとつで、インフルエンザワクチン用の遺伝子ワクチン開発も行われています。

今年のインフルエンザワクチンの接種率が高ければ、来年以降、遺伝子インフルエンザワクチンを打たされることになる可能性がそれだけ上がります。「目の前のことだけ乗り切れば大丈夫」ではないのです。今年妥協してしまえば、来年以降はもっと苦しい状況に追い込まれることになります。

更に深い夜の到来を前にして

2021/10/19(火)の呟きより


家族が逝きました。ワクチンは関係有りません、ペットのデグーです(小動物の飼育は今だに止められない私の悪癖のひとつです)。もういいおじいちゃんだし最近体重が落ちていたしで覚悟はしていたのですが、明日からあの元気が姿を見られないかと思うと寂しい限りです………。



命有るものは必ず何時か滅びるものだ。少なくとも私はそう云う世界に生きて来たし、そのシンプルな摂理はこの先の未来も変わらないものだと思っている。

それは大文字の〈真理〉などと云う大層なものではなく、人間の認知構造が現在の形の儘不変である限りは規定され続ける認識論的な限界がそうなっていると云うだけの話に過ぎない。「べき」ではなく「である」の話だ。

私達の生命観や世界観や倫理観は良くも悪くもそうした限界の内部に於ける適応の結果として育まれて来たものであって、それは不変ではないかも知れないが、その内部を生きている限りに於ては不変の様に見える、一種の業の様なものだ。

仮に技術や科学的知見によって生と死の境界が再定義され、或いは生命と非生命とを隔てる溝が引き直されることになったとしても、そこに限界が設定される、或いは不可避の様に見えるものとして設定され得る、と云う事態自体は変わらない筈だ。

何なら実存主義の用語を使ってそれを限界状況と呼んでも良い。私達が世界内存在として存在する限りはそこには必ず限界状況が発生するのであって、そこに具体的に対応するものが状況に応じて異なっていたとしても、構図自体は変化しない。私達は何等かの形の「死」によって存在を縁取られることになる。

思索する者として、私はここではひとつの実存者として語らざるを得ない。だが実存は実存を超え出る領域に対して開かれていなくてはならない。そしてそれは言語化には適さない。

言語の牢獄が私を閉じ込めている。だが実存者としての私はひとつの手探りとして、どうしてもその限界の縁を手探りで進みながら、どもりつつも言語化せざるを得ない。

それは声高に宣言されるよりは寧ろ、ひそひそ声で囁かれ、目配せやジェスチュア等によって仄めかされる、象徴や暗喩によって暗示されるべきものかも知れない。

来るべき未知の大量死の時代を前にして、私には予感が有る。死を超え出る眼差しの予感だ。だがそれはどんな形で言語化されることを許されるものなのか、私にはまだ解っていない。

私の言語がどんな風にして叩き潰されることになるのか、今の私にはその時の為の無様な言い訳をあれこれ想像することしか出来はしない。

世界は常に私の把握を逃れ出て充実した空無へと溢れ出すものだ。況してそれが未来のことであれば、それは私の想像など易々と超えてこちらへ迫って来る。未来とはそうしたものでなくてはならないし、また希望とはそうした恐怖に耐えることでしか手に入りはしない。

私達は大いに恐怖し戦慄し不安を抱き締めるべきだし、そしてそこに歓びを見出す術を学ぶべきだ。

少なくとも私はまだ極くぼんやりとした形でしかそれが可能であることを思い浮かべられはしないし、その先に待っているであろう(何かが待っているとすればだが!)おぼめく法悦に対して、どの様な態度を取れば敬意を払っていると言える様になるのか、その片鱗すら垣間見ることが出来ずにいる。

この状況下でどうやったら世界を愛し、受け容れられる様になるのか、私はまだ混乱した儘だ。吹き荒れる埃っぽい風の中から微かな囁き声が聞こえる気はする。だが全くの気の所為かも知れない。

被害者を見ることが出来ない私達

2021/10/06(水)の呟きより


新植民地主義の進化型としてのSGDs詐欺について学んでいると、旧宗主諸国の人間達はグローバルサウスの搾取される被害者達を蔑視するよう徹底的に調教されているのだなぁと思い知らされる。これは右も左も問わない。右は右向けの、左は左向けのプロパガンダによって相手を見下すよう洗脳されている。

反共主義なんかもこのひとつだ。この原因は勿論現代世界を形作る強力な帝国主義的プロパガンダシステムによって、搾取の仕組みについて意図的に無知なままでいるよう仕向けられているからだが、何故無知なままで居続けるのか、と考えると、やはり関心が低いからでは?と考えざるを得ない。

人間は余り知らないことについては関心を持たない様に出来ている。だから無知な状況に置かれ続けると、自然と関心も低いままに留まる。見えないものは存在しない。知らないことはどうでもいい。だから(国単位で言えば)自分達が加害者の側に立っていると云う現実は何時まで経っても見えて来ない。

被害者達は劣った連中だと言われると素直にそれを信じる。相手の置かれている状況もよく理解出来ていないから、マスコミが独裁だ飢餓だ貧困だ紛争だと騒ぐと、上辺だけの言葉に騙されて「私達『進んだ』国々が宜しく指導してやらねばならない」とか平気で思ってしまう。

それら諸問題の根本原因を作り出しているのが「進んだ」国々の方であると云う事実は彼等の目には入らない。被害者達は自らの愚かしさから勝手に自滅しているのであって、「私達」が責めを負うべき謂れは無い。世界とはそう云うものだと教わって来たのだし、そこに罪悪感を感じる余地は残っていない。

こんなことを指摘しても殆どの人は何を言っているのか理解出来ないだろうと思う。彼等にとっては個々の事象はそれ自体で完結していて、互いに関連を持たない。世界は「私達」の介入を待っている諸問題で満ちみちていて、世界とはそう云うものだと教わって来たのだから、その通りなのだろう。

これはもう西洋文明の宿痾の様なものだろうと思う。差別の仕組みは昔よりは巧妙で解り難くなっているが、無くなった訳ではない。帝国主義システムを維持し動かして行く為には常に搾取のフロンティアが必要で、この世界はまだ開拓され尽くしてはいない。

その為に邪魔な障害は不可視化すれば良い。見えない問題は存在していないのと同じだ。愚かで劣った嘆かわしい人々の身に本当は何が起こっているのか、知らなければ誰も気にしない。後は資本の論理に従って好き放題に略奪を恣にすれば良い。

マスコミや政治家やNGOが取り上げない人権侵害は最初から無かった。語られないジェノサイドは起こらなかった。見えない侵略は行われなかった。世界は昔からそうやって動いて来たのだし、これからもそうやって動いて行く筈だ。その為の体制作りは十分なまでにやって来たのだから………。

私達は認知的な檻の中に閉じ込められて暮らしている。檻の存在に気が付きさえすれば、それを掻い潜る方法を模索することは可能だ。だがそもそも檻の存在に気が付かなければ、一生閉じ込められたまま、何の疑問も持たずに死んで行く。恐らく大部分は殺されるのが自分達の番になってもそのままだろう。

グレタ・ブームを手掛かりに、気候変動/パンデミック/SDGs詐欺の真相を理解する。

 以下の文章はAmazonのレビュー用に書いたものですが、何度投稿しても一向に掲載されない為、ブログの方に掲載することにしました。


Cory Morningstar著、The Manufacturing of Greta Thunberg


 2019年に気候変動問題についての若きオピニオン・リーダーの一人、グレタ・トゥーンベリのブームが日本にも押し寄せて連日企業メディアが宣伝に勤しむ様になると、SNSは「彼女は大人達に利用されている」と云う非難の声と、それを弁護する声とで溢れ返った。彼女を非難する人々の殆どは純然たる憶測で語っていたに過ぎない。恐らくはやっかみで、若い奴が社会問題について声を上げるのが生意気だと思っていた人も相当居たことだろう。だが結果的にだが、実は彼等の主張は正しかった。グレタ・ブームは昔から行われて来た子供の搾取と利用の最新版だ。本書ではブームが如何にして形作られたのか、またその背後でどんな人々のどんな思惑が働いているのかを丹念に解きほぐして行くことによって、「気候変動問題」なるものが全人類にとって、また地球環境にとって如何に危険な罠であるのかを明らかにしている。

 気候変動(地球温暖化)問題については既に多くの本が巷に溢れており、問題が本物だと主張するものも嘘だと主張するものも有るが、それらは基本的に純粋に科学的な側面に焦点を当てたものであり、気候変動についての極く専門的な話がメインである。結論から言うと気候変動問題は詐欺なのだが、理解する為には相当込み入った科学上の問題を理解しなければならず、また嘘を指摘する論者の間でも結論は一致していない(温暖化は起きているが大したことは無いとか、寧ろ寒冷化を心配せねばならないとか、原因は温暖化ガスであるとか太陽黒点活動であるとか)為、この問題について真相を知ろうと勉強を始めた者の相当数が、頭を混乱させて何を信じて良いのか判らず、結局こんな問題は専門家同士の議論に任せておけば良いと結論を放り出してしまったのではないかと推測する(私がそうだったから)。

 本書では科学的な議論には一切踏み込まず、グレタ・ブームに焦点を当てて純粋にヒトとカネの流れを追うことによって、このブームが何故真正の環境保護運動ではあり得ず、寧ろ大規模な環境破壊に繋がる可能性の有る破滅的な詐欺であるのかを、説得力を持って論じている。この点で本書は類書の追随を許さない(日本でも同様の趣旨の本が出された様だが、調査力が桁違いだ)。

 詳細は本書に譲るが、グレタ・ブームは草の根運動ではなく、仕掛けられた人工芝運動だ。精々学校を休んで座り込みデモをしただけの一介の高校生が、何故国連でスピーチするまでに有名になったのか? 大人達が一生懸命大規模で組織的なプロモーションを行ったからだ(彼女の運動開始当初からドキュメンタリー映画用のカメラを回していたのは勿論彼女自身ではないし、写真やインタビュー記事をSNSやマスコミで拡散したのも勿論違う)。メインで動いたのは様々な環境ビジネスNGO等だが、その動機はグレタを非難していた人々が推測していた様な左派的なイデオロギーではなく、寧ろ左派っぽく見せ掛けてはいるが純然たる利潤動機に支えられた新自由主義だ。彼等は寄付や回転ドア人事等によってアル・ゴアやビル・ゲイツの様な「緑の帝国主義者」達の組織と繋がっており、彼等の利益に反する様な主張は行わない。理念だけを見れば立派なことを言っている様でも、実態を見ればグローバルサウスの搾取や環境破壊に他ならないことを行なっていることが解る。これはロックフェラーが進めた「緑の革命」路線の進化型だ。この種の「緑」の新植民地主義による収奪に関しては企業メディアが伝えることは殆ど無い為、警戒心を持っている人は殆ど居ないだろうが、これは本当に危険だ。

 彼等が推進しようとしているのは環境保護ではなく第四次産業革命であり、気候問題を口実に経済や人間社会の在り方を根本的に改造することによって、搾取のフロンティア探しに行き詰まっている資本主義を再起動させることだ。その為に必要なのが「自然の金融化」、日本で馴染みの有る言い回しに直すと「地球環境そのものの民営化」であり、地球上のあらゆる公共財を投機の対象にすることだ。鉄道や郵便や水道等の民営化の問題について勉強している者であれば、自然そのものが民営化されることが将来的にどんな意味を孕んでいるのか、改めて念を押すまでもないだろう。現状では二酸化炭素は地球温暖化の悪役にされ、カーボンオフセットの対象になっているが、そもそも二酸化炭素は地球上の生態系全体にとって不可欠の物質である。謂わば地球全体の公共財に対して値段が付けられ、無責任な投機家達の取引対象になっている現状を改めて振り返ってみてどう思うだろうか。私は寒気を覚える。

 グレタ・ブームは子供の搾取と利用の最新版だと述べたが、グローバル・パワーエリート達による次世代のオピニオン・リーダー(或いは「グローバル・シェイパー」。要するに扇動家)の育成と宣伝の試みは他に幾つも行われており、グレタだけではない。彼女は偶々最大のヒット商品だったと云うだけだ。ここで思い出されるのが、情熱過多知識過少の若者達を利用した似た様な動員工作、カラー革命だ。元々英米諜報部が得意としていた草の根の民衆運動を装ったレジームチェンジ工作は、80年代にCIAが方針を転換し、NEDの様な各種フロント組織にアウトソーシングを行い、且つ内政干渉工作に「民主化運動」のラベルを貼り付けて、秘密工作ではなく寧ろ堂々と表舞台で行わせる様にしてから、飛躍的な発展を遂げて来た(グレタ・ブームの頃もヴェネズエラや香港で「民主化運動」と称する、真相を解って見ている者にとっては心底バカバカしく腹立たしいい恥知らずな茶番の数々が繰り広げられ、例によって企業メディアを通じてしか国際情勢を知らない不勉強な自称左派達が「民主化」と云うキャッチコピーだけに釣られて、中身も見ずに喜んでこの唾棄すべき企てを支持した)訳だが、本書で明らかにされた気候問題ブームの仕掛け人達は、このカラー革命工作組織と一部重複している。カラー革命工作組織も色々有って一枚岩ではない様だが(2020年の米大統領選では、ヴェネズエラや香港のカラー革命で暗躍したマルコ・ルビオ上院議員が、選りにも選って自国内部で自軍営にカラー革命を仕掛けられて慌てふためいていた)、若者達を動員するノウハウは、カラー革命組織と気候変動問題組織との間で共有されていると見るべきだろうと思う。

 最近の左派は新自由主義勢力による切り崩しや乗っ取り工作の前に組織としては完全に瓦解してアトム化しており、しかも不勉強な自称左派が多い。カラー革命も気候変動問題も、一見左派や進歩派っぽいスローガンを掲げているので、外面だけに釣られて中身を精査する作業を怠っている者が大挙してこれに引っ掛かっている。草の根運動を詐称する人工芝運動の見分けが付かないことは、1%対99%の戦いを戦い抜く上では致命的だが、現状では残念ながらこの形勢を引っ繰り返すのは困難を極める。2020年と2021年にはインドのモディ政権の新自由主義政策に抗して、人類史場最大規模の2億5,000万人が参加したゼネストが実施されたが(これは西側大手メディアからは略黙殺されたので知っている人は少ないだろう。最近では企業メディアが好意的に取り上げるのは殆どが人工芝運動で、草の根運動はこうして黙殺されるか「暴徒」などと中傷される)、グレタは2021年にこれに対してソーシャルメディア用の「ツールキット」を提供した。幸いにもこれは扇動と暴力を生んだと非難され、抗議者達に採用されることは無かった様だが、草の根運動に対するこの様な介入や乗っ取り工作は今後もエスカレートすることが予想される。正しい知識を得て精神を武装しなければ、侵食されるばかりだ。

 気候変動詐欺による第四次産業革命を推進しているメインアクターのひとつが世界経済フォーラムだ(値段が折り合えば自分の子供さえ売りかねないカネの亡者達が、何故超多忙であろう自分達のスケジュールをわざわざ割いて、一介の高校生の青臭いスピーチに拍手を送る為に足を運んだのか? 勿論、それが莫大な儲けに繋がるからだ)が、WEF創設者のクラウス・シュワブは2019年のグレタ・ブームを大いに歓迎し、「彼女のお陰で潮目が変わった」と喜びのコメントを残した。そして10月にはゲイツ財団、ジョンズ・ホプキンス大学と協力してパンデミック演習「イヴェント201」を開催、その直後にCOVID-19パンデミック詐欺が始まると、パンデミック対策の為の官民パートナーシップによる"Covid Action Platform"を発表、2020年3月11日にはWHOとの提携を発表し、同日WHOは2009年に恣意的に改定されたパンデミックの定義に基付いて、COVID-19パンデミック宣言を行った。そしてWEFは6月には資本主義再起動計画「グレート・リセット」を正式に発表。パンデミックは世界を再編する絶好の機会だと公言し、この「パンデミック」なるものが、実際には1%層のグローバル・パワーエリート達による上からのテクノファシズム・クーデター、史上最悪のショック・ドクトリンであることが明らかになった。この辺りの流れは、本書に書かれている様なことが理解出来ていれば、相当理解が助けられる筈だ。

 この後勢いが付いて来た「持続可能な開発(SGDs)」についても同様だ。1992年のアジェンダ21以降称揚され続けて来たこの耳触りの良い理念にも落とし穴が有る。気候変動やパンデミックと同様、鍵となるのは第四次産業革命だ。資本主義下に於ける第四次産業革命が何故持続可能ではなく地球や人類にも優しくないのかも、本書を読めば考察の手掛かりが得られる。著者のコリー・モーニングスターは間違い無く当代最高のジャーナリストの一人であり、本書は現在の嘘と欺瞞に満ちた後期資本主義の現実を生き抜く為の最重要文献のひとつだと断言出来る。


 尚、本書の中身はモーニングスター氏が寄稿しているサイト"Wrong Kind of Green"に於て、無料で全文を読むことが出来る。ソースリンクが多いので、ソースを確認したい読者はそちらの方が便利かも知れない(Kindle版も出ていたのだが、今は絶版の様だ)。そこらの大手環境団体が公開している新自由主義的な似非環境主義とは違う、本物のラディカルな環境主義の視点を学ぶことが出来る。

プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
一介の反帝国主義者。
2022年3月に検閲を受けてTwitterとFBのアカウントを停止された為、それ以降は情報発信の拠点をブログに変更。基本はテーマ毎のオープンスレッド形式。検閲によって検索ではヒットし難くなっているので、気に入った記事や発言が有れば拡散して頂けると助かります。
全体像が知りたい場合は「カテゴリ」の「テーマ別スレッド一覧」を参照。

ブログランキング
ブログランキング・にほんブログ村へ PVアクセスランキング にほんブログ村 人気ブログランキング
良ければクリックをお願いします。
最新記事
カテゴリ
リンク
最新コメント
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR