2021/10/29(金)の呟きより
古来如何にして世界は変容して来たかヒトはイニシエーション(通過儀礼)に於て共通の(屢々恐怖や苦痛や不快さを伴うことも有るが、人々の精神や肉体を完全に破壊してしまう程ではない)体験を共有することにより、緩んでほつれた共同体の結束を結び直し、自分達が共同体の不離不可分の一部であることを確認し、共同体秩序の再生を図る。
その際、単なる物理的な意味でどんな行動が求められるのかは必ずしも重要ではない。第一に問われるのはそれらの行為が象徴として持つ意味であって、その外殻は一定の要件さえ満たせば何でも良い。
共同体の成員達に共通の傷を負わせ、共通の神話を担っていることを自覚させ、共通の宇宙像の中に住まうことを可能にするものであれば、形式は何でも良いのだ。
それは例えば身なりや服装、名前や言葉使いを変えることであっても良いし、何かの試練や儀式を経ることであっても良い。
何等かの肉体的な改造を施す工夫も世界中で行われているし、参入者をそれまでの旧世界の秩序から切り離す心理的な効果が得られるものであれば、ヒトの想像力の及ぶ限り、どんなものでもそれは象徴としての意味を帯びる様になる。
旧世界の秩序から切り離された参入者は、そこで宙ぶらりんの状態になり、一旦意味の真空状態に留め置かれる。参入者はそれまでの名前を奪われ、生活パターンを奪われ、姿形を奪われて、未規定の混沌のまま、意味の子宮へと投げ戻される。そしてそこで新たな存在様式を与えられるのを待ち受ける。
共同体がそこに新たなアイデンティティを投げ入る。「お前はこれである」と云う命法が疑い得ないものとして、参入者に新たな名前、新たな役割、新たな地位、新たな人格を与える。
通常なら混乱するであろう参入者は予め「お前は今までのお前ではない」と云う否定のプロセスを受け入れることによって、新たな存在意義に対する心理的抵抗を減らし、鋳直されることに同意することが出来る様になる。
それまでの自分は死に、新たな自分が生まれる。適切なコンテクストを与えられることによって単なる体験は象徴として世界と自己の再生を意味する様になり、参入者はそこで初めて共同体の成員(共同体の維持と再生産に関与する権限を持った者)として認められることになる。
旧世界と新世界との断絶の乗り越えは、意味の一時的な「カッコ入れ」によって可能となる。社会化は、世界秩序に一種のテロルによって亀裂を生じさせ、人為的に認知的不協和を引き起こす状況を作ることによって実現されるのだ。
象徴を用いたそれは一種のお芝居であり「ごっこ」だが、ホイジンガが指摘する通り、「ごっこ」は、それが行為者によって真剣に遂行される限りに於て享楽され得る。不真面目な「ごっこ」は「ごっこ」ではない。そこには真剣になるべき確たる意味が存在するかの様に振る舞わなければならない。
意味が有るかの様に振る舞うことによって、それは実際に意味の有るものになる。社会の成立に於ては振る舞いが実体を規定するのであって、その逆ではない。社会は「ごっこ」によって可能となる。それは外部の者にとっては意味を持たないが、内部の者にとっては侵すべからざる意味を持つことになる。
その成立は一種の暴力行為であり、それ自体はそれ以上遡ることの出来ない無根拠性を背負うことになる。だが神話の創造は絶対性を帯びなければならない。その起源は問うてはいけないものなのだ。従って疑念の素振りはタブーとされる。
秩序の外側へ出ようとする眼差しはそれ自体が打ち立てられた新秩序に対するテロルと見做され、排斥の対象となる。共同体はその根源的基盤を、常に成員の目から隠し続けなければいけないのだ。
「始まりを問うな。」社会にとってこれは至上命題だ。
私が今述べたプロセスは、カルト集団の洗脳の手口としても記述可能だろう。更に言うなら、こうしたプロセスにかんする知見は現在行動心理学と云う形で人身操作の為の兵器化として実際に利用されている。だが一概にこのプロセスに「洗脳」と云う呼称を適用するのは些か早計に過ぎる。
私がここで言いたいのは「あらゆる社会化は洗脳の様なものだ」と云うことではない。世界を無意味さの深淵から救い、それを意味と秩序を持った生きるに耐え得るものにするプロセスは、どれも似た様な構造を持つものだと云うことだ。
それは社会的存在としてのヒトの普遍的特性として捉えられるべきものだ。
これはあらゆる社会(国家、家族、共同体………このエッセイは極く緩く為された即興の考察なので、これらも極く緩い意味で捉えて貰いたい)に於て多かれ少なかれ普遍的に見られるプロセスなのであって、あらゆる社会化は多かれ少なかれこの認知的不協和の乗り越えのプロセスを抜きにしては成立しない。
世界の無根拠性を馴致するには、共同体全体が聖性を基軸として回転する宇宙秩序を展開し、神々が嘉したもう演劇を奉納することにより、単なる物理的な事象や行為に象徴としての意味を帯びさせなければならない。これは一種の根源的社会契約とでも呼ぶべきものだ。
あらゆる社会は、世界秩序の無根拠性を、従ってそれが暴力的に打ち立てたれたものであると云う事実を、人々の目から隠し続けなければならない。
若者は刺青の痛みに耐えることによって、単に身体に模様を描き込んでいる訳ではない。参入者は象徴的行為によって世界の空無に耐え、直接覗き込むことの出来ぬ深淵から意味を捥ぎ取って来ることを期待されているのだ。
痛みや恐怖や不安が、それにより実質的な意味を与える。「これ程私の肉体や精神にとって意味を持つものが、共同体全体にとって意味を持たぬ筈が無い………。」
共同体の新陳代謝にとってはそれが必要なことなのであり、世界を再生させることの出来ぬ者は、世界を死滅へと導く忌むべきものとしての烙印を押されなければならない。意味を深淵から持ち帰れぬ者は共同体全体にとって脅威なのであり、共同体が存立する意味そのものを否定する敵なのだ。
ユニバーサルマスクは世界変容の為の舞台装置だこの意味で、ユニバーサルマスクもイニシエーションと同じ特徴を持つ。
万人(子供も含めて)があらゆる場で常時マスクを着用することによって、人々は表情を奪われる。顔を奪われる。顔情報によるコミュニケーションを奪われる。同時に呼吸を阻害され、常に低酸素状態で活動することを強いられる。
(「雑菌」と総称される)様々な微生物を顔の周りに大量に付けたまま活動することを強いられる。免疫系を低下させ、ストレスを溜め、自分を慢性的に不健康な状態に追い込むことを強いられる。
パンデミック詐欺を人々に信じさせる心理的なトリックには、メディアを使った膨大な量の偽情報プロパガンダや社会的距離、手洗い消毒、様々な「自粛」等様々なものが存在するが、その偏在性と視覚的表象の判り易さと云う点では、ユニバーサルマスクが群を抜いている。
それはゴム紐を耳に掛けるだけで、簡単に人々をそれまでの日常スタイルから切り離す。それは人の集まる所であれば何処でも見られるし、目の見える人であれば誰にでも判るし、常にそこに在る。無ければ直ぐに判るし、誰かこのゲームに参加していない者が居れば直ぐに見分けがつく。
参加者が内心でどう思っているかは、この際全く問題にはならない。
目に見える表象がここでは全てなのであって、参加者全員が「私は公式の物語に疑問を抱いていない。私は公式の物語を支持する。私はこの物語に参加している。私は異分子ではない。社会全体の再生可能性は保障されている」と云う意思表示を四六時中行うことこそが確認されねばならないことなのだ。
人は他の大勢が信じているものを信じ易い。これ以上は無い程に視覚化された同調圧力が、公式の物語の信憑性を裏書きすることになる。
科学的データに基付いてユニバーサルマスクの必要性、有効性、安全性を信じていない人であっても、仮に同じ意見を持っている他の大勢の人々から切り離され、コミュニケーションを取る手段を奪われたとしたら、恐らく長期間の精神的孤立に耐え得る者は極く少数だろう。
ヒトは何を信じるにも他者の承認を必要とする。ヒトは他者に承認される経験を繰り返して初めてヒトに成る。他者の承認を或る程度必要としなくなるのは、精神的な成熟を果たしてからの話だ。根源的な不安は常にヒトの精神の基底に横たわっている。
強大な外敵の脅威のミームが繁茂している状況では、ヒトは自らの在り方を問い直さざるを得なくなる。呼び覚まされた根源的な不安は、何時にも増して他者の承認を求めろと急き立てる。マスクはそれに対する手軽な回答を与えてくれる。「大丈夫、皆同じだ。私達は同じ電車に乗っている。」
(言ってしまえば私自身のこの種の情報発信も、同種の根源的な不安に根差していると言っても良い。
現代資本主義社会の比類無く強力なプロパガンダシステムの一翼を担っているのは(元々は軍事目的で開発された)インターネットだが、これが支配と同時に草の根の連帯の可能性を繋いでいてくれなければ、私自身も疾うにこの狂気に呑み込まれていたかも知れない。
このエッセイは私自身の不安を問い直し再確認する作業でもある。)
ユニバーサルマスクは社会全体に向けたメッセージなのだ。それが防護しているのはウィルスに対してではなく、世界秩序の崩壊に対してだ。「社会は守られている。私達一人ひとりの参画によってそれが可能になっている」と云う安心感こそが、その「効果」を保証する。
数字で測られるデータではない、生きた人間の生の実感こそが、その意味の根幹を形成している。
それはウィルスからの防御ではなく、心理的救済への約束と相互確認なのだ。
COVID-19「対策」による救済は原理的に不可能だだが残念なことに、その救済は訪れない。パンデミック詐欺の全体が似非科学に基付いていることを理解している人の多くが恐らく気付いていることだろうが、この状況は意図的に作り出されたものだ。
そこには人心操作と云う明確な目的が有り、科学的知見に基付くその為の戦略が存在する。これが自然発生したものであれば、社会の力学に従って自然の流れに沿って状況が展開して行くことを期待出来るが、今回はそうではない。
この状況は救済が決して訪れないように入念に仕組まれたものなのだ。
資本主義は民衆の団結を嫌う。冷戦が表向き終結して「共産主義の脅威」が無くなると、新自由主義と云う形で資本主義はそれまでの戦後30年程の社会主義的な仮面を本格的にかなぐり捨て始めた。
搾取の対象はそれまでグローバルサウスの「開発途上国」や「未開発国」が主だったのだが、世界経済の金融化の加速を以てしても搾取のフロンティアの開拓に行き詰まった資本主義は、自国の国民をも直接に標的にする様になった。
民衆運動の組織的基盤である労働組合潰しに始まり、段階的に中間層が破壊されることによって、人々は抵抗の力を徐々に奪われて行った。生活は苦しくなって行ったが娯楽はふんだんに供給され続けた為、人々は現状認識能力を低下させられるが儘になって行った。
グローバルに寡占が進んで大政翼賛化が進んだプロパガンダシステムはフェイクニュースの手法を発達させて国際的な連帯の可能性の芽を摘んで行った。
次々と創出される新たなカテゴリーは「多様性」の名の下で人々を孤立させ、何でも良いが「搾取される労働者階級」以外のとにかく何かとして人々のアンデンティティを再規定した(それによって確かに救済される人々も居たことが問題の認識を遅らせることになった)。
そしてグローバルパワーエリート層は「人類の存亡を脅かす恐怖の殺人ウィルス」と云う物語によって、到頭人々を直接物理的に隔離する手法を編み出した。
「無症状者からの感染」なる物語は、元々「健康体の人を病人に仕立て上げ、『患者』にして治療費をふんだくる」と云う従来の商業医学の手法を更に洗練させたものだが、これにより万人は万人に対する潜在的な脅威へと変容することになった。
「万人の万人に対する闘争」は、ホッブズが全く想像すらしていなかった形で物質的に実現することになった。
今や誰もが潜在的なウィルス保持者であり、他者の生命を脅かす可能性の有る災厄であり、無自覚なバイオテロリストなのだ。
子供達はおじいちゃんやおばあちゃんを殺しかねない殺人者予備軍であり、出来ればそこに存在しない方が良いものであり、どうしても存在したいのであれば囚人の様に服従の証を提示し、適切に管理・監視されることを必要とする厄介者と化したのだ。
人類はお互いの為に存在しない方が良い(そして地球環境の為にもその方が良い)のだ。私達は普通に呼吸して話をしてコミュニケーションを取るだけでも特別な承認を必要とする忌むべき罪人なのであり、勿論抵抗運動なぞは永久に禁止されるべきだ。
素直に従わない者は世界の再生を望まない異教徒であり反乱分子であり、あらゆる罵声を以て罵られ、時には暴力的に排除されるべき病原体なのだ。
「原罪」の観念はここに物質的に受肉した。私達は普通に生きているだけで罪深い穢れた存在なのであり、世界の真理を占有している賢明な専門家達が命じるところに従わなければ、救済は決して訪れないだろう。
私達は互いの悍ましさに嫌悪感を抱きつつ、生命を長らえる為に人生を諦める術を学ばなければいけないのであって、その為には隣人とは距離を取らなければいけない。親は子と離れて生活すべきであり、一次的な肉体的触れ合いは禍いを呼ぶ愚行だ。
慢性的な分断と孤立こそが「新常態」の基本形であり、新世界秩序に於ける日常生活は、デジタルID/現代版パノプティコンが可能にする監視資本主義の進化型により、ビッグブラザーの監視下でのみ可能になる。
私達は互いの顔を見ること無く、不可視の監視者に生体認証データを提供し続けることで生活を許されるのであって、サッチャーの「社会なるものは存在しない」と云う理念は、ここにテクノクラート達の長年の夢の結晶として具現化する。
そこに争いは無いだろう。と云うよりも寧ろ、争いは不可能になるだろう。一方的な服従のみが人々に求められることであって、好しからざる言動を取る者はデジタルIDにより社会生活に制限が掛けられたり、デジタル通貨の使用に制限を課されたりするだろう。
あらゆる個人データがデジタル化された社会に於て、懲罰は即時に直接的に確実に行われる。グレート・リセットやSGDsと云った資本主義再起動構想の掛け声の下、社会全体が静かに強制収容所へと移行する。
それはケガレが常態化した世界だ。統計数字の操作により、権力者達の都合によって何時でもハレの瞬間は演出出来る。だがそれは続かない。パンデミック詐欺に於ては万人は須く穢れた存在であり、忌むべき烙印を押された罪の塊だ。
そこに横の連帯や団結の可能性は無い。有り得るとすればそれはそれらが新世界秩序にとって利益となる場合だけであり、そうでないものは黙殺や中傷、時には積極的な弾圧の対象となる。
ケガレ=気枯れが常態化した状態では当然人々の生命力は萎れる一方だ。新常態は、人々が穢れを払うことを許さぬ体制であり、従って社会の生命を更新することが不可能な体制だ。
社会は緩やかに窒息死する。世界の再生は訪れない。人々は死ぬことを許されず、従って再生も無い。死なないことが生きていることであり、人々はそれに満足すべきだと教えられる。
「共同体」は最早存在しない。人々が共同で持っているのは穢れだけだ(その一方で公共財は全て投資家達に金儲けの機会を与えるべく、持続可能性の大義名分の下で投げ売りされることになる)。
これが終末カルトであれば、予言者の予言が外れる度に人々の信仰は認知的不協和を超えて強化されるが、限度を超えれば最終的には集団自決に至るか、或いは自然消滅に至る。
新常態に自然消滅は有り得ない。「万人は穢れている」と云う前提が覆らない限りは、ファシズム2.0から人々が解放されることは無い。
そしてもう一方の可能性は人類史上初の遺伝子殺人ワクチンの展開により、コロナカルト信者達の全く与り知らぬところで密かに進行している。現時点で判明しているだけでそれは既に史上最悪の医原性災害だが、その被害が何処まで及ぶかは、まだ誰に正確なところは判らない。
長い長い冬を前にして、私達は唯不確かな推測を巡らせることしか出来ない………。
問題は科学ではないこの先に再生が無いのは確かだ。だがそれに気付いている人々は状況を引っ繰り返す為の方法をあれこれと模索してはいるが、世界全体で見れば今だ決定打と呼べる様な動きは見られない。
この国だけでも、他の国々の様に政府に強制された訳でも無いのに、既に7割を超える人々が自分の身体を物理的な意味で毒物生成工場に変える為の措置を済ませてしまった。
再度確認するが、問われているのは科学ではない。社会全体が脅かされていると感じられている時、問題になるのは聖なる秩序であって、賭けられているのは生を耐えられるものにする世界の意味だ。
自分達が共同体の成員として共同体を再生させる能力が問い直されているのであって、ウィルスは一義的には象徴としての意味しか持たない。
(そもそも殆どの人は―――医師も含めて―――疫学の知識など持ち合わせてはない。TVや新聞で御用学者が言っていることをその儘鵜呑みにしているだけだ。)
理解すべきはウィルスの科学的特性ではなくして、それが偽りのパンデミックと云う舞台に於て担っている役柄や設定だ。「それは科学的には無意味だ」と叫ぶことは「世界は無意味だ」と虚空に向かって叫ぶのと同じ程度の意味しか持たない。そんな台詞はこの舞台の上では出番は無いのだ。
何よりも先ず再考されなければならないのは科学的知見ではなく、科学的知見の提示のされ方だ。科学ではなく、「人々にとって科学の権威と思えるもの」こそが重要なのだ。
科学とはそもそもヒトの自然なものの捉え方にそぐわないものだ。ヒトは科学的な思考が出来る様に出来てはいるが、日常に於て科学的な思考を行う様には出来てはいない。科学的な思考は可能性の領域の話であって、現実の話ではない。
それはプロパガンダの問題であり、信頼の問題であり、人々が心の拠り所を何処に求めるかと云う問題だ。
私はここでマスク信者のことを「合理性を説いても無駄だ」と貶めたい訳ではない。目の前の現実を理解するには、単純な合理性とは異なる基準を用いないと無理だと云うことを指摘したいのだ。
このエッセイに於て私は何等かの結論に至りたい訳ではない。これはこの一見狂気としか見えぬ現実を何とか理解しようとする試みのひとつに過ぎない。
私はこの狂った世界と何とか折り合いを付けたい。その為には先ず腹を立てず、結論を急がず、泣き言を言わずに目の前の現象に誠実に向き合うことから始めなければならない。その為のラフスケッチだ。