誰が副島を襲ったのか?
師観:
以下のような興味深いメールが送られて来たので紹介します:
副島は家路に就いていた。東京・世田谷の自宅マンションの入り口付近に、カーキ色の上着を着て白いズボンの穿いた坊主頭の男が目に入る。
男は「この野郎」と叫んでいきなり副島に襲い掛かる。手にした刃物で副島の頭や腕、背中をメッタ刺しにし、何度となく殴りつけると走り去っていった。
副島は命からがらマンション3階の自宅にたどり着く。血まみれの副島を見た妻はすぐさま警察に通報する。この夜、たまたま副島宅にいた「世界日報」の元社会部の記者が見た光景は凄惨なものだった。副島の左こめかみからはホースから水が噴き出すように鮮血が噴き出し、玄関は血の海となった。救急車の到着を待つ間、夫人とタオルで血止を試みたが背中と腕の傷がとくに深く、指が肉と肉の間にめり込んでしまうほどでだった。ようやく来た救急車に担架では運ばれた副島は、病院に着くと意識を失う。
背中から左胸に達した傷は深さ15センチ、心臓から僅か5センチしかずれていなかった。もし動脈が傷ついていたら、間違いなく死んでいたろう。背中のほか、左側頭部、左腕の傷も深く、瀕死の重傷を負っており、一時は重体に陥る。手術が成功し、副島が意識を取り戻したのは襲撃から2日後のことだった。そのまま1ケ月ほど入院することになる。
副島が告発記事で記した「身の危険」の予感は的中してしまった。
意識を回復した副島は次のような声明を発表した。
1.暗闇の中で、問答無用と凶刃を振りかざした徒は韓国空手の使い手であり、組織の命令に絶対服従して私を殺そうとしたものと思う。
2.これまで私は青春のすべてを組織の発展のために尽くして来たが、もしも暴徒がこの組織の命令でやったとするならば、私の青春は全く灰に帰したものと思う。組織が真の信仰に立ち返ることを祈るものである。
いったい誰が襲ったのか? 「週刊文春」(2022/8/14号)で、犯人像について襲われた本人が語っている。
「『文藝春秋』の発効前でしたが、手記の掲載がどこから漏れたのでしょう。犯人の顔に見覚えがなかたものの、襲われた時には韓国の空手の使い手だと直感しました。犯行後、犯人は空港に向かって韓国に逃げたと考えています。ただ、少なくとも私は、教団以外から恨みを買った覚えはありません」
コメント:
世界日報乗っ取り事件を引き起こした人物たちの中心人物が副島であるので、同然彼に対する敵対者は統一教会と言うことになるので、教会組織から送り込まれたヤクザかそれに類する暴力団であろうと思うのは当然のことでしょう。犯人が韓国人だとなると実行犯を送り込んだのは韓国の教会組織と言うことになるが、文教主の許可なしに副島を刃物で襲うことは考えられないことになる。
故久保木会長が韓国に行った時に、文教主に秘密の館に連れていかれ、そこには韓国の教会長も知らない文教主直属の忍者が出入りしていたという。忍者と言っても日本の忍者のような姿をしている訳ではない。文教主は若い時に金九と共に当時の天皇暗殺を企てた証しがあるくらいなので、直属者に副島を襲わさせる企てはあり得る話である。
注: 金 九(日本語読み: きん きゅう[1]、朝鮮語読み: キム・グ、김구、1876年8月29日(陰暦7月11日) - 1949年6月26日)は、朝鮮独立運動家。韓国独立党や韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光(朝鮮語版)と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、南朝鮮単独選挙実施を巡って李承晩と対立し、1949年6月26日に暗殺された。
なかなか興味深い話だったなと思われた方はクリックお願いします。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村
日本ブログ村ランキングを見る!
以下のような興味深いメールが送られて来たので紹介します:
副島は家路に就いていた。東京・世田谷の自宅マンションの入り口付近に、カーキ色の上着を着て白いズボンの穿いた坊主頭の男が目に入る。
男は「この野郎」と叫んでいきなり副島に襲い掛かる。手にした刃物で副島の頭や腕、背中をメッタ刺しにし、何度となく殴りつけると走り去っていった。
副島は命からがらマンション3階の自宅にたどり着く。血まみれの副島を見た妻はすぐさま警察に通報する。この夜、たまたま副島宅にいた「世界日報」の元社会部の記者が見た光景は凄惨なものだった。副島の左こめかみからはホースから水が噴き出すように鮮血が噴き出し、玄関は血の海となった。救急車の到着を待つ間、夫人とタオルで血止を試みたが背中と腕の傷がとくに深く、指が肉と肉の間にめり込んでしまうほどでだった。ようやく来た救急車に担架では運ばれた副島は、病院に着くと意識を失う。
背中から左胸に達した傷は深さ15センチ、心臓から僅か5センチしかずれていなかった。もし動脈が傷ついていたら、間違いなく死んでいたろう。背中のほか、左側頭部、左腕の傷も深く、瀕死の重傷を負っており、一時は重体に陥る。手術が成功し、副島が意識を取り戻したのは襲撃から2日後のことだった。そのまま1ケ月ほど入院することになる。
副島が告発記事で記した「身の危険」の予感は的中してしまった。
意識を回復した副島は次のような声明を発表した。
1.暗闇の中で、問答無用と凶刃を振りかざした徒は韓国空手の使い手であり、組織の命令に絶対服従して私を殺そうとしたものと思う。
2.これまで私は青春のすべてを組織の発展のために尽くして来たが、もしも暴徒がこの組織の命令でやったとするならば、私の青春は全く灰に帰したものと思う。組織が真の信仰に立ち返ることを祈るものである。
いったい誰が襲ったのか? 「週刊文春」(2022/8/14号)で、犯人像について襲われた本人が語っている。
「『文藝春秋』の発効前でしたが、手記の掲載がどこから漏れたのでしょう。犯人の顔に見覚えがなかたものの、襲われた時には韓国の空手の使い手だと直感しました。犯行後、犯人は空港に向かって韓国に逃げたと考えています。ただ、少なくとも私は、教団以外から恨みを買った覚えはありません」
コメント:
世界日報乗っ取り事件を引き起こした人物たちの中心人物が副島であるので、同然彼に対する敵対者は統一教会と言うことになるので、教会組織から送り込まれたヤクザかそれに類する暴力団であろうと思うのは当然のことでしょう。犯人が韓国人だとなると実行犯を送り込んだのは韓国の教会組織と言うことになるが、文教主の許可なしに副島を刃物で襲うことは考えられないことになる。
故久保木会長が韓国に行った時に、文教主に秘密の館に連れていかれ、そこには韓国の教会長も知らない文教主直属の忍者が出入りしていたという。忍者と言っても日本の忍者のような姿をしている訳ではない。文教主は若い時に金九と共に当時の天皇暗殺を企てた証しがあるくらいなので、直属者に副島を襲わさせる企てはあり得る話である。
注: 金 九(日本語読み: きん きゅう[1]、朝鮮語読み: キム・グ、김구、1876年8月29日(陰暦7月11日) - 1949年6月26日)は、朝鮮独立運動家。韓国独立党や韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光(朝鮮語版)と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、南朝鮮単独選挙実施を巡って李承晩と対立し、1949年6月26日に暗殺された。
なかなか興味深い話だったなと思われた方はクリックお願いします。
↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村
日本ブログ村ランキングを見る!