新手一生 (演奏に古い新しいはあるのか)
昭和に活躍した人気棋士に升田幸三 実力制第4代名人という方がみえた
ますだ こうぞう 1918-1991年 将棋棋士 広島出身
見ての通り「昭和の勝負師」を地で行く風貌とともに、勝負師としての生き様を「新手一生」の言葉に残したようにアバンギャルドな存在としても有名
また、豪放な人柄から武勇伝に溢れ、陣屋事件などは社会現象になった
では棋界で言われる「新手」とはどう意味だろう
将棋というゲームは現在のルールに整備されてから400年以上ほとんど変わりなしに続いている
プロの手順は棋譜(一手一手の差し手を記録したもの)となって保存され、膨大な棋譜は全てデータ化されてプロの棋士であればあらゆる局面を即座に検索できるようになっている
このように400年検討され尽くしたような将棋の世界にあっても過去の棋譜にない強力な手が定期的に生み出され、一定の期間はその手法が棋界を席巻することになる
「藤井システム」「ごきげん中飛車」などの新定石は名前をご存知の方もいるでしょう
そうした「新手」に特にこだわって生き抜いたのが升田先生ということだ、ご本人はこう語る
人に何か書いてくれと頼まれると、よく「新手一生」と書く。(中略)私は将棋は創作だと考えている。何はともあれ、一歩先に出た方が勝つ。もし一局ごとに新手を出す棋士があったら、彼は不敗の名人になれる。その差はたとえ一秒の何分の一でもいい。専門家というものは日夜新しい手段を発見するために苦しまなければならぬ。
(「名人になって」57年7月、朝日新聞紙上の手記から)
刃を交わし戦う剣士みたいな表現ですね
前置きが長くなって恐縮だが大事なので現代棋界の第一人者 羽生善治三冠の言葉を合わせて載せておきたい
確か升田先生についてのインタビューで「羽生先生も新手を指しますか?」的な質問に答えて・・・自分はどちらかというとオーソドックスな棋風なのでと謙遜しながら
みなさんよく新手と言われますが、
ある一手があまり見たことのない「目新しい手」であった時
しかし、その手が間違いなく「新手」ということができるかどうかは、過去のすべての棋譜と見比べて
確実に今までに指された前例がないことがわからない限り、「新手」であるとは言えません
つまりたった一手であっても本物の「新手」が生み出されたかは、先人のすべての足跡をくまなく研究し知っている人にしか判断できないことなのです
この一言は音楽を語る上でもたいそう重い、
脈々と人類が音楽に向けた情熱の歴史を知らず、ただ「新しいから素晴らしい」と上滑りした考えで良いのだろうか?
そうした中で、いつもお世話になっている「GRFのある部屋」さんは毎週のように精力的に演奏会に通い時に暖かく、時に厳しい感想も書かれているけれど・・・
GRFさんの部屋には古今の名演奏のレコードやテープが網羅され聞き込まれていることを(ご本人は最近あまり言われないけれど)私は知っている、だからGRFさんだけには「あなたも新しいのも聞かなきゃ」と言われると僕も頑張ろうと思えるのです
人間の重みはどんな立派なことを語るかではなく、どんな実績を積んできたか、言葉はなくとも背中で伝わってしまうのですね
私は、ご存知の通り1920年代から1960年代頃の演奏を聴く機会が多い(とブログには書いている)
実際に家で一人で聞くときにはむかしのレコードを聴くことは少ないのだが、鑑賞の中心は?と聞かれれば躊躇なくその辺りです。と答えるだろう。
そんなだから時々、現代の演奏は聞かないんですか?とおっしゃってくださる方もお見えになる
結論から申し上げると
ブログ記事にしていないレコードや演奏会がたくさんあるだけで、まあ、中心的にとは言えないが聞いています。と答えている
あまり感心しなかったレコードや演奏会のことを否定的な記事にせず、書かないほうがいいと思っている
横浜にいた時に比べたら少ないですが、地方都市に住んでいるオーディオ趣味の人間としては頻繁に演奏会にも顔を出す方だと思います
例えば昨年から年初にかけて、世界的に有名な3人のピアニスト(メジャーからCDを多数出している二人の新進の女流と男性の大御所でいずれも外国の方です)を聞きました、でもとても記事にはできませんでした
3人とも演奏がどうこう言う以前の問題です。いったい先生は何を教えているんだろうと思いますが、答えは簡単です
現代でコンサートピアニストとして食べていくには、名のあるコンクールの入賞歴の二つ三つが必要なのでしょう
畢竟どんぐりの中で目立つためだけに、ただただ押し付けがましい大音量の・・・素人歌舞伎が大見得を切るようなドタンバタンの演奏の乱立とあいなるのです
600人も入ればいっぱいの会場もありました、ピアノの音が割れんばかりの大音量、前の音の反響に混じって次の音がfffで打鍵されるので会場はカオスの世界です
会場の大きさによって音量を変えるように、くらいの事も教えていないのでしょうか?
先生はコンクールに入賞する方法論よりも、音楽とは何か?作曲家は何を伝えたかったのか?リリカルやメランコリーについてを先んじて教えて欲しいものです
・・・が、現実ではそれも難しいのでしょうね、先生も生徒も食わなきゃなりませんから
痛々しいのは、3件の演奏会のうち2人はうら若きお嬢さんでした、曲の終わり毎には拍手喝采、ブラボーの掛け声
私は終演後急ぎ足で駐車場に向かいましたが、エントランスにはアンコールをパスしたのでしょうか?すでにサイン待ちのおじ様達の長蛇の列ができていました
レコード会社のある企業の元社員としては言い辛いのですが、音楽とは違った座標平面で今の音楽界の経済は回っているのですね
以上は、ちょっとひどいなあと思う事例でしたけど、
時代に即した新しい解釈、現代の感覚、演奏 ってなんでしょう?
羽生三冠の言葉を借りるまでもなく、過去の演奏をくまなく聞き込んだ上で現代の演奏を「現代感覚」と言った言葉が使われているのでしょうか?
若い人の演奏を今日聞いたから=最先端の演奏
という、単純な方程式では説明になっていません
何年も前に出尽くした手法の上書きかもしれないのに?
過去の演奏をすべて知っているわけでないのに、なぜそう言い切れるのだろうか?
純粋に演奏として、音楽としてどのように感じ取り見極めるかが大切だと思います
最新の演奏の中にも今後何年も語り継がれる名演が必ずあるはずです、唐九郎さんの言葉を借りると悲しいほど少ないにしても・・・
しかし過去の名演だって同じですよ、莫大な演奏の中からわずかに残っている物を今日の私たちが手にしているだけですから
前回の記事で私の最初のスピーカーについて書きました
それはこの通り、フルレンジ2発+ドライバー1発のモノラルシステムでした
この当時はSP盤の復刻LPやモノラル時代のLPを中心に聴いていたのです
後ろに控える英国Lowtherのホーンシステムは、WE購入から5年ほど後に初めて買ったステレオ(2台セット)のスピーカーでした
今でも蓄音器からCDとFMまでは我が家で聞けるようになっています、去年はネットプレーヤーもあった、あっただけだけど
あの時から30年あらゆる時代の音楽を聞いて、確信を持ったことなのですが
1920年であっても
1940年であっても
1960年であっても
2016年であっても
それぞれの時代に作られたレコード(奏でられた演奏と同じ)は、それぞれの時点での最先端なのです
その時代々々でできることの最善を尽くして、最高の才能が最高を求めた結果ですから、それぞれに意味があり、価値があるのです
芸術が誕生した瞬間から偉大な芸術家はその人なりの「新手」を打ち出してきた(からこそ偉大といわれる)わけで、1920年の新手が2016年のそれに古いから劣ると言うのなら、それは死人に鞭打つ後出しジャンケンのような現代人のおごりに過ぎない
もし、そのようなバカげた妄想がまかり通るならば、クラシックの演奏は時代を遡るほど劣悪になり
ブラームスのVn協奏曲を初演したヨーゼフ・ヨアヒムの演奏がこの曲の人類史上最悪の演奏ということになってしまう
ラフマニノフのように作曲者初演であれば、作曲者自身の演奏が一番しょーもない演奏になってしまうのか?
この簡単なロジックが理解できれば
単純に2016年に行われた演奏が最先端で最も良いと言うのは「今、生きている人間のとんでもない思い上がりに過ぎない」ということもわかります
今日の最先端は、明日には過去になり
1920年や 1940年と同じ過去のものとして、ただ音楽的な価値だけで判断されるのです。そこには若くて綺麗な肢体や肩の出た衣装も関係ありません
だから私の答えは、良き演奏ならいつの時代のでもありがたく楽しませてもらっています、です
約100年前に録られたSP時代から聴き始めて徐々に新しいレコードに移り、いまは60年ほど前の素晴らしい演奏を勉強している途中なんです
これからどんどん時代を下っていきますから、少々お待ちください。過去を知らずして現代はとても語れませんから
・・・が本心ですね
逆に言うと「モノラル以外は聞けねえ」なんて人の意見には全く賛同できない、ということも付け加えておきます
さて、明日は参議院選挙ですね、升田先生は一度出馬を打診されたことがあります
その時の答えを今日の最後に載せておきます、当たり前の答えですね、先生は将棋で「新手一生」なんですから
参院選に出馬を打診された際「本業に自信のあるものは政治家にはならない」と断った。
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ますだ こうぞう 1918-1991年 将棋棋士 広島出身
見ての通り「昭和の勝負師」を地で行く風貌とともに、勝負師としての生き様を「新手一生」の言葉に残したようにアバンギャルドな存在としても有名
また、豪放な人柄から武勇伝に溢れ、陣屋事件などは社会現象になった
では棋界で言われる「新手」とはどう意味だろう
将棋というゲームは現在のルールに整備されてから400年以上ほとんど変わりなしに続いている
プロの手順は棋譜(一手一手の差し手を記録したもの)となって保存され、膨大な棋譜は全てデータ化されてプロの棋士であればあらゆる局面を即座に検索できるようになっている
このように400年検討され尽くしたような将棋の世界にあっても過去の棋譜にない強力な手が定期的に生み出され、一定の期間はその手法が棋界を席巻することになる
「藤井システム」「ごきげん中飛車」などの新定石は名前をご存知の方もいるでしょう
そうした「新手」に特にこだわって生き抜いたのが升田先生ということだ、ご本人はこう語る
人に何か書いてくれと頼まれると、よく「新手一生」と書く。(中略)私は将棋は創作だと考えている。何はともあれ、一歩先に出た方が勝つ。もし一局ごとに新手を出す棋士があったら、彼は不敗の名人になれる。その差はたとえ一秒の何分の一でもいい。専門家というものは日夜新しい手段を発見するために苦しまなければならぬ。
(「名人になって」57年7月、朝日新聞紙上の手記から)
刃を交わし戦う剣士みたいな表現ですね
前置きが長くなって恐縮だが大事なので現代棋界の第一人者 羽生善治三冠の言葉を合わせて載せておきたい
確か升田先生についてのインタビューで「羽生先生も新手を指しますか?」的な質問に答えて・・・自分はどちらかというとオーソドックスな棋風なのでと謙遜しながら
みなさんよく新手と言われますが、
ある一手があまり見たことのない「目新しい手」であった時
しかし、その手が間違いなく「新手」ということができるかどうかは、過去のすべての棋譜と見比べて
確実に今までに指された前例がないことがわからない限り、「新手」であるとは言えません
つまりたった一手であっても本物の「新手」が生み出されたかは、先人のすべての足跡をくまなく研究し知っている人にしか判断できないことなのです
この一言は音楽を語る上でもたいそう重い、
脈々と人類が音楽に向けた情熱の歴史を知らず、ただ「新しいから素晴らしい」と上滑りした考えで良いのだろうか?
そうした中で、いつもお世話になっている「GRFのある部屋」さんは毎週のように精力的に演奏会に通い時に暖かく、時に厳しい感想も書かれているけれど・・・
GRFさんの部屋には古今の名演奏のレコードやテープが網羅され聞き込まれていることを(ご本人は最近あまり言われないけれど)私は知っている、だからGRFさんだけには「あなたも新しいのも聞かなきゃ」と言われると僕も頑張ろうと思えるのです
人間の重みはどんな立派なことを語るかではなく、どんな実績を積んできたか、言葉はなくとも背中で伝わってしまうのですね
私は、ご存知の通り1920年代から1960年代頃の演奏を聴く機会が多い(とブログには書いている)
実際に家で一人で聞くときにはむかしのレコードを聴くことは少ないのだが、鑑賞の中心は?と聞かれれば躊躇なくその辺りです。と答えるだろう。
そんなだから時々、現代の演奏は聞かないんですか?とおっしゃってくださる方もお見えになる
結論から申し上げると
ブログ記事にしていないレコードや演奏会がたくさんあるだけで、まあ、中心的にとは言えないが聞いています。と答えている
あまり感心しなかったレコードや演奏会のことを否定的な記事にせず、書かないほうがいいと思っている
横浜にいた時に比べたら少ないですが、地方都市に住んでいるオーディオ趣味の人間としては頻繁に演奏会にも顔を出す方だと思います
例えば昨年から年初にかけて、世界的に有名な3人のピアニスト(メジャーからCDを多数出している二人の新進の女流と男性の大御所でいずれも外国の方です)を聞きました、でもとても記事にはできませんでした
3人とも演奏がどうこう言う以前の問題です。いったい先生は何を教えているんだろうと思いますが、答えは簡単です
現代でコンサートピアニストとして食べていくには、名のあるコンクールの入賞歴の二つ三つが必要なのでしょう
畢竟どんぐりの中で目立つためだけに、ただただ押し付けがましい大音量の・・・素人歌舞伎が大見得を切るようなドタンバタンの演奏の乱立とあいなるのです
600人も入ればいっぱいの会場もありました、ピアノの音が割れんばかりの大音量、前の音の反響に混じって次の音がfffで打鍵されるので会場はカオスの世界です
会場の大きさによって音量を変えるように、くらいの事も教えていないのでしょうか?
先生はコンクールに入賞する方法論よりも、音楽とは何か?作曲家は何を伝えたかったのか?リリカルやメランコリーについてを先んじて教えて欲しいものです
・・・が、現実ではそれも難しいのでしょうね、先生も生徒も食わなきゃなりませんから
痛々しいのは、3件の演奏会のうち2人はうら若きお嬢さんでした、曲の終わり毎には拍手喝采、ブラボーの掛け声
私は終演後急ぎ足で駐車場に向かいましたが、エントランスにはアンコールをパスしたのでしょうか?すでにサイン待ちのおじ様達の長蛇の列ができていました
レコード会社のある企業の元社員としては言い辛いのですが、音楽とは違った座標平面で今の音楽界の経済は回っているのですね
以上は、ちょっとひどいなあと思う事例でしたけど、
時代に即した新しい解釈、現代の感覚、演奏 ってなんでしょう?
羽生三冠の言葉を借りるまでもなく、過去の演奏をくまなく聞き込んだ上で現代の演奏を「現代感覚」と言った言葉が使われているのでしょうか?
若い人の演奏を今日聞いたから=最先端の演奏
という、単純な方程式では説明になっていません
何年も前に出尽くした手法の上書きかもしれないのに?
過去の演奏をすべて知っているわけでないのに、なぜそう言い切れるのだろうか?
純粋に演奏として、音楽としてどのように感じ取り見極めるかが大切だと思います
最新の演奏の中にも今後何年も語り継がれる名演が必ずあるはずです、唐九郎さんの言葉を借りると悲しいほど少ないにしても・・・
しかし過去の名演だって同じですよ、莫大な演奏の中からわずかに残っている物を今日の私たちが手にしているだけですから
前回の記事で私の最初のスピーカーについて書きました
それはこの通り、フルレンジ2発+ドライバー1発のモノラルシステムでした
この当時はSP盤の復刻LPやモノラル時代のLPを中心に聴いていたのです
後ろに控える英国Lowtherのホーンシステムは、WE購入から5年ほど後に初めて買ったステレオ(2台セット)のスピーカーでした
今でも蓄音器からCDとFMまでは我が家で聞けるようになっています、去年はネットプレーヤーもあった、あっただけだけど
あの時から30年あらゆる時代の音楽を聞いて、確信を持ったことなのですが
1920年であっても
1940年であっても
1960年であっても
2016年であっても
それぞれの時代に作られたレコード(奏でられた演奏と同じ)は、それぞれの時点での最先端なのです
その時代々々でできることの最善を尽くして、最高の才能が最高を求めた結果ですから、それぞれに意味があり、価値があるのです
芸術が誕生した瞬間から偉大な芸術家はその人なりの「新手」を打ち出してきた(からこそ偉大といわれる)わけで、1920年の新手が2016年のそれに古いから劣ると言うのなら、それは死人に鞭打つ後出しジャンケンのような現代人のおごりに過ぎない
もし、そのようなバカげた妄想がまかり通るならば、クラシックの演奏は時代を遡るほど劣悪になり
ブラームスのVn協奏曲を初演したヨーゼフ・ヨアヒムの演奏がこの曲の人類史上最悪の演奏ということになってしまう
ラフマニノフのように作曲者初演であれば、作曲者自身の演奏が一番しょーもない演奏になってしまうのか?
この簡単なロジックが理解できれば
単純に2016年に行われた演奏が最先端で最も良いと言うのは「今、生きている人間のとんでもない思い上がりに過ぎない」ということもわかります
今日の最先端は、明日には過去になり
1920年や 1940年と同じ過去のものとして、ただ音楽的な価値だけで判断されるのです。そこには若くて綺麗な肢体や肩の出た衣装も関係ありません
だから私の答えは、良き演奏ならいつの時代のでもありがたく楽しませてもらっています、です
約100年前に録られたSP時代から聴き始めて徐々に新しいレコードに移り、いまは60年ほど前の素晴らしい演奏を勉強している途中なんです
これからどんどん時代を下っていきますから、少々お待ちください。過去を知らずして現代はとても語れませんから
・・・が本心ですね
逆に言うと「モノラル以外は聞けねえ」なんて人の意見には全く賛同できない、ということも付け加えておきます
さて、明日は参議院選挙ですね、升田先生は一度出馬を打診されたことがあります
その時の答えを今日の最後に載せておきます、当たり前の答えですね、先生は将棋で「新手一生」なんですから
参院選に出馬を打診された際「本業に自信のあるものは政治家にはならない」と断った。
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