2023年03月 Der Klang vom Theater (ドイツ~劇場の音と音楽)
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お国なまりを大切に

過去2回分の記事を間を開けずに挙げたのは、実は今日の話題を昔から書きたかったのだけれど難しい問題を含むので
記事を書く前に「前提」を共通認識にしたかったからです

その話題とは

ズッカーマン

violinist.comの記事によると、
ピンカス・ズーカーマンの行為は、クラシック音楽における人種的・文化的ステレオタイプについて、ネット上で激しい論争を引き起こしました。

問題となったイベントは、「Starling-DeLay Symposium」が開催したバーチャル・マスタークラスです。

ズーカーマンは、入学前のニューヨーク生まれの一部アジア系の姉妹にコメントをしました。
シュポーアの「デュオ・コンチェルタンテ」を演奏した後、生徒たちに「もっと楽しんでください」と呼びかけました。

ズーカーマンは
「完璧すぎるくらい完璧な演奏だ。どれだけ完璧に弾くか、どれだけ一緒に弾くかを考えるのではなく、
もっとフレージングを考えるのです。もう少しビネガー......いや、ソイソースをかけてください」

"もっと歌うように、イタリアの序曲のように "と付け加えました。
"バイオリンは弦楽器ではなく、歌う楽器です。
弾き方に疑問があれば、歌うこともある。韓国では歌わないんだけどね」。

彼が詳しく説明した後、姉妹の一人が "でも私は韓国人じゃないわ "と言った。
ズーカーマンが彼女たちの出身地を尋ねると、彼女たちは「日本とのハーフです」と説明した。

続いて、「日本では歌も歌わないんですよ」と切り出した。
続けて、アジア人としてステレオタイプ化されている歌謡曲のボーカルスタイルを真似した。

その後、マスタークラスのQ&Aコーナーで、ズーカーマンは再び
「韓国では、彼らは歌わない。それは彼らのDNAにはない。"



ピンカス・ズーカーマン(ヘブライ語: פנחס צוקרמן‎, ラテン文字転写例: Pinchas Zukerman、1948年7月16日 - )は、イスラエルのテル・アヴィヴ生まれのヴァイオリン奏者



このWikiの紹介の通りスーカーマンはユダヤ系ポーランド人であり、ロマ「東欧州などで遊牧民として暮らしている人々、ジ○シーは差別用語なのでロマの人々の呼び方が適切」の人たちの伝統を継ぐ人なのかも知れません
(祖先や親戚に遊牧民が居られたと言う意味だけでなく、民族学上の系統が近しいと言う意味であっても)


さて、この話題が音楽界を揺らした当時、日本国内ではあまり騒がれなかったと記憶しています、私の耳に届かなかっただけかも知れませんが
その時期を過ぎて、改めて記事にするのです

私の考えでは
ズーカーマンと言うユダヤ系の1人のヴァイオリン教授としては、
自分の生徒さんに
「正確に弾こうとばかり囚われないで、もっと自由に歌って良いんだよ」と教えたのはごく当たり前の行為ですよ


一つだけ彼が犯した問題は「アジア人は・・・」と要らぬセリフを足して発言した事です

もし、日本人の先生が日本人の生徒に、あるいはドイツ人の先生がドイツ人の生徒に

「正確に弾こうとばかり囚われないで、もっと自由に歌って良いんだよ」

と、言ったのならば全く問題にもなっていないのです、演奏上や解釈のヒントを教えただけだからです

背の高い人に「背が高いねえ」
痩せている人に「スリムねえ」
これは差別と受け取られますか?

背の低い人に、ふくよかな人に・・・
受け取る人によっては悪口になるので気をつけるべきですね

背が高い低いは単なる身体的特徴なだけであって、言葉自体にトゲはありません
ふくよかな方を好む人も沢山いるのだから、特徴だけでは悪口にはならないはずですが
受け取る側が嫌だと思えば悪口になるので、避けるが賢明。と言うのが世の習いです



この手の人種問題で注意すべきは

「アジアのヴァイオリン奏者=機械的で正確だけど歌わない」

と、認識しているのは、他ならぬアジア人だから、痛い処を突かれたので怒りを感じるんです


また、少し前にフランス人サッカー選手が日本でホテルマンに差別発言をしたとして騒動になりましたが
植民地政策の後始末も終わっていないフランスでは同じアパートに何カ国もの家族が暮らすのは当然で
そこの子供達はいつも一緒にサッカー遊びをして「人種いじり」は日常なのです


我が家に来たフランス人のお嬢さんが
「サッカーの後アラブ人がシャワーに入ったらちっとも出てこない
おかしいと思って見に行くと、排水口の網の隙間から流されて行ってた、彼らは痩せっぽっちだから」

と言うのが定番の「いじり」だと教えてくれた
しかし、これは「お前のカーチャンでベソ」と同じでお互いにジャレ合っているだけで差別とは別次元だと言うが
長年単一人種に近い島国育ちの日本人からすると、ヒヤヒヤする関係性に見えます


国境が複雑に絡み合い、人種の坩堝にいる欧州人は差別や悪意の意図なく「民族小咄」をする人達なのでしょう
音楽界でもズーカーマンの様な発言はいくらでもあります
ホロヴィッツが
「女性とアジア人にピアノは弾けない」って言ってたらしいし、ともかく外に出るでないは別として彼らの思想的には
コモンなセンスと思っておいた方がこちらが一々傷つかなくて賢明です


問題なのはズーカーマンやR・マドリーに所属する世界的に立場のある人間が発言するのは、路地裏の子供の会話じゃないんだから大きな責任があるのに、その自覚のなさです






僕はねえ、思うんですよ

子供の頃からお寺に行けば日本古来の笙、笛で雅楽を聞いて、夏休みには盆踊りを聞いて育った我々が
この人達と同じ歌心を持っていると考える方が余程無理があるでしょう










ならば
日本人にしか出来ないクラシック演奏を目指せば良いんじゃないかと思います
それなら、ズーカーマンは逆立ちしたって出来ないのだから
もちろん目指すからにはそれでズーカーマン以上の世界的評価を得るしかないんですけれどね
だって、僕らは中島みゆきや八代亜紀で涙出来るじゃないですか、それこそ立派な民族的、音楽的特質ですよ

昨年のW杯でサッカー日本代表はその道に一筋の光を灯してくれました


もう何年も前になりますが
Wienのシュターツオーパーで小沢さんが「E・オネーギン」振ったのを聞きましたが、それはそれは素晴らしい演奏でした
大地に根を張った様ないわゆる「ロシア的」な演奏ではなかったかも知れませんが、繊細でリリカルな悲しみを湛えた見事な「E・オネーギン」でした




最後に
ロマの音楽で最も有名な曲の一つである「チャルダッシュ」を貼っておきます

こちらはハンガリーの有名なベラさんの演奏です
今日の3つの動画はわざと地域や年代の異なるものを集めました
人種や国といった単位を超えて受け継がれる血の伝統の様なものを感じて見るのも悪くないかなと


なお、「チャルダッシュ」は日本のヴァイオリン教室でも異常なほどの人気曲で多くの方が習っていますし
本当に多数の日本人ヴァイオリニストの演奏をyou tube上で見ることができます

ぜひ皆さんも下の動画を見た後に、「チャルダッシュ」で検索して邦人演奏家のものと聴き比べてみてください
私の意図と反して「悪い例」の様に思われると心外なのであえてリンクはしません


両方を聞いてから、もう一度ズーカーマン騒動の本質を考え直してみることもあながち無意味だとは思えませんが
如何でしょうか?

***繰り返しますが、あらゆる差別発言に対しては強く非難いたします***

同様に血の伝統が薄まりゆく事にも少し勿体なさを感じる今日この頃です











お国言葉の魅力

我が家のピアノのレコードは他のジャンルに比べて極端に少ないとは思いませんが、何故かショパンのレコードは僅かしか所有していません
すぐに思いつくのは以下の2組だけになります

・練習曲  
・プレリュード  

いずれも演奏は アルフレット・コルトー

これらはSP盤のセットもありますので、むしろ入れ込んでいると申せましょう



では、”ショパン苦手”を公言している私が何故そんなにこのレコードだけ聞いているのか?ですが

”コルトー節”がショパンの特質を超えてしまっているから

なのだろうと勝手に思ってます

コルトーの弾くショパンなんてのはなんだか酔っ払いがピアノを弾いている様に聞こえるから、テクニックもピアニズムもあったもんじゃ無い
その上、録り直しの効く電気録音なのにミスタッチだって散見されます

しかし、その奥からは他のどのピアニストでも出せないだろう溢れんばかりの情景やポエムが聞こえるのです

ピアノの教則として実用のために作られた(諸説あり)練習曲は一曲当たり2分から数分の小曲からなる曲集で
特段の情緒とか作曲にあたっての思い入れを反映しているのではないでしょうが

コルトーの演奏を聴くと次から次と色鮮やかな情景が切り替わるので「万華鏡」を回し見しているかのごとき感銘を覚えます

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高校生の頃、ピアノ教室で・・・こちらも子供では無く、大学を出て間もない先生とは友達感覚で話していた・・・普段どんなレコードを聴くかという話題になった

私は「コルトーが好きです」というと

先生は言った「あの人はダメよ、楽譜を崩しすぎて勉強にならない。ルービンシュタインをお聴きなさい」と

日本で学校で音楽を勉強された方ならごもっともな意見だと思います

ルービンシュタインは正統派、対してコルトーはお国訛りが強すぎで勉強のお手本としては不向きとの認識はあったでしょう
ただし、現代の感覚で聞き直すとルービンシュタインだってかなり「訛って」いますけどね(笑)



前回の記事で申し上げた通り、時代が降って世界が時間的に近くなると、地方の文化は混じり合い「方言」は薄くなって行き、いわゆる「インターナショナル」な状態に変わっていくのです

どうでしょうかポリーニやアシュゲナージらが活躍を始めた頃からでしょうか、一聴しただけでは演者を特定しにくくなった様に感じるのです
個々のレパートリーも広くなり、テクニックに不備などなく楽譜に忠実で流暢な演奏家は増えましたけれど、どうしたって標準化、均一化に近づいた印象は拭きれません



コルトーやド・パハマンの時代には

ショパンは良いんだけれどベートーヴェンやバッハはちょっと軽いよね

ドイツものは良いんだけど、フランスものは軽妙さが無いとねえ

そんな感想を持たれるピアニストなんていくらも居たものです





一方、指揮者に目を向けても
クナ、クリップス、ミンシュ等々の「訛り」の強い指揮者はある時を境に姿を消し
誰とは言いませんが音楽的で正確な指揮者が溢れる様になったと感じています


良いんですよ、時代の要求でしょうからあまりに田舎に引っ込んでお国もの中心のプログラムばかりの職人的指揮者・・・カイルベルト、コンビチニー、サンティニなんて好きですけどねえ・・・ではチケットが売れなくて劇場の経営に直結しますからインターナショナルなスター指揮者を時代は欲しているんです



その中でも現代の個性派であった「C・クライバー」は世間からは大人気であったけれども、変わり者すぎて腫れ物を触る様に扱われて、常任や音楽監督の仕事を長く続ける事なくそのキャリアを終えましたね


なんでしょうかねえ
突出した天才の御技を見たいと願って芸術に触れているはずなのに、いつの間にか経済と名声に流されてしまうのが社会の実情なのでしょうか


日曜のミサの帰りにはオラが街のオーケストラを聴きに行ってその後は家族で食事(欧州の夕食は22:00時スタートで開けて1;00時終了なんて昔はよくあった)を楽しむ、なんて事だけで地方オーケストラの経済が回っていた時代とは何もかも変わっているのでしょうね




「お国なまり」は体臭の様なもので、本人は自分の匂いを意識していないものです
TV番組「県民ショー」で方言の聖地を尋ねるコーナーがありましたけど

津軽弁の最もオリジナルな姿を残すと認定された五所川原の金木町にずっと住んでいるおばあちゃんは
多分、私たちが思うほどご自分が訛っていると認識はないんじゃないかな






やっぱり、可愛いですよね
このビデオの素晴らしいところは、同じ青森県内であっても城下街で政治や文化のありようと、他の地域との人的交流など地域の特徴と方言の薄まり方、残り方に言及しているところで、まさに本記事の核心を語って頂いている様です

そう言う長野県民の私も普段は全く意識ないけど、横浜に行って喋る時には

「あ、今訛ったな」とドキッとする事ありますよ



では、方言が強ければ正義か?
地方色の強い演奏はそれだけで良い演奏と言えるのか?

全然そんな事ないと思いますし、むしろ純粋に音楽としてみた場合には強いクセのない演奏の方が「クラシック名盤BEST100」なんて選抜の際には上位を占めるでしょう


曲目によっても求めるものは変わってきますしね・・・マーラー=ウィーン的?ユダヤ的?その様に捉える音楽ではないのかとも



皆さんは如何ですか?

ある曲に対して愛聴盤を考える時「お国なまり」は意識するでしょうか?


私はねえ

ラヴェルやフォーレを聴くとき、フランス的なちょっと良い香水の匂いのする、腰のラインが艶かしいお姉さんみたいな演奏と
律儀で楽譜通りにやってますよ、と言う演奏とどちらが聴きたいですか?

また、ワグナーのドロドロの愛憎劇の後ろを天国の様なオーケストレーションが流れる場面で
どんな音楽に打ちのめされたいでしょうか

他にもシベリウスやグラナドスにロシア民謡など強い訛りのある音楽が好きなので、困っちゃうんですねえ





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