ウクライナ国立の「カルメン」
ウクライナの情勢不安から1年が過ぎて
自分では何もできる事がないのかと思っていたこの時期です
ある朝の新聞でウクライナ国立歌劇場の引越し公演が長野であることを知り
せめてもの・・・気持ちだけですがお高い席を購入して行って来ました
と言っても、いつもの通り
2階席 最前列 中央通路の脇っていう上席が空いていたから買ったのですけれどね
多くのクラシックオペラは、スマホやネットどころかテレビも映画もない時代に作られたエンターテイメントの主役です
より多くの娯楽要素を求められていましたから、昼メロドラマや歌謡番組を想起させる場面も多くあります
オペラ以外のエンタメに事欠かない現代人にとってはある種異質な文化を感じますね
一例として「フィガロ」を見ると(CDの音だけではよく分からない)分かりますが
前半はストーリーのある物語(まあ、他愛もないメロドラマ)ですが、後半はアリアを順番に歌う歌合戦の様相を示します
また、多くの作品で舞踏会やダンスチューンのコーナーがあって盛り沢山、特にトルコなどエキゾチックな踊りが人気のようでした
今時のように簡単には海外旅行ができない当時には、オリエンタルな文化に関心があったのでしょうね
それらを前にして座り続けるのは実はそれなりの「修行」であって、退屈のあまり不覚にも居眠りとの戦いを強いられるものです
その中で、全曲を通して覚えているので絶対に眠らない鉄板の三作品があります
1・カルメン
2・ラ・ボエーム
3・カバレリア
この次のグループには
1・こうもり
2・アイーダ
3・神々
4・ファウスト
なんですけど「神々」なんか長野では絶対に掛からないので実質6曲、
まだ未体験のカバレリアとファウストも大都市での公演待ちですが、国内では難しいでしょうか
小さな小屋の狭いピットにしては中々の編成のオケでした
1stVnで8から10丁
チェロが2本、コンバスは3本もありましたし、ホルンは4管という盤石の構え
二階席の私の所では低音は十二分のバランス、一階席でもある程度良かったのではないかと思います
(ステージ下のピットで演奏するオペラの場合、土間席で聞くと多くの場合ハイ・バランスになって腹が立つ)
オペラの実演ではいつも2つのことに感心します
1、録音と同じクオリティで聴ける
POPSのコンサートを基準に考えるととんでもない事です
音楽の流れが(テイクのやり直しの出来る)レコードを聞いているのと変わらないのですから
それも2時間もの間、何十人という演奏者、歌手が楽譜・ト書き通りに演奏出来るんですよ
それだけでもすごい事、どれだけ練習してるんだ!と頭が下がる思いです
当たり前だろ、と思ったそこの貴方・・・そうでもない時も結構あるんですよ・・・「生」だけに
2、やっぱり欧州の音は全然違う
オーディオとの音の差もそうですが、日本のオケとの音の差も随分と感じます
私はよく「発情期の猫の泣き声のよう」と表現するんですが
ヴァイオリンにしても人の声にしても、一度喉の奥で声を含んでから出すような出音の仕方に
毎回、強烈にヨーロッパの土地と文化、時間の蓄積を感じます
M・カラスやD・F・ディースカウの発声を聞くと一聴瞭然なんですけれど
一般論ですが
優秀と言われるオーディオほど、実演で聞かれる音との乖離を感じてしまう傾向があるのです
ヴァイオリンからは薄くて乾いた板の音が聴こえるはずなんですが、金属製ヴァイオリンの音になってはしないだろうか?
自分自身の家も例外でなくしっかりと見つめたいと思った
まあ、身も蓋もない話をしちゃうと録音された時点でかなりマズいのもあると思うんですが
「あの感じ」を聞き手が自分の中に感覚として持っているかどうかが一番のハードルだと思います
どのCDやレコードを聴くかの選択からが自分のオーディオの責任ですからね
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自分では何もできる事がないのかと思っていたこの時期です
ある朝の新聞でウクライナ国立歌劇場の引越し公演が長野であることを知り
せめてもの・・・気持ちだけですがお高い席を購入して行って来ました
と言っても、いつもの通り
2階席 最前列 中央通路の脇っていう上席が空いていたから買ったのですけれどね
多くのクラシックオペラは、スマホやネットどころかテレビも映画もない時代に作られたエンターテイメントの主役です
より多くの娯楽要素を求められていましたから、昼メロドラマや歌謡番組を想起させる場面も多くあります
オペラ以外のエンタメに事欠かない現代人にとってはある種異質な文化を感じますね
一例として「フィガロ」を見ると(CDの音だけではよく分からない)分かりますが
前半はストーリーのある物語(まあ、他愛もないメロドラマ)ですが、後半はアリアを順番に歌う歌合戦の様相を示します
また、多くの作品で舞踏会やダンスチューンのコーナーがあって盛り沢山、特にトルコなどエキゾチックな踊りが人気のようでした
今時のように簡単には海外旅行ができない当時には、オリエンタルな文化に関心があったのでしょうね
それらを前にして座り続けるのは実はそれなりの「修行」であって、退屈のあまり不覚にも居眠りとの戦いを強いられるものです
その中で、全曲を通して覚えているので絶対に眠らない鉄板の三作品があります
1・カルメン
2・ラ・ボエーム
3・カバレリア
この次のグループには
1・こうもり
2・アイーダ
3・神々
4・ファウスト
なんですけど「神々」なんか長野では絶対に掛からないので実質6曲、
まだ未体験のカバレリアとファウストも大都市での公演待ちですが、国内では難しいでしょうか
小さな小屋の狭いピットにしては中々の編成のオケでした
1stVnで8から10丁
チェロが2本、コンバスは3本もありましたし、ホルンは4管という盤石の構え
二階席の私の所では低音は十二分のバランス、一階席でもある程度良かったのではないかと思います
(ステージ下のピットで演奏するオペラの場合、土間席で聞くと多くの場合ハイ・バランスになって腹が立つ)
オペラの実演ではいつも2つのことに感心します
1、録音と同じクオリティで聴ける
POPSのコンサートを基準に考えるととんでもない事です
音楽の流れが(テイクのやり直しの出来る)レコードを聞いているのと変わらないのですから
それも2時間もの間、何十人という演奏者、歌手が楽譜・ト書き通りに演奏出来るんですよ
それだけでもすごい事、どれだけ練習してるんだ!と頭が下がる思いです
当たり前だろ、と思ったそこの貴方・・・そうでもない時も結構あるんですよ・・・「生」だけに
2、やっぱり欧州の音は全然違う
オーディオとの音の差もそうですが、日本のオケとの音の差も随分と感じます
私はよく「発情期の猫の泣き声のよう」と表現するんですが
ヴァイオリンにしても人の声にしても、一度喉の奥で声を含んでから出すような出音の仕方に
毎回、強烈にヨーロッパの土地と文化、時間の蓄積を感じます
M・カラスやD・F・ディースカウの発声を聞くと一聴瞭然なんですけれど
一般論ですが
優秀と言われるオーディオほど、実演で聞かれる音との乖離を感じてしまう傾向があるのです
ヴァイオリンからは薄くて乾いた板の音が聴こえるはずなんですが、金属製ヴァイオリンの音になってはしないだろうか?
自分自身の家も例外でなくしっかりと見つめたいと思った
まあ、身も蓋もない話をしちゃうと録音された時点でかなりマズいのもあると思うんですが
「あの感じ」を聞き手が自分の中に感覚として持っているかどうかが一番のハードルだと思います
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衝撃の言葉 〜 音楽・音源を「ソフト」と言う人々
私がまだオーディオをしていると言える段階でなく、駆け出しの頃の話です
実家のお隣の町に友人の会社の同僚の方が住んでいました
そのお父上が敷地内にオーディオ部屋を建てる程熱心な方で、同僚の方(息子さん)自身もその影響でオーディオに興味がお有りだと聞いていました
その後、友人の取りなしもあって
「せっかくお近くなんだから、お互いに訪問しましょう」となりました
始めに年少の私から先方にお邪魔しました
部屋は10畳ほどの「男の城」って感じで、余計な装飾も無いオーディオ一筋の室内でした
装置の詳細はここでは書きませんと言うより記憶にないので書けません
もう、30年以上前のことですし、何より評論家ごち「訪問記」などを記するほど立派な人間でないと自覚しているからです
ただ、お父さんは真空管アンプを自作されるのが趣味の方で、何台か見知らぬ部品で組まれた自作アンプがありました
スピーカーも市販品ではなかった様に思います
いくつかのレコードを聞いた後
「クラシックはあまり詳しく無いので、レコードを持参して欲しい」とのご要望があったのでお持ちしたレコードをかけていただきました
これは、覚えています
グリュミオの名演集 クライスラーの小品や熊蜂の飛行などメロディーが分かりやすい曲を集めた1枚で
外盤の入手が困難な地方都市としてはありがたいオランダ直輸入の1000円盤でした
70年頃のPHILIPS録音ですから見事な音です
お父さんは痛く感激してくださって、そこで出たのが次の言葉です
「いやあ。これはいいソフトですねえ」
現在に至るまで、オーディオをしていて最も印象深い「言葉」の一つでした
それまで、レコード(やCD)を「ソフト」と呼ぶ人に出会ってこなかったからです
ここまで読んで頂いている皆さんはどうお感じになったでしょうか?
・え? 普通 言うでしょ!
・なんか違和感あるねえ
・特に、なんとも感じません
感じ方は各々でよろしいと思いますが
齢30歳くらいの当時の私には大層な違和感があったのです
もちろん、当のお父さんに特段の意図はなく、オーディオ雑誌や仲間内で慣例的に使われる「音源=ソフト」と言う記号としての言葉を使っただけだと思います
良くありますよね、オーディオ雑誌の巻末で「今月の優秀録音 推薦・特選ソフト」みたいな感じの使われ方
未だに感じている違和感の原因は
「オーディオ装置=ハードウェア」の一対としての「音源=ソフトウェア」なのかしら?
スピーカーやアンプやプレーヤー、すなわち「ハードウェア」とそのシステムを構成する
オーディオで音を出すために必要な「構成要素=コンポーネント」の一つとして「音源=ソフトウェア」を捉えている?
オーディオの音質を確認し調整する為に、音を出す必要があるからソフトをかけてるの?
極端に悪い取り方をすると、そんな印象を受けるものですから違和感があったのでしょう
実際に個人のお宅で、オーディオメーカーの配布する「デモ盤」の中の女性ヴォーカルでもかけて下さる場合などに出会すと???と思うこともありますよね。
いや、お好きなら良いんですよ、いいんですけどね
可能ならばご自身で発見・発掘した「魂の一枚!」をお聞かせ頂けたら一層嬉しいです
繰り返しになりますが
私自身は18歳の時に、オーディオの師匠からSPからモノラル時代の歌手やヴァイオリン奏者を沢山教えてもらった中で
1人の歌手と運命的な(と勝手に思い込んでいる)出会いがありました
以来、自分にとってのオーディオの存在意義は、その歌手の歌を聞く為だけにありました
私にとって「音源」は
オーディオの「要素=element」ではなく「動機=motive」なのです
師匠はオーディオ店主なので、こちらも何気なく
真空管を変えたい とか このカートリッジを買おうかしら と言うんですが
「何のために」
「それでどうなるの?」
と言われ、中々売ってくれない時期がありました
今になって思うと
「お前の聞きたいレコードの再生にとって、プラスになるか考えての事か?」と言うことだと思います
雑誌や仲間内の風評だけで、欲しい物をあてずっぽうで買い込んでも自身の音楽人生にとっては決してプラスにならないと言うことでしょう
何年か経って私が
「こんな事をしたい」と言うと
「お、いいセンスしてるねえ」と言って売ってくれる様になりました
私の師匠は音楽再生の目的を見失った、オーディオセット単独の「自称・音質アップ」を決して許してはくれませんでした
自分のオーディオ人生を振り返ってみても、これ以上に感謝していることはありません
当時とは違い、今ではオークションやネット通販で何でも好きな物が買えます
自分勝手なガチャガチャな事をしても、誰も叱ってくれないんです
当時の自分がそんな時代にオーディオを始めたらと考えると、これほど恐ろしいことはありません
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実家のお隣の町に友人の会社の同僚の方が住んでいました
そのお父上が敷地内にオーディオ部屋を建てる程熱心な方で、同僚の方(息子さん)自身もその影響でオーディオに興味がお有りだと聞いていました
その後、友人の取りなしもあって
「せっかくお近くなんだから、お互いに訪問しましょう」となりました
始めに年少の私から先方にお邪魔しました
部屋は10畳ほどの「男の城」って感じで、余計な装飾も無いオーディオ一筋の室内でした
装置の詳細はここでは書きませんと言うより記憶にないので書けません
もう、30年以上前のことですし、何より評論家ごち「訪問記」などを記するほど立派な人間でないと自覚しているからです
ただ、お父さんは真空管アンプを自作されるのが趣味の方で、何台か見知らぬ部品で組まれた自作アンプがありました
スピーカーも市販品ではなかった様に思います
いくつかのレコードを聞いた後
「クラシックはあまり詳しく無いので、レコードを持参して欲しい」とのご要望があったのでお持ちしたレコードをかけていただきました
これは、覚えています
グリュミオの名演集 クライスラーの小品や熊蜂の飛行などメロディーが分かりやすい曲を集めた1枚で
外盤の入手が困難な地方都市としてはありがたいオランダ直輸入の1000円盤でした
70年頃のPHILIPS録音ですから見事な音です
お父さんは痛く感激してくださって、そこで出たのが次の言葉です
「いやあ。これはいいソフトですねえ」
現在に至るまで、オーディオをしていて最も印象深い「言葉」の一つでした
それまで、レコード(やCD)を「ソフト」と呼ぶ人に出会ってこなかったからです
ここまで読んで頂いている皆さんはどうお感じになったでしょうか?
・え? 普通 言うでしょ!
・なんか違和感あるねえ
・特に、なんとも感じません
感じ方は各々でよろしいと思いますが
齢30歳くらいの当時の私には大層な違和感があったのです
もちろん、当のお父さんに特段の意図はなく、オーディオ雑誌や仲間内で慣例的に使われる「音源=ソフト」と言う記号としての言葉を使っただけだと思います
良くありますよね、オーディオ雑誌の巻末で「今月の優秀録音 推薦・特選ソフト」みたいな感じの使われ方
未だに感じている違和感の原因は
「オーディオ装置=ハードウェア」の一対としての「音源=ソフトウェア」なのかしら?
スピーカーやアンプやプレーヤー、すなわち「ハードウェア」とそのシステムを構成する
オーディオで音を出すために必要な「構成要素=コンポーネント」の一つとして「音源=ソフトウェア」を捉えている?
オーディオの音質を確認し調整する為に、音を出す必要があるからソフトをかけてるの?
極端に悪い取り方をすると、そんな印象を受けるものですから違和感があったのでしょう
実際に個人のお宅で、オーディオメーカーの配布する「デモ盤」の中の女性ヴォーカルでもかけて下さる場合などに出会すと???と思うこともありますよね。
いや、お好きなら良いんですよ、いいんですけどね
可能ならばご自身で発見・発掘した「魂の一枚!」をお聞かせ頂けたら一層嬉しいです
繰り返しになりますが
私自身は18歳の時に、オーディオの師匠からSPからモノラル時代の歌手やヴァイオリン奏者を沢山教えてもらった中で
1人の歌手と運命的な(と勝手に思い込んでいる)出会いがありました
以来、自分にとってのオーディオの存在意義は、その歌手の歌を聞く為だけにありました
私にとって「音源」は
オーディオの「要素=element」ではなく「動機=motive」なのです
師匠はオーディオ店主なので、こちらも何気なく
真空管を変えたい とか このカートリッジを買おうかしら と言うんですが
「何のために」
「それでどうなるの?」
と言われ、中々売ってくれない時期がありました
今になって思うと
「お前の聞きたいレコードの再生にとって、プラスになるか考えての事か?」と言うことだと思います
雑誌や仲間内の風評だけで、欲しい物をあてずっぽうで買い込んでも自身の音楽人生にとっては決してプラスにならないと言うことでしょう
何年か経って私が
「こんな事をしたい」と言うと
「お、いいセンスしてるねえ」と言って売ってくれる様になりました
私の師匠は音楽再生の目的を見失った、オーディオセット単独の「自称・音質アップ」を決して許してはくれませんでした
自分のオーディオ人生を振り返ってみても、これ以上に感謝していることはありません
当時とは違い、今ではオークションやネット通販で何でも好きな物が買えます
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「青少年のためのクラシック音楽入門」
さて、記念すべき第一回目の放送から考えます
もちろん内容は季節とか年中行事に左右されますが、一応4月スタートで12回+必要に応じて脱線することも良しとしましょう
第1回放送分
ここはやはり「音楽の父」に登場頂かない訳にはなりますまい
しかーし、ここで
トッカータとフーガBWV565やG線上のアリアを掛けるのでは私が製作する意味がありません
「そうそう、この曲知ってる、私もCD買ってみようかしら」
てな、生涯に30枚の CDを買う方のための放送ではありません
1曲目
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 BWV1056 より 第2楽章 (約3分)
N アーノンクール Aアーノンクール
バッハは人類最高級のメロディー・メーカーですが、この番組のトップを飾るのは究極の1曲で視聴者の心を鷲掴みにする必要がありこちらの選曲になりました
演奏者の選定は多くの意見があって当然ですが、最もロマンチックで「あの世」感のあるアーノンクールご夫妻盤にします
さて、30分番組であればCMの時間などを除き、実放送時間は23分程度になるでしょう
すると、音楽をかける時間は15分から長くても17、8分
残りはお知らせの類と、作曲家や時には演奏家、あるいは曲にまつわるエピソードを伝える事がとっても大事になります
曲だけかけて「ほれ聞け!」では直ぐに飽きられてしまいますからね、多角的に興味を引く仕掛けが必要です
2曲目
教会カンタータ BWV147 Herz und Mund und Tat und Leben (約4分)
近年の古楽演奏で
BWV140と迷うところですね。どちらでもいいと思いますが、こちらは合唱なので信仰心増し増しでしょう
バッハの時代においては
音楽は権力と金、簡単に言うと教会と貴族に囲われていた飾り物だったかも知れないのだと、クラシックを聞いてゆく上で時代と共にどう変化していくのかは知っておくべき事柄だと思います
これはアーノンクールです、素晴らしいですねえ
放送ではもう少し編成の小さな透明感のある演奏が良いでしょう
3曲目
これで、本日のトリになります
ゴールドベルク変奏曲 BWV988 より エール ニコライエワ (約5分)
演奏は81年のグールド、Kリヒター 盤と迷いましたが夜の11時半に聴きたいのはコレだなと
副交感神経を高めて眠りに付く前にはぴったりではないでしょうか、加えて次週もまた聞いてもらえる様な引っ掛かりを残すための曲でもあります
第2回目放送分
ここからはあまり順番にこだわりは無いのですが、1曲目は年代順でモーツァルトです・・・が・・・
1曲目
ピアノ・ソナタ K310 第1楽章 第2楽章の途中まで Dリパッティ ブザンソン・ラストコンサート (約6分)
モーツァルトのその短い人生を、自らの青春の青白い炎を追い越す様に駆け抜けた。と詩的に捉えるならば
そのポエムに最もふさわしいのはこの録音だと言う理由です
第2楽章の透明感、哀愁も半端じゃ無いので少々
最近正規録音とは別のテープが発見されCD化されたので、より緊迫した音が聞けます
もちろん解説ではリパッティの生涯と当コンサートの意味も伝えます
2曲目
オルフェとエウリディーチェ メロディ J ヌブー (約3分)
シシリエンヌ (約4分。時間が許すなら)
本当であればシベリウスの協奏曲の3楽章推しなのですが、初心者向けと言う事でメロディアスな小品を
3曲目
Jアクロン ハイフェッツ編 ヘブライのメロディー J ハシッド (約4分)
かのクライスラーをして
「天才演奏家は100年に1人現れる
しかしハシッドは200年に1人しかいない」と言わしめたハシッド君
演奏家としての活動はたった2年、SPレコード9面だけの録音を残して26年の凄惨な人生を閉じました
加えて「ロボトミー」についても簡単に触れておくべきでしょう(時間が許せば)
とても重いテーマの回になりましたけれど
青少年のリスナーに向けて「神も羨む程の才能を持って生まれながら、志半ばにて夭逝せし天才」の存在を知る事で
目の前の今日一日を精一杯生きる大切さが伝わると良いと思いますよ
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第1回放送分
ここはやはり「音楽の父」に登場頂かない訳にはなりますまい
しかーし、ここで
トッカータとフーガBWV565やG線上のアリアを掛けるのでは私が製作する意味がありません
「そうそう、この曲知ってる、私もCD買ってみようかしら」
てな、生涯に30枚の CDを買う方のための放送ではありません
1曲目
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 BWV1056 より 第2楽章 (約3分)
N アーノンクール Aアーノンクール
バッハは人類最高級のメロディー・メーカーですが、この番組のトップを飾るのは究極の1曲で視聴者の心を鷲掴みにする必要がありこちらの選曲になりました
演奏者の選定は多くの意見があって当然ですが、最もロマンチックで「あの世」感のあるアーノンクールご夫妻盤にします
さて、30分番組であればCMの時間などを除き、実放送時間は23分程度になるでしょう
すると、音楽をかける時間は15分から長くても17、8分
残りはお知らせの類と、作曲家や時には演奏家、あるいは曲にまつわるエピソードを伝える事がとっても大事になります
曲だけかけて「ほれ聞け!」では直ぐに飽きられてしまいますからね、多角的に興味を引く仕掛けが必要です
2曲目
教会カンタータ BWV147 Herz und Mund und Tat und Leben (約4分)
近年の古楽演奏で
BWV140と迷うところですね。どちらでもいいと思いますが、こちらは合唱なので信仰心増し増しでしょう
バッハの時代においては
音楽は権力と金、簡単に言うと教会と貴族に囲われていた飾り物だったかも知れないのだと、クラシックを聞いてゆく上で時代と共にどう変化していくのかは知っておくべき事柄だと思います
これはアーノンクールです、素晴らしいですねえ
放送ではもう少し編成の小さな透明感のある演奏が良いでしょう
3曲目
これで、本日のトリになります
ゴールドベルク変奏曲 BWV988 より エール ニコライエワ (約5分)
演奏は81年のグールド、Kリヒター 盤と迷いましたが夜の11時半に聴きたいのはコレだなと
副交感神経を高めて眠りに付く前にはぴったりではないでしょうか、加えて次週もまた聞いてもらえる様な引っ掛かりを残すための曲でもあります
第2回目放送分
ここからはあまり順番にこだわりは無いのですが、1曲目は年代順でモーツァルトです・・・が・・・
1曲目
ピアノ・ソナタ K310 第1楽章 第2楽章の途中まで Dリパッティ ブザンソン・ラストコンサート (約6分)
モーツァルトのその短い人生を、自らの青春の青白い炎を追い越す様に駆け抜けた。と詩的に捉えるならば
そのポエムに最もふさわしいのはこの録音だと言う理由です
第2楽章の透明感、哀愁も半端じゃ無いので少々
最近正規録音とは別のテープが発見されCD化されたので、より緊迫した音が聞けます
もちろん解説ではリパッティの生涯と当コンサートの意味も伝えます
2曲目
オルフェとエウリディーチェ メロディ J ヌブー (約3分)
シシリエンヌ (約4分。時間が許すなら)
本当であればシベリウスの協奏曲の3楽章推しなのですが、初心者向けと言う事でメロディアスな小品を
3曲目
Jアクロン ハイフェッツ編 ヘブライのメロディー J ハシッド (約4分)
かのクライスラーをして
「天才演奏家は100年に1人現れる
しかしハシッドは200年に1人しかいない」と言わしめたハシッド君
演奏家としての活動はたった2年、SPレコード9面だけの録音を残して26年の凄惨な人生を閉じました
加えて「ロボトミー」についても簡単に触れておくべきでしょう(時間が許せば)
とても重いテーマの回になりましたけれど
青少年のリスナーに向けて「神も羨む程の才能を持って生まれながら、志半ばにて夭逝せし天才」の存在を知る事で
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作曲当時の演奏スタイルと言ったって実は、最新の解釈じゃ無いのか?と考えたんだけど
Ludwig van Beethoven (1770-1827) 独 作曲家
没年は幕末の文政年間
むかーしのえらい音楽家先生 音楽室の壁に難しい顔をした肖像画がかかっている事で有名
Joseph Böhm (1795-1876) 澳 ヴァイオリニスト 音楽教師
没年は明治の中頃
ベートーヴェンの音楽仲間 弦楽四重奏曲 第12番の初演時(正確には1ヶ月後の2回目)のメンバー
交響曲 第9番の初演時にもオーケストラに加わっていた
ウィーン音楽院の初代学長 弟子にヨーゼフ・ヨアヒム他 多数
Joseph Joachim (1831-1907) 洪 ヴァイオリニスト 音楽教師
没年は明治末
ブラームスのお友達、後にちょっとケンカする。でも仲直り。ヴァイオリン協奏曲の初演者
ベルリン高等音楽学校の校長 弟子にカール・クリングラー他 多数
Karl Klingler (1879-1971) 独 ヴァイオリニスト
亡くなったのは・・・つい先日だ、長生きだったねえ
ヨアヒム・カルテットのヴィオラ奏者
後に「クリングラー・カルテット」を結成
1911年(ベートーヴェンの没後84年)にOp 18-5を録音する
そのクリングラー・カルテットの1911年録音が収録されたCD
子供の頃のイメージだとベートーヴェンなんてはるか昔の偉人の印象だったけれど、年表に落としてみると結構最近の人なのね
上記ヨゼフ・ベームさんはベートーヴェンの生前に一緒に演奏をやって本人からOKを貰っていたのだから
「作曲された当時の演奏スタイル」で正しいかどうかの議論なくズバリ!の人だよねえ
で、ベームの弟子のヨアヒムと一緒にカルテットを演奏していたクリングラーは、孫弟子に当たるのだけどプロの演奏家としては一世代だけ下なので周りの先輩や音楽関係者、もしかしたら下宿のおばちゃんとかベートヴェンその人と親交があったり触れ合った人がまだまだ沢山残っていた時代である
そのクリングラーはつい先日まで生きていたのだ
ノリントンの録音が1987年だから、あと15年ほど長生きしてくれていたらどんな感想だったか聞いてみたかった
(勿論プロの演奏家が他のプロに対して自己の意見を言う訳はないので、コッソリ耳打ちで)
と言う事で、CDを聞いてみました
端正で清涼感のある凛々しい演奏です
ウィーン風というのかポルタメントのチャーミングな面とインテンポの追い込みの対比がとてもはっきりしている
際立って感情的に歌い上げるのではなく、だからと言って即物主義に徹した機械的なんてとんでもない
勿論アゴーギグやデュナーミクを殊更強調して、どうだ!オレって先鋭的だろ。なんて自己主張からは対極にあると言っていいと思う
ベートーヴェンの没後90年経った時点でどれ程演奏スタイルの変化があったのか今となっては知る由もないが、最も作曲家に近い演奏として時代の空気感を想像するための良い資料であるのは間違い無いと思う
ただし演奏はとても素敵だけれど、機械吹き込み時代のSP盤を復刻したCDしか無いので音響的には少々の食い足りなさを感じてしまう
なのでこれをテキストにしてベートーヴェンの隣りに座って聞いている気分になるにはどのレコードが近しいか
ブタペストSQ アマデウスSQ スメタナSQ ズスケSQ ブッシュSQ バリリSQ A・ベルグSQ を纏めて聞いてみた
文句なしにバリリSQに相似点を一番多く感じた
自分はウィーン人でもなんでもないくせになんだか手前味噌の様で恥ずかしいのだけれど
W・バリリ O・シュトラッサーもウィーン音楽院の出身でヨゼフ・ベーム先生の直系の弟子になるのですね
ウィーン・フィルハーモニーに脈々と伝わる頑固なウィーン風の伝統はことある度に言われるが、室内楽ユニットであってもそのまま当てはまる様ですね
ただし大きな問題がある、バリリのレコードはバカ高いんだ、とても手が出ない
今回の記事を書くに至った動機は
クリングラーSQの演奏がベートヴェンの生きた時代の演奏法の継続であろうに、学究的でなくリリカルでロマンチックであった事と
このクルレンツィスの演奏を聴いて、前世紀の古楽演奏の基本理念とされた「作曲された当時の演奏スタイルに回帰する」を離れて「最先端の新解釈による古典派、ロマン派の新たな演奏スタイルの構築」に移っているんだなと感じた事によります
まあ、そりゃそうなるわね
どんなに正しいと主張したって、演奏家自身も含めて誰も正否を検証できないんだから
結局は演奏家個々の到達した解釈によって演奏するしか無いじゃない
その意味でもクリングラーSQの伝統に則ったと伝わるCDを聴けたことは、私自身にとって一つの指標となる貴重な体験でした
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没年は幕末の文政年間
むかーしのえらい音楽家先生 音楽室の壁に難しい顔をした肖像画がかかっている事で有名
Joseph Böhm (1795-1876) 澳 ヴァイオリニスト 音楽教師
没年は明治の中頃
ベートーヴェンの音楽仲間 弦楽四重奏曲 第12番の初演時(正確には1ヶ月後の2回目)のメンバー
交響曲 第9番の初演時にもオーケストラに加わっていた
ウィーン音楽院の初代学長 弟子にヨーゼフ・ヨアヒム他 多数
Joseph Joachim (1831-1907) 洪 ヴァイオリニスト 音楽教師
没年は明治末
ブラームスのお友達、後にちょっとケンカする。でも仲直り。ヴァイオリン協奏曲の初演者
ベルリン高等音楽学校の校長 弟子にカール・クリングラー他 多数
Karl Klingler (1879-1971) 独 ヴァイオリニスト
亡くなったのは・・・つい先日だ、長生きだったねえ
ヨアヒム・カルテットのヴィオラ奏者
後に「クリングラー・カルテット」を結成
1911年(ベートーヴェンの没後84年)にOp 18-5を録音する
そのクリングラー・カルテットの1911年録音が収録されたCD
子供の頃のイメージだとベートーヴェンなんてはるか昔の偉人の印象だったけれど、年表に落としてみると結構最近の人なのね
上記ヨゼフ・ベームさんはベートーヴェンの生前に一緒に演奏をやって本人からOKを貰っていたのだから
「作曲された当時の演奏スタイル」で正しいかどうかの議論なくズバリ!の人だよねえ
で、ベームの弟子のヨアヒムと一緒にカルテットを演奏していたクリングラーは、孫弟子に当たるのだけどプロの演奏家としては一世代だけ下なので周りの先輩や音楽関係者、もしかしたら下宿のおばちゃんとかベートヴェンその人と親交があったり触れ合った人がまだまだ沢山残っていた時代である
そのクリングラーはつい先日まで生きていたのだ
ノリントンの録音が1987年だから、あと15年ほど長生きしてくれていたらどんな感想だったか聞いてみたかった
(勿論プロの演奏家が他のプロに対して自己の意見を言う訳はないので、コッソリ耳打ちで)
と言う事で、CDを聞いてみました
端正で清涼感のある凛々しい演奏です
ウィーン風というのかポルタメントのチャーミングな面とインテンポの追い込みの対比がとてもはっきりしている
際立って感情的に歌い上げるのではなく、だからと言って即物主義に徹した機械的なんてとんでもない
勿論アゴーギグやデュナーミクを殊更強調して、どうだ!オレって先鋭的だろ。なんて自己主張からは対極にあると言っていいと思う
ベートーヴェンの没後90年経った時点でどれ程演奏スタイルの変化があったのか今となっては知る由もないが、最も作曲家に近い演奏として時代の空気感を想像するための良い資料であるのは間違い無いと思う
ただし演奏はとても素敵だけれど、機械吹き込み時代のSP盤を復刻したCDしか無いので音響的には少々の食い足りなさを感じてしまう
なのでこれをテキストにしてベートーヴェンの隣りに座って聞いている気分になるにはどのレコードが近しいか
ブタペストSQ アマデウスSQ スメタナSQ ズスケSQ ブッシュSQ バリリSQ A・ベルグSQ を纏めて聞いてみた
文句なしにバリリSQに相似点を一番多く感じた
自分はウィーン人でもなんでもないくせになんだか手前味噌の様で恥ずかしいのだけれど
W・バリリ O・シュトラッサーもウィーン音楽院の出身でヨゼフ・ベーム先生の直系の弟子になるのですね
ウィーン・フィルハーモニーに脈々と伝わる頑固なウィーン風の伝統はことある度に言われるが、室内楽ユニットであってもそのまま当てはまる様ですね
ただし大きな問題がある、バリリのレコードはバカ高いんだ、とても手が出ない
今回の記事を書くに至った動機は
クリングラーSQの演奏がベートヴェンの生きた時代の演奏法の継続であろうに、学究的でなくリリカルでロマンチックであった事と
このクルレンツィスの演奏を聴いて、前世紀の古楽演奏の基本理念とされた「作曲された当時の演奏スタイルに回帰する」を離れて「最先端の新解釈による古典派、ロマン派の新たな演奏スタイルの構築」に移っているんだなと感じた事によります
まあ、そりゃそうなるわね
どんなに正しいと主張したって、演奏家自身も含めて誰も正否を検証できないんだから
結局は演奏家個々の到達した解釈によって演奏するしか無いじゃない
その意味でもクリングラーSQの伝統に則ったと伝わるCDを聴けたことは、私自身にとって一つの指標となる貴重な体験でした
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オリジナル楽器による時代考証された「最新の演奏」ってどゆこと?
オーディオやレコードよりも生演奏に軸足を置いている友人は言った
「現在の東京(日本)では、時代のカッティングエッジである最新の解釈によるクラシック演奏が頻繁に行われている
これを聴かずして、古の手垢にまみれた演奏ばかり聞いているとは何事ぞ」
ヘェ〜そうなんだ
あたしゃあ最新のAMGよりも55年のガルウィングの方が好きなんだよね、買えないけどねどっちも。としか答えようがありませんでしたが、
クラシックの演奏に対して「現代的」「先鋭的」という言葉は果たして肯定的に用いられる物なのでしょうか?
「感動的」とか「理想的」なら分かるんですけれどね
「先鋭的だけど凡庸」な演奏を「現代的」だからと言うだけで評価するのはいかがなものか?と思っておるのです
ピリオド楽器を用いて、ピッチやテンポの課題を学究的に見直しノンヴィブラート奏法などを駆使し、作曲された当時の演奏スタイルに迫ったとされる古楽演奏家たちの活動は1950年代には世に出ていた様ですが、オーディオ界が1957年にステレオに移行すると共に古楽演奏はクラシック界の大きな潮流の一つになりました
1940年代の前半にAEG-Telefunkeはマグネットフォンの2トラック化に成功しており大戦下で既にステレオ録音が存在して幾つかはCDで聞くことが出来ます
しかし、戦争は激化してドイツは押し込まれ、ステレオの実験どころでは無くなりました
AEG-Telefunken 1945年の資料によると
AEG のエンジニアは急速にシステムを完成させ、1943 年までに実用的なステレオ レコーダーを完成させました。1945 年まで、リヒャルト シュトラウスとフルトヴェングラーを含む約 250 のステレオ テープ録音が存在することが知られていました。生き残ったのは3巻だけ
フルトヴェングラー のも当然あったんですね(第一人者だもんね)戦争で行方不明か燃えたか・・・戦争のバカ
戦後になるとTelefunken傘下のNeumannはステレオの録音、編集、カッティング設備を完成させていましたが早期の普及に一抹の不安がありました
そんな折、同じくTeklefunken傘下のDGGは中部ヨーロッパのルネサンス期や前バロック期の無名曲を音楽鑑賞用というよりは、資料として録音したいと考えていましたがその様なマイナー楽曲では経営的には実現不可能に思えたのです
そこに目を付けたのが商魂たくましい(失礼)Neumannでした
普及段階の家庭用ステレオ装置では大編成の交響曲では音を持て余します。そこで・・・
そうだ!
トリオソナタや宮廷の室内楽ならステレオ効果が分かり易いし、チェンバロやリュートの澄んだひっかき音は高音特性の優秀な最新レコードにピッタリじゃないか、と
よしよし、DGGの古楽レーベルに投資して録音させればステレオのデモレコードとして売上に貢献できるぞ ウッシッシ
かくして、DGGは古楽専門レーベル「Arciv」(=アルヒーフ=英語で「Archives」アーカイブス=記録・保管所の意)を誕生させるのです (初期にはモノラル録音も僅か存在する)
このレーベルはDGGの予想(きっと売れないよな)とNeumannの思惑(ステレオのデモになると良いな)も見事に裏切りビックビジネスになりました
その成功はレコード一枚一枚に、曲や録音の詳細なカルテを添付するなど学究的な姿勢を貫いたのも立派ですが、バロック以前の音楽の素晴らしさやリヒター を始めとする演奏家陣による格調高い演奏、そしてNeumannの録音機材の優秀さまで三拍子、五拍子揃った名盤揃いだったからに他なりません
さて、Arcivの成功はあまり世に出ていなかった古楽奏者達のその後にも大きな影響を与えました
G・レオンハルト クイケン兄弟 N・アーノンクール F ・ブリュッヘンなどなどスターが出て、ハルモニア・ムンディ セオン アストレーなどなど古楽専門レーベルも雨後の筍の様に生まれました
おかげで、それまでの日本では名前すら聞いたこともなかった作曲家も含む数多くの素晴らしい曲が紹介されました
さて、ここまでは良いんです、問題なしです
ところがある時 「え?」 ということが起こりました
左 1987年 録音 R ノリントンによるベートーベンの交響曲
右 1994年 録音 E ガーディナーによるもの
ノリントン盤は国内プレスでライナーノーツは平野昭さんと言う方が執筆されています
モダン・オーケストラの対比としてオリジナル・オーケストラが出たときの衝撃・・・
新たな解釈、別の意味を持たせた解釈、衝撃的な解釈・・・と解釈の連打
モダン・オーケストラの様な粘着質な感情的表現で無く、即物主義的姿勢
とあるが
残念ながら一曲を通して聴いたときの充実感という意味では自分の心の琴線には響かなかった
というだけで無く
セル シューリヒト クライバーらの演奏は令和の今聴いてもより先鋭的で際立った解釈を見せる箇所も多々ある様に感じるし、曲の全体像をガッツリ掌握して提示する力が往年の名手たちに遠く及ばないのではないかと言う印象だけが残ってしまった
しかも、ライナーによると「一世代前の1983年録音のホグウッドも大層な衝撃だったが、4年違いのノリントンはさらに大きな衝撃だ!」とあるが7年後のガーディナーから見るとノリントンの演奏も随分とのんびりに聞こえる
僕がいつも言っている「今日の最先端は明日には当たり前の普通」であって、3周くらい回ってまた先頭に立たされたのか?往年の巨匠の中によりエッジーな演奏を見つけるが、時代とはそんなものだろう
その後
BBC制作の映像作品「エロイカ」の劇中で使われていたガーディナーの指揮とされる演奏には非常に感銘と言うか衝撃を受けた
けれど、けれど
その演奏が素晴らしいと思ったのでDVDと別に同じガーディナーのCD全集も買ってみた(写真 右)
これが劇中の演奏とは別テイクとの事で、DVDほどの感銘は受けなかった
・・・結局 その演奏の個別の優劣の問題なんじゃね? と、悪魔はしごく当たり前のことを耳元で囁くのだった
続く
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「現在の東京(日本)では、時代のカッティングエッジである最新の解釈によるクラシック演奏が頻繁に行われている
これを聴かずして、古の手垢にまみれた演奏ばかり聞いているとは何事ぞ」
ヘェ〜そうなんだ
あたしゃあ最新のAMGよりも55年のガルウィングの方が好きなんだよね、買えないけどねどっちも。としか答えようがありませんでしたが、
クラシックの演奏に対して「現代的」「先鋭的」という言葉は果たして肯定的に用いられる物なのでしょうか?
「感動的」とか「理想的」なら分かるんですけれどね
「先鋭的だけど凡庸」な演奏を「現代的」だからと言うだけで評価するのはいかがなものか?と思っておるのです
ピリオド楽器を用いて、ピッチやテンポの課題を学究的に見直しノンヴィブラート奏法などを駆使し、作曲された当時の演奏スタイルに迫ったとされる古楽演奏家たちの活動は1950年代には世に出ていた様ですが、オーディオ界が1957年にステレオに移行すると共に古楽演奏はクラシック界の大きな潮流の一つになりました
1940年代の前半にAEG-Telefunkeはマグネットフォンの2トラック化に成功しており大戦下で既にステレオ録音が存在して幾つかはCDで聞くことが出来ます
しかし、戦争は激化してドイツは押し込まれ、ステレオの実験どころでは無くなりました
AEG-Telefunken 1945年の資料によると
AEG のエンジニアは急速にシステムを完成させ、1943 年までに実用的なステレオ レコーダーを完成させました。1945 年まで、リヒャルト シュトラウスとフルトヴェングラーを含む約 250 のステレオ テープ録音が存在することが知られていました。生き残ったのは3巻だけ
フルトヴェングラー のも当然あったんですね(第一人者だもんね)戦争で行方不明か燃えたか・・・戦争のバカ
戦後になるとTelefunken傘下のNeumannはステレオの録音、編集、カッティング設備を完成させていましたが早期の普及に一抹の不安がありました
そんな折、同じくTeklefunken傘下のDGGは中部ヨーロッパのルネサンス期や前バロック期の無名曲を音楽鑑賞用というよりは、資料として録音したいと考えていましたがその様なマイナー楽曲では経営的には実現不可能に思えたのです
そこに目を付けたのが商魂たくましい(失礼)Neumannでした
普及段階の家庭用ステレオ装置では大編成の交響曲では音を持て余します。そこで・・・
そうだ!
トリオソナタや宮廷の室内楽ならステレオ効果が分かり易いし、チェンバロやリュートの澄んだひっかき音は高音特性の優秀な最新レコードにピッタリじゃないか、と
よしよし、DGGの古楽レーベルに投資して録音させればステレオのデモレコードとして売上に貢献できるぞ ウッシッシ
かくして、DGGは古楽専門レーベル「Arciv」(=アルヒーフ=英語で「Archives」アーカイブス=記録・保管所の意)を誕生させるのです (初期にはモノラル録音も僅か存在する)
このレーベルはDGGの予想(きっと売れないよな)とNeumannの思惑(ステレオのデモになると良いな)も見事に裏切りビックビジネスになりました
その成功はレコード一枚一枚に、曲や録音の詳細なカルテを添付するなど学究的な姿勢を貫いたのも立派ですが、バロック以前の音楽の素晴らしさやリヒター を始めとする演奏家陣による格調高い演奏、そしてNeumannの録音機材の優秀さまで三拍子、五拍子揃った名盤揃いだったからに他なりません
さて、Arcivの成功はあまり世に出ていなかった古楽奏者達のその後にも大きな影響を与えました
G・レオンハルト クイケン兄弟 N・アーノンクール F ・ブリュッヘンなどなどスターが出て、ハルモニア・ムンディ セオン アストレーなどなど古楽専門レーベルも雨後の筍の様に生まれました
おかげで、それまでの日本では名前すら聞いたこともなかった作曲家も含む数多くの素晴らしい曲が紹介されました
さて、ここまでは良いんです、問題なしです
ところがある時 「え?」 ということが起こりました
左 1987年 録音 R ノリントンによるベートーベンの交響曲
右 1994年 録音 E ガーディナーによるもの
ノリントン盤は国内プレスでライナーノーツは平野昭さんと言う方が執筆されています
モダン・オーケストラの対比としてオリジナル・オーケストラが出たときの衝撃・・・
新たな解釈、別の意味を持たせた解釈、衝撃的な解釈・・・と解釈の連打
モダン・オーケストラの様な粘着質な感情的表現で無く、即物主義的姿勢
とあるが
残念ながら一曲を通して聴いたときの充実感という意味では自分の心の琴線には響かなかった
というだけで無く
セル シューリヒト クライバーらの演奏は令和の今聴いてもより先鋭的で際立った解釈を見せる箇所も多々ある様に感じるし、曲の全体像をガッツリ掌握して提示する力が往年の名手たちに遠く及ばないのではないかと言う印象だけが残ってしまった
しかも、ライナーによると「一世代前の1983年録音のホグウッドも大層な衝撃だったが、4年違いのノリントンはさらに大きな衝撃だ!」とあるが7年後のガーディナーから見るとノリントンの演奏も随分とのんびりに聞こえる
僕がいつも言っている「今日の最先端は明日には当たり前の普通」であって、3周くらい回ってまた先頭に立たされたのか?往年の巨匠の中によりエッジーな演奏を見つけるが、時代とはそんなものだろう
その後
BBC制作の映像作品「エロイカ」の劇中で使われていたガーディナーの指揮とされる演奏には非常に感銘と言うか衝撃を受けた
けれど、けれど
その演奏が素晴らしいと思ったのでDVDと別に同じガーディナーのCD全集も買ってみた(写真 右)
これが劇中の演奏とは別テイクとの事で、DVDほどの感銘は受けなかった
・・・結局 その演奏の個別の優劣の問題なんじゃね? と、悪魔はしごく当たり前のことを耳元で囁くのだった
続く
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