瑞泉学徒隊の過酷な戦場 65人、22年ぶり追体験 - 琉球新報デジタル

瑞泉学徒隊の過酷な戦場 65人、22年ぶり追体験


この記事を書いた人 志良堂 仁
学徒たちがたどり着いた米須の壕を見学する「瑞泉学徒隊配属の62師団石5325部隊野戦病院壕を巡る追体験の旅」の参加者ら=20日、糸満市米須

 沖縄戦で日本軍に従軍した旧県立首里高等女学校の生徒(瑞泉学徒隊)の足跡をたどろうと「瑞泉学徒隊配属の62師団石5325部隊野戦病院壕を巡る追体験の旅」が20日、22年ぶりに行われた。「ずゐせんの塔慰霊祭サポートの会」が瑞泉同窓会の要望に応え実施した。同窓会や遺族会メンバー、ガイド団体、関心がある県民ら65人が参加。看護要員として戦場に駆り出された少女たちの過酷な戦争体験を学んだ。

 学徒隊の足跡をなぞるように、那覇市首里の学校跡地、浦添市の安波茶の壕と仲間の壕、南風原町新川の第62師団野戦病院壕(ナゲーラ壕)、那覇市識名の壕、糸満市の武富の壕跡地、米須壕を巡った。

 ナゲーラ壕では1945年3月27日、入口前の広場で卒業式が開かれた。数日後には米軍が上陸、すぐに負傷兵が運ばれるようになったという。元学徒の宮城幸子さん(89)は「手当は手足の切断が多かった。最初は怖がっていたが、慣れるとチリを捨てるように手足を捨てた」と振り返った。撤退で多くの友人を亡くしたことに触れて「61人中33人が戦死したが、戦後、遺骨を見つけられたのは1人だけ。戦争の悲惨な現場が脳裏に、命にこびりついている。子や孫に戦争を体験させてはいけない」と決意を語った。

 糸満市の米須壕は、激しさを増す戦火の中、撤退を続けた一部の学徒たちが最後にたどり着いた場所だ。住民を追い出す形で日本軍が入ったという。ガイドを務めたサポートの会参与の大浜優さん(69)は「中に千人もいたという大きく長い壕だが、この壕に関する資料や記録はほとんどない。ここの壕は絶対に残さないといけない」と話し、調査保存を求める活動に協力を呼び掛けた。

 同会の山内俊光会長(84)は5歳年上の姉シズさんを亡くした。「ほとんどの学徒が南部に撤退する中で戦死した。日本軍が首里で降参しなかったのが悔やまれる。改めて大変な状態だったんだと思った」と感想を話した。同窓会の新元貞子会長(90)は「71年もたつと記憶も社会の状況も百八十度変わってしまう。これからも瑞泉(学徒隊)を忘れないでいてほしい」とあいさつした。