「正法眼蔵」勉強してます
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正法眼蔵 仏向上事 5

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。日常生活における普通の会話を考えてみるならば、聞くとか聞かないと言う言葉にこだわる必要は少しもない。ごく自然に話をしごく自然に人の話を聞くという状態であって、聞くとか聞かないと言う事にこだわっているものではない。

普通の日常会話は聞くとか聞かないとかと言う言葉で区別をしてその事を問題にするような必要は全くない。自分が話をしていて人の話を聞かないところにも、ものを話している僧侶そのものがいるのであり、また人の話を聞かずに自分が話をしているところにもその僧侶が現に存在しているのである。

人を相手にしているとか、自分自身で一人で話しているとかという区別で問題を考える必要はなくて、もっと具体的な、ごく自然な、普通の会話であり、言葉で表す事の出来ない何かと言う面倒な理論は日常の会話については不要な事であるし、そういうものは不要だと事新しく決め付ける必要もない。

ごく自然に僧侶が話をしている時はその人は他の人の話を聞いていないと言うだけの事である。そして僧侶が話をしているときには、人の話しを聞いていないという言葉の意味がどう言うものであるかを考えて見ると、話というものは、舌、耳、眼、体、心と言う具体的なものを通して行われるのであるから、

舌に束縛されて僧侶が具体的な話をしていると言う事であり、人に話している場合、耳においては人の話を聞いていない状態であり、人に見詰められながら自分が話をして人の話を聞いていないという状態があり、

自分の体、自分の心、相手の体、相手の心というものがあって初めて、自分が話をし、人の話を聞いていないという状態があるし、相手もまた、相手の話をして、その間はこちらの話が聞こえていないと言う、お互いのごく自然な日常会話が行われているのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
おこがましいんですけれど私は物質的環境にも余裕があり、自分は恵まれていると言う感じをいつも持ってるんです。先生のお話を伺っていますと名誉や利得と無関係にと言われますが、生活の経済的な面がある程度のレベルになければ、やはりこういう問題に眼が向いてこないのではないでしょか。

先生
その点では、お金儲けをしてはいかんと言う事ではないんですよ。ただお金儲けが問題にならない様な生き方と言う事を言うわけです。

だから経済的に恵まれているから仏道修行ができるとか、経済的に恵まれていないから仏道修行ができないと言う事ではなしに、そういう世俗的な目標に対してどうしても執着があって離れられない人と、離れる事のできる人との違いは経済的な事情がどうこうと言う事とは別の問題だと思います。

ある程度は関係があるかもしれないけれども、切り離して考える事ができると思います。とにかくそういう経済的な問題、名誉と言うふうな問題を超越できた人を「高貴な人」と言うんですよ。これは「正法眼蔵」に出て来る見方です。

「正法眼蔵」一顆明珠の巻の中で、玄沙師備禅師に関連して、仏道を求める事は高貴な人間になる事と同じ意味だと出てきます。名誉や利得を超越すると言う事は中々高貴な事ですよ。そういう高貴な人が初めて仏道修行ができるんですね。

だから、社会的な地位がどうこうとか、金があるとかないとかと言う事と関係なしに、そういう高貴なものを求めるか求めないかと言う事が仏道修行に関連してはある、とこう言う事が言えると思います。

だから沢木老師が「宿なし興道」と言う形で、寺院を持たずに一生を過ごされたと言う様な事も、そういう問題と関係あるんですね。寺院を持つとやはり高貴でいられなくなると言う心配があるわけです。必ずそうだとは言えないけれども、そういう心配があるという事と関係があったと思います。


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正法眼蔵 仏向上事 4

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

「仏向上事」というのは誰が見てもわかるようなものではないし、何もかも押し隠してしまって誰にも見せないというものでもない。人に常にありありと見せているものではないし、人の持っているものを自分のものにすると言う態度でもない。

それであればこそ、日常生活における普通の会話の中でごく普通のやり取りをしている時に「仏向上事」と言うものが現れてくるのである。

真実を得た人が真実と一体になった状態というものが具体的に現実に現れている時には、話をしている時にはその話をしている人は他の人の話を聞くとことがない。

話をしている時には話をしている時、人の話を聞く時には人の話を聞く時と言う事である。話をする事と人の話を聞く事とは別々と言うきわめて普通の状態と言うものが実際に具現しているのである。

僧侶が自分が話をしている時には人の話を聞いていないと言うごく普通の日常会話のあり方というものが極めて自然な真実を得た人の態度であって、そういう状態にある限り事新しく自分は真実を得ておりながらさらに真実と一体であると言う事を意識する必要もないし人に話す必要もない。

また事新しくそれを人に見せびらかすと言う必要もない。ごく普通の日常生活の会話の状況を見てみるならば、話す時は話す時、聞く時は聞く時であって、話す時に人の話を聞くとか人の話を聞いている時に同時に自分も話すと言う状態ではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今までの私の考え方ですと、宗教というのは自分の行為を縛ってしまうと感じていました。で、先生の正法眼蔵の勉強会にお邪魔するようになってそういう事があんまり感じられなかったものですから、まあ多少ましな人間になりたいと・・・。

いわゆる仏教というと、今まで私は何となく古くさいものだと感じがしていたわけですね。そういう事で、仏教というよりは仏道という気持ちで私は今まで来ていたわけなんですが、そういう考え方はどうなんでしょうか。

先生
そういう考え方がまさに仏道修行だということが言えると思います。ですから「多少ましになりたい」という気持ちが本当の事を知りたいという事なんですよ。

仏道というものと他の宗教との違いがどこにあるかと言いますと、大雑把に言いますと今日、三種類の宗教があるわけです。一つは神とか心とかというものを重点的に考えて、神や心が基準とい考え方が一つあるわけです。これが従来「宗教」と呼ばれてきたものの特徴になるわけです。

ただ今日ではもう一つ別の宗教があるわけです。それは神とか心とかというものがでたらめだという、こういう宗教がある。この世の中はすべて物で出来上がっているのだから、物を中心にして物を信ずることが正しいという宗教も今日あるわけです。

そういうふうな二つの宗教に対して仏教が何を主張したかというと、宇宙というものを基準にして問題を考え直すべきだという事を主張したわけです。

ですからそういう点では、仏教思想の基礎にはいわゆる宗教らしさというものが希薄なわけです。つまり神を大切にするとか、心を大切にするとかという考え方が仏教の中では説かれていない。

仏教の中で何が説かれているかというと、我々が生きているこの世界というものが物質的なものを基礎にはしているけれども、精神的な尊いものを同時に含んでいる。

我々はそういう世界の中に生きているんだから、我々が住んでいる世界、つまり法の世界を中心にして問題を考え直すべきだというのが釈尊の教えです。

だから釈尊の教えの主張の中には、いわゆる宗教に対する批判と反宗教に対する批判と両方があるわけです。釈尊が何を説かれたかというと、神を信じ心を信じるという事は人間にとって危険な面がある、人間を不幸にする面があるという事を主張されたわけです。

そうかといって神に背き心に背くという事も人間を不幸にする。その中間に立って我々がどういう世界に生きているかをよく勉強して、その世界の実態に即して生きていくべきだという事が釈尊の教えという事になる。

釈尊の心とか神を極端に重視することが人間の不幸につながるという教えのいい例が今日中近東にあるわけです。キリスト教的な考え方とイスラム教的な考え方とが対立してしまうと、我々の立場から見れば「どうしてあんな殺戮が行われるんだ」という疑問しか出てこないような事実が毎日のように地球の上で起こっているわけです。

何のために起こっているかと言えば宗教の違いです。お互いに「自分たちの神が絶対」という事を信じこんでいるから、そのためには自分達の神を信じない人々の人命を失わせてもいっこうに差し支えない、自分たちの神に背くような人間は殺すことの方が正しいんだ、という考え方をお互いに持ち合っているから中近東における様な問題が出てくる。

釈尊はその事実に気づかれたから、神とか心とかというものを極端に信じてそれに従っていくことが人間を決して幸福にしないという事を主張されたわけです。

そういう点では仏教というものの中には、いわゆる宗教的な雰囲気というものは割合少ないという事は言えるわけです。ただそういう主張の中にこの世の中の真実があるというのが仏教の主張であるし、我々の信仰があると、こういう事が言えると思います。


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正法眼蔵 仏向上事 3

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師が注釈されます。

今ここでいうところの「仏向上事」に関する言葉は洞山大師が初めて言われたところである。洞山大師以外の真実を得られた方々はいずれも、洞山悟本大師の言葉を学ぶ事によって真実を得た後もさらに、日常生活を通じて真実を求めていく事を具体的な日常生活の中で体得する事ができたのである。

まさに銘記すべきである。洞山大師の言われた「仏向上事」はその原因が過去にあって、自然にそういう結果が生まれてくるという事ではない。過去の行動が原因になって結果が出て来たという事でもない。

日常生活のごく普通の会話の中でも、自分が話している時には人の話が聞こえないと言うきわめて具体的な日常生活のあり方を体験を通してしっかりと掴み、そういう問題の究極に触れていくと言う事が大切なのである。

仏道修行者が真実と一体になって、しかも真実と一体となったまま日常生活を淡々と生きていく状況が分かって初めて「仏向上事」を体得した事になるのである。

日常生活の普通の会話を通してでなければ、真実を得た人がさらに真実と一体になって生きていくと言う状況は掴む事が出来ない。高遠な理論を述べていても「仏向上事」というのは分からない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は信仰は頭ですると言いましたね。その辺をもう少し詳しく教えてください。

先生
普通、宗教というものを考えますと心の問題、魂の問題と言う捉え方が一般的なんです。そうすると宗教を信じる事が宗教の一番の基本になるわけです。それからまた、願い事を叶えてもらう為に祈ると言う事もある。

だから、信じるとか、祈るとか、そういう心の働きが宗教の実態だという宗教観が普通の宗教(仏教以外の宗教)の宗教観です。ただ仏教では信じる事も重要視するけれども、信じるという事態をどういう形で示すかというと態度で示すという事。

人間がどう体を動かすかと言う事が宗教の実体という思想が仏教思想です。だから信じる事の事実は何によって確証できるかと言えば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばした状態でジッとしているという事が信じていると言う事の実態だという主張があるわけです。だからそういう修行がなしに信ずるという事だけで宗教が成り立つと言う思想と仏教思想とは少し違うわけです。

質問
信仰というと多分に感情的なものがある様な気がしますが・・・。

先生
うん、ですからそう言う宗教観もあるわけですよ。むしろそういう心の問題が一番大切という主張も普通の宗教ではほとんどがそうなんです。ただ仏教と言う信仰はそういう一般の宗教観と別の立場に立っているという事が言えると思います。

だから仏教が修行と言う事を非常に重要視するという事と関係があるわけです。「信ずる」という事が難しいんですよ。信ずるという事が誰でもできるかと言うと中々できない。

「自分は信じました、信じました」と言う事で、一所懸命自分の尻を叩いて「信じよう、信じよう」と思っても、信じられない場合はいくらでもあるわけです。ただ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている時には否応なしに、信じた状態と言うものが生まれてくる訳です。

だからそういう修行法のある方が宗教としてはやさしいという事が言えるわけです。信じようと信じまいと、とにかく足を組み、手を組み、背骨を伸ばせばそれまでだ、とこういう事になる。それが仏教思想の一つの特徴です。


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正法眼蔵 仏向上事 2

「仏向上事」の巻、本文に入ります。

中国の筠州という地方におられた高祖洞山悟本大師(洞山良价禅師)は、潭州という地方におられた雲厳曇晟禅師の直接の正当な後継者である。

釈尊以来三十八代の祖師方がいずれも真実を体得してその事をひけらかす事なく日常生活を淡々と送られた。洞山悟本大師はその三十八代目に当たる。また洞山悟本大師から代々の祖師方を数えて三十八代を数えると釈尊の代に到達する。

ある時、洞山悟本大師が説示されて言う。
真実を得た後もなおかつ日々淡々と生きていくという状態が体験としてわかった人に対しては、多少は話をしてみる価値がある。

僧問う。
話になると言っておられますが、その話になる話とは一体どういう事でしょうか。

洞山悟本大師言う。
話というのは普通の話で、話している時には自分が話しているのであるから人の話は耳に入らん、そういう状態の事でしかない。

僧問う。
普通の人は話をしている時には人の話が聞こえないかもしれませんが、和尚の様にすでに真実と一体になった方にとっては、話をしながら人の話も聞けると言う事があるんでしょうか。

洞山悟本大師言う。
わしの場合でも自分が話している時は人の話が聞こえないけれども、自分が話をやめた時にやっと人の話が聞こえるようになる。

※西嶋先生解説     
これはきわめて普通な事。これが「仏向上ノ事」と言われた。ごく普通の話に関連して、自分が話している時には人の話は聞こえない。自分が話すのを止めたらば人の話が聞こえてくる。そういうことを言われたわけであります。


 
          ―西嶋先生にある人が質問した― 
  -つづき   

質問
ちっちゃいところで囚われてゴチャゴチァやらないで、全体を見るという事で捉えていけばいいという事ですね。

先生
そういう事です。だから坐禅は何のためにやるかと言えば頭の中でゴチャゴチァ考えない事ですよ。坐禅の様な修行法がないと考えまいとしても考えるんですよ。朝から晩まで考えている。もっと勉強好きな人は寝ても考えている。

寝ても考えていると、「どうも昨夜はよく眠れなかった」という事になって、翌日の調子が悪いという事になるわけだけれども、人間の頭はクルクルと動き回って止まらんものなんです。

なぜ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておるかというと、体の姿を変えると脳細胞の動きが変わるんです。仏道の一つの中心はこの問題にあるわけです。

なぜ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておるかと言うならば、体をそういう状態に変えると頭の動きが変わるんです。クルクルと今まで回っていた頭の動きが止まるわけ。それが坐禅の意味だし仏道の世界に入るという事でもある。

そういう境地の中では論理的な矛盾というものを乗り越えてしまうわけです。頭の中で考えれば矛盾しているという事なんだけれども、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしておると矛盾している両方が本当だという事がわかってくる。

矛盾している考え方の両方が本当なんだなと捉えることが出来るようになることが、仏道の世界がわかってくるということの一つの現れです。そういう関係にあると思います。


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正法眼蔵 仏向上事 1

「仏向上事」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

「仏向上ノ事」というのはどういう事かというと、真実というものをつかまえた後も、やはり坐禅はしていかなければならんという事を言っておられるというふうにも理解する事ができます。

よく仏教の中では悟りというものを大切にして、悟るまでが修行で悟ったらもう修行の必要はないという考え方があるわけであります。そうすると悟るまでは夜も寝ないで、あるいはひもじい思いを我慢して一生懸命坐禅をやるけれども、

もう悟ったという事になると、後は酒を飲んで毎日のんびりしてても絶対に間違いはおこさんというふうな考え方もあるわけでありますが、仏教というのはそういう単純なものではないというのがこの「仏向上事」という巻の中に説かれている趣旨であります。

また別の言葉で「仏向上ノ事」というのを説明しますと、悟ったか悟らんか傍から見たんではよくわからない状態の方が本当に真実を得た人の様子だ、そういう意味も含んでいるわけであります。

仏教界には色々な方がおられるわけでヒョッと見た時点からすでに偉そうに見える人もいる。またご本人も偉そうに見える様にと非常に努力しておられる方もある。

そうするとかけておる絡子からして違う。金ピカで何百万、何千万としそうな絡子をかけて(笑)グッと胸を張って姿勢正しく出てくるわけで(笑)、そうすると「あ、この方は偉いな」というふうに思う人もあるかも知らんけれども、「はてな」という感じもある。

そういう点ではこの「仏向上事」という巻では、偉く見えるのは偉くない証拠だというふうな主張でもあるわけであります。真実を得た状態というのは決して偉く見えるものではない。

偉いか偉くないかさっぱりわからんような状態でただコツコツと日常生活をやっておられるような方が「仏向上ノ事」という状態に他ならないと言っておられるわけであります。

ですからその点では、常識的に偉く見えるというふうな事とは別な考え方であります。そのことが仏教思想の中でかなり大切だと、そういう事がこの「仏向上事」の巻の中では述べられておるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正法眼蔵」の中で、ある時はこういう事を言い、ある時は違った事を言っていながら、全体としては何か一つの流れを感じるんですが、矛盾した言葉の使い方というのはどういう・・・。

先生
「正法眼蔵」には矛盾した言葉が常に出てきます。なぜ矛盾した形で「法」が説かれているかというと、法そのもの現実そのものがそういう矛盾した要素を含んでいるんです。

頭の中で考えるとそういう矛盾は許さないわけですから、頭の中で考えた理論からするならばおかしいと言う事になるわけです。ただ現実そのものは矛盾しているもの。

それはどういう事かと言いますと、たとえば風邪をひいた場合に、ある場合には体を温かくして静かに寝ているのが一番という場合もある。そうかといってある場合には、「ま、風邪ぐらいにまけちゃいけない」と思って頑張る場合もある。

現実の生活としてはどっちもあるわけです。頭の中で考えるならば、「養生しなきゃだめだ」という事で、「寝ているに限る」という説もあると同時に「風邪なんかに負けちゃいけないから頑張らなきゃだめだ」という説もあって、現実の生活としては両方が正しいんですよ。

だからある場合には体を大事にし、ある場合には体に気をつけて日常生活に励むというふうな両方の生き方があるわけです。どっちも正しい、現実の中では。だから現実の世界は常に矛盾した要素を持っているわけです。そのことが仏道の世界を意味するわけです。

だから、仏道の世界が頭の中で考えられた世界と違うというのはそこになるわけです。「正法眼蔵」は繰り返し繰り返しその仏道の世界を説いておられるから、前に言われたこ事と後に言われた事とが頻繁に矛盾するわけです。

そういう矛盾する文章をずうっと何回も何回も読んでいく事によって、現実そのものがどんなものかという事を勉強していくわけです。現実そのものは矛盾した二つの原則を常にからませながら動いていくわけですから、そういうふうな捉え方が仏道と言っていいと思います。

「正法眼蔵」の中には頻繁に矛盾した文章が出てきます。その矛盾している文章の両方を読み取る事によって仏道の世界というものがわかってくると、こういう面があります。
                            
                            つづく--


最後までお読みいただきありがとうございます。

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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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