「手のひら」後編になります。
続きをどうぞ。
手のひら(後編)
けれど問題は、そんなことじゃなかったのだ。
結局優勝したのは青学だった。
全国大会のあと、3年生は引退し、俺は新しい部長に選ばれた。
新体制のテニス部に慣れるまで、少し時間がかかった。引退しても先輩たちは時々顔をだしてくれて、その中には柳さんの姿もあった。
あの日のことはなかったかのように、俺にも話しかけてくれる。前と同じように。
けれどどこか違和感があった。それは多分、一緒にテニスをしていないからだと、俺は思った。思うことにした。
だって柳さんがあんなけんかを──というより一方的に俺がすねたことを、いつまでも根に持つはずはないと思っていたから。
だから今までどおりに接し続けた。
多分、それでいいのだと思っていた。
今日までは。
海堂に会いに来ようと思ったのは、柳さんからやつの自主トレメニューを渡されてからしばらく経ってからだった。
なぜ突然柳さんがこんなものを俺にくれるのか分からなかった。
初めは、同じメニューをやれ、と暗黙のうちに示唆されているのかと思っていたが、どうやら違うらしい。だって、それなら、海堂のランニングコースと、ポイントごとの通過時間なんて、必要ないのだから。
ぐだぐだとそのメモをベッドの上で眺めること数日、ようやく重い腰を上げた。
どうせ理由が分からないのなら、考えるよりも行動した方が俺らしいと思った。
そんな経緯で、俺は今、海堂と夜の公園のベンチで並んで座っている。
「なあ、海堂」
とりあえず、聞いてみたいことがあった。
俺は俺のためにテニスをする。だって、勝つと気持ちいい。それに俺は強い。だから、勝つためにテニスをする。
「お前、何のためにテニスをしてる?」
海堂も即答だった。
「自分のためだ」
やっぱりそうじゃねぇか。
みんなそうだよな。
「何だ、同じじゃねぇか」
そう言ってクックッと笑うと、海堂は少し考えて、言った。
「そうか?」
「あ?」
「本当にそうか? 俺はそうは思えねぇ」
「何だよ、けんか売ってんのか? お前今、自分のためつったろーが。俺も俺のためにやってんだよ。勝つために」
「──勝つために、というのは否定しねぇ。負けりゃやっぱ悔しいからな。けど──」
まるで言葉を選ぶように、間を置いた。多分、言い辛いことでも考えたんだろう。そりゃ、俺だしな。お前に罵倒されてもおかしくないことしたからな。
そんなん今さら気にしねぇよ。
「お前は誇れるか? 自分自身を」
なんて、聞きやがった。誇れるか、ときたか。
「そんなの、考えたこともねーよ」
「──そうか」
海堂はまた、考え込む。
普段、あんまり喋らないやつなのかな、と思う。だからこうして、いちいち言葉を選んでいる。そんな面倒くさいことをしないで、思ったことを口にすりゃあいいのに。
「俺は」
ようやく口を開いた。
「誇りを持ちてぇ。人を傷つけたくない、とか、そういうことじゃなくて……そうせざるを得ない状況になっても、仕方なしにとかじゃなく、自分の意思で──ええと、つまり」
一息置いて、ようやく答えを出した。
「俺は、自分自身に胸を張るテニスをしてぇ」
少し、驚いた。
お前、俺のテニスを否定しているわけじゃないのか?
ていうか、それは。
「俺が言いたいのは、そういうことだ」
それはお前の意思なのか、海堂。
お前が一人でたどり着いた答えなのか?
──それとも──
顔を上げた海堂は、まっすぐに俺を見ていた。
さっきまで、射殺されそうだと感じていた眼差しは、気付けば真摯にさえ見えて、なぜか、悔しかった。
「先輩に引き戻されたとき、そう思ったんだ。少なくとも一人は──一人だけは、俺を信じてくれる人がいると分かったから」
信じてくれる人、と言った。
多分、ほんの数分前の俺なら、即座に切って捨てたはずだった。けれどできなかった。その代わり、なぜか笑いがこみ上げてきた。
ははははは。
思わずもれたそれに、海堂は怪訝な顔をする。けれど俺が頭を抱え込んで首を振ったから、自分が笑われているわけではないと思ったのか、今度は不審そうな顔をした。
『なあ、赤也。俺は間違っていたか?』
何の前触れもなく、涙があふれた。
ああ、そうか。
ようやく分かった。
あの人は──柳さんは、俺を信じていてくれていたのだ。
俺がどんな状態になろうと、どんなテニスをしようと、おれ自身を信じてくれていたのだ。
だから、俺に問うたのだ。
間違っていたか、と。
俺が暴れるに任せていたわけではなかった。俺が、間違いなく俺自身のテニスをしているのだと信じていてくれたからこそ、俺を止めなかった。
それを裏切ったのは俺だ。
俺はこう答えるべきだった。
『あんたも俺も間違ってない』
結果はどうであれ。
俺は信じてくれていたあの人を裏切った。
『どうせ間違っているのは俺なんだろ!』
と、自分自身を否定した。
その瞬間、崩れた。築き上げてきたものが。、あの人の信頼が。
何か言いかけて、口ごもり、寂しそうに視線をそらしたあの人の顔を今も忘れられない。
「切原──」
海堂、お前は一線を越えなかった。それはダブルスのパートナーのためであって、けれど、何より自分自身のためであって。
突然泣き出した俺に驚いて、海堂は目を丸くした。けれどすぐにそれは困ったような顔になり、しばらく何事か考えるような仕草をしていたが、やがておずおずと手が差し伸べられた。
俺のコンプレックスの塊でもある頭を、そっと撫でる。
お前のクセ一つないさらさらの髪の毛は、さぞかし手触りがいいに違いない。正反対の俺の髪を、お前はどんな気持ちで撫でてるんだよ。
ふざけんな。
そう思ったけど、口には出さなかった。
それが強がりだと気付いてしまったから。
精一杯の虚勢だと気付いてしまったから。
つーか、同い年の男の頭なんて撫でたりするか、普通。
ああそうか、弟がいるんだったよな。これも柳さんのデータで知っている。
何だよ、お前は俺を弟扱いかよ。
マムシなんて呼ばれているくせに、何でそんなに優しいんだよ。
ゆっくりと、柔らかく。テニスのスタイルからも、見た目からも想像できない温かさをその手のひらから感じる。
お前、本当に海堂か?
そんな風に考えていないと、すがってしまいそうだった。
──柳さん、俺は、またあんたの信頼を得られるだろうか。
また再び、俺を信じてくれるだろうか。
今度こそ裏切らないから。
俺も、俺自身の、俺に恥じないテニスをする。それが海堂とは相容れないテニスだとしても。
データは嘘をつかない、と言ったのは柳さんだったか、その幼馴染みだったか。もうどちらでもいいけれど。
今俺がここにいるのは、そのデータのおかげだ。自主トレに励む海堂の夜ランの正確な時間とコースを教えてくれたのは柳さんだったのだから。
俺が海堂と対峙して、泣き出すところはデータにあったのだろうか? あの人のことだ、もしかしたらそれも読んでいたいたのかもしれない。
俺が海堂と話すことで、今まで逃げてきた答えを出すことを、あの人は知っていたのだろうか。そしてそれを望んでいたのだろうか。
もしそうなら──
あんたはやっぱりすごい人だ、柳さん。
けれど。
海堂が俺を慰めるように頭を撫でる。
こんなデータはあったのか?
そしてこの手を心地よいと感じていることは?
俺はぐっとこらえるようにして海堂を見た。涙はまだ止まらない。当分止まりそうになかった。
海堂はぴたりと手を止めて、ぼろぼろと涙をこぼしながら自分を見つめる俺の視線を受け止めながら、その手で頭を撫でるのを続けるべきか、もういい加減引っ込めるべきか躊躇しているように見えた。
俺はその手をつかむ。
ぎょっとしたような顔をした海堂は、思わず手を引っ込めようとした。けれど俺はそれをさせなかった。
この手は俺のものだ。
そう思った。
だから思い切り引き寄せた。
もっと撫でてくれよ。せめて俺が泣き止むまで。
なあ、柳さん。さすがにこれは、データになかっただろう?
了
お疲れ様でした。後編終了で、完結です。
柳赤でも、乾海でもないですよ。赤海ですよ。
二人とも先輩大好きで、尊敬してるだけですよ。
もちろん先輩二人もかわいい後輩だと思ってるだけですよ。
……て、説明しなきゃいけないんじゃ、駄目ですね。未熟ですみません。
赤也はかわいいです。
テニスしてない、普段の無邪気さがたまらなく。先輩先輩、ってなついている感じが、もう。
だからとりあえず、好きな子同士を組み合わせてみました。
実は海堂目線の続きがあるのですが、それは後日。