勘三郎丈本葬弔辞3
消えてしまうのが惜しくてUPさせていただきます。長くて一度には載せられませんでした。
歌舞伎俳優・中村勘三郎さん(享年57)の本葬が27日、東京・築地本願寺で営まれ、歌舞伎俳優・坂東三津五郎(56)が3人目の弔辞を読み上げた。
■坂東三津五郎弔辞
(勘三郎さんの本名の)哲明さん。哲ちゃん。あなたの祭壇の前で、私が弔辞を述べるなどというこの光景は、誰が想像したでしょう。いまだに芝居か映画の1コマのようで、まったく現実感がありません。
君は僕の半年前に生まれ、気づいたら僕の前を歩いていました。小学2年生のときに、白浪五人男で初めて共演した時には、あなたはもう天才少年、勘九郎坊やとして人気でした。その後も、君はずっと僕の前を歩き続け、僕は、あなたに遅れまいと、離されまいと、必死に走り続けてきました。だから、いまの僕があるのはまったく君のお陰で、心から深く感謝しています。
小さい頃から仲良くしてもらい、いたずら好きの君と一緒に歌舞伎座の機関室でドライアイスを手に入れて、成駒屋のおじさんがお風呂にお入りになる前に入れてしまい、こっぴどく怒られたこと。
高校時代、お城好きの僕が、城巡りの旅をしたときに、「僕も一緒に連れて行ってくれ」というので夜行列車に乗って金沢に行き、福井の丸岡城を周って、京都に寄って都踊りを観ていく、2人っきりの旅行もしました。
信じられないことにあのころの君は、「三津五郎の本名)寿ちゃん僕はねぇ、お酒の席でお酌をするような女性は嫌いなんだよ」という清純派でした。それが、都踊りの舞台の上から、ある芸姑さんにウインクをされてから一変。「ねぇ寿ちゃん。なんであの人僕達にウインクしたんだろう?」『ただの気まぐれかいたずら心じゃないかな』「でもさ、気にならなければあんなことしないよね。だって、ウインクだよ!ウインク!」と、10分おきに起こされて、眠れなかったことも懐かしい思い出です。
あの頃は若く、毎日のように会っては、いろんな夢を語り合った。だけど20代のころは僕達にはなかなか活動の場が与えられず、君は当時の社長に掛けあってくれて、開演前の8時30分から、寺子屋を勉強させてもらったことがありました。叔父さんがまだお元気で、小日向のお宅で一生懸命けいこをしてくださいました。
僕達の世代で歌舞伎座を開けたいという思いを叶えたのが納涼歌舞伎。その第1回の千秋楽で客席を見上げると3階までいっぱいのお客様。思わず目頭が熱くなり、手を取り合って喜んだことを今でも覚えています。その後、納涼歌舞伎は看板公演の1つとなり、古典の大役から野田(秀樹)さんや(渡辺)えりさんの新作までさまざまな芝居を勉強させてもらいました。
これもひとえに、君の発案と企画、行動力で、みんなを強力に引っ張っていってくれたからだと感謝しています。その納涼歌舞伎も、歌舞伎閉場にともない、しばらくお休みとなり、実はこの2年半は、2人の共演が一番少ない時期でした。
その間、君は1つの病を克服し、迎えた2月の勘九郎襲名公演で君がこれまで蓄えてきた芸が底光りするような、あまりにも素晴らしい出来だったので、『今度のは素晴らしい、恐れいった』というと、君は照れ笑いしていたけれど、明らかにまた1つ高い芸境へ進んだことが分かり、さらに、追いかけなくちゃと思っていた矢先でした。
長い付き合いでしたが、性格があまりに違いすぎたせいか、ケンカをしたことがありません。芝居も踊りも持ち味が違い、20代から8回も演じた棒縛。はじめの頃は、お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだと、諸先輩から諸注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。
それが、お互いに40を超えた7回目の上演のとき、「やっと先輩たちの言っていた境地の入り口に立てた気がするね」と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。
いつかはやろうと言っていたものが、もう一緒にやることができないと思うと、言いようのない悲しみと寂しさで、心に大きな穴が開き、生きる楽しみがなくなっちゃったみたいです。
(涙声で)いまでも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い。いたずらっぽい、あの目の表情。躍動する体が蘇ってきます。肉体の芸術ってつらいね…。そのすべてが消えちゃうんだもの。本当に寂しい…、つらいよ…。でも、その僕のつらさより、もっと、もっとつらい思いをして、君は病と闘ったんだよね。苦しかったろう…、つらかったろう…。いま、少しでも楽になれたのだとしたら、それだけが救いです。
そんな大変な手術をするのに、僕が初めて挑戦した一人芝居を気遣ってくれて、「観に行けないけれど場所を頑張ってね」と、メールをくれた君の優しさが、残された文字を見る度に胸に突き刺さります。
君がいてくれたおかげで、この56年間、本当に楽しかった。ありがとうね、哲明。君は交友関係も広く、活動の場も広かったから、さまざまな人の心に、さまざまな思いを残したと思うけど、僕は50年間一緒に芸を勉強し続けた友人として、不屈の信念で体に宿った魂。人の何倍もの努力によって培った芸のすごみで、誰にもマネのできぬ芸の境地に立った歌舞伎役者だったことを、伝え続けたいと思います。
君のマネはできないし、やり方は違うかもしれないけれど、(勘九郎の本名)雅行くん、(七之助の本名)隆行くん、七緒八(なおや)くんと一緒にこれからの歌舞伎をしっかり守り、戦い続けることを誓います。
これで、しばらくは一緒にやれなくなったけれど、僕がそちらに行ったら、また、一緒に踊ってください。そのときのために、また、けいこしておきます。
最後に、僕達同世代の役者。また、君に続く、後輩たちを代表して、この言葉を捧げます。中村勘三郎さん、波野哲明さん、きょうまで本当に、本当に、ありがとうございました。
■坂東三津五郎弔辞
(勘三郎さんの本名の)哲明さん。哲ちゃん。あなたの祭壇の前で、私が弔辞を述べるなどというこの光景は、誰が想像したでしょう。いまだに芝居か映画の1コマのようで、まったく現実感がありません。
君は僕の半年前に生まれ、気づいたら僕の前を歩いていました。小学2年生のときに、白浪五人男で初めて共演した時には、あなたはもう天才少年、勘九郎坊やとして人気でした。その後も、君はずっと僕の前を歩き続け、僕は、あなたに遅れまいと、離されまいと、必死に走り続けてきました。だから、いまの僕があるのはまったく君のお陰で、心から深く感謝しています。
小さい頃から仲良くしてもらい、いたずら好きの君と一緒に歌舞伎座の機関室でドライアイスを手に入れて、成駒屋のおじさんがお風呂にお入りになる前に入れてしまい、こっぴどく怒られたこと。
高校時代、お城好きの僕が、城巡りの旅をしたときに、「僕も一緒に連れて行ってくれ」というので夜行列車に乗って金沢に行き、福井の丸岡城を周って、京都に寄って都踊りを観ていく、2人っきりの旅行もしました。
信じられないことにあのころの君は、「三津五郎の本名)寿ちゃん僕はねぇ、お酒の席でお酌をするような女性は嫌いなんだよ」という清純派でした。それが、都踊りの舞台の上から、ある芸姑さんにウインクをされてから一変。「ねぇ寿ちゃん。なんであの人僕達にウインクしたんだろう?」『ただの気まぐれかいたずら心じゃないかな』「でもさ、気にならなければあんなことしないよね。だって、ウインクだよ!ウインク!」と、10分おきに起こされて、眠れなかったことも懐かしい思い出です。
あの頃は若く、毎日のように会っては、いろんな夢を語り合った。だけど20代のころは僕達にはなかなか活動の場が与えられず、君は当時の社長に掛けあってくれて、開演前の8時30分から、寺子屋を勉強させてもらったことがありました。叔父さんがまだお元気で、小日向のお宅で一生懸命けいこをしてくださいました。
僕達の世代で歌舞伎座を開けたいという思いを叶えたのが納涼歌舞伎。その第1回の千秋楽で客席を見上げると3階までいっぱいのお客様。思わず目頭が熱くなり、手を取り合って喜んだことを今でも覚えています。その後、納涼歌舞伎は看板公演の1つとなり、古典の大役から野田(秀樹)さんや(渡辺)えりさんの新作までさまざまな芝居を勉強させてもらいました。
これもひとえに、君の発案と企画、行動力で、みんなを強力に引っ張っていってくれたからだと感謝しています。その納涼歌舞伎も、歌舞伎閉場にともない、しばらくお休みとなり、実はこの2年半は、2人の共演が一番少ない時期でした。
その間、君は1つの病を克服し、迎えた2月の勘九郎襲名公演で君がこれまで蓄えてきた芸が底光りするような、あまりにも素晴らしい出来だったので、『今度のは素晴らしい、恐れいった』というと、君は照れ笑いしていたけれど、明らかにまた1つ高い芸境へ進んだことが分かり、さらに、追いかけなくちゃと思っていた矢先でした。
長い付き合いでしたが、性格があまりに違いすぎたせいか、ケンカをしたことがありません。芝居も踊りも持ち味が違い、20代から8回も演じた棒縛。はじめの頃は、お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだと、諸先輩から諸注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。
それが、お互いに40を超えた7回目の上演のとき、「やっと先輩たちの言っていた境地の入り口に立てた気がするね」と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。
いつかはやろうと言っていたものが、もう一緒にやることができないと思うと、言いようのない悲しみと寂しさで、心に大きな穴が開き、生きる楽しみがなくなっちゃったみたいです。
(涙声で)いまでも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い。いたずらっぽい、あの目の表情。躍動する体が蘇ってきます。肉体の芸術ってつらいね…。そのすべてが消えちゃうんだもの。本当に寂しい…、つらいよ…。でも、その僕のつらさより、もっと、もっとつらい思いをして、君は病と闘ったんだよね。苦しかったろう…、つらかったろう…。いま、少しでも楽になれたのだとしたら、それだけが救いです。
そんな大変な手術をするのに、僕が初めて挑戦した一人芝居を気遣ってくれて、「観に行けないけれど場所を頑張ってね」と、メールをくれた君の優しさが、残された文字を見る度に胸に突き刺さります。
君がいてくれたおかげで、この56年間、本当に楽しかった。ありがとうね、哲明。君は交友関係も広く、活動の場も広かったから、さまざまな人の心に、さまざまな思いを残したと思うけど、僕は50年間一緒に芸を勉強し続けた友人として、不屈の信念で体に宿った魂。人の何倍もの努力によって培った芸のすごみで、誰にもマネのできぬ芸の境地に立った歌舞伎役者だったことを、伝え続けたいと思います。
君のマネはできないし、やり方は違うかもしれないけれど、(勘九郎の本名)雅行くん、(七之助の本名)隆行くん、七緒八(なおや)くんと一緒にこれからの歌舞伎をしっかり守り、戦い続けることを誓います。
これで、しばらくは一緒にやれなくなったけれど、僕がそちらに行ったら、また、一緒に踊ってください。そのときのために、また、けいこしておきます。
最後に、僕達同世代の役者。また、君に続く、後輩たちを代表して、この言葉を捧げます。中村勘三郎さん、波野哲明さん、きょうまで本当に、本当に、ありがとうございました。