東山紀之が“反ヘイト本”を出版していた!自らのルーツと在日韓国人への思いを告白
「朝鮮人を殺せ!」「在日は半島へ帰れ!」
排外デモ、嫌韓本、ネット……あらゆる場所にあふれかえるヘイトスピーチ。差別的言動をいさめるどころか、野放しにし、ヘイト主義者たちと一体となり助長させている安倍ヘイト政権。いまの日本の差別国家ぶりには目を覆いたくなる現状だが、そんななかある1冊の本が“反ヘイト本”として注目を集めている。
東山紀之の自伝エッセイ『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版、2010年刊)だ。東山といえば、ジャニーズ事務所所属のベテランアイドル。最近では私生活でも妻である女優の木村佳乃との間に二女をもうけ、ジャニーズアイドルとしては御法度の父親としての私生活もあえて積極的に語るなど、“物を言うアイドル”としての一面も見せている。
『カワサキ・キッド』は09年1月から1年4カ月の間「週刊朝日」に連載されたものだが、神奈川県川崎市で育った東山の極貧だった少年時代や、祖父がロシア人という出自など、それまで明かされなかった数々の秘話が告白されたことで当時は話題になっていた。しかし、刊行から5年のときを経た今あらためて同書を読み返すと、東山の“反ヘイト精神”が全編を通して貫かれていることに驚かされる。
「僕の一家は、川崎駅近く、ソープランドが密集する界隈の、父方の祖父母の家で暮らしていた。
同書を読み始めると、いきなりこんな記述が目にとびこんでくる。祖父も父親も大酒飲みで、ギャンブルにのめり込み、借金もあったという。そして、幼い東山は左足が変形するほどのやけどをおってしまう。
「祖父はロシア人の血を引いていた。大酒飲みで、昼間、理容師の母が仕事に出ている間に、酔っぱらって暴れ、ポットをひっくり返して、熱湯が僕の足にかかったのだ」
東山が3歳のときに、妹が生まれてまもなく、両親は離婚。東山は「僕のヤケドが引き金になったとも聞く」とも書いているが、母子3人が移り住んだのが、やはり川崎・桜本の小さなアパートだった。この地で最初に出てくるエピソードが在日コリアンとの思い出だ。
「僕たちの住む地域には在日韓国・朝鮮人の人々が多く暮らしていた。うちのアパートもそんなコリアン・タウンの一角にあった。
近所には、日本名を名乗り、焼き肉屋を営む朝鮮人母子が暮らしており、僕より二つ上のおにいちゃんがいた。」
近所には、日本名を名乗り、焼き肉屋を営む朝鮮人母子が暮らしており、僕より二つ上のおにいちゃんがいた。」
「僕と妹が毎日、お宅にあがり込むと、おばちゃんはいつも店の豚足を食べさせてくれる。僕たちはそれにかぶりついた。貧しくてお腹をすかせていた僕たちは、あのころ、あの方々がいなかったら、どうなっていただろうと思う」
幼い東山と在日コリアン一家の交流。そして、自らもロシア人の血を引いていることへの複雑な思い。それは東山のその後に大きな影響を与えたことは想像に難くない。東山は小学校時代から差別への違和感をもち、虐げられている人たちに思いをはせるようになっていた。東山はこうふりかえっている。
「あのころ、桜本の在日の人々のほとんどが、本名を名乗れない状況にあった。地元の小中学校の近くに朝鮮学校があったが、日本人の子どもの間では、『朝校の生徒に会ったら鼻に割り箸を突っ込まれるから気をつけろ』などというデマが流れていたりした。僕は『そんなことないのに!』ともどかしくてならなかった」
そんな思いは最大の憧れである王貞治にも向けられた。
「日本のスポーツ界にも多くの外国人の血が流れている。芸能界でもさまざまなルーツの人々が活躍している。それでこそ豊かな文化が花開くのだと思う」
「国籍の問題で国体に出られなかったことに黙って耐えたと知ったときはジーンときた」
「国籍の問題で国体に出られなかったことに黙って耐えたと知ったときはジーンときた」
当時、東山の生活はあいかわらず過酷で、母の再婚後は再婚相手のDVにもさらされていたという。貧しくつらいだけの少年時代。しかし、そんな東少年に転機が訪れる。小学校6年ももう終わろうという時、渋谷でジャニー喜多川に声をかけられ、芸能界デビューに向けレッスンを始めるのだ。
しかし、ここでも東山のまなざしは変わっていなかった。13歳になった東山はジャニーズ合宿所でマイケル・ジャクソンとブラックカルチャーに出逢うのだが、そのときのことを、こう書いている。
「奴隷として鎖に繋がれてアフリカから連れて来られた人々は、運動不足にならないよう足踏みをさせられた。そこでリズムを刻むのが彼らの唯一の自己表現だった。生き残った人々は道端に落ちていた王冠(栓)を足につけ、リズムを刻んで遊び、ささやかな楽しみにしたという。それがタップ(英語で“栓”の意味)の始まりと言われている。タップダンスとは、虐げられた人々の発散であり、魂の叫びだったのだ」
本書はその後、少年隊のデビュー、ジャニー喜多川や多くのジャニーズの先輩後輩との思い出、有名芸能人たちとの交遊、そして母親に背負わされることになる借金などの“秘話”が描かれる。しかし、そうした中、常に挿入されるのが変わらぬ“弱者”“マイノリティー”への思いだ。
例えば92年に主演した大河ドラマ『琉球の風』で初めて沖縄を訪れたときは、その歴史に思いを馳せる。
「十七世紀から今日までの沖縄の歴史をふり返ると、沖縄の悲劇は極端なものだと思う。国内で沖縄ほど虐げられた歴史をもつ場所もない。今日に至るまで人々の思いは見事なほどつぶされてきた。なのに、どうしてこんなに明るく、親切でいられるのか。その優しさの裏には底知れぬ悲しみがあると思った。それを経験している人々の強さと優しさなのだ」
また、広島のコンサート後に原爆資料館を訪れた東山はこんな決意さえしている。
「僕は韓国人の被爆者の人生に関心がある。差別のなかで、さらにまた差別を受けた人々はどんな人生をどんな人生観で生きたのだろう。演じることが許されるなら、その人生を演じてみたい。伝える必要があると思うからだ」
そして本書の最後、35年振りに桜本のコリアンタウンを訪れた東山に去来するのもまた在日の人々への想いだった。
「この街に戦前、朝鮮半島から来た人々が多く働いていたのも日本の重工業を基底で担っていたからだ。僕が幼いころは『ヨイトマケの唄』のように『エンヤコーラ』の掛け声に合わせて、泥の中でランニング姿で滑車の網を引いたり、ツルハシをかざしている人たちの光景をあちこちで目にした」
「幼いころ、僕は在日の『シュウちゃん』の家に、毎日遊びに行っていた。焼き肉店をやっていたおばちゃんは、豚足とトック(おもち)をいっぱい出してくれた。いつもすきっ腹だった僕は、蒸した豚足に赤いコチジャン(唐辛子味噌)をつけてむしゃむしゃ食べた。温かいトックのうまかったこと!」
「自分たちも貧しかったけれど、さらに貧しい人々を支えなければいけないという気持ちを大人も子どもも持っていたと思う」
「幼いころ、僕は在日の『シュウちゃん』の家に、毎日遊びに行っていた。焼き肉店をやっていたおばちゃんは、豚足とトック(おもち)をいっぱい出してくれた。いつもすきっ腹だった僕は、蒸した豚足に赤いコチジャン(唐辛子味噌)をつけてむしゃむしゃ食べた。温かいトックのうまかったこと!」
「自分たちも貧しかったけれど、さらに貧しい人々を支えなければいけないという気持ちを大人も子どもも持っていたと思う」
なんと、真っ当なまなざし。ひるがえって、安倍首相はどうだろう。こうした虐げられた者、被差別者を一顧だにせず、一国の首相が「保守速報」というヘイトサイトをシェアし、拡散させている。「韓国はダニ」「中国はゴキブリ」といったヘイトスピーチをがなりたてるオトモダチの宮司の本を「日本人の誇り」「世界一の日本人、世界一の国家をめざして進むための道標」と大絶賛している。
安倍よ。一度、東山の本を読んでみるといい。頭の悪いオマエでも、どちらがまともで誇りある日本人なのかがよくわかるはずだ。
(伊勢崎馨)
(伊勢崎馨)
転載元: 幸せの青い鳥