さて、目的だった花の植え付け作業が早くに終わったので、2日目は朝から
山元町の教育長さんと生涯教育課長さんの案内で、被害の大きかった海岸沿いの町の様子を案内して
頂くことになりました。
山元町から常磐線を超えた向こう側が海岸線になります。
ですから、庁舎の場所は震度6強の地震はあったけれど、津波の被害は受けませんでした。
被害の大きかった中浜小学校への道のりの途中が、瓦礫の山々が残る原っぱへ化していました。
そこには何もない、ただ元には家があったろうと予測できる家の土台だけが所々に残り
常磐線の線路も消えて流され、ほんの5メートルぐらいの線路らしきものが残るだけで
以前はこの道路からは見えなかったという山々が見え、誰もいない索漠とした風景があるだけでした。
写真は小学校以外は全部バスの中から撮ったものです。
では、バスが走った順に被害地域の風景です。
常磐線・山下駅の土台だけが残った跡です。(たった5~6Mぐらいしかなかったように見えましたが)
線路は流されてありません。
この常磐線が復旧するには、あと2~3年はかかるだろうと言っていました。
今は巡回のバスが仙台方面へ行っているということでしたが、早く復旧しないと町の若い人がどんどん
町を出ていってしまって、町は過疎化してしまうと危惧していました。
あたり一面は何もない野原なのですが、時にこうした壊れかかった家も被災当時のままに
残っていました。
震災前は家が立ち並び、坂元川の正面の山は見えなかったそうです。
家の土台だけが残ります・・・・
瓦礫の山と言ってよいでしょうか?
これがみな、個人の財産だったり、命あるものだったり、その家の古くからある大事なものだったかもしれないと
思うと、目がしらが熱くなりました。
町ではここの瓦礫を自分たちで処理出来るものは処理するために、小さなプラントが建っていました。
自分たちで処理できないほどの多くの瓦礫があるところでは(そういうところの方が多いと思いますが)
プラントも無く、瓦礫が山になっているそうです。
しかし、これを片づけなくては、新しい生活も始まりません。
野原となったところにまだ片付かないものと一台の車が、妙に寂しそうに見えました。
ここは、TVニュースでも報道された24名の高校生が亡くなってしまった自動車教習所の後地です。
木の慰霊碑が建てられていました。
今はほとんど瓦礫が何か所に集められていますが、震災直後はどんなに混沌とした地獄絵図だったでしょうか。
バスが廃校になってしまった中浜小学校に到着しました。
ここは校舎は平成元年に建てられた、とてもモダンな小学校でした。(町でも自慢の小学校だったそうです)
バスを降りてびっくりしました。
校庭いっぱいに向こうがみえないほどの向こうまで、まるでプレスを待っている廃車の山でした。
ここは体育館です。
ガラスと砂をどけたままになっていましたが、床が津波で大きく持ち上げられています。
この小学校は2階建てと3階部分に小さな倉庫がある建物で、2階部分の上にまで津波がやって来た
表示板が張られていました。
約10Mの高さだそうです。
2階の屋根まで水が来たのでしょう、瓦が壊れています。
すぐ向こうに海が見えていますが海岸線からは400Mくらい離れたところだそうです。
そして校舎の中。
外から木が突っ込んできているのが分かるでしょうか?
木の根っこがそのまま残っていました。
ここは、3階部分の学校の倉庫です。
ここで生徒(59名)、先生、近所の人達の約90名が、避難し一晩身を寄せ合って夜を明かしたところですが
段ボールが敷かれてあったりして、その日のままの姿でした。
校長先生の機転でここに避難し、翌日校庭に集められたところを自衛隊のヘリコプターに発見された
ニュースはまだ、耳にも新しいです。
子供たちには、周りの風景を見せないで・・・という教育的配慮もあったとか。
鉄骨の入った柱も倒されたままです。
どんなに津波が強かったかを想像できます。
なんとも言葉が出ない気持ちで、被害の強かった学校を後にしました。
この校舎はこのまま、震災の被害を語る建物として永久保存にしたいと、仰っていました。
これは坂元駅の跡地。
駅のトイレと駅の看板だけが残っていました。線路はありません。
この後、仮設住宅をバスの中から見ました。
TVで映るよりとても小さく狭そうに見えました。
洗濯物が干してあり、日常が少し見えました。これで寒さも暑さも耐えるのだ・・と思うと
なんとも言えない気持ちです。
この町は、いちご、リンゴ、ホヤの産地です。
やっとビニールハウスを建て直して、イチゴ農家が少しづつですがイチゴの栽培を始められるように
なって来ていました。
遠くに新しいいちごハウスが建て並んでいます。
これは震災後、町の語り部の会の人たちが作ったその日を思い出して書いた本です。
(私はこれから読みます。)
花の植え付けを一緒にやった、元気のよい70歳の方が書いた文も載っています。
私達のお昼は、回りは何もないところにポツンと建ったお弁当屋さんのお弁当でした。
3月末のやっとオープンしたそうです。
手作りの家庭のお味の美味しいお弁当でしたが、こんな場所でご商売が成り立つのか心配になるくらいでしたが
多分復興の作業をする人たちの食事となるのでしょう。
こうして、あの大きな地震から少しづつですが町の再建の方向へと動いているのも感じましたが
まだ、道のりには色々な問題も山積しているように感じます。
その中でも、この町の方々のパワーの感じ、町が前のように普通の暮らしが出来るようになることを
祈らずにはいられません。
はなこさん、お疲れ様でした。
そして報告をありがとうございます。
はなこさんにぴったりのボランティアだなあと思いました。
いい企画ですね。
前日は花移植の天気に恵まれてよかったです。
そして、バスでの見学は息を飲みます。
民話の会が記録を残されたことはいいですね。
一人参加が半分と知り、なんだかうれしくなりました。
こういう企画に限りませんが、私も一人参加が
できるようにしたいと思います。