没後50年になる、「藤田嗣治展」が東京都美術館で開催しましたので、8月初旬に見に行ってきました。
藤田の絵は、ポーラ美術館や都内での展覧会で何点かは見ることがありましたが、今回は
約100年前パリを拠点に海外で成功を収めた日本人として先駆けになった、没後50年の回顧展です。
(1886~1968)
追記・・・・下の本から抜粋し引用(今まで展覧会で何点しか、藤田の絵を見なかったという理由)
パリで確立した独創的な「乳白色の下地」による絵画スタイルと獲得した多くの名声にも関わらず
没後長らく展覧会や出版物の数が限られたこともあって
母国日本ですら忘却、もしくは神話化が進み、一時若い世代には遠い存在になりかけていました。
また戦争画への関与や通俗的な人物、作風という先入観もあってか、専門家の間でも本格的な研究対象と
することを忌避する雰囲気が漂っていました。・・・・・・・・・・・・・と書いてある箇所がありました。藤田嗣治、5歳ごろから絵を描きはじめ、15歳の頃には「立派な絵描きになりますから!」と
医者にしたかった当時軍医だった父に手紙を書いたそうです。
本当に立派な画家になりましたね。ひとつに、絵を売って食べて行けたのですから。
東京美術学校卒業後、憧れのフランス・パリに渡仏(1913年26歳)し、当時のフランス絵画界で
上流階級からの東洋から来た若い画家にと、肖像画の依頼も多かったそうです。
あの画家ゴッホが、生前売れた絵がたったの一枚というエピソードが頭にちらつきました。
当時のフランスでは、経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であったという訳です。
主に人物画で知られるが風景画や静物画も多く手掛け、晩年には洗礼を受けて、敬愛するレオナルド・ダビンチから
名前を頂いて、レオナール・藤田と名乗り宗教画も多く描いたそうです。
最後にフランスに戻った時の「礼拝」という絵は、洗礼を受ける藤田夫妻を絵描いた絵ですが、
画家としての集大成の絵で、この絵はフランスの藤田の自宅に生涯掛けられた絵であったそうです。
(今は、パリ市立近代美術館蔵。)
渡仏すぐは風景画や静物画を多く描いたようですが、当時のパリ美術界の流行も受け絵は
乳白色の下地と呼ばれる独自の描き方で、裸婦を描き評判を得たよう。。
少女画や肖像画の絵の雰囲気が独特でわたしは好きです。乳白色の下地のせいでしょうか。
動物に服を着せて擬人化し描いたものも藤田の絵として思い浮かびます。
金伯を使ったような豪華な印象の「目隠し遊び」と題された絵の前では、あまりの素敵に見入りました。
絵葉書①・・・パリ風景・・・渡仏して間もない頃の絵
絵葉書
②渡仏して若い頃の、「私の部屋、目ざまし時計のある風景」
③最後に日本を出てフランスへ向かう前、ニューヨークへ滞在した時に描いた「カフェ}
④「二人の少女」
⑤「花を持つ少女」
2度の大戦を経験しながら、スペイン、アメリカなどを巡り日本に帰国を余儀なくされると
戦意の高揚を図るための作戦記録画を多く描き、軍部に協力したと云われ、日本を去ることに(1949年)。
それからは二度と日本には帰ることはなく、フランスに帰化した。
晩年にはフランス国籍を取得してレオナール・フジタとなり、欧州の地(1968)に眠っています。
今回の展覧会では絵だけではなく、藤田が暮らしの中で楽しみ、手作りした生活品のいくつかが
展示されていて、絵描き以外の姿をを見ることができ、新しい発見でした。
裁縫、大工仕事、ドールハウス、写真、陶芸なと、プライベートな品々・・・
絵の額縁なども手作りしたそうです。
私は、妻に送ったという装飾木箱(数々あったようだが、展示は2~3のみ)に魅せられました。
丁寧に油彩で絵付けが施されて、小さな職人たちの絵を思い起こされ、そのものが、藤田ワールドでした。。
「藤田嗣治 手仕事の家」の本によると、食べた物を記録したノートなども残っており、
芸術家らしい丁寧な暮らしていたのだろういうことが察しられます。
こういう手作りのものも多数、普段の夫妻の生活を飾ったようです。
↑↓ 本「藤田嗣治 手仕事の家」より
時代はアール・ヌーボーの時代の影響もあったでしょうか。
買うものは所詮、製品であり、芸術家たるもの、頭から足の先まで芸術をまとわねばならないという
芸術家気質もあったようだが。
最後の仕事になったのはノートルダム礼拝堂の内部の壁画でした。
これからさらに藤田嗣治の研究が進むと、私は美術界に置いて藤田画伯はもっと確固した存在に
位置するのではないかと想像するくらいでした。
藤田嗣治の画家としての作品と生涯を見ることができました。
おかっぱ頭にちょび髭、丸眼鏡にピアスの藤田画伯の展覧会・・・・・楽しみました。