宮城県・山元町へ花を植えに行くことも、4回目になりました。
震災の翌年、市の法人会被災地復興支援事業の呼びかけで被災地に花を植える
ボランティアに参加したのが始まりです。
考えてみれば、こういう機会に恵まれたので続けることができたことに感謝です。
今年は春のような暖かい日に恵まれたうえ(雨の日の年も、極寒の年もあった)、
2015年03月1日に常磐自動車道 常磐富岡IC~浪江IC間が開通したので、出発から5時間で目的地・山元町に
到着することができたので今年は、余裕を持って花植えができましたし
山元町の方々の幾分明るくなってきた表情を感じることが出来たのがよかったかと思いました。
山元町では記録を・・・・
バス1台で出発しました。
3月1日に全線開通した、常磐道を走ります。
(昨年までは、この道は通れなかったので東北道で行ったので時間がかかり到着は午後3時近くから
作業に入りバタバタしての植え付けでした。)
この常磐道の最後に開通した区間は、今も帰宅困難地域となっている常磐富岡IC~浪江IC間です。
今まで何度もTVニュースで見ていた地域ではありましたが、目の前に広がる左右の風景にショックでした。
南相馬・鹿島まで、黒い袋が数えきれないくらい延々と見えます。
あるいは、青いビニールシートで覆われた原発廃棄物の置き場になっていました。
この区間には、放射線量を測っている表示板も設置されています。
私たちが走った時は3,0マイクロシーベルトと表示されていました。
ここを出ると、低くなっていきましたが災害放射線量が一番多い時は、5.5あった時もあったとか。
住居はありましたが辺り一帯廃墟になっている雰囲気が見てとれます。
なんという風景のことか・・・・
山元町到着は午前11時45分で、やや復興してきた住宅地にあるお食事処で
流石海辺の町の美味しい昼ご飯を頂きました。(昨年までは時間の都合上、バスの中でお弁当をかっ込んでいました)
今年花を植える場所は、「深山山麓少年の森」という公共施設で、私たちの市でいえば「ひなた村」と呼ばれるような
ところでした。
被災地を応援しているAKBUSも利用されていました。
昨年まで植えていた庁舎前は、復興が進み新しい駅ができることや道路ができて花壇が引っかかるので代わったそうです。
いつも温かい出迎えをしてくださいます。
いつもお元気な生涯学習課のSさん。
津波で大きな家を流されてしまいまた、ご両親もなくされています。
印象に残ったお話では、
1年目は、どうしてよいやら途方に暮れた
2年目は、月日の経つのもうとましい年だった・・・
3年目は、いったい自分たちはどちらを歩いていったらいいのかと思案に暮れた
4年目は、やっと自分らの方向を歩き始め、大きく変貌をはじめてきた・・・
ということでした。
こちらの皆さんが元気に歩かれているお姿を嬉しく思いました。
10000株の花の苗が、前の晩に市から搬送されてきています。
さぁ、トラックから苗を下して植えつけ始まりです。
沢山の花がきれいに植えられました。
植えつけ後、ご一緒に植えつけをした山元町のボラの方々と和やかな時間も持ち、いつものように
送られて、来年の再会を約束しました。
皆さまどうぞお元気で、また来年もお互い元気でお会いしたいものです。
毎年見ている町もバスでめぐり見せて頂きました。
震災後廃校となりメモリアルとなった中浜小学校と復興を願う黄色いハンカチ。
この辺りは海には近いが駅もあって、住宅地であった。
写真の遠方に見える白い塀は、震災後つくられた防潮堤。高さは7,8メートルある。
地震ではなく津波の被害で24人の死者が出た常磐山元自動車学校の慰霊碑と
復興が進んだ農業ビニールハウス。イチゴのハウスだろうか。
そして、宿泊地の穴原温泉に向かいます。
二日目は江戸時代の町並みを今に残す宿場「大内宿」と、南会津の搭のへつりを観光して帰りました。
雪の磐梯もまたよし。
若いころはスキーに、10年くらい前には秋に訪れたことのあるところです。
大内宿
搭のへつり
「山元町のみならず被災地東北は、世界中の方々からの応援や支援を沢山いただきましたが
何もお返しすることができません。
私たちが自立した生活を取り戻していくことが、そのお返しだと思っています・・・・。」と
力強く語ったSさんの言葉に、私たちも強く励まされました。
そして帰還困難地域を見て思うことは、やはり「原発は持ってはいけない。」と思うこと。
どうか日本の国が原発に頼らずまた、原発で働いてきた人たちに代わる仕事に就けることへの
道筋を国も方向を見出していくことを願ってやみません。
被災地東北の皆さんの姿が、自然災害の多い国日本のこれからの教科書になります。
「どうぞ、お元気で。」と、願わずにいられません。
過去記事
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