それはあっと間の出来事でした。
私にとっては悪くなったと知ってから、本当に短い最後でした。(兄の家族にも多分とても急な)
暮れにも電話で話し、「食べられない。」とは言っていて、困った様子でしたが
「お父さんたちの法事の日までには、体調を立て直して行きますから。」という、いつもと変わらぬ向こう側の
明るい義姉の声でした。
父母の法要の日に会えると思って楽しみにしていたのですが当日、義姉は来れず
兄から「○○(義姉の名前)は、終末医療に入った。」と、聞き
信心こころの無い私は、父母の法事でのお坊さんの唱えるお経の声も耳に入らず、頭の中が真っ白になっていました。
こんなに突然に、人の手からもぎ取るように愛する人を連れて行ってしまう運命とは一体誰の
仕業なのかと、涙にくれました。
昨秋には、ご自分の親や兄弟姉妹のお墓参りに故郷の東北を兄の車で旅をして巡り、それが義姉の人生の
知らぬ間の終くくりになるととは思ってもみませんでした。
よく私に、葉書で便りをくれる義姉でした。
季節の折々に、また私のこのブログを見て印象に残ったことがあった時、送ったものが届いたという時も
電話では無く必ず、葉書や手紙でお便りをくれました。
こんなにデジタルが当たり前の時代になっても、“手紙で伝える事の大事さ”を、身を持って教えてくれていたのだと
思います。
暮れに頂いた葉書にも、「この年まで生きていてよかったと思います・・・・中略・・・それは若いころには
分からなかった物事のなぜが、よく分かるようになったからです。・・・・」と、ありました。
今となっては、もっともっといろいろ沢山の事を話したかったと、いつになっても悲しみがこみ上げます。
東京オリンピックの年に兄たちは結婚しました(多分)
私たちの実家に初めて来る日に、私がU駅まで迎えに出ました。
高度成長期のそのころ私はアメリカンカール(髪型)憧れていましたが、駅から降り立った初めて会う義姉は
自毛のあかっぽい髪を長くお下げに編んだ人でした。
当時はまだ物珍しく憧れの洋風のお菓子で、その時から時々我が家に訪れるときに手土産で持ってきて下さった
美味しい手作りプリンを、、興味津々で頂いたことを今でもよく覚えています。
もしかすると私が手作りのデザートお菓子というものに憧れ始めた、あれが最初だったかもしれません。
手作りのモダンな甘い食べ物が沢山あったか無かったかの時代のころです。
何時の頃だったか、義姉は小説を書く人になっていました(20数年書いていたようです)
投稿していた同人誌に載った義姉の作品も何編も送って来てくれたり、会った時に手渡されたりで、読ませて頂きました。
たぶん私が昔から本を読むことが好きだったからだと思います。
読後の感想を多く申し上げることはあまりありませんでしたが。
この本は、兄たち夫婦が50周年を記念して作り上げた姉の作品集です。
(父母の法事のその日、義姉が終末期に入ったという知らせを聞いた日に兄から手渡されました。)
今、本を開いてみると以前に読んだ作品もありますが、綺麗に装丁されて再び目にすることを嬉しく思いました。
作品は文芸雑誌に採りあげられたもの、またそうでない作品もあるのですが、作者の愛着の深い作品を9編
載せてありました。
形見の本になってしまいましたが、義姉を偲びながらゆっくり読んでいこうと思っています。
急な入院の後は様態の急変で見舞うことも出来ませんでしたが、自宅に帰ってから綺麗に身支度を整えられ
最後の日の静かに眠る義姉は和服を着ていて、私たち家族みんなが幸せに暮らしていた若いころの時代そのままを
思いだすような美しい姿でした。
お別れのその日私は、庭に咲いたまだとても小さなスノードロップの花のほんの小さな花束と一緒に
私の両親にもよく尽くしてくださった感謝の気持ちや沢山の感謝をこめて最後の手紙を書き
私をよく気にかけて下さりそしていつも凛とした義姉と、最後のお別れをしたのでした。
本当に寂しくなりました・・・・・