新聞で思い出の品についての、人と物との面白ろ心理学の記事を読んだ。
第三者的に客観的にその思い出の品を見たら、
汚い靴
であったり、ただのありきたりのもの
であったりするに過ぎないが
その品がその人にとってどういう意味のものであったかを語ってくれさえすれば
その持ち主の思い出は、聞かされているこちら側の思い出にも重なりその語りは
第三者の鑑賞にも堪える品物にもなるというのだ。
大切な人やものの
写真を手帳に挟んだり、
携帯の待ち受けにしている人は多い。
それについて聞けば、待っていましたとばかり話をしてくれるだろう。
大切な思い出や物はそうした語りの中で再認識され、他人に語ることによって
価値を増す
と、いうのだ。
その時大事と思った記念写真や思い出の品は結局、ゴミと化してしまうことが多いのは
私たちがそれらの物について語らなくなるからだといっている。
思い出は、物や写真だけではひとり立ちが出来ない。
ものは手がりにすぎず、思い出は
誰かに向けられた語りのなかに存在している。
と、締めくくってある。
思い当たる節がある。
たかがブログ、されどブログだ。
こうしてわたしがブログを書いているときに母が亡くなった。
母への思いも書いて語っていなかったらその思いも時間と共にただの忘れ去られる
記憶の一片に過ぎないものになって行ったのだろうと思う。
母の思いも語ることによっていつも存在するものへとなったように思う。
ブログは人によりそれぞれだとは思うが別に、言いたいことがあるから
書くというものではない。
見せたいというものがあるからというのでもない。
こいうことがあったと、ああいうものがあったと、いつも自分に問いかけて存在させて
おきたいのかもしれない。
たかがブログ、されどブログ。
PC操作もさることながら、アンテナを立てて新しい感動を求め
写真を撮り、
記事を書くという
集中を要す時間(そんなに、力んではいませんが)。
ブログを
書き続けることが、こんなに沢山の作業を自ずから自分に与えてくれているなんて
当たり前なことかもしれないが、有難いことと思った次第。
今や日本のブロガー人口は800万人とも1000万人ともいわれる。
自己満足で結構結構。
頑張れ、ブロガー。
母の箱絵
図案はヒマワリらしい
がさごそと、文具が入っている。
この箱もここに語ることで、私の中の思い出として
輝きを増す。