ホスピスナースは今日も行く タフクッキー
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
タフクッキー
 それは金曜日の午後でした。オフの日に上司から電話が来ると言うのは、大抵良い知らせではありません。気が乗らないものの、やはり無視するわけにもいかず、電話を取ると、上司の方も“休みなのに悪いわね...”と断りながら、こう言いました。“明日、小児のケースが退院するんだけど、多分1日もたないだろうって言う事なの。つまり、最期を自宅で迎えさせたいって事なのね。で、明日の9時半に救急車が病院を出る予定だから、10時までにはノリスタウンの自宅に着くはず。小児病院のディクソン先生も一緒に行くし、小児ナースのキャロルとソーシャルワーカーのキンバリーも行くことになってて、どうしてもホスピスナースもいて欲しいのよ...”
 翌日の土曜日は娘の日本語補習校の日で、いつも9時くらいまでに行くのですが、運悪くその週は娘のクラスメイトのお母さんに頼まれて、駐車場の交通当番を交代してしまっていたので、9時半まで駐車場で交通整理をしなければならず、まあそれからすぐに行けば何とか10時に間に合うとしても、帰りが何時になるかがわからないし、もしもその子供がその日に亡くなりそうだとしたら、その時まで留まっている必要があるかもしれず、となると娘を迎えに行く時間が...。彼女の話を聞きながら、私の頭の中ではこれらの事がサーっと駆け巡っていました。しかし、とにかくどうにかするより仕方なく、とりあえず上司には、“わかった、何とか10時に行けるようにするから”と答え、今の時点でわかっている情報を、できるだけ詳しく教えて欲しいと頼みました。上司は、“ありがとう!助かるわー。情報は今コンピューターに入っている分が、今のところわかってる事だから。”と言い、電話を切りました。
 それから私は、近所に住む、やはり補習校に通っている友人に連絡し、娘を連れて帰ってきてもらえないかとお願いした所、快く引き受けてもらえ、段取りをつけてから、娘に説明しました。娘は、“えーなんで仕事なの?”と訝っていましたが、お友達と帰って来れるので、特に文句も言いませんでした。夫は、“小児のホスピスナースが君しかいないって事は、これからもこういう事態があるかもしれないって事だよね。ちょっと、それじゃ困るんじゃないか?”と懸念しており、私も同感でしたが、とりあえず今回は何とか都合がついたのだから、と、その懸念は横に置いておく事にしました。
 エリース(仮)は、生後4ヶ月の女の子で、16番染色体異常でした。満期で生まれたもの、とても小さく、ミルクを吸うことができないため、胃空腸チューブ(腹部から空腸まで入れたチューブにボタンと言われるコネクターをつけ、そこから経管栄養のチューブをつなげるもの)からお母さんの母乳を取り、呼吸も弱く、小児病院のNICUでは、ずっとCPAPと言う呼吸器を着けていました。それをはずして家に帰る、と言う事はすなわち、自発呼吸と酸素療法のみでいける所までいきましょう、と言う事なのでした。まだ20歳そこそこの若い両親は、このままNICUで機械に囲まれて一生を終わらせるよりも、たとえそれが時期を早めてしまうかもしれなくても、エリースを家につれて帰り、家族と一緒に暮らすことを選んだのです。
 土曜日の朝、補習校から大急ぎでノリスタウンの家に行くと、エリースはすでに到着しており、ディクソン医師、キャロルとキンバリー、そして別のホームケアから、一日16時間を、8時間ずつのシフトでエリースのケアをするナースが勢ぞろいしていました。その家はエリースの母親であるカレンの実家で、両親とカレン、カレンの3人の姉妹が住んでいました。カレンは4人姉妹の2番目で、お姉さんとカレンは大学生、妹たちは高校生と、小学2年生でした。カレンの両親はメキシコからの移民で、お母さんは殆ど英語を話しませんでした。エリースの父親のホゼは、ニュージャージーに住んでいましたが、職場がノリスタウンだったので、しばらくここに泊まる事にしていました。小さなエリースは鼻腔カニューレから酸素を吸入し、咽喉の付け根をひくひくと陥没させながら、一分間に80回もの呼吸をしていました。顔も体も全体的に灰色がかった色をしており、まるで、ゆらゆらと揺れる、今にも消えそうなロウソクの火を見ているようでした。カレンのお母さんはエリースを抱き、静かに涙を流していました。カレンの小さな妹は、どうしてこんなに沢山の人達が、エリースを見に来ているのか、そんな事には全く構わず、お母さんが抱っこする赤ちゃんのほっぺたを触ったり、自分の指を握らせたりしてはしゃいでいました。カレンとホゼは驚くほど落ち着いており、私達が、いつどんな時にホスピスに連絡するか、どの薬を使うか、そして、エリースが亡くなった時にどうするか、などを説明するのを、淡々と聞いていました。今思うと、あの時、私たち医療者が“死に行く赤ちゃん”を見ていたのに対し、彼女たちは、“一緒に生きてゆく娘”を見ていたのでしょう。DNRにもサインし、葬儀社も決め、覚悟はできていながらも、同時に、ここで自分たちが世話をしたほうが、きっと娘は幸せに生きられる、と確信していたのだと思います。
 一方、私とキャロルは、いつ呼ばれてもいいように携帯電話を離さず、夜勤のナースにも、もしエリースが亡くなったら私に電話をくれるように連絡しました。1週目は毎日訪問予定を入れ、特に最初の3日間は、私達の方が今日か、明日かとドキドキしていたと思います。ところが、そんな周りの不安を笑い飛ばすかのように、エリースはのど元をひくひくさせながら、あくる日も、あくる日も、呼吸をやめる事はなかったのです。
 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、相変わらず呼吸は速いものの、エリースは確実に家族の一員になっていました。私たちは、訪問回数を週三日にし、ホリデーシーズン中は週二日にしました。サンタクロースは、エリースの所にもちゃんとやって来て、一緒に写真も撮りました。昼寝をするサンタの大きなおなかの上で、トナカイの柄のセーターを着たエリースが、すやすや眠っていました。カレンとホゼは、天気のいい日にはエリースを連れて散歩をし、教会にも行きました。小さな歯が生え、指をしゃぶるようになりました。カレンの小さな妹は、雪だるまの家族の絵を描き、そこにはちゃんと、小さなエリースもいました。ホゼは、職場がニュージャージーに移ってしまいましたが、できるだけノリスタウンの家に来て、エリースの世話をしていました。カレンは、エリースの予防接種のことを気にかけ、小児科医に予約を入れました。子供にしか見えなかった二人は、いつの間にか、すっかり親の顔になっていました。
 エリースが家に戻ってからもうすぐ2ヶ月という頃、この季節には付き物の、ウイルス性の風邪が蔓延し、予防対策は万全にしたものの、やはりエリースも避ける事ができず、咳と鼻水が出るようになりました。熱が出始め、解熱剤とクーリングで何とか落ち着かせましたが、何日かすると、また上がり始めました。不思議な事に、呼吸は落ち着いていましたが、どうしても下がりきらない熱を不安に思い、カレンとホゼはエリースを小児病院のERに連れて行くことにしました。私は、ジャクソン医師に電話をし、状況を説明すると、“具合が悪くなっても、病院には連れて来ないつもりだと思ってたけど...”と困惑しながらも、“こちらで出来る事をするから”と了承しました。結局2つのウイルスに感染していたエリースは、三日ほどNICUにいましたが、両親の希望で自宅に帰ってきました。その日、キャロルと私が訪問した時、エリースは両親のベッドですやすや眠っていました。熱もなく、呼吸も落ち着いていました。ただ、オムツがいつもほど濡れていないという事でした。私は、水をさすようで気が引けたのですが、ホスピスナースとして、今言わなければならない事を、エリースを見つめて微笑むカレンとホゼに言いました。
 「エリースは、今まで信じられないくらいがんばったけど、多分今回みたいな事が何度も起こるはず。それは、彼女の状態ではどうしても避けようのないことで、その度にERに連れて行くか、それともここで、薬を使って症状を緩和するか、よく考えて欲しいの。そして、いずれ抗生物質も効かなくなる時が来る。それを忘れないでいて欲しいの。」
 カレンとホゼは、黙って頷きました。そして翌朝、私は、夜勤のナースがカレンの電話を受け、“エリースのお腹が張っていて、とても苦しそうだし、熱も上がってきた”との訴えに“小児病院のERに連れて行ったほうがいい”と指示した、と言う記録を読んだのです。私は、“やっぱり...”という気持ちと、“どうして...”と唇をかみたくなる気持ちで、カレンにメールをしました。『エリースはどう?』暫くすると、カレンから返信が来ました。『今、NICUにいる。あんまり良くない。CPAPを着けた。』『わかった...エリースと、あなた達のために、祈っているから。』『どうもありがとう。みんなが祈ってくれてる。それが救い。』
 その日の夕方、ディクソン医師から電話があり、エリースが家に帰ることはないだろうという事、NICUでは、症状の緩和のみを行っている、個室に移し、家族もみんな来ている、という事を知らせてくれました。ディクソン医師は彼女自身も二人の子供の母親であり、こんな報告をするのは辛そうでした。本来ならば、こういう状況を避けるためにホスピスケアを選んだはずなのに、と思うと、自分の力の至らなさがもどかしく、でも、結局は両親の決断なのだから、と言い聞かせながら、ディクソン医師にお礼を言いました。彼女は、“また連絡するから。”といって、電話を切りました。そして翌朝4時、家族みんなに囲まれて、エリースは安らかに、その短い一生を終えたのです。
 エリースのお葬式には、キャロル、そして、ディクソン医師も来ていました。エリースの小さな小さなお棺には、彼女のピンクの毛布がかけてあり、かわいらしいお花とぬいぐるみで飾られていました。カレンとホゼが、笑顔で迎えてくれました。二つのテレビスクリーンには、エリースの写真やビデオが流れていました。その画面を見ながら、私はとなりのキャロルに言いました。「不思議だね、こんな小さな人間が、こんなに短い間に、これだけ人の心にインパクトを残すなんて。」キャロルは頷くと言いました。「本当ね。私はきっと、一生エリースのことを忘れないと思うわ。」
 家族や友人のメッセージを、始終落ち着いて聞いていたカレンとホゼは、一番最後に挨拶をしました。そして、エリースがくれた、自宅での奇跡のような2ヶ月間を語ると、カレンは絶句し、ホゼがその肩を抱いて、涙を拭きながら締めくくりました。「エリースは、本当にタフクッキー(硬いクッキー:不屈の人)でした。そして、彼女のおかげで、僕達も強くなれたんです。」
 たった4Kgにも満たないタフクッキー。エリースが見せてくれた生命力は、周りの全ての人に驚きと感動を与えました。カレンとホゼの人生は、まだ始まったばかり。二人がこれからどんな道を行くのかはわかりませんが、天使になったエリースが見守っているはずで、だからきっと、あの二人は大丈夫だと思うのです。
[2015/01/24 15:07] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
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コメント
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[2015/01/27 04:41] | # [ 編集 ]
コメントありがとうございます。
はらぼー、コメントどうもありがとう。なかなかね、思うようにはいきません。それでも関わった過程に意味があると信じて、お互いがんばろうね。
[2015/01/27 07:02] URL | ラプレツィオーサ伸子 #L7T.j4.I [ 編集 ]
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Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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