先日、上司からこんなメールが来ました。“MさんとCさん(先週末、わたしが初回訪問した人達)の家族と、電話で話す機会があったんだけど、どちらもあなたの訪問がとてもdelightfulだったって、喜んでいたわよ。いい仕事してくれてありがとう。” その週末は結構忙しく、初回訪問二件(しかも問題山積み)、再訪問二件で、特にそのうちの一件は予定外の緊急訪問だったので、最後の訪問を終えて家に着いたのは6時近くでした。残り物で晩御飯を済まし、それからその日の記録を終わらせ、結局ベッドに行ったのは夜明け近くでした(まあ、途中で何度も意識を失っていたので、正味は大した事ないのですが)。その事をその上司は知らないのですが、それでもこのメールを貰った時、“これでチャラだな”と思いました。 毎週火曜日のホスピスチームミーティングは、患者さんの状態を報告するだけでなく、自分達の情報交換と、ある意味ストレス発散できる貴重な時間です。患者さんや家族にもいろいろな人がいます。そして、ホスピスナースにもいろいろな人がいます。でも、一貫しているのは、どのナースもプロとしての意識を持ち、いつも自分の能力をフル稼働していると言う事です。それでも、全ての患者さんと家族を満足させると言うのは、不可能に近いのです。自分ではうまくコミュニケーションが取れていると思っていたのに、後から不満を聞かされたり、毎回時間をかけ、私達ができる限りの事をし、特別な計らいまでしたケースでも、最後に登場してきた遠い親戚から吹聴された“どこそこのホスピスはこうした、ああした、私の知っている人はこうだった、云々”と言う噂を真に受け、まるで自分たちが騙されていたかのように思い込んでしまったり、とにかく挙げ始めたらきりがないほど、ナースにとって“落ち込み要因”になるものはあるのです。そして、それはどのナースも経験する事で、完璧な人などいない、と言う事もわかっているのですが、それでもやっぱり、自分の努力が裏目に出たり、誰かを怒らせたりしてしまうというのは、辛いものです。また、ホスピスの患者さんや家族にとって、ホスピスナースと言うのはある意味、唯一、その悲しみや怒り、ストレスのはけ口でもあり、人によってはその表現がナースに対する怒りになってしまうこともあります。そしてそれがわかっていても、こちらも生身の人間だし、その日の気分や個人的な事情もあったりするし、“やってられないわよ”と思う事だってあるのです。そういう事を、チームの仲間に話すことで、“自分一人ではない”という安堵と共感を分かち合い、次のステップにつなげて行けるような気がするのです。もちろん、私達は同情しあうだけでなく、アドヴァイスしたり、一緒に考えたり、泣いたり、時には笑い飛ばしたり、それからギュッとハグしたりして、仲間が落ちていかないように支えあうのです。 ナースと言う仕事は、“奉仕の精神”でやるものではないと、私は思っています。世の中にあるさまざまな職業と同じく、専門的な知識と技術を持つ、プロフェッショナルです。ただ、その相手が人である事、それもどこか健康を損ねている人達が相手であるという事が、この職業にある種特別なイメージを持たせるのでしょうか。ナイチンゲールだって、確固たるプロ意識があったからこそ、あれだけの偉業を成したのです。そして、プロとしての仕事を行った結果が、相手を満足させる事になった時に喜びを感じるのは、どんな職業でも同じなのではないでしょうか? 上司のメールを読んで、何よりも私に微笑をくれたのは、“delightful”という言葉でした。これこそが、私がホスピスナースとして、こうありたい、と思っている事だったからなのです。患者さんと家族にとって、一番つらい時なのに、よりにもよって“delightful(喜びを与える、気持ちの良い、心地よい、etc.)”とはどういう事?と訝しむ方もいるかもしれませんが、人生の残り時間が見えている人たちが、たとえ1時間でも30分でも、delightfulな時間を過ごせたら、私の訪問に付加価値が生まれるような気がするのです。そして、そういう家族からの声を私に伝えてくれた、上司の気遣いもありがたく、改めて、“ああ、こうして支えられているから、この仕事を続けていられるんだなあ”と思ったのでした。
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