ホスピスナースは今日も行く 父を看取る (1)
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
父を看取る (1)
 2月下旬のある日、母から電話で、父が入院したと連絡がありました。ここ数年でかなり進んできた短期記憶障害のため、母から詳しい状況についての情報を得ることはできず、私はすぐに東京にいる兄に電話をしました。その少し前に電話で話した時の父は、いつもと変わらず、ただ、最近メールの返信が来ないのでどうしたのかと尋ねると、コンピューターの具合が悪いので業者に電話をしなければならないんだけど、ちょっと面倒でのびのびにしていた、と、いつもの父らしくない返事が少し気になったくらいでした。
 昭和ひと桁生まれの父は、東京大空襲で西新宿の家を焼かれ、その後疎開した富山でも大きな空襲を経験し、一緒に神通川に逃げたおばさんは、焼夷弾が当たって亡くなりました。それ以来、明日は何が起こるかわからない、今日できることは今日やる、というのが父のモットーで、「すぐやる課の課長さん」と呼ばれるほどだったのです。そんな父が、私のメールやブログをチェックせず、コンピューターの不具合をすぐに直さなかったということに、ああ、ちょっと弱ってきたのかな、と、若干の寂しさと不安を覚えたのです。
 兄から入院に至った経緯は聞いたものの、新型コロナウィルスの第6波で、一時は緩んでいた面会制限が再び全面禁止になっていたため、母も兄も父には会えず、その時点での詳しい様子はわかりませんでした。とりあえず、命に関わるような状態ではないということで、当面はひとり暮らしになってしまった母の方が気になり、ほぼ1日おきに母の様子を見に行っている兄と、母のケアマネさんに相談すべき点を話しあい、私も頻回に母に電話をするようにしました。しかし、3月の中旬になっても退院のめどが立たず、兄が病院に電話をしても、病棟の看護師は何も説明することは許されないため、医師との面接の予約を入れてもらいました。同時に、面会できないことを忘れてしまう母は、毎日病院に行っては断られ、がっかりして帰ってくる、ということを繰り返していました。そして、医師と面談した兄から、どうも問題は、口から食べられていないため、全身状態の回復が遅く、リハビリが進まない、また、点滴が取れないと療養型医療施設に転院するのも難しい、というような状態だと聞いた私は、居ても立ってもいられなくなり、上司に状況を説明し、1週間の休暇をもらい、弾丸帰国をすることにしたのです。
 前回のエピソードで書いたように、今、職場は前代未聞のカオスに陥っており、ただでさえスタッフが足りないのに、さらに穴をあけてしまう心苦しさはありましたが、やはり、背に腹は代えられぬ、勝手ながら、どうせ使えなくなってしまう、たまりにたまった有給休暇を消化するにもいい機会だと思い、すぐに飛行機のチケットを購入しました。ちょうど3月から水際対策が大幅に緩和され、入国後の強制隔離がなくなり、3回目のブースター接種をしていない人でも、自宅待機3日目に自主検査を受けて陰性なら、その時点で自宅待機が解除されることになっていたことも、好都合でした。
 月曜日に日本に到着した私は、火曜日に兄が予約しておいたオンライン面会で、やっと父の顔を見ることができました。4週間、点滴だけで生きていた父は、痩せて、すっかり面変わりしており、意識はありましたが、朦朧として言葉も不明瞭でした。久しぶりに父の顔を見た母や兄もショックを受けており、私は自分の予想が完全に間違っていたことに愕然としました。その日、私は上司にメールを送り、場合によっては、介護休暇を取りたいので、今の職場の状況でそれが可能かどうかを尋ねました。すぐに、まずは病院が提携している保険会社に連絡して、必要な手続きをしなければならない、との返事が来ました。私は、とりあえず木曜日に自主検査をし、金曜日に病院の医師と面談する予定だったので、その後、どうするかを決めることにしました。母は相変わらず、一日に何度もお見舞いに行こうとし、その度に面会させてもらえないことを説明し、彼女と実際に一緒に生活することで、父が電話でよく言っていた、「修行だよ」という言葉の意味を身をもって実感していました。その時点ではまだ、一週間後にはアメリカに戻らなければならないと思っていたので、とにかくできる限りの準備をしようと、まずは母のケアマネさんに電話をしました。父の状況を話し、もしかしたら私が介護休暇を取り、在宅ケアに移行することになるかもしれない、と話すと、そうなった場合は、彼女が父のケアマネも兼ねてくれるとのことでした。兄からも、とてもいいケアマネさんで、父の入院に際しても、いろいろお世話になったと聞いていたので、とりあえず安心の滑り出しでした。
 自主検査で無事陰性だった私は、予定通り、金曜日に病院へ行き、担当医師と看護師、MSWと面談することができました。高台にある病院の4階の、広いラウンジで呼ばれるのを待っている間、何気なく外に目をやると、花曇りの空の遥か遠くに、うっすらと富士山が見えました。思わず窓辺に近寄って目を凝らし、父にも見えているのだろうかと思いながら見入っていると、ふと、父が毎年夏に富士山登頂をしていたことを思い出しました。50歳で独立するまで勤めていた会社の社員登山で、30回近く登頂し、その後古希の記念に登ったのが最後でした。私が5年生の時に初めて一緒に登った時のことなども思い出し、感慨にふけっていると、若い看護師さんがやってきて、面談室の方へ案内されました。
 医師のT先生は父が入院した時の状態から現在までの流れを説明し、最新の検査結果なども見せてくれました。要するに、これといって決定的な病態があるわけではなく、貧血や腎機能の低下はあるものの、致命的なものではなく、主に食事ができないことによる全身状態の衰弱であって、現在行っている、生命維持のための点滴以外の治療はできないということでした。そして、急性期病院としては、そういう患者を長い間入院させておくことはできないため、療養型病院への転院に向けて受け入れ病院を探す予定だ、というのがその時点での方針でした。
 私は、父が胃ろうを含む延命治療はしないと言っていたこと、ひと月入院していて回復が見られないのはつまり、父がエンドオブライフにあるということで、療養型病院に転院しても、おそらく治療方針に変わりはなく、結局家族にも会えずに一人で死ぬことになるのだとしたら、自宅での看取りをふまえて、この病院から在宅ケアに移行することは可能か、と尋ねました。すでに介護休暇については上司に打診してあることを話し、いったんアメリカに戻って、休暇が取れ次第再び帰国し、それに合わせて退院できるならばそうしたい、と申し出たのです。
 T先生は、私が“エンドオブライフ”という言葉を使ったことに少し驚いたようでした。すると、MSWのSさんが「娘さんは、アメリカでホスピスナースをされているんですよね」と言ったのです。緩和ケア病棟にもかかわっている彼女は、そこで私の本を見たとのことでした。そういえば、以前父が、「○○病院の緩和ケアの師長さんに、お前の本を渡しておいたよ」と言っていたのを思い出し、「そうなんです。どうも、父は以前心臓でお世話になった時から、診察に来るたびに、お医者さんや看護師さんたちに宣伝していたみたいで...」と言うと、T先生は「そうなんですか。それなら安心ですね。ご家族の受け入れさえ整えば、もちろん、ここから直接在宅に移行することは可能です」と、明らかにほっとしたような、気が楽になったような表情になりました。私の方から“看取り”という言葉を使ったことで、それまで、なんとなくもやもやとしたぎこちなさが漂っていた面談室の空気が変わり、だったら話は速い、とばかりに、T先生もSさんもギアを切り替えたのがわかりました。その変化は、私に自分の判断が間違っていなかったという確信と、やはりそうか、という落胆をもたらしました。しかし、同時に、そこで惑わすような余計なことを一切言わず、父の尊厳のために、全面的に私の意向を汲み、その方向に向かって動き出してくれたことに、感謝していました。T先生は、退院に際して、点滴は終了し、症状緩和のみにフォーカスすることに賛成してくれ、Sさんはケアマネさんと連携して、在宅医療と在宅看護、医療機器や入浴サービスなどの受け入れ状況を確認します、ということでした。彼女は、できるだけ、看取りまでやっている事業所がいいでしょう、と、その時点ですでにいくつかの事業所に目星をつけてくれていました。
 家に戻り、母と兄に報告すると、私の独断にもかかわらず、2人とも納得し、賛成してくれました。それから、時差を考えながら、夫が起きたころを見計らって自宅に電話をし、父の状態を伝えると、できるだけ早く介護休暇を取りたいので、朝一番で私の上司に電話をして、介護休暇を申請するための必要事項を、至急送ってもらうように頼みました。夫はすぐに上司に電話をしてくれ、状況を説明し、保険会社のメールアドレスなどを転送してくれました。私はすぐに申請フォームに必要なことを記入し、確認すると、送信しました。アメリカは金曜日の朝だったので、できれば週末前に手続きを始めたかったのです。
 その晩、日本に着いてから時差ぼけしている暇がなかった私は、珍しく眠りにつくことができず、父のこと、母のこと、アメリカの家族のこと、仕事のことなどが、とりとめもなく頭の中でグルグルと渦巻いていました。どうしても眠れないので、時間を確認しようと、枕元でチャージしていた携帯電話を見ると、夫からメッセージが届いているのに気づきました。何やら介護休暇の申請に関することらしく、どうせ眠れないし、そもそも暗闇の中、眼鏡無しでスマホの文字が読めるはずもないので、その場で電話をすることにしました。すると、夫はどうして私がいったんアメリカに戻ってくる必要があるのか、という疑問を投げかけてきたのです。私は、「だって、介護休暇が取れてからじゃないと」と言うと、彼が私の上司と話した時の理解では、彼女はすでに私がこのまま日本に残るものという認識で、保険の手続きは、単に私の雇用ポジションを保証するためのものであり、勤務のスケジュール的には休暇を向こう4週間延長するので、一旦帰ってくる必要は全くない、というのです。
 目から鱗が落ちるとは、まさにこのことでした。落ち着いて考えれば当然のことなのに、私は、すっかり非合理な思い込みにとらわれていたのです。私は夫に感謝すると、すぐに上司に電話をしました。「Nobuko!そっちは真夜中でしょ? どうしたの?」と驚いた上司に、たった今夫と話したこと、いったん戻らずに、このまま日本に居られると聞いた、と前置きしてから、「こんな大変な時に、本当に申し訳ないけど、勝手ながらそうさせてもらいます」と言うと、彼女は躊躇することなく、「何言ってんの、当り前じゃない。自分の家族が何より大事でしょ。こっちのことは心配しなくていいから。しっかりお父さんのケアをしてあげて。みんなも同じ気持ちよ」と言い放ちました。その言葉を聞いた途端、ぽとん、と落ちてきた安堵とともに、涙が溢れてきました。何の迷いもなく、即答してくれた上司と、彼女と話をしてくれた夫、そして、毎週のように仲間が辞めていく中で、大きな不安とストレスにさらされている同僚たちの優しさが、ひたすらありがたく、電話を切ったあとも、暗闇の中、しばらく涙が止まりませんでした。
 翌朝、母と兄に、いったんアメリカに戻る必要がなくなったこと、介護休暇が取れたので、このまましばらく日本に居られること、週明けに病院に電話をして、できるだけ早く退院の準備をしてもらうように頼むことを話しました。母は、私の夫に悪い、と申し訳ながりつつも、「あなたがいてくれるなら安心だわ。私だけじゃどうしようもないもの」と喜びました。兄も、私が行ったり来たりしなくて済んだことを喜んでくれ、早速父を迎える準備について、話し合いを始めました。その際、父は点滴を外して帰ってくること、その代わり、父が飲みたいものや食べたいものを、飲みたいだけ、食べたいだけあげてよいこと、もしも食べたくなかったら、それは父の身体が欲していないということなので、自然に任せること。それが一番無理がなく、父にとって楽なことなのだ、と説明しました。そして、それはつまり、延命はしない、という意味であることをはっきりと伝えました。母は泣きましたが、それでも、「それがお父さんにとっては一番いいものね、それがいいわね」と納得し、とにかく父が家に帰ってこれることを喜びました。兄はいったん自宅に戻り、リフレッシュしてから日曜の夜にまた来ると言って、帰っていきました。そして、その週末は母と私の二人で、幾度となく、①母がお見舞いに行こうとする、②行っても会えないこと、もうすぐ退院することを説明する、③母、歓喜する、それから点滴はどうするのかと訊く、④自然に任せる旨を説明する、⑤母、泣く、⑥父にとってはその方が楽なのだと説明する、⑦母、納得して私に感謝する、という一連のエモーショナルローラーコースターライドを繰り返したのでした。記憶というのは本当に不思議なもので、数分前に自分を揺さぶった感情さえも一緒に忘れてしまうのです。もしかすると、どこかにその感情の余韻のようなものが残っているのかもしれませんが、同じ質問や同じ言動とともに、同じ感情表現を何度も繰り返す母を見ていると、もの凄いエネルギーを消耗しているのではないか、と思わずにはいられませんでした。
 月曜日、朝一番でMSWのSさんに電話をし、介護休暇が取れたので、1日も早く退院できるように手配して欲しい、と、お願いしました。Sさんは、すぐにT先生とケアマネさんに連絡を取り、日程が決まり次第連絡すると言ってくれました。そして、その日の午後に、「水曜日の午前中に退院が決まりました」と電話があったのです。そこからは、あれよあれよという間にことが進んでいきました。
 もともとの予定ではアメリカに帰るはずだったその日は、母の誕生日でした。料理の上手な兄がごちそうを作り、アメリカの家族とラインでビデオ通話をしてお祝いし、母はとても嬉しそうでした。母と一緒に彼女の誕生日を祝ったのは、30年ぶりでした。そして、母にとっては、結婚以来初めての、父のいない誕生日でした。
 火曜日の朝、ケアマネさんが来て、父の要介護5の認定を確認し、父との契約を行ないました。そのあと、病院のT先生から電話があり、父の熱が上がっており、多少喘鳴が聞こえるので、念のために抗生剤を使うかどうか、と訊かれました。コロナは陰性だということで、私はほぼ反射的に、「多分、終末期の発熱と喘鳴だと思うので、解熱剤とクーリングで様子を見て、喘鳴があるなら点滴の量を減らして、アトロピンかスコポラミンなどで少し乾かしてあげられませんか?」と頼みました。すると、T先生はすぐに同意し、「そうですね。腎機能もよくないですしね。わかりました、では、そうしましょう」と言って電話を切りました。その会話を聞いていた兄が、私を見て、「お前、スゲーな。医者に指示出す看護師、初めて見たワ」と驚いていました。「何言ってんの、指示じゃないよ、”お願い”しただけでしょ」と言いつつ、ああ、これは日本的にはマズかったのかな、出しゃばりすぎたかな、もう少し婉曲に言った方がよかったのかな? と、まるでホスピスナースのような話し方をしてしまった自分に、一瞬冷や汗が出ました。しかし、次の瞬間には、「いやいや、そんな悠長なことは言っていられない。T先生だって、多分同じ考えだったはずで、だからあんなにあっさり賛成したんだろうし、一応念のために家族に確認を取っただけだったんだろうし」と思い直しました。
 その日はドラッグストアで介護用品を買い、夕方には医療機器の業者さんが来て、居間兼食堂だった部屋に電動ベッドを設置してくれました。寝室よりも、父がいつも座っていた場所の方が、丹精込めて作った庭も一望できるし、一緒に食事もできるし、なにより、そこが一番父らしい、この家での定位置だったのです。ベッドが整うと、いよいよ、本当に父が帰ってくるのだ、という実感が湧いてきました。ただ、朝のT先生からの電話がずっと気にかかっており、とにかく、予定通り無事に帰宅できるよう、それだけを、ひたすら祈っていました。 父を看取る(2)に続く。
[2022/05/21 20:35] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(2)
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[2022/05/23 17:33] | # [ 編集 ]
Re: タイトルなし
> よくやったね。あのお庭は、お父さんが丹精込めて造ったものだったのね。50歳過ぎると、いろいろあるけど、お互い健康でしっかりやっていきましょう。
どうもありがとう、まみ。そうだね、これからもよろしくね。
[2022/05/23 19:35] URL | ラプレツィオーサ伸子 #- [ 編集 ]
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アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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