先日、‟これだけは絶対にしたくない失敗トップ5”のひとつをしてしまいました。 ナースの受け持ち患者さんは、移動時間を少なくするため、できるだけ各ナースのテリトリー内で納めるのですが、小児ケースの場合は、私と新生児を担当する母子専門ナースの二人しかいないので、テリトリーがありません。その日は、てんかん発作の後に呼吸状態が悪くなり、一時的に小児病院に入院していた子が退院したので、ホスピスケアを再開するため、となりのニュージャージー州に渡る橋の一歩手前、インターステート(州をまたぐ高速道路)のペンシルベニア州最後の出口を降りたところにある町まで行きました。その帰り、高速に乗る前に、トイレに行っておこうと思い、高速入り口の横にあるガソリンスタンド付きの大きなコンビニに寄りました。その日は、朝は結構冷えていたのですが、どんどん気温が上がり、その子の訪問を終えた頃には、すっかり春の陽気になっていました。暑くなった私は、コートを脱ぎ、財布の入ったバッグを持つと、ドアを内側からロックしてから車を降りました。というのも、数年前、昔の同僚が、車の鍵をリモートでピッとロックした後数十秒以内にそれを解除する方法があり、駐車場などでは自分を含め、そうやってクルマ泥棒の被害にあうケースが増えているから、できるだけ内側からロックして降りた方がいい、と勧められ、以来そうする習慣がついていたのです。特に治安のあまりよくない地域では、必ずそうするようにしていました。が、そこで浮上してきたのが、”キーを車内に残してロックしてしまう”という恐怖でした。だったら、ピッとやればいいじゃないか、とも思うのですが、個人情報満載の、仕事用のラップトップコンピューターを盗まれたりしたら大ごとなので、必ずポケットのキーを触ってからドアを閉めるよう、いつも、ほとんど強迫観念のように確認していました。 しかし、生きていれば、魔が差すというか、意識の空白の穴に落ちる時は必ずやあるのです。大型コンビニでトイレに行き、コーヒーを買ってお金を払い、ポケットからキーを出そうとした時、私ははっとしました。あれ? ポケットがない? 一瞬パニックになり、それから、すうっと血の気が引いていくのが分かりました。そう、キーは、コートのポケットの中。そして、そのコートは車の中にあったのです。私は震える手でコーヒーカップをつかむと、一縷の望みをかけて車に戻りました。しかし、そこはしっかり者の私。やはり車はロックされており、窓もぬかりなくキッチリと閉まっていました。そして、助手席にはポケットにキーの入ったコートと、仕事用とプライベートの携帯が両方共入っている、ラップトップ用のバッグが鎮座していました。ああ、ついにやってしまった... 「バカバカバカ、私の大バカヤロウの大マヌケ!」 こともあろうに、家から高速道路を使って1時間。今の世の中、公衆電話というものは存在せず、たとえあったとしても、かける相手も電話番号もわからず、途方に暮れる、というのはこういうことか、と一瞬思いましたが、いやいや、私に暮れている時間などない。私はお店の中に戻ると、コーヒーのセルフサービスコーナーで、甘いコーヒードリンクの機械の受け皿をかたずけていた、大学生くらいの男の子を見つけ、大変申し訳なさそうに、「すみません、お忙しいところ申し訳ありませんが、ちょっと助けて頂けないでしょうか」と声をかけました。すると、何とかマネージャーという名札を付けたジャレッド君が、さわやかに、「もちろん。どうしました?」とにっこりしました。私が、かくかくしかじか、と状況を説明すると、ジャレッド君は、「あんれ、まあ!」とは言いませんでしたが、精一杯気の毒そうな顔をして、「そりゃ大変だ。誰か家族にキーを持ってきてもらえないんですか?」と言い、私が事情を話すと、「じゃ、AAA(トリプルエー:日本のJAFのようなサービス)には入ってる?」「いやあ、何年も使わなかったから、やめちゃった...」「ああ、じゃあ、ロックスミス(鍵を開けてくれるサービス)を呼ぶしかないですね。結構高くついちゃうけど、しょうがないですね」「そうですね、それしかないでしょうね」などと言っている間に、彼はちゃっちゃと携帯でロックスミスの番号を探し出し、お店の電話の子機を持ってくると、さっさとそこに電話をし、相手が出ると、「ハイ、どうぞ」と、私に電話機を差し出したのです。なんて親切な若者なんだ! しかも、電話の相手に、こちらにかけ直すための電話番号を聞かれ、私があたふたしていると、さっとお店の住所と電話番号が書かれたレシートをプリントして手渡してくれ、「この番号にかけてもらえば、取り次ぐから」と言ってくれたのです。私が、心底恐縮しながら、「本当にありがとうございます。ご迷惑おかけして申し訳ないです」とお礼を言うと、またもやさわやかに、「ノープロブレム。こんなことになって、同情しますよ」と優しさ全開。情けなさでいっぱいのオバさんは、もう、イチコロ。心の中で、”これはもう、店長さんにジャレッド君の善行をお知らせして、ボーナスのひとつでもあげてもらわねば”と思いながら、電話の置いてある入り口わきの事務室の近くで、できるだけ小さくなりながら折り返しの電話を待っていたのです。待つこと30分。その間、ジャレッド君は「椅子持ってきましょうか?」とまで気を遣ってくれ、ますます恐縮した私は、「大丈夫です、どうぞお気になさらず」と、壁に張り付くようにして立っていました。そして、ようやく電話がかかってきたときには、ジャレッド君のシフトは終わっていたようで、若い女の子が代わりに電話機を持ってきてくれました。 雑音の混じった電話の向こうでは、男の人が、中近東の訛りのある英語で、あと45分から1時間くらいでこちらに着くと思う、着いたらまた電話するから、と言っていました。1時間か、長いな、と思いながらも、私に選択肢はなく、「OK」と返事をするしかありませんでした。お礼を言って電話機を返し、腹を決めると、店の外に出ました。万が一、また電話がかかってきたときのため、出入り口からあまり離れていないところに立ち、ぼんやりと車や人の動きをながめながら、ああ、せめてラップトップがあれば、山のような記録をすることができるのになあ、時間がもったいないなあ、今夜は徹夜かなあ、と相変わらずぐずぐずしていました。しかし、そのうち、その日の訪問は全て終わっていたことが、せめてもの不幸中の幸いだと、思い直しました。そして、ジャレッド君やお店の人達の親切に触れたことで、なんとなく、ま、こういうこともあるさ、ちょうどいい機会だから、ゆっくり考えごとでもするか、という気になっていきました。というのも、私には、人生を左右するかもしれない(というほどでもないです)、真剣に考えなければならない案件があったのですが、なかなかそのことだけを考える、という時間が持てずにいたのです。 7年ほど前、私たちのホスピスが所属する地域に根差した病院は、フィラデルフィアの大きな大学病院のヘルスケアグループに、パートナーシップという名目で吸収合併されました。長年、地域の人たちに親しまれた名前が変わり、古き良き時代は終わりました。マネージメントのスタイルが変わり、失望したメンバーは次々と転職、チームの半分が近隣のホスピスに流れていきました。残ったのは、あと数年で定年を迎える人たちと、私だけでした。かつての同僚は、転職先から声をかけてくれましたが、私はどうしても、ここでやってきた、小児ホスピスをあきらめることができませんでした。そして、少しずつ、新しい環境のなかで、もう一度チームを立て直し、それ以前とは確かに違ってはいましたが、それでも、ホスピスケアに情熱を持った新しい上司と、集まってきた新たなメンバーたちによって、堂々と胸を張れるホスピスチームが再生されたのです。勤続24年になり、よほどのことがない限り、このまま定年まで勤めあげ、ここに骨をうずめるんだろうな、と思っていました。 ところが、2年に渡るパンデミックによって、さまざまな意味で、医療業界は困難と混沌に陥り、生き残るために長いものに巻かれる、小さな魚は大きな魚に飲み込まれていく、という、ここ15年ほどのトレンドに加速がつきました。そして、昨年末、何の前触れもなく、私たちは、在宅部門(ホームケアとホスピス)が、テレビのコマーシャルで知られる、大手のホームケアエージェンシーに売られたことを知らされました。もちろん、それを伝えてきた人たちの言葉によれば、売られたのではなく、一緒に新会社を立ち上げる、新しいベンチャー企業を誕生させる、という、希望に満ちた、これからのホームケアとホスピスをけん引していくモデル事業になっていく、というものでした。しかし、その言葉を鵜呑みにし、喜んだ人は、おそらく誰一人としていなかったと思います。特に私のように、勤続期間の長い職員たちにとっては、この青天の霹靂はショック以外の何ものでもありませんでした。それまで積み上げてきた勤続年数や有休などの蓄積、健康保険などの社会保障、すべてゼロからやり直し、と言われたようなものでした。そして何よりも、現場のナースたちにとってショックだったのは、合併する相手が、よりにもよってその大手会社であることでした。 腰の軽い人たちは、直ちに履歴書をアップデートし、転職先を探し始めました。奇しくも、パンデミックになってからは特に、どの医療機関も人手が足りず、かなり高額の契約時ボーナスをかかげるほどになっており、病院勤務に戻るナースや、他のホームケアに転職する人、ナーシングホームに転職するエイドなど、あれよあれよというまに人が辞めていきました。私達ホスピスチームも例外ではなく、この仕事に愛と情熱を持ち、チームの一員として一緒に支え合ってきたメンバーも、それぞれの事情でやむを得ず、転職していきました。1人、また1人と、櫛の歯が抜けるように、チームは痩せていきました。そして、残った者たちの負担は日々増すばかりで、それでもできる限り患者さんたちのケアに影響が出ないよう、普段はオフィスにいるチームリーダーたちまでもが、訪問に出ていくようになったのです。この24年間で、これほどの勢いで人が辞めていく状況は未だかつてなく、まさに前代未聞でした。大手会社からの新たな採用条件提示や、それに対する質問などへの対応は、それまで迷っていた人たちにも決断の拍車をかけるようになり、出血は止めようもない状況になっているのです。 そんな中、私は自分がどうしたいのか、揺れていました。離れていった同僚たちと同じように、私にも、この大手会社の傘の下で働くことに対するアレルギー反応のようなものはありました。しかし、一番のネックは、7年前と同様、小児ホスピスへの、執着ともいえる、情熱でした。この話を聞いたとき、私と小児ホスピスのパートナーであるMSW のキンバリーの最初の疑念は、この大手会社が、お金にならない小児ホスピスを継続するかどうかでした。もしも小児ホスピスプログラムを終了するようであれば、ここにいる最大の理由が無くなるからです。そして、私の上司の知る限り、小児ホスピスに関してはなんの話も出ていないので、現状維持なのではないか、と言ったあいまいな状況でした。 いったい私はどうしたいのか、せめて履歴書の見直しくらいはした方が良いのではないか、でも、このご時世、たとえ転職したとしても、その転職先が将来この大手会社に飲み込まれない保証はないのではないか、などと、あーでもないこーでもないと考えていると、お店の中から、さっきの若い女の子が出てきて、「あなたに電話よ」と私を呼びました。ハッと我に帰った私は、店内に戻り、電話機を受け取ると、先程の男性が、「いやあ、お宅のことを忘れたわけじゃないんだけど、迂回しなくちゃならなくてさ、あと30分くらいかかりそうなんだ。本当に申し訳ない。まったく、運転マナーを知らない人が多くて困るよ。とにかく、僕のトラックは両方のサイドミラーにアメリカの旗がついてるから、すぐにわかるよ。すまないね」と、繰り返していました。私は、こうなったら大した違いもないので、笑いながら、「気にしなくていいですよ。気を付けて来てください。わざわざ連絡してくれて、ありがとうございます」と返事をしてから切ると、さっきの女の子に、「どうもありがとう、ここに置いておきます」と言って電話機をキッチンのカウンターの上に置きました。 再び店の外に出ると、いつの間にか夕暮れの気配が忍び寄っており、手持無沙汰の私は、背筋を伸ばしたり、首のストレッチをしたり、腹式呼吸をしたりしながら、ブルーカラーといわれる、毎日、文字通り汗水流して働いている人たちが、一息つくために立ち寄り、食べ物や飲み物、タバコなどを買ってはまた出ていく様子を眺めていました。そして、ぼんやりと、「世界の大きなお金を動かしている、ほんの一握りの人たちは、残りのほとんどである、こうして一日一日を必死に生きている人々の生活を考えることなどないのだろうなあ」と思うと同時に、それでも、人々の生活を支えているのは、自分を含めた、労働者なんだよな、としみじみと思ったのです。そして、この人たちも、理不尽な吸収合併や、長いものに巻かれたりしながら、それでも一生懸命生きているんだろうな、と思うと、もう少し気持ちを落ち着かせて、”もしも”や、”多分”、”もしかしたら”などの未確定なものに惑わされず、しばらく様子を見てみようかな、別に、慌てることはないんだから、という気持ちになってきたのです。 そんなふうに、ほんの少し気持ちに余裕が出てきた頃、高速出口側の道路から、両サイドのミラーに小さな星条旗をはためかせたトラックが入ってきました。私は壁際から踏み出し、手を振ると、そのトラックはすうっと私のクルマの後ろに停まり、中から小柄な男性が飛び降りてきました。「いやあ、遅くなって本当にすみません。ぐるっと遠回りしなくちゃいけなくてね。でも、すぐに開けるから、もう安心してくださいよ」と言いながら、私のクルマを覗き込むと、トラックから七つ道具のようなものを取り出しました。それから、あっという間に鍵を開けると、ニコニコしながら、「ハイ、これでもう大丈夫です」と言いました。私は、うわあ、と感心しながら、なんだか3時間待ち3分診療、みたいだな、と思っていました。それから、支払いの手続きをしていると、フレンドリーなその男性は、「あなたは韓国人?」と尋ねてきました。私が、「いえ、日本人です」と言うと、彼は目を丸くして「えーっ!!」と叫び、それから日本語で、「ウソ! ホントに? マジ? オネエサン!」と言ったのです。今度は私が、「えーっ! なに? マジ? オニイサン!」と言う番でした。その人は、日本に住んでいたことがあり、「新中野、秋葉原、大阪、六本木...」と住んだり働いたりしたことのある地名をあげ、それから、「ボク、日本大好きですよ。あー、こんなところで日本人に会えるなんて、嬉しいなあ!」と言って胸に手を当てました。それから、財布の中から名刺を取り出すと、「いつもはこういうことはしないんだけど、これは、僕の個人のビジネスの方なんです。今日はロックスミスの仕事なんで、チャージがこんなに高いんだけど、もしもまた助けがいるようだたら、ここに電話して下さい。いつでも、どこにでも行きますよ」と言って、差し出しました。彼の口から出た地名を聞いて、いったい日本で何をしていたのかなあ、と思いつつも、おそらく自分の故国を離れ、日本に住んだりしながらも、今はこうしてアメリカで自分のビジネスを持っている、陽気な彼の雰囲気にのまれ、ありがたく名刺を頂くと、「そんなことがないといいけど、万が一またやらかした時は、ぜひお願いします」と言って別れました。 無事に車に乗り込み、すぐに、この空白の2時間の間に仕事の電話やメッセージが入っていなかったかを確認、幸い緊急の要件はなく、いくつかのメッセージに返信してから、エンジンをかけました。高速道路に乗り、西日に向かって車を走らせながら心に浮かんできたのは、『禍福は糾える縄の如し』『災い転じて福となす』『人間万事塞翁が馬』などの、ことわざでした。そして、今夜は夕飯の時に、この話をしよう、悪いことの中にもいいことはあるもんだ、と、子供たちに伝えよう、と思いながらも、あーあ、でもやっぱり今夜は徹夜かな、と、煩悩はそうそう払えるものではないことにも気づいたのでした。
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