ここ数カ月、化粧をしていません。もともと、化粧と言ってもシミ隠しのファンデーションと、口紅をつけるだけなのですが、マスクをするようになってからそれもしなくなりました。とくにN95マスクは顔にぴったりと密着させるので、一日に何度も着けたり外したりするうちに、顔にはマスクの痕が付き、その部分のファンデがすっかり剥げてしまいます。本来使い捨てのはずのN95マスクですが、この状況では長期間の使用を余儀なくされているため、最近は少し改善されたものの、やはり何度も使っていると内側がクレヨンでも塗ったように汚れてしまいます。そのため、私を含め、ほとんどの同僚たちもファンデーションは塗らなくなりました。男性の同僚は顎ひげをそらねばならず、そちらはちょっと若返っていました。まあ、どうせ人と会う時はマスクで隠れているのだし、一応運転中の紫外線予防に日焼け止めだけ塗っています。 N95マスクを使い始めて3カ月目くらいの頃、突然唇が真っ赤に腫れ始めました。特に何か食べたり飲んだり塗ったりしたわけではなく、ちょっと唇がひりひりするな、と思ったら、どんどん赤くなり、保湿用リップクリームが手放せなくなりました。多分口唇炎だろうと思い、オバQのような唇にひたすら保湿用リップを塗りたくり、3週間ほどしたらよくなりましたが、いまだに原因は分かりません。夫は「マスクの消毒に使う化学物質じゃないのか?」と言っていましたが、私はなんとなく、意識はしていなかったけれど、ストレスだったのかな、と思っています。しかし、それ以来、なんとなく唇の感じが変わってしまい、皮膚が薄くなったような気がして、保湿用リップを常用するようになりました。 最近、同志社大学の心理学部が、日本人のマスク着用に対する研究で、着用の主な理由はウイルスからの感染予防よりも、「みんながしているから」という、同調思考であったという研究発表をしました。それを読んで、「ああ、いかにも日本人らしいな」と思ったのは、私だけではないと思います。日本では「自粛警察」なる現象が発生したそうですが、アメリカでは「マスク警察」が登場しています。下手をすると、本当の警察を呼ばれてしまうこともあります。そして、もっと下手をすると、手錠をかけられてしまいます。そう、ここアメリカでは、公共の場でマスクをするかしないかが、科学的見地だけではなく、11月の大統領選挙やファウチ博士とビル・ゲイツの関係うんぬんかんぬん、そして、個人の自由、と言った、政治的、思想的な方向から、大きな問題になっているのです。マスク着用による感染予防を信じずに、着用を拒否する人を「殺人未遂」、外遊びをする子供にマスクを着けさせていない親を「虐待」とまで非難するのは度を超えていますが、要するに、いつ、どんな状況でマスクを正しく着用する必要があるかを理解していない人も多いのでしょう。 確かにマスクをして黙々と犬の散歩をしていたり、自転車に乗っている人を見ると、ちょっと気の毒に思ってしまいますが、それでその人が安心できるのなら、熱中症に気をつけさえすればいいのかな、と思い直してしまい、マスクに対する確固たる主張を持てない曖昧な自分に、日本人の血を感じたりもします。一方で、おしゃれなレースのファッションマスクや、夏用の通気性抜群マスクなどは、果たしてマスクの用途を果たしているのかと疑問に思うと同時に、世の中ってそんなもんなんだなあ、と、面白がったりもしてしまいます。 ただ、面白がってばかりもいられないのは、やはり高齢の患者さんや認知症の患者さんに会う時です。私たちはマスクだけでなく、フェイスシールドも装着しなければなりません。場合によってはフェイスシールドの代わりにゴーグルでもいいのですが、一応第一選択はフェイスシールドということになっています。病院のスタッフとは違い、訪問の場合、こうした装備はビニールの袋やプラスチックのケースに入れ、車のトランクに入れています。そして、訪問先のドライブウェイあるいは路駐した場所で着脱します。さらに一回一回アルコールパッドで消毒するため、薄っぺらなプラスチックのフェイスシールドは、あっという間に細かい傷で不透明になってしまいます。そうなると、私から見る世界はまるで靄の中、患者さんからは私の顔は霞の中にしか見えないため、お互いの表情はよく分かりません。その上マスクで声がくぐもり、ただでさえ耳の遠い高齢者には、私の言っていることがほとんど聞こえないのです。つまり、アセスメントや、エンドオブライフケアに一番大切なコミュニケーションの、大きな障害となっているのです。 在宅ケアの場合、病院と違って患者さんと家族以外に接触することはほとんどありません。2週間以上Covid19の症状もなく、自宅、もしくは自室、さらにはベッドから出ることもない患者さんは、感染している可能性はほぼないといえます。また、介護している家族は、私たちの訪問時にはマスクをしてもらっています。マスクは私からの感染の危険を低くするために必要ですが、フェイスシールドやゴーグルは、私の感染予防のために着けます。つまり、ほぼ確実に陰性である患者さんから飛んでくる飛沫が私の目に入らないように防護しているわけです。そして、そのために患者さんはナースの表情も見えず、私たちは怒鳴るようにして話さなければなりません。そこに、どれだけの意味があるのでしょうか。 私たちのホスピスの主体は、病院であり、しかも数年前にフィラデルフィアの大きな大学病院系医療システムの傘下となったため、以前のように訪問看護部及びホスピスとしての独自のガイドラインを作ることが難しくなり、病院の指示に追従しなければなりません。そして、病院で作られるガイドラインは、在宅ケアの現状は全く念頭に入っていないのです。私たちは、雨や暴風の中、車のトランクからPPE を出し、道端でそれを装着しなければなりません。Covid陽性の場合は仕方がないとはいえ、気温が30度を超える真夏に、エアコンのない家の中でのPPEフル装備は、まさにパーソナルサウナです。N95マスクとフェイスシールドだけでもシールドは曇り、長く話すと息が苦しくなります。皮膚の弱い同僚は、顔にあせもができて大変だと嘆いています。 小児のケースを訪問する時は、N95マスクの上に、ボランティアの人が作ってくれた布製のかわいいプリント柄のマスクを着けます。二重にするとさらに息苦しくはなるのですが、味気ないN95マスクよりも、せめて楽しい柄の方が異様な感じが少ないし、子供によっては私のマスクを触ったり引っ張ろうとしたりするので、一番汚染されているマスクの外側をカバーするためにも、そうしています。そして、上司には内緒なのですが、ゴーグルやフェイスシールドはつけません。もちろん保護者の了承のもとですが、どう考えてもその必要性が見つからないからです。 在宅ケアの良さの一つに、臨機応変、があります。在宅ケアは病院を家に持ち込むのではなく、それぞれの環境の中で工夫して、いかに安全で快適な状況を維持していくかが、訪問スタッフの腕の見せ所であり、醍醐味でもあるのです。感染予防も同じです。病院とは全く違う環境の中で、何が必要で、何が不要なのかを考えなくてはならないはずなのです。 そんなことを思いながら、毎日のように病院から送られてくるアップデートのメールを読み流しては、バンバン消しています。そして、こうしてブログでつぶやいて、ほんの少しうっ憤を晴らしては、いつの間にか終わりに近づいてしまった夏の雲などを眺めている、今日この頃なのです。
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