日本では、老々介護やおひとりさま要介護が、予測されていた通り(いや、それ以上?)増えていますが、アメリカでも、老々介護はもとより、一人暮らしで子どもがいなかったり、いても遠くに住んでいたり、近くに住んでいても事情があったりで、介護者問題は悩みの種です。ホスピスケアを始める時、一人暮らしの患者さんの場合、かならずMSW (メディカル・ソーシャルワーカー)が初回訪問に同行し、一人では危険な状態、つまり、ホスピスケアの提供者として、患者さんの安全と安楽を保証できない状況になった場合のプランを話し合います。患者さんの経済状況と、本人の希望をもとに、自宅で住み込み、あるいは通いのエイドさんを雇うか、ナーシングホームに入るか、大まかにいうとその2択になります。(ホスピス病棟やホスピス施設の入所は、2週間以内の短期間しか保険対象にならず、自費で長期入所のできるホスピス施設はもともと多くはありませんでしたが、残念ながらこの2年ほどでさらに激減しました。) おひとりさまでも、ひとによっては、ホスピスケアを始める前から、住み込みや、通いのエイドさんを雇っている人もいます。そしてエイドさんも長い人になると、何年もその患者さんをお世話をしていることもあります。そうなるともう、家族のようになっているのですが、微妙なのは家族のようではあるけれど、やっぱり家族ではない、ということなのです。 ホスピスナースは患者さんとその家族だけでなく、直接の介護者、つまり、自宅であれば雇いのエイドさん、ナーシングホームやグループホーム(重症心身障碍者数人が24時間介護者のいる施設で共同生活をしている場所、一般の住宅を改造しているところが多い)であれば、そこのナースや介護士、ハウススタッフたちも、サポートの対象になります。特にグループホームは、何十年もそこで暮らしている患者さんが多く、家族がいなかったり、音信不通だったりする人もいて、スタッフがそれこそ家族みたいだったりするのです。 そんな中でも、ちょっと気を遣うのは、患者さんの家族に疑問や不満を感じているエイドさんのサポートです。つい最近も、心優しい、悩めるエイドさんと、一人暮らしの患者さんと、近所に住む二人の娘さんたちのはざまで、ホスピスナースという自分の立場から、それぞれをサポートしたのですが、なぜか、ふと、昔、高校のクラスメイトに言われた言葉が胸によみがえってきました。 カーリーというそのエイドさんは、一人暮らしで認知症のジーン(仮)さんを、週5日の半住み込みでお世話をして2年ほどたっていました。ジーンさんは90代で、認知症はありましたが、基本的なコミュニケーションは取れていました。てっきり30代後半、多めに見積もっても40代前半だと思っていたカーリーは、実は私と1つしか違わず、しかも40歳になる息子さんと高校生の孫が2人いると聞いたときは、あまりの驚きに顎がはずれるかと思いました。10代で息子さんを生んだ彼女は、自分で育てることができず、やむを得ず養子縁組をしたのですが、それでも1年に1度は会いに行き、ずっと生みの母としてつながっていたのだそうです。彼女は独身で、通いや住み込みのホームヘルスエイドの仕事を10年以上しているベテランでしたが、ホスピスの患者さんは初めてでした。 ジーンさんの娘さんたちは、2人ともさほど遠くないところに住んでいましたが、どちらも仕事をしており、長女のナンシーさんは病院に勤めるナースでした。ナンシーさんも次女のフランさんも、週に何回かは必ず顔を出し、一週間分の薬をケースにセットしたり、必要なものを揃えたりしていましたが、カーリーによると、30分以上いることは殆どないということでした。ジーンさんが少しずつ弱ってきても、それは変わらず、ジーンさんがいつもうつらうつらしていることもあり、忙しい2人は必要なことだけして帰っていきました。私は、訪問後にナンシーさんに電話で報告をし、薬や、オーダーする物品などの確認をして、コミュニケーションをとっていました。ナンシーさんもフランさんも、ジーンさんの状態や、心身の機能がどんどん下がっていくことは理解して、受け入れていましたが、それでも、どこかでリハビリマインドを捨てきれていませんでした。そして、そんな娘さんたちに、カーリーのモヤモヤはふくらんでいきました。 「Nobuko、ミス・ジーンはもうシャワーは無理よ。ミス・ナンシーたちに説明して」 「ミス・ジーンを椅子から立ち上がらせるのが大変になってきたわ。ミス・ナンシーたちに説明して。ミス・ジーンだって一生懸命立とうとしてるんだけど、できない、できないっていうのに、無理やり立たせるなんて、あぶないし、可哀そうよ」 「ミス・ジーンは食べてる途中で寝ちゃうのよ。ミス・ナンシーたちに説明して」 「ミス・ナンシーたちはわかってないのよ。ミス・ジーンは先週できたことが、もうできないのに。あなたから説明してくれない? 私が言っても信じてないのか、やらせないからできないと思ってるみたいなの」 ナンシーさん達は、カーリーのことを信頼していたし、ジーンさんがカーリーの言う通り、どんどん弱っていっていることは理解していました。訪問後の電話で、ジーンさんの衰弱の状態や、それが自然な加齢現象であり、死への過程であることを説明すると、ナンシーさんは、「そうよね、わかってはいるんだけど、ナースとしては、やっぱりいろいろ考えちゃうわけよ。少しでも回復させられるんじゃないか、せめて進行を遅くすることができるんじゃないかってね」と、職業柄、常に”回復”を目標としてしまうマインドと、娘として少しでも長く元気でいてほしい、という気持ちを、平穏な最期を目指す看取りに切り替えるのは、そう簡単ではないことをつぶやいていました。ナンシーさんもフランさんも、たまに私の訪問中にジーンさんのところに顔を出すことはありましたが、確かにカーリーの言う通り、割とあっさりと用事を済ませていく感じで、リクライナーに座ってテレビを観ながらうつらうつらしているジーンさんのそばに腰を落ち着けるということは、ほとんどありませんでした。ジーンさんは常にウトウトしつつ、声をかければ目を開け、「あらー、よく来てくれたわねえ、嬉しいわ」と、たとえ私が誰なのかを覚えていなくても、にっこりし、アセスメントを終える頃にはまた寝てしまっている、という感じでした。それでも、娘さんたちのことは認識していたし、顔を見ればとても喜んでいました。 「ミス・ナンシーたちは、来てもすぐ帰っちゃうから、ミス・ジーンがどれくらい弱ってきているのかよくわかってないのよ。なんでもうちょっと一緒にいてあげられないのかしら。忙しいのはわかるけど、自分のお母さんじゃない。私は私のお母さんと毎日電話で話すわ。そうしなきゃいられないし、声を聞くだけで安心だもの」 「そうね、あなたの言う通り、実際にどんな風に弱ってきているのか、聞くのと見るのとじゃ、全然違うもんね。ただ、ナンシーさん達もわかってると思うわ。わかっていても、やっぱり自分の生活も大事だし、ジーンさんのことは、安心してあなたに任せているんじゃないかしら。あなたは優しいし、情が深いから、ジーンさんに同情する気持ちもわかるし、モヤモヤする気持ちもわかるけど」 「それはそうだけど...やっぱり私には理解できないわ」 ジーンさんはたまに調子のよい日もありましたが、半歩進んでは二歩下がるようにゆっくりと、しかし確実に終わりに近づいていっていました。ベッドからリクライニングチェア、リクライニングチェアからキッチンテーブルへは、車いすで移動するようになり、食事以外の時間はほぼ、眠っていました。カーリーは、サンクスギビングの前後数日を、別の州に住んでいる息子さんたちと過ごすため、休みをもらい、その間はメリーという、普段は週末に来ているエイドさんがカバーしていました。カーリーとは違って、無口で淡々としているメリーは、サンクスギビングにジーンさんの家族がちょっと顔を見せただけだったことも、「まあ、どうせジーンは寝てるだけだしね」と、あっさりした反応でした。しかし、休みから戻ったカーリーは、それを聞いて、とても憤慨しました。 「信じられないわ! いくらミス・ジーンが寝てばっかりだって、どう考えたって、これがミス・ジーンの最後のサンクスギビングだったのに! ミス・ナンシーたちはそれがわかってないのかしら? どうしてそんなに冷たくできるのか、私にはわからない」 カーリーの憤りは無理もありませんでしたが、私は一緒に怒ることはできませんでした。なぜなら、ジーンさんはナンシーさん達の母親であり、カーリーを育てた人ではなかったからです。 「カーリー、あなたの気持ちはよくわかる。あなたの言う通り、ジーンさんは来年のサンクスギビングにはいないと思う。でも、家族には、家族にしかわからない過去があって、ジーンさんがどんな人だったのか、どんな母親だったのか、ナンシーさんやフランさん達とどんな関係なのかは、私たちにはわからないのよ。私たちが知ってるジーンさんは、本当に彼女のほんの一部分だけであって、もちろん、彼女を人として尊重して、心を込めてケアをしている者としては、腑に落ちないこともあるんだけど、それはやっぱり、他人からの目に過ぎないんだと思う。だから、それでナンシーさん達を判断するのは、私達がすることじゃないと思うわ」 カーリーは素直にうなずくと、「そういえば、ミス・ジーンは優しくて温かい人じゃなかったって、ミス・ナンシーが言ってたっけ。だから、孫たちもあんまり寄り付かないって。確かにそうかもしれない。私にはわからない関係性があるんだろうから。もちろん、私は何も言わないけど、それでもやっぱり、悲しいわ」とつぶやきました。カーリーは情に厚く、まっすぐで、何でも素直に口にする人でした。ジーンさんの状態や、ケアの内容や方法、薬の使い方、なぜそうなるのか、なぜそうするのか、などを、率直に質問し、私が答えると感心しながら納得して、一生懸命実践してくれました。そんなカーリーだからこそ、初めて、自分が世話してきた人が死に近づいていくのを目の当たりにして、気持ちを揺さぶられるのは、当然のことでした。そして、カーリーがそんな気持ちを吐き出せる相手は、ホスピスのナースだけでした。 「Nobukoはいつも私の愚痴を聞いてくれて、本当にありがたいわ。でも、どうしてそんなに平気でいられるの? 辛くなったりしないの? 私はミス・ジーンの仕事が終わったら、もうしばらくはこの仕事はしないわ。人のお世話をするのはとっても好きだし、やりがいもあるけど、もっと自分のための生活や恋をする時間が欲しくなったの。なんかね、いつもいつもミス・ジーンのことやミス・ナンシーたちのことが気になっちゃって、自分自身の時間を楽しめないんだもの」 「それが普通なんだよ」と笑いながら、私自身、どうしてなんだろう? と、25年間何百回と訊かれた質問に、未だにはっきりと言葉にして答えられない、というのが本音でした。どうして私は平気でいられるのか? そもそも、平気って、どういうこと? 私は本当に、平気なの? そんな幾度となく繰り返してきた自問さえ忘れそうになるクリスマスの二日前に、ジーンさんは最後のカーブを回り、ホームストレッチに入ったのです。月曜日のクリスマスに勤務だった私は、週末の報告で、ジーンさんの急変を知り、ただただクリスマスだけは持ちこたえてほしいと願っていました。クリスマスの朝一番にジーンさんを訪問すると、ナンシーさんとフランさん、お二人の旦那さんたちとカーリーが待っていました。ジーンさんはベッドでほんの少し口を開けて、穏やかに呼吸をしていました。金曜日に、いつものリクライナーでうとうとしながらも、「よいクリスマスを」と言った私に、その時だけははっきりと「メリークリスマス」と返事をしたジーンさんは、もうすぐ舟に乗ろうとしていました。 カーリーは私を見ると、今にも泣きそうな子供のような顔になり、「たった一晩で、こんなに変わっちゃうなんて。Nobukoにはわかってたの?こうなるってことが」と直球を投げてきました。私は正直に、「驚かなかったというと嘘になるけど、信じられない、ということはなかったわ。ただ、そういう時がもうすぐ来るっていうのはわかっていても、人それぞれ違うし、花が咲く瞬間とか、雫が零れ落ちる瞬間を当てるみたいなものだから」と答えると、カーリーは、「そうよね。みんなわかってたわよね。私だって、わかってた。でもやっぱり、ショックだったわ。何かできることはなかったの?」と、声を震わせました。私は、一緒に聞いているナンシーさんたちにも語り掛けるように、これが、まったく自然な死への過程であり、ジーンさんの身体の限界であり、私たちが変えられることではないこと、それから、この先ジーンさんが見せるかもしれない症状と、その意味、そして、それらを楽にする方法などを説明しました。みんな私を見て頷きながら聞いていました。それから、で? という目で私が核心に触れるのを待っていました。 「今のジーンさんの様子やバイタルサインからだと、多分24時間から48時間くらいかと思いますが、もちろん、私も水晶玉は持っていないので、ハッキリとはわかりません。ですが、いつお迎えが来ても、驚かないです。ただ、なんとなく、ジーンさんもクリスマスは皆さんと一緒に過ごしたいんじゃないかな、という気がするだけです」 すると、フランさんが涙声で、「ああ、お母さん、みんなもうすぐ来るわよ。ちゃんと待っててね」と語りかけ、それを皮切りにナンシーさんやご主人たちもベッドに近づいて、ジーンさんに話しかけ始めました。私はしばらくその様子を見ていましたが、そっと寝室を出てキッチンに行き、薬の確認をしました。カーリーもいつの間にかリビングルームに来ており、私に気づくとゆっくりと近づきながら、独り言のようにつぶやきました。 「こんな形だけど、少なくとも最後のクリスマスを家族と一緒に過ごせて、ミス・ジーンは喜んでるでしょうね。私も嬉しいわ」 私は彼女の横に立ち、片手で肩を抱くと、何も言わずにポンポン、とたたきました。 ジーンさんは、無事クリスマスを平穏に過ごし、いよいよ舟に乗り込んだのは、その二日後でした。私は朝一番にジーンさんを訪問し、その様子から、ナンシーさんとフランさん、そしてカーリーに、おそらく今日だろう、と伝えました。3人ともとても冷静で、私に言われるまでもなく、心の準備はできているようでした。そして、私が3件目の訪問をしていた時、ナンシーさんから、ジーンさんが亡くなったと電話があったのです。 再びジーンさんの家に戻ると、彼女の小さな家は、家族で溢れかえっていました。静かなベッドの中で、ジーンさんはとても穏やかな顔をしていました。ナンシーさんもフランさんも、赤い目をしつつ、悔いはない、という表情をしていました。私はジーンさんの死亡を確認し、お悔やみを言ってから、諸々の連絡や薬の破棄をし、それから、ナンシーさん達に最後の挨拶をしました。すると、ナンシーさんが、こう言ったのです。 「母に素晴らしいケアをしてくれて、本当にありがとう。そして、いろいろと私たちのわがままを聞いてくれて、心から感謝してるわ。あなたはいつも、辛抱強く話を聴いてくれて、すごくありがたかった。ホスピスの人たちは、みんなとても素晴らしくて、母はとてもラッキーだったわ」 あまり感情を顔に出さず、いつも淡々と必要なことを話すナンシーさんの口から、こんな言葉を聞くとは、少し意外でした。それから、家を出る前に、荷物をまとめ始めたカーリーに声をかけました。カーリーは手を止めると、吹っ切れたような笑顔で、いつも通りの元気な声で言いました。 「Nobuko、いろいろどうもありがとう。あなたと一緒に仕事ができて、本当によかった。私にとって、すごくいい経験だった。あなたから、いろんなことを学んだわ」 カーリーと私はお互いに手を振り、それから、おそらく、この人たちとは二度と会うことはないだろうと思いながら、二度と来ることのない家を後にしました。そしてまた、何事もなかったかのように、次の患者さんの家に向かいました。次の訪問先へ向かいながら、ホスピスナースとしての私は、果たして本当の、素の、自分なんだろうか、と考えていました。カーリーの話を聴いて共感し、一方でナンシーさん達の話を聴いて共感し、それぞれの気持ちは私なりにわかったつもりで、その共感にウソはなかったけれど、では、そこに私個人の意見や感情はあったのだろうか、と、自分でもよくわからなくなったのです。昔、高校のクラスメイトに言われたのは、「あなたは、そうやって誰の悪口も言わないけど、本当は自分がいい人でいたいだけなんじゃないの?」という言葉でした。 そうなのかもしれない。私は、ただの八方美人なのかもしれない。その人の味方であるように振る舞いながら、本当は誰の味方でもないのかもしれない。それは、ホスピスナースという立場、役割にあるが故なのか、それとも、それも本当の自分なのか。そんなことを考えていると、今度は、看護学校時代に、整形外科の実習の時に聞いたある若い看護師さんの言葉を思い出しました。当時、私たち学生の間で話題になり、笑いの種にしていたそのセリフは、こうでした。 「看護婦(当時はまだこう呼ばれていました)は、女優よ」 その時の私たちは、半分わかるようなわからないような、でも、そうなのかもしれないなあ、と、ぼんやり思っていただけでしたが、確かにある意味では的を得ていたと思います。ただ、あれから30年以上が経ち、人生の半分以上を看護師、そしてそのほとんどをホスピスナースとして働いてきた私は、ホスピスナースとしての経験から得たものの大きさのせいなのか、その境界があいまいになっているのかもしれません。そして、そんなことを考えることさえ、いつの間にか忘れてしまっているのです。それでも、そうやって答えがわからないままでも、日々、悩んだり、喜んだり、頭を抱えたり、悲しんだり、怒ったり、感動したり、笑ったり、をくりかえしているうちに、”平気”な顔をして仕事ができるようになっていったのかもしれません。だから、年を取る、というのは、なかなか面白く、増えるのはシワやシミやシラガだけでもないんだな、と思うのです。
|