将来が見えず悩んでいた次男が、日本で就職することになり、我が家の巣立ち第1号となって飛び立ちました。 小さい頃から戦争の歴史が大好きで、家の裏にある市営図書館からは、いつも戦争関連の本ばかり何冊も、胸に抱えるように借りてくるこどもでした。子供向けの本を読破してしまうと、大人向けの本へと移行し、学校のブックフェアで買ってくる本も、いろいろな時代の戦争に使われた武器や乗り物、戦闘服などの図鑑などで、もう少し大きくなると、今度は戦争に関わる歴史もののゲームをするようになりました。日本に行く度に買い込むマンガも、第二次世界大戦系ばかり。そんな戦争オタクの彼が、日本の北国で農業や町おこしに携わることになるとは、本人を含め、家族の誰もが、想像だにしていませんでした。 私自身は、小学校にあがり、少しずつ自分の世界が広がっていくのに従って、自分がとても平凡で、特別な才能や夢中になる何かを持っていないことを自覚するようになりました。ただ、わりと物事の飲み込みは速く、そこそこ器用だったので、大体のことはそつなくこなしたため、先生を含めた周りの大人たちには、”しっかりして優秀な子”的に見られていました。しかし、それも中学、高校と進むうちに、これといって秀でたものもなく、かといって問題があるわけでもない、どんぐりのひとつになっていました。ですから、次男のようにものすごく好きなことがあり、そのことについてなら、夢中になって話せる人を、いつもうらやましく思っていたのです。 10歳くらいの頃から、どういうわけか、私は、現在、過去、未来をそうとは意識せずに、‟ああ、今のこの瞬間も、明日になれば昨日のことで、今は楽しみにしていることも、2か月後とか、1年後にはみんな終わって、思い出になっているんだよな”と思うようになりました。なぜ、そんな風に考える癖がついたのかは覚えていないのですが、特に発表会的なイベントがあった時は、これがどんな結果であれ、一週間後の自分はそれを過去として受け入れているんだろうな、と、いわば、未来の自分を俯瞰することで、心の平穏を保とうとしていたのかもしれません。また、予知能力的なものや、霊感は一切持っていないのですが、高校や大学受験の時は、教室で自己紹介をしている夢を見て、ああ、私は合格するんだな、と、勝手に安心していました。要するに、ひとことで言えば、能天気ということなのですが。 そんな能天気どんぐりだった私が、看護という果てしなく奥の深い道を転がり始め、どんぐりだって、ひとつひとつがみんな違うことに気づき、周りから”マイペースだよね”と言われながら、心のどこかで、”これでいいのだ”と信じてここまでこれたのは、ひとえに運と縁に恵まれていたからだと思います。そして、平成と共に幕を開けた看護師生活も、いつの間にか30年をとうに過ぎ、世間的にはベテランといわれる世代なのに、まだまだ日々学ぶことばかりです。しかし、確実に年齢は増えていて、身体的なことだけでなく、人生の折々のマイルストーン、自分の感受性や興味の変化を自覚するたびに、”ああ、これがあの...”と、話には聞いていたが、まさか自分自身に起こるとは思っていなかった事象を、生々しく実感するようになってしまいました。 40歳代半ばを過ぎた頃から、患者さんの脈を測る時に、腕時計の針が見にくくなり、少しずつ左ひじの角度が顔から遠くなっていきました。そして、ついに左ひじをほとんど曲げずに腕時計の秒針を見るようになった時、はた、と、それが老眼であることに気づいたのでした。まさに、”ああ、これがあの、老眼というものか...”とひらめいた瞬間で、自分もやっぱり普通に年を取るのだな、と、妙に感心したのです。そして、一度気づいてしまうと、まるでだまし絵が突然見えるようになった時のように、次から次へとわが身の老化現象が目に付くようになっていきました。そして、それらを同世代の友人たちとあーだこーだと笑い合っている自分が、まさに、昔”どうしておばさんたちはこういう話で笑っているんだろう”と理解できなかった、母親の姿そのものであり、そんな自分をまた笑いの種にするという、正しいオバサン道をたどっているのです。 そして、今回、ついに、いわゆるエンプティーネストに一歩近づくことになりました。31年前、アメリカに旅立った自分と逆の立場になってみて、今更ながら、見送る側の寂しさを痛感したのです。家族そろって次男を空港まで見送りに行く間、私の頭の中では、藤井風さんの上京ソング、『さよならベイべ』の最初のフレーズがくるくると回っていました。 次男の就職が決まるまで、実を言うと、内心、もしかしたらこのまま80-50になるのかしら、と、半分本気で心配していたのです。いわゆる発達障害ボーダーラインの彼は、コミュニケーションの取り方が独特で、誤解したりされたりすることは、日常茶飯事でした。それでも、仲の良い幼馴染たちもいて、近所でバイトもしていましたが、職探しを始めてからはしばらく空振りが続きました。就活は甘くはないとはわかっていたものの、やはり、イライラしたり落ち込んだりする次男との対峙は、なかなか辛いものがありました。それがまるでウソのように、この会社には、とんとん拍子で採用されたのです。そして、就職による彼の日本への移住が決まってからの半年は、あれよあれよという間に過ぎてしまいました。それこそ、”来ないと思った時は、すぐに来て”しまったのです。 就職が決まり、大好きな日本に移住することが決まってから、次男は本来の彼らしさを、少しずつ取り戻していきました。自分を卑下したり、兄や妹を妬んだり、親を恨んだり、家族の中で自分だけが不幸で、自分だけが不運だと思い込み、自分の聖域であり、同時に牢獄でもあった部屋で、ひとりぼっちでスマホとコンピューターのスクリーンを見つめていた彼は、家族という一番近くて遠い、愛情と憎しみが複雑に絡まった場所から離れることで、大きく深呼吸をすることを思い出したのかもしれません。 次男の出航は、私たち家族それぞれに、様々な思いと感情の揺れを残していきました。父として、母として、兄として、妹として、次男とはそれぞれが違った関係性を持っており、そこには後悔や誤解もあるはずです。それでも、彼と22年間を一緒に暮らしてきた家族であり、この先もそれは決して変わりません。私がアメリカに来た31年前は、届くまで1週間かかるエアメールと、高額な国際電話が主な通信手段であり、少しずつファクシミリが普及してきた程度でした。それが今は、Eメールやチャットで瞬時にやり取りができ、ビデオ通話では顔を見ながら話すこともできるのです。 我が家のIT奉行である娘は、本人が想像していた以上に次兄の不在にショックを受けながらも、早速家族のLINEグループを作ってくれました。また、次男が誰よりも愛情を注いでいた、我が家の愛犬の写真をオンラインでシェアするグループも作ってくれ、13時間の時差はあれども、新しいつながり方で、独り立ちしていった次男を見守り、応援していこうとしています。 かつての私は、夢と希望と目標を持って、未知の世界であったアメリカにやってきました。最初の頃は英語が殆ど聞き取れず、それでも何とか目標を達成し、当初の夢とは少し違ってはいるけれど、それでも好きな仕事で身を立てることができたのです。そして、いつの間にか老眼になり、親を看取り、自分の子供が、各々の人生を歩み始めるようになっていました。口数の少ない次男は、本当の想いを言葉にすることはなかなかありませんが、その瞳に宿る光に濁りはなく、確かに希望を持っているように感じます。しかも、その彼が己の老眼に気づくまで、これからまだまだ長い時間があるのです。 時代は確実に回っています。それぞれ回っているひとりひとりの人生を乗せながら、繰り返される様々な思いとともに、止まることのない時間の流れは、ひたすら続いていくのです。そんな、少しセンチメンタルなことを思うのも、世の母親が、人類の歴史と共に繰り返してきたことなのでしょう。今回は、そんなちょっと寂しいオバサンの、ひとりごとでした。
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