![]() 2022年のサッカーワールドカップでは、日本代表チームの健闘に加え、サポーターの試合後のお掃除活動が話題になりました。『立つ鳥跡を濁さず』という美徳や、楽しませてもらったことへの感謝の気持ち、ホスト国へのリスペクト、公立の学校では生徒たちが毎日学校の掃除をする教育方針など、SNSでも世界中から称賛されていました。私も、日本人として嬉しく、話題つくりや注目されるためではなく、真にありがとうという気持ちでゴミ拾いをしているサポーターたちの姿を、清々しく感じていました。しかし、アマノジャクな私は、ふと、あの競技場を、毎日掃除している人たちは、あの行為をどう見ていたのだろう、と思ったのです。
清掃員は、祭りの後の、みんなの興奮の残りかすをただ黙々と片付け、次のゲームに来る観客が気持ちよく使えるように整えるプロです。そして、その人たちの仕事は、選手やお客さんが去った後、誰からも注目されず、称賛もされずに、日々繰り返されています。それが、遠い国から飛行機に乗り、チケットを手に入れるのも簡単ではないであろう、ワールドカップの試合を応援しに来た日本人が、自分達は見れなかった試合の後に、自分達の代わりにゴミを拾い、その姿が世界中に配信され、讃えられているのです。「ラッキー、今日の仕事は楽だぞ」と思ったか、「おいおい、それは私の仕事なんだけど」と思ったか、それは、私にはわかりません。しかし、もしもその清掃員が、自分の仕事に誇りを持ち、掃除のプロとして働いていたとしたら、やっぱり、複雑な気持ちがしたのではないでしょうか。 どうして人は、無償の行為や、無私の心というもの美しいと讃えるのでしょうか。同じことをしても、それによって報酬を受け取るか否かで、その行為の価値や意味は変わるのでしょうか? 保健婦学校を卒業し、大学病院で看護師として働き始めた1年目、私は整形外科に配属されました。整形外科の入院患者さんは、老若男女、疾患も外傷だけでなく、癌を含め、様々です。ただ、内臓は元気なのに、身体を自由に動かせなかったり、痛みがあるため、イライラしてしまう患者さんは、けっこういます。そして、退屈しのぎに若いナースをからかったり、セクハラやモラハラまがいのことをする人も、少なくないのです。それを上手にかわせるような余裕のない新人たちは、まさに、格好の餌食となります。 30年以上たった今でも覚えているその人は、漫才師の故横山やすしさんに似た感じの50代の男性で、脊椎の手術のために入院していました。いわゆる”ちょい悪オヤジ”的なその人は、ナースたちに軽口をたたいたり、手術前はタバコを吸いに行ったまま、なかなか戻ってこないこともしょっちゅうでした。それでも、人当たりはよく、先輩ナースたちは際どい冗談なども上手にかわし、”しょうがないおじさん”という感じで受け入れていました。ところが、当時は今に比べると、術後の安静期間がはるかに長く、手術後しばらくの間ベッド上安静になったその人は、ひっきりなしにナースコールを押すようになりました。そして、少しでも対応が遅れたり、気に入らなかったりすると、辛らつな言葉でナースを責めるようになっていきました。そしてある時、何がきっかけだったのかは忘れてしまったのですが、何かが気に入らなかったその人は、私に向かって、こう怒鳴りました。 「お前ら看護婦は、俺たち患者がいなかったら飯食えないんだぞ。俺らはお客さんなんだよ。お客様は神様なんだよ。わかってんのか?だいたい、奉仕の精神はどうした? 奉仕の精神は! 看護学校で教わらなかったのか?」 原因を忘れてしまったくらいですから、そんなに大変な失敗をしたわけではないと思うのですが、その時の口惜しさと、恥ずかしさと、腹立たしさは、はっきりと思い出せます。内心、あなたにお給料もらっているわけじゃないし、お前呼ばわりされる筋合いはないよ、と思いながら、すみません、と謝り、同室の患者さんたちにも、お騒がせしたことを謝り、その後も普通の顔で仕事をしながら、ずっともやもやとしていました。 患者さんはお客様で神様? 奉仕の精神って何? 患者さんにとって、看護婦って何なの? この人たちは、私たちをどう見ているの? なんだと思っているの? 病院っていう日常から離れた特殊な場所にいる、白衣の天使? ナイチンゲール? なにそれ? 看護学校では、ナースにとって一番大事なのは、ハートだ、と教わった。ひとりひとりの命を大切に思う心だと。それは、決して奉仕の精神などではない、人間を相手にする仕事のプロとしての、そして、人としての基本だ。私たちは、仕事をしているのであって、奉仕活動をしているのではないのだ。機嫌を損ねるようなことをしたのは悪かったけれど、だからって、自分は何様のつもり? 神様かい? 未熟だった私は、その患者さんが抱えている不安や焦りなどを慮るほどの器量はなく、ただただ、看護師という職業を見下されたことに憤り、作られたイメージの重さのバカバカしさにイラついていました。3K(汚い、危険、キツイ)とか、5K(汚い、危険、キツイ、給料安い、結婚できない)などといわれ、それでも、奉仕と博愛の精神を持ち、誰にでも優しく、献身的に患者の世話をし、医者のお手伝いをする女性。そこには、看護学という、医学、心理学、社会学などを総合的に網羅した、実践の科学である学問を学び、国家資格を持った専門家だという認識は、微塵もありませんでした。そしてそれは、あれから30年以上が経ち、男性も少しは増え、看護婦から看護師と名称が変わった今も、あまり変わっていないような気がします。(もちろん、私は日本の現場にはいないので、目や耳から入る情報でしかないのですが。) キリスト教徒の多いアメリカでは、奉仕の精神は自然に培われている分、職業としての仕事に奉仕の精神を期待したり、ましてや強要したりすることはあまりありません。しかし、人手不足による穴を埋めなければならないのはどこも同じで、”できる人ができる分だけ”のボランティアを募ることは、もちろんあります。ボランティアと言っても、当然超過勤務としての手当ては支払われます。そして、医療者として患者さんのケアを重んじる気持ちは、皆同じですが、それでもそれぞれ自分の生活や家族があるわけで、それを犠牲にしてまで手を挙げることはありません。当然、手を挙げる頻度の多い人と少ない人はいますが、それは、万国共通でしょう。ただ、アメリカ人の上司は、そうしたボランティアに手を挙げる人たちを、バンバン公表し、感謝し、拍手します。日本人は、どちらかというと、人知れず善行を行なうことの美徳というか、そうやって大げさに褒めたたえるとかえって陰口を言われたり、人間関係がややこしくなったりするのではないかと心配する傾向があると思うのですが、その辺りは国民性の違いなのでしょう。アメリカでは、手を挙げない人、挙げられなかった人達は、挙げてくれた人に素直に感謝し、自分もできる時にはやるからね、という感じなのです。 と、前置きが長くなりましたが、なぜこんなことをつらつらと書いたかといいますと、実は、1年ほど前、柄にもなく起業をしたのです。以前、「夕焼け小焼け」夕焼け小焼けというエピソードでチラッと書いたのですが、北米に在住の日本人を対象にした、日本語による傾聴サービスです。(「あいづち日本語傾聴サービス」http://aizuchijls.com) 本当は非営利団体にしたかったのですが、ビジネスについてはズブのド素人である私には、複雑な手続きやスポンサー探しなどの壁は山よりも高く、初心者には一番簡単な、有限会社として始めることにしました。最初は自分ひとりでやるつもりだったのですが、ふと、もしかしたら最強のパートナーになってもらえるかもしれない人物に思い当たりました。そして、通算20年通った日本語補習校で、娘が中等部の時にお世話になった、定年間近で仏門に入られた元ビジネスマンで、現在フィラデルフィアの病院で、僧侶として仏教チャプレンをされている方に声をかけたところ、ぜひお手伝いしたいと言っていただいたのです。 ビジネスのビの字も知らず、スマホも人差し指で打つようなITチャレンジドの私が、どうにかこうにか始業にこぎつけたものの、1年目のご利用者は、約1名。口コミのほか、宣伝用に使っているSNSは、オジサンオバサンが集うフェイスブックのみ。それもほとんど機能を使いこなせていない状態という、なんとも心もとない社長なのです。それでも、利用して下さった方には満足していただけたようだったので、とりあえず、小さな一歩は踏み出せた、というところでしょうか。 起業を発表した時は、知り合いの方々には、とても良いアイデアだ、きっとそういうサービスを必要としている人はいると思う、と反響もよく、自分自身、きっと需要はあるはずだ、と信じていました。ただ、心にいつもチラチラ引っかかっていたのが、”こんなことでお金を取っても良いのだろうか”という思いでした。というのも、このサービスの対象となる人たちは、自分や大切な人が、限りある命と向き合っていたり、大切な人が亡くなってしまった人たちです。そんな人たちから、お金を取って話を聴くって、不遜というか、なんかちょっと、思いあがってんじゃないの? という声が、どうしても、心のどこからか聞こえてきてしまうのです。 しかし、同時に、でも、医療者だって、葬儀屋さんだって、カウンセラーだって、そのサービスの対価を支払ってもらっているじゃない。プロとしてそれなりのサービスを提供するのだから、無料でやる方が偽善でしょう、という声も聞こえたりするわけです。そして、サービスの利用料を決める時も、高過ぎず、安過ぎず、既存の傾聴サービスの相場などを見て、何人かの人に相談をしたのですが、結局、開業して数か月後に値下げしてしまいました。というのも、フェイスブックで見つけ、興味を持って連絡してくださった人が、”今は仕事をしていないので、お小遣いをためてから申し込みます”と言ってから音沙汰がなく、つい、弱気になってしまったのです。もしもその方が、このサービスが必要なくなったのだったら喜ばしいことなのですが、自分の自由になるお金に限りがあるが故、利用できないのだとしたら、申し訳ない気がしたのです。そのうえ、自らの携帯電話番号を公表し、『いのっちの電話』と称して、本家『いのちの電話』をしのぐ数の電話相談を、無償でしている人の記事を読んだりした日には、ますます恥ずかしくなったりしてしまうのです。 ひとは、人生を楽しむため、好きな音楽を聴くため、美味しいものを食べるため、素敵な服を着るため、スポーツの試合を観るため、それに相応したお金を払います。なぜなら、それによって、気持ちがよくなったり、生活が豊かになったり、元気が出たり、嫌なことを忘れたりすることができるからです。ですから、話すことによって気持ちが楽になるのだったら、その時間にはお金を払うだけの価値があるはずなのです。それを恥ずかしいと思ってしまうのは、私自身が、あの、”奉仕と博愛の精神”の呪縛から、解放されていない証拠なのです。 スタジアムの清掃員は、称賛されなくても、自分の仕事に責任と誇りを持ち、最善の仕事をして、その対価を受け取ればよいのです。患者さんはお客さんでも神様でもなく、回復するための治療とケアを必要としている、一人の人間であり、看護師はその人のために最善の看護を実践するのが仕事なのです。そして、その仕事の対価として、お給料をもらっているのです。そこに必要なのは、奉仕の精神ではなく、その人を、一人の人間として尊重し、思いやる心です。 奉仕や博愛の精神など、そう軽々しく持てるものではないし、それを堂々と謳うためには、それなりの覚悟がなければなりません。そして、そんな覚悟のない私は、奉仕と博愛の精神を持っていないことをはっきりと認め、自分にできる最善を尽くし、堂々と対価を受け取ればよいのだと、自分に言い聞かせていこうと思います。 社長として初めての源泉徴収の準備のため、完璧な赤字帳簿をみながら、そんなことを思う、それが私の、2023年の幕開けでありました。それでも、いつか、いつの日か、私の中に自然に奉仕と博愛の精神が宿る日がくるとしたら、その時こそ、その呪縛から解き放たれるのではないかと、夢を見たりもするのです。 ![]() |
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