ホスピスナースは今日も行く 2022年12月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
転職物語
アメリカに来て、一番最初に働いたのは、留学して2年目、大学院の看護修士課程に入るために必要な、看護師免許を取る準備をしている時でした。留学生でも、一定の時間以内であれば、自分の専攻学科に関連した仕事に限り、キャンパス外でも学生ビザで働けたのです。もともとは学士過程に行くつもりで留学したのですが、ESLや基礎科目を終えて、2年目のクラスをどうするか、ガイダンスアドバイザーと話した時に、「あなたの日本の単位なら、RN(アメリカの看護師)免許さえあれば、修士課程(大学院)に行けるのだから、そうしなさいよ」と勧められたのです。だったら、ということで、急遽予定を変更、留学生アドバイザーのシスターの計らいで、州資格である正看護師免許の受験準備のため、週に一度、となりのニュージャージー州に住んでいるリタイアしたナースに勉強をみてもらい、大学のクラスは一コマだけ、あとは自分のアパートでひたすら勉強することになりました。しかし、そうなると、人と会う機会が極端に減り、ますます英語が話せなくなってしまったため、これではまずいぞ、ということで、現場実習を兼ねて、近所の老人ホームでナースアシスタント(看護助手)のアルバイトを始めたのです。
 そのナーシングホームはメノナイト(アーミッシュと同じ系列のプロテスタント教会)がベースのアシステッドリビング(個別のアパートに住みながらも、食事の提供をし、薬の管理や日常生活の介助を行なう看護師と看護助手が常駐している施設)で、入居者はほとんどが、白人の経済的にまずまず余裕のある中流層でした。そこで私は、アメリカの高齢者と接し、アメリカのナースと一緒に仕事をしたことで、大学の授業では知りえなかった多くのことを学びました。また、お年寄りはおしゃべり好きなうえ、ゆっくり話すのと、耳が遠いため、私も大きな声ではっきりと話さなくてはならず、英語の会話の練習には最適でした。
 そこでは規定時間いっぱい、1年弱働き、大学院に入ってからは、50歳代のクラスメイトの、80歳代後半で一人暮らしをしているお母さんのヘルパーとして、ここだけの話ですが、週に3、4晩の夜勤バイトをさせてもらいました。そのお母さんは週に3回、血液透析に行っており、私の仕事は主に就寝前の支度の手伝いと、朝のシャワーと朝食その他のお手伝いでしたが、透析患者さんの生活や、ユダヤ人の文化や慣習に触れ、しかも彼女が眠っている間は学校の勉強もでき、貴重な経験になりました。そして、いよいよ大学院を卒業という1996年、皮肉にも、クリントン政権による医療制度改革案によって、医療が保険に支配されるようになり、それによる医療報酬の減少から医療機関はコスト削減に躍起になり、結果、看護師の就職氷河期に突入したのでした。「ナースだったら就職に困らないし、収入もいいから」という理由で、当時人気の高かった看護学部の学生たちは、思いもよらなかった就職難に直面し、当然ながら、看護学部人気はみるみる落ち込んでいきました。そしてその結果、アメリカは看護師の高齢化と、慢性的な看護師不足に再び悩まされているのです。
 折しも、深刻な看護師不足を補うため、海外からの看護師誘致を目的に1989年に施行された、H1-Aビザが1995年に終了し、その時点で外国人の私が看護師として就職するためには、就労ビザではなく、グリーンカードを取得する以外、方法はありませんでした。インターネッが普及していなかった当時、ひたすら新聞や看護師向けのニュースレターなどの求人広告をチェック、片っ端から履歴書を送りました。そのうちほとんどは反応なし、何件か面接にこぎつけたものの、日本の病院での看護師としての経験は全く無視されたうえ、グリーンカードのスポンサーが必要と分かった時点で、アウトでした。スポンサーと言っても、実際にグリーンカード取得に関する費用はもちろん自分が負担します。要するに、確実にその外国人に仕事を提供し、一定の収入、つまり納税が保証されるという意味でのスポンサーなのですが、おそらく手続きその他に手間を取られるため、慣れていない所では特に、面倒だったのでしょう。そして、学生ビザの期限終了が迫り、もう、日本に帰るしかないのかな、と、頭の片隅で諦め始めていた頃、ダメもとで応募していた小さなホームケアの事業所から、面接に呼ばれたのです。そこは、元看護師の母親がオーナー、MBAを持っている一人息子が社長、インド人の若い女性がディレクター、ベテランナースの看護師長と男女1人ずつの常勤ナースとパートタイムのナースが1人、そして、事業の主要部門であるホームヘルスエイドのスケジューラーが2人、あとは事務方が3人という、小さな会社でした。そしてなんと、そんな小さな会社が、グリーンカードのスポンサーになるので、ぜひうちに来てほしい、と言ったのです。まさに、滑り込みセーフ。拾う神って、本当にいるんだなあ、と、その時は単純に喜び、いよいよ夢だった、訪問看護師として働き始めたのでした。
 その事業所では、ホームケアのいろはを学び、フィラデルフィア市内、および近郊2郡にまたがって患者さんを訪問し、貧困層から富裕層、褥瘡から銃創、あらゆる癌、心疾患、肺疾患、脳血管疾患、認知症、神経疾患、老若男女、スペイン語、イタリア語、ロシア語、中国語、韓国語、ベトナム語、とにかく、様々な人の生活と人生を垣間見ることができました。ただ、残念なことに、拾う神にはそれなりの理由があったわけで、次第にそこが、いわゆる”ブラック”であることに気づいたのです。
 訪問看護の仕事自体は好きでしたが、私は体力的にも精神的にもじりじりと疲弊していきました。そして、あとわずかでグリーンカード取得の手続きが完了するという時に、社長から「今後5年間ここで働くという誓約書にサインしなければ、グリーンカードのスポンサーにはならない」と言われたのです。向うの理由としては、以前中国人のナースを雇った時、グリーンカード取得後すぐにやめられた経験があるから、ということでした。おそらく、彼らは私がここでの働き方に満足していないことに気づいていたのでしょう。私は、もちろん、グリーンカードを取ったらすぐに辞めるなどという気はさらさらないが、かといってこの先5年間、絶対にここにいると約束することはできない。人生何が起こるかわからないし、その時、契約違反となるのは本望ではない、と返事をしました。
 実は、彼らが私を雇ったのは、アジアに事業を拡大していこうという野望があったからでした。すでに社長はディレクターと何度かインドを訪ねており、日本で看護師だった私は、いずれ日本へ進出するための、願ってもないコネクションだったのです。しかし、私はこの会社には、そんな未来はない、と確信していました。人前で社員(私)を怒鳴りつけたり、契約書でしか社員(私)をつなぎ留められない会社に、心からついていこう、一緒に成長しよう、などとは誰も思わないからです。そして、その直前に婚約していた私は、だったら婚姻によってグリーンカードを取ればいいのだ、これでここを辞める大義名分ができた、と、心の中で舌を出していました。
 その後、ビザが切れる前に私の両親に結婚の挨拶をするため、ほんの5日間ほど現在の夫と二人で日本を訪ねたのですが、出発前にフィラデルフィアの移民局で確認したにもかかわらず、なんと、私は日本からアメリカに戻ることができなくなってしまったのです。T-CATで荷物をチェックインした後、カウンターで私だけ止められた時は、一体何事が起きたのかと頭が真っ白になりました。と、まあ、これはまた別のお話なのですが、結局気の毒な彼は、1人で2人分の荷物を抱えてアメリカに戻ったのです。その後、これはこれでエピソード3つ分くらいの話になるのですが、半年近く日本に足止めを食った私は、ぼうっとしていても仕方ないので、その頃はまだまだ数少なかった、実家の近くの訪問看護ステーションでアルバイトをすることにしました。そこは、千葉県で最初にオープンしたステーションで、優しい所長さんと、ベテランナース2人に若手の2人という、”アットホーム”という表現がぴったりのところでした。訪問看護ステーションが始まってから5年ほどの、まだまだ手探り状態ではありながら、在宅ケアの可能性を広げていこうという、日本の在宅ケア、在宅医療の開拓期に、ほんの短い期間でも関わることができたのは、今でも貴重な体験だったな、と思っています。
 数カ月から数年かかると言われたグリーンカードを、彼の両親や、たくさんの人たちの尽力のおかげで、思いのほか早く取得することができ、何とかアメリカに戻ることができた私は、晴れて永住権保持者として、就職活動を始めました。そして、ちょうどその時募集していたのが、大学院の看護修士課程にいた時に実習させてもらった、伝統ある地域病院の訪問看護部の中のホスピスチームだったのです。アメリカのホームケアでは、エンドオブライフにいる患者さんは、積極的な治療を続けている人しかケアの対象にならず、そうでなければホスピスケアに移行します。つまり、ホームケアでは看取りまで患者さんをみることはないのです。ホームケアでの経験から、在宅ケアの神髄は、最期まで自分の家にいたい人をサポートすることではないかと感じていた私は、それができる在宅ホスピスこそ、自分のやりたい在宅ケアだと確信し、すぐに履歴書を送りました。そうして、1998年1月5日、私は在宅ホスピスナースとしての第一歩を踏み出したのです。
 それから約四半世紀、3度の産休以外はほとんど病休を使うこともなく、そして、一度たりともこの仕事を辞めたい、と思わずに続けてこれたのは、なんといっても素晴らしい人々と環境に恵まれたからでした。ちょうど、パリアティブケア(緩和ケア)というコンセプトが広がり始め、それまで白か黒だった”もう打つ手はないので、あとはホスピス”、という流れから、パリアティブケアというグレーゾーンのサポートによって、ホスピスへの移行のハードルが少しずつ下がってきた頃でした。それとともに、ハイテク緩和ケアを続けながらのホスピスケアが期待されるようになっていき、エンドオブライフ(EOL)という言葉や、アドバンスディレクティブ(A.D.)からアドバンスケアプランニング(ACP)、シェアードディシジョンメイキング(SDM)といったコンセプトが生まれていきました。
 そんな風にホスピスケアが進化していく中、社会情勢もどんどん変わり、アメリカの医療業界の生き残りゲームは厳しくなる一方でした。小さな魚は、どんどん大きな魚に飲み込まれ、私たちのホスピスの母体である病院も、生き残るために、7年ほど前、ついにフィラデルフィアの大きな医療大学とその大学病院が組織するヘルスケアグループの傘下に入ることになったのです。その頃の葛藤は、「がんばれ、私たち」がんばれ、私たち というエピソードに書いたのですが、まさか7年後に、あの時をはるかに上回る事態に陥るとは、夢にも思いませんでした。(「わかれ道、まよい道、まわり道」わかれ道、まよい道、まわり道) それでも、櫛の歯が抜け落ちていくように仲間たちが去っていく中、私は心のどこかにあるかすかな希望と、長い間、苦楽を共にしてきたメディカルディレクターを裏切りたくない、という思いにすがるようにして、何とか踏みとどまっていました。7年前、多くの仲間を失いながら、リーダー不在の1年を何とか乗り越え、新しい仲間とチームを再生し、昔とは違ってはいても、それでも地域の住民に胸を張って名前を言えるホスピスであり続けました。だから、もしかしたら、今回も何とか乗り越えられるのかもしれない、と、必死で自分に言い聞かせていたのです。健康保険料が4倍近くになることや、それに伴う10%の収入減、オフィススタッフにはあるのに、現場スタッフには病休がないこと、有給休暇の繰り越しや、それまでの勤務年数の考慮が皆無になること、また、スマホではなく、ガラケーを支給されることなど、雇用条件の悪さは、気にならないといえば嘘になりますが、それでも、24年間、私をホスピスナースに育ててくれたこの古巣を離れる決定打にはなりませんでした。スタッフ不足のため、ホームヘルスエイドの仕事を兼任することも、厭いませんでした。患者さんが必要なケアを受け、家族が支えられ、私たちが介入することで、最後の日々を苦しまず、満足して過ごすことができれば、それでよかったのです。
 しかし、明らかに準備不足のまま、見切り発車をした新会社は、私たち現場スタッフを目隠ししたまま、丘の上で泳ぎ方を説明し、大丈夫、何とかなるから、と笑顔で海に投げ込みました。私たちは浮き輪も持たず、どこに岩が隠れているのかもわからず、とにかく必死で泳ぐよりほかありませんでした。本来、コンピューターソフトや、契約書の書式の違いなどはあっても、基本的にメディケアがカバーするホスピスプログラムの内容に変わりはなく、私たちは何の疑いもなく、今までと同じサービスを提供するものと信じ込んでいました。しかし、現実は全く違っていたのです。それはまるで、新築の家に入居し、部屋のドアを開けるたびに、電気がつかなかったり、窓が開かなかったり、あるはずの棚がなかったりで、その都度業者に電話をしては、「あれ?そうですか?おかしいですね?」とか、「ああ、すぐ直しますから、ご心配なく」とか、「あれ?言ってませんでしたっけ?」などと、いかにも向こうに非はないかのように対応されるような感じでした。そして、そうした、“本当はあるはずなんだけど、ちょっと今はない”サービスを、患者さんや家族に面と向かって説明するのは、前線にいる私たちであり、そのたびに、「すみません」「ごめんなさい」「申し訳ありません」と繰り返さなければならなかったのです。
 私は謝ることに疲れ、苛立つことに疲れ、腹立つことに疲れていきました。そして、その、“ちょっと今はない”サービスが本当に必要になった時、その患者さんや家族に向かって、「ちょっと待って下さい」と言うことの罪深さに、耐えられなくなったのです。私はホスピスナースです。私が向き合っているのは、ホスピスの患者さんです。ホスピスの患者さんに、ちょっと待っている時間はないのです。そして、それを平気でナースに言わせる会社を、私はもう、信じることができませんでした。そして、自分が信じられない会社から、お給料をもらうことも、心底嫌になったのです。
 私は、新会社になってから、毎日励ましあい、愚痴を言いあい、ありとあらゆる情報交換してきた仲間に、決意表明のテキスト(チャット)を送りました。残っている4人のナースとは、お互い、転職する気になったら必ず知らせる、と約束していたからです。私は、『24年ぶりに履歴書をアップデートすることにした』と書いて送りました。それから、入職以来ずっと一緒で、特にこの10年は小児チームのパートナーだったMSWのキンバリーに電話をしました。彼女は私が来る10年近く前からそこにいて、あと数年でリタイアのはずだったのです。私は彼女に、ついに一歩踏み出す決意をした、と伝えました。すると、彼女もやはり同じことを考えていたのです。そして、私たちの共通の痛みは、小児ホスピスとの関わりが途絶えてしまうかもしれない、ということでした。もはや、この新会社の「小児ホスピスは続ける」という言葉には何の信ぴょう性もなく、かといって、この辺りで小児のケースを受け入れているホスピスは殆どありませんでした。
 私たちは、とりあえず、10年前に小児ホスピスを立ち上げた、かつての上司に連絡を取ることにしました。その上司はリタイア後も、非常勤で病院に勤め、地域の小児パリアティブケア連絡会などの活動にも積極的にかかわっていたのです。しかも、彼女はキンバリーや私と同じ町に住んでいました。また、10年来のパートナーである、フィラデルフィア小児病院(CHOP)のパリアティブケアチームのコーディネーターのジェリーにも電話をして、状況を知らせることにしました。ジェリーほど、小児ホスピスケースの受け入れ先を知っている人は、他にはいませんでした。
 元上司もジェリーも、私たちの置かれている状況を心から憂い、心配してくれました。元上司とは翌週キンバリーと私の3人で会うことになり、ジェリーは二か所、小児ケースを受け入れているホスピスを紹介してくれました。ただし、そこがホスピスとしてナースの待遇が良いかどうかはわからない、との但し書き付きでした。そして、「あなたたちが行くところなら、うちはどこだってついていくから」と言ってくれたのです。そのことを、翌週元上司と会った時に話すと、彼女は「それよ!」と手を打ちました。
 「あなたたち2人は、数少ない、貴重な小児ホスピスのエキスパートよ。ものすごいニッチなの。だから、2人一緒、デュオとして売り込むのよ。あなた達には、もれなくCHOPがついてくる、つまり、確実にお客さんを連れてくるなんて、そんなおいしい話はないでしょう?」 
 なるほど!その時、私とキンバリーの頭の上には、希望の灯りのともった電球が、吹き出しの中でピカピカと踊り始めていました。それから、一気に転職モードに切り替えた私の行動は、自分でも驚くほどのスピードで進んでいきました。私より一足早く職探しをしていたキンバリーは、すでにいくつか履歴書を送っていました。早速オンラインの求人サイトにかじりついた私は、数ある求人の中から、ひとつだけ、小児を含む、全年齢を対象としているホスピスを見つけたのです。それは、私の住む町を中心点とすると、ちょうど今までの職場とは直径の反対側に位置する病院ベースのホスピスでした。そして、実は以前、私はそのホスピスに一度だけ、小児ケースを引き渡したことがあったのです。私はキンバリーに、『○×病院のホスピスが募集してる。あそこは小児も受け入れるみたいだし、いいかも』とテキストすると、秒速で返信が来ました。『それって、○×の病院? それともホームケア? 住所どうなってる? 私、ホームケアの方に先週応募して、今返事待っているところよ』『えっと、あれ? 住所は△タウンだ』『それ、ホームケアのホスピスよ!それよそれ、今すぐ応募しな!!』『え、そうなの? わかった、応募する!』そして30分後。『履歴書送ったよ』『よっしゃ~!!』
 その後、『ご応募ありがとうございます』というメールが届いたもの、1週間以上音沙汰がなかったのですが、キンバリーも同じだったらしく、「あきらめかけた時に電話が来た」ということだったので、他の求人もチェックしつつ、連絡を待ちました。そのうち、キンバリーが面接を受けることになり、その時彼女は、ぬかりなく小児ホスピスの件、つまり、CHOPとの強いつながりと、パートナーである私がナースのポジションにすでに応募していることを、面接したホスピスの師長にしっかりとアピールしてくれたのです。キンバリーは、「感触はかなり良かった」とはいうものの、収入の点で引っ掛かりがあり、人事部と掛け合ってみる、と言い、また、もう一か所、かなりいい条件でのポジションがあるかもしれない、ということで、逡巡していました。すでに、キンバリーと一緒に再び”小児ホスピスデュオ”として仕事をすることを思い描いていた私は、彼女にとってベストの職場を選んでほしいという気持ち半分、何とか人事との談判がうまくいくよう、渾身の念を込めて祈っていました。そうして、2週間が過ぎた月曜日、仕事から帰ると、なぜか私の携帯ではなく、自宅の電話の方に、○×病院の人事部からメッセージが入っていたのです。私はキンバリーに『きた~っ!』とテキストし、折り返し電話をして、携帯の番号と、メッセージを残しました。しかし、火曜日には電話はなく、水曜日の朝、ZOOMでのチームミーティングの後、もう1度電話をし、再びメッセージを残しました。そして、最初の訪問先へ向かっているときに、私の携帯が鳴ったのです。
 私はすぐに、安全なところに車を止めました。サラという人事部の人は私のことを確認すると、私が応募したポジションの説明をしました。ところが、粗忽者の私が応募したのは、なんと、非常勤ポジションだったのです。私は内心だらだらと大汗をかきながら、サラの説明を聞き、それから、恥を忍んで言いました。「じ、実は、フルタイムだと思って応募したんですけど。せめてパートタイムか...」するとサラは驚きもせず、「あら、そうなの? ちょっと待って。うーん、今はフルタイムもパートタイムもないわねえ。でも、非常勤で入っておけば、フルのポジションが空いたらすぐにアプライできるけど。どうする? もしそれでも興味あるなら、面接のセッティングできるけど」私は即座に、「ハイ、お願いします」と返事をしました。「そう、じゃあ、いつがいいかしらね?」「ちなみに明日休みなんですけど」「あら、ちょうどいいわ、師長も明日は空いてるし。じゃ、2時はどう?」「はい、大丈夫です」「じゃ、明日2時に△タウンのオフィスに来てください。詳細はメールするから」「ハイ、よろしくお願いします」
 私は、非常勤にアプライした自分の失態にうなだれると同時に、とにかく、とりあえず面接できることに興奮していました。そして翌日、旧いストッキング工場をリフォームしたレンガ造りのビルの2階のオフィスで、私は、若いホスピス師長に会ったのです。24年ぶりの面接は思ったほど緊張もせず、師長さんもオフィスの雰囲気もいい感じでした。小児ホスピスについても、かなり前向きで、キンバリーのことにも触れ、向うが私たちに、かなり興味を持っていることが感じられました。そして、師長さんに、何か質問はあるか、ときかれ、何気なく、今の看護スタッフの人数を尋ねると、「えっと、今はフルタイムが○人で、パートタイムが×人、非常勤が△人で、あ、でもフルタイムの人が1人やめることになってね。ICUから来た卒後2年目の子だったんだけど、やる気はあったんだけど、やっぱりちょっとまだ無理だったのね。またICUに戻ることにしたのよ」と言うではありませんか。私は思わず身を乗り出しました。
「実は、私、フルタイムを探してるんです!」
「あら、本当に? それは何よりだわ。だったら、人事部の方にはフルタイムでってことで伝えておくわね。実は、今日、辞表を受け取ったばかりだったのよ」
 なんという偶然! なんというタイミング! これはもしや、呼ばれてる?
 古いビルを後にしながら、私の気持ちはどんどん未来に向かって動き出していました。念のため、人事部のサラに電話をし、面接中にフルタイムのポジションに変更した旨を伝えました。すると、彼女も、ついさっき辞表が受理されて、ポジションが空いたところで、ちょうど私に連絡しようとしていたところだ、と驚いていました。「すごいわねー、あなた、ラッキーだわ」
 それから、リファレンスチェックのため、5人以上のリファレンスが必要で、そのうち最低3人は現在と過去の上司であるように、と言われ、その日のうちにオンラインでのリファレンスサイトが送られてきました。私は、24年間で6人の直属の上司と働き、そのうち現時点の上司を含む4人とつながっていました。(一番最初の上司は、その後訪問看護部長になり、新会社ではこちら側代表として理事の一人になっていました。)私はすぐに、過去3人の上司に電話をしました。すると、私から聞くまでもなく、私たちのホスピスに起こっている状況を風のうわさで知っていた3人は、即答でリファレンスになってくれ、あっという間に完了してくれました。それから、転職する際はお互いリファレンスになろうと約束していた同僚に電話をしました。彼女は、「あなたと一緒に働けなくなるのは本当に悲しいけど、心から応援する」と言ってくれました。そして、そのあと、なんとも言えない、罪悪感と同情の入り混じった胸の痛みをこらえつつ、上司に、『今、この状況で、こういうことをお願いするのは、とても心苦しんですが、○×病院のホスピスで面接を受けたので、リファレンスになってもらえませんか』とメールしました。すると、数分後に返信がありました。『どうして?』
 ”どうして?”って、え?どうして??どういう意味??
 頭の中が ? マークでいっぱいになりつつ、私は馬鹿みたいにストレートに、『リファレンスの1人に、現時点の直属の上司が必要なので、すみませんがお願いします』と返信しました。するとすぐに、『それはわかってるけど、どうして辞めようと思ってるの?』という返信が来たのです。私の頭の中では?マークに加えて!マークが渦を巻いていました。この期に及んで、彼女からそんな質問が来るとは思いもよらなかったのです。何と返信しようかと迷っていると、彼女から『直接話したいから、明日の朝オフィスに来れる?』とメールがあり、翌朝会うことになりました。
 ほんの少し前、ホスピスのオフィスは4階から、ホスピス病棟のある3階に移っていました。新会社になると決まってから、スタッフがほとんど辞めてしまい、一時的に閉鎖せざるを得なくなったホスピス病棟は、まるでゴーストタウンのようでした。自分たちのホスピス病棟を持つホスピスは数少なく、それは私たちの大きな特典でもありました。在宅と病棟は常に連携を取り、お互いのケアのクオリティーの高さを誇りに思っていました。いざという時にはホスピス病棟がある、という理由で私たちのホスピスを選ぶ患者さんも、少なくなかったのです。それが、たった数ヶ月で、見る影もなく、しんとした、薄暗い、廃校になった学校の校舎のようになっていました。
 誰もいないホスピス病棟から、裏側のオフィスに入り、沈鬱とした空気に押しつぶされそうになりながら、上司の部屋のドアをノックしました。パンデミックを乗り越え、スタッフが次々と去っていく中でも、常に前向きな姿勢を崩さなかった彼女は、いつも以上に明るい声で、私を迎えました。ドアを閉めると、彼女は単刀直入に、私がここを去ろうとしている理由を尋ねました。ナースの中では最古参である私が、まさか辞めるとは思っていなかったようで、私が「私も24年目にして、ここから離れるとは考えてもみなかったんだけど...」と口を切ると、まるで先手を打とうとするように、「そうでしょ、だから私も驚いたのよ。でもね、今はきついけど、それぞれの問題は解決に向けて働きかけてるから。あなたには本当に辞めてほしくないし、小児のことだって、落ち着いたら再開するつもりだし。PTや、病棟のことも、前向きに検討しているし...」と畳みかけてきました。私は続けるタイミングを失い、黙って彼女の顔を見つめていると、上司はハタと我に返り、「ごめんね、あなたの話を聞くんだったわ」と立ち止まりました。
 私は、彼女の言ったことが全て事実で、ここに残っている皆が、どんなに頑張っているかは十分わかっていること、だからこそ、みんなを裏切るようで心苦しいのだと前置きしてから、それでも、どうしてもこの新会社を信じることができないのだ、と話しました。それは、小児のことでも、病棟が再開しないことでも、提供すべきサービスが一時的に提供できないことでもなく、純粋に、会社のトップの方向性や、理念が、この3ヶ月で、自分のホスピスナースとしての信念や哲学と相いれないことが、はっきりとわかったからでした。ないものをあると偽り、予定は未定でありながら、自分や愛する家族の残り少ない命と向き合っている、今、助けを必要としている人たちに、穴の開いた浮き輪を投げつけるような、そんなことをする会社が経営するホスピスの一部には、なりたくありませんでした。現場やオフィスのスタッフには全く非はなく、みんなが必死で頑張っているのは、私も痛いほどわかっていました。しかし、この新会社のトップは、こういう状況になることを知っていたはずなのです。そして、何も知らずに、今までの私たちの実績と評価を信じてこのホスピスを選んだ人たちがどうなるかも、予測できていたはずです。あるいは、もしかしたら、そんなことは、はなから考えもしなかったのかもしれません。どちらにしても、私は、自分がこのホスピスのナースであると、胸を張って名乗ることはできないし、その名前を口にすることさえ、嫌になっていたのです。
 上司は、黙って私の話を聞いていました。そして、悲しい目をして頷くと、「わかったわ」と言いました。それから、「でも、もし向うが嫌になったら、いつでも戻ってきてね。いつだって、大歓迎よ」と言い、「まあ、まだ採用されたわけじゃないし...」と返す私に、「あなたを採用しないホスピスなんて、こっちから願い下げよ」と笑いました。
 こうして、無事リファレンスが揃い、翌週、私は内定を受け取りました。キンバリーも、人事との交渉が完全に希望通りとはいかずとも、受け入れられる範囲までお互いに譲歩し合えたらしく、私たちはほぼ同時に、○×病院のホスピスに就職することになったのです。そして、そこにはさらなるおまけがついていました。というのも、私は念のために6人目のリファレンスを、ジョイントベンチャーへの移行が発表された後、ヘッドハンティングされてよそのホスピスに移っていった元同僚に頼んでいたのです。彼は喜んで引き受けてくれましたが、同時に、現在の職場には満足していないとこぼしていました。私は思わず、「だったら、○×で空きがあったら、すぐに知らせるから」と言い、彼も、「ぜひ頼むよ」と本気のようでした。そして、その彼がオンラインでのリファレンスを送信してくれた直後に、私に電話をしてきたのです。なんと、リファレンスの一番最後の画面に、”あなたは○×ホスピスのポジションに興味がありますか?”という質問があり、彼は”YES”をクリックしたのだそうです。すると、そこから求人画面に飛び、彼はそのままホスピスナースのフルタイムポジションに応募したというのです。「まったく、冗談かと思ったよ。今度は君に、僕のリファレンスになってもらうかもしれないね」と笑った彼は、結局ひと月遅れで、再びキンバリーと私の同僚になったのでした。
 こうして振り返ってみると、すべてが大きな光によって導かれているような、自分以外の何かが、絶妙のタイミングで、私の背中を押してくれているような気がしてなりません。これを、運という言葉で片付けてしまうべきなのかは、わかりませんが、それでも、やはり、私は運がいい、と思うのです。目の前の岩を越えてみなければ、その向こうに何があるのか、知ることはできません。人生は長いし、世界は広いのです。困難のない人生なんてないし、成長とは、その困難を乗り越えることなのです。そして、そこには、また、新しい世界がある。新しい出会いがあり、自分ができることを見つけられるはずです。人生は、そうやって前に進んでいくのです。
 今回の転職は、悩みに悩んだ末の決断でしたが、悩み抜いたがゆえに、心残りも後悔もありません。私をホスピスナースにしてくれた古巣が、このような形で壊されてしまったことは、ただただ悲しく、悔しく、なによりコミュニティーにとって、とても大きな損失でした。それでも、政治や経済、大きな力やお金によって動いている世の中で、私には、ホスピスナースとして、縁のあった、顔の見える、手の届く、半径5メートル内にいる人たちのために、自分ができることを精一杯するしかありません。しかし、そこから何かが伝われば、次の半径5メートルへ、そしてそのまた半径5メートルへと、思いの輪は広がっていくかもしれないのです。人を動かすのは、心です。気持ちです。大きな波にのまれて、自分を見失わないように、間違えないように、間違いに気付けるように、そして、そんな行動がとれるような心を持っていたいと、50代半ばにして思う、そんな2022年でした。
[2022/12/27 07:05] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(4)
Tomorrow (2)
 ルイーズさんとベンさんには、正直に状況を説明し、とりあえず少しでも筋力を維持するため、痛みのない範囲で、両下肢の等尺運動と等張運動を始めることにしました。ルイーズさん達はかなりがっかりしましたが、無い袖は振れないこちらの状況を、受け入れるしかありませんでした。それでも、何もしないよりはマシと、ベッド上でできる、関節を曲げずに筋肉に力を入れたり緩めたりする等尺運動と、ゆっくりと同じリズムで関節を曲げ伸ばしする等張運動を説明する私に、ルイーズさんは期待の眼差しを向けていました。そんな彼女のキラキラしたつぶらな瞳に見つめられると、私の胸はキリキリするのでした。
 結局、ベッド上の運動でも痛みの引き金になってしまうため、なかなか実践することはできず、ルイーズさんのやり場のない苛立ちと虚しさは、日に日に高まっていきました。そしてある日、アセスメントの後、ルイーズさんはまっすぐに私を見て、言いました。
「ねえ、私は、また歩くことができるのかしらね?もちろん、癌が進行しているのはわかっているの。でもね、なんていうか、私は自分が不必要に衰弱しているような気がするのよ」
 一瞬、自分の表情がこわばるのが、はっきりとわかりました。それから、口惜しさと、情けなさと、申し訳なさが、じわじわと胃の奥の方からこみ上げてきました。何かしなければ、何か、今ここで、私ができることをしなければ。
「ルイーズさん、あなたが仰っていること、とてもよく分かります。そして、理由がどうあれ、あなたにそんな風に思わせてしまったことを、心からお詫びします。もう、時間を無駄にするのはやめましょう。どうですか、車いすに座ってみませんか? 今日はいいお天気ですから、ちょっと外の空気を吸ってみませんか?」
 私を見つめていた目が大きく見開き、それから、まるで雲間からお日さまの光が差すように、ルイーズさんの顔がみるみる輝いていきました。
「もちろんよ! でも、本当にいいの? 大丈夫なの?」
「大丈夫です。全然平気です。もし痛かったら、すぐにヒドロモルフォンを飲みましょう。私がしっかり支えるので、大丈夫です。安心してください」
 そうと決まったらじっとしていられないルイーズさんは、早速そわそわし始めました。久しぶりに彼女の明るい瞳を見て、私も嬉しくなり、となりの部屋から車いすを持ってくると、減圧用のジェルクッションをのせて、ベッドの横に角度をつけて置き、ブレーキをかけました。それから、ベッドの上半身を上げ、ゆっくりと両足を下におろして、ベッドサイドに座らせました。ルイーズさんは、ひとつひとつの動きに、「大丈夫、大丈夫」と、言いきかせるようにつぶやいていました。チークダンスをするように、ルイーズさんが私の首に両手をまわし、私が彼女の身体を支えると、ルイーズさんはまるで羽のような軽さで立ち上がり、ふわりと90度のターンをすると、そっと車いすに座りました。それから私を見上げ、拍子抜けしたように言いました。
「これだけ?」
「これだけです。ね、大丈夫だったでしょ? どうですか? 痛くないですか?」
「なんだか、あなたがやると魔法みたいね。今のところ、平気だわ、今のところは、ね」
それから、私はルイーズさんの車いすの向きを変え、「さて、どこに行きますか?」とききました。ルイーズさんは、まるで初めて遊園地に来た子供のようにはしゃいだ声で、「そうね、まずはキッチンかしらね」と言いました。寝室からダイニングキッチンに出ると、ルイーズさんはテキパキと指示を出し、ちいさなキッチンスペースをチェックしてからバスルームを点検すると、「フム、まあまあちゃんとしてるわね」と満足げに頷きました。「それじゃ、お外に行ってみますか?」と尋ねると、「ああ、そうね、そうね、もちろんよ。早くベニーが作ってくれたピクニックテーブルも見なくちゃ」と、私を促しました。
 狭い入口の少し手前で車いすを停め、ルイーズさんの横を抜けてドアを開けると、まばゆい外の光が、打ち上げ花火のように飛び込んできました。私は車いすの後ろに戻り、ゆっくりと外へ押していきました。ドライブウェイには、ベンさんが作ったばかりのピクニックテーブルが、明るい陽射しを受けて、そこに座る人達を待っていました。ルイーズさんはテーブルやベンチをなで、「ベニーはとっても器用なのよ」とつぶやきました。それから満足げに私を見上げると、「そろそろ中に入りましょうか」と言いました。
 週末が明けた月曜日の朝、その日のスケジュールを確認していると、ベンさんからチャットでメッセージが届きました。それは、『母のプライベートのエイドが、コロナ陽性だったと連絡があった、今朝の時点では母も自分も陰性だけど、念の為伝えておく』というものでした。パンデミックも終盤(?)になり、重症化する人は少なくなったとはいえ、まだまだ感染者は後を絶たず、すでに”誰でもかかって当たり前”な病気になってはいましたが、それでも、「ああ、来ちゃったか...」とがっくりと首を落とす自分がいました。プロトコール通り、N95のマスクとゴーグルを着けて訪問すると、マスクをしたベンさんが待っていました。「母も僕も大丈夫なんだけど、代わりのエイドが見つからないんで、今日はリモートで仕事することにしたよ」そう言ってから、「でも、あの日、彼女ちょっと咳してたんだよね。まあ、仕方ないんだけどさ、参ったよ。とにかく、母にはうつってほしくないからね」と、不安そうに笑いました。
 しかし、結局その2日後、ルイーズさん、ベンさんともに、陽性となってしまったのです。幸い、ルイーズさんは軽症で、1日だけ少し熱が上がった程度で済みましたが、ベンさんの方は熱、咳、倦怠感などが数日間続きました。困ったのは、2人が陽性の間は、プライベートのエイドさんが来れないことでした。ベンさんも家族から隔離せねばならず、つまり、病人が病人の世話をすることになってしまったのです。フルPPEの私に、ルイーズさんは、「ベニーの方がよっぽど病人なのにね。私が歩けさえしたらねえ」と、悔しそうにつぶやきました。しかし、このタイミングでのコロナ感染は、まさに弱り目に祟り目。せっかく車いすに乗り始めた矢先、、再びベッド安静に逆戻りになってしまいました。そして、それはルイーズさんにとっては、取り返しのつかない、決定打になってしまったのです。ベンさんがすっかり回復し、ルイーズさんも陰性になった頃、ルイーズさんはもう、立ち上がることができなくなっていました。
 ルイーズさんは安静にしていたのと、ヒドロモルフォンを定時で飲むようにしたことで、痛みを訴えることは少なくなりましたが、食欲が減り、うとうとしている時間が増えていきました。それでも、私が訪問するとニコニコと機嫌よく、「なんだかこの頃、よく夢を見るのよ。時々夢なのか現実なのかわからなくなって、ベニーに呆れられるんだけどね」と笑っていました。プライベートのエイドさんも復活しましたが、ベンさんはそのままリモートで仕事を続けました。ルイーズさんに残された時間が、あとわずかであることを、私から聞くまでもなく、彼にはわかっていたのです。
 そして、日曜日の朝、ベンさんから私の携帯に電話がありました。何かあると、必ずホスピスのホットラインに電話をするベンさんが、日曜の朝に私にかけてくるのには、よほどの理由があると思い、すぐに取りました。
「ああ、Nobuko、出てくれてありがとう。日曜の朝に電話するなんて、本当に申し訳ないんだけど、どうしていいかわからなくてさ。金曜日に君が帰ったあとは、調子よかったんだけど、昨日はほとんど一日中眠っててね、夕方ちょっと目が覚めて何か言い始めたんだけど、なんて言っているのかわからなくて、痛いのか?ってきいてもよく分からなくて、そのうち死んだ親父の名前を呼び出したんで、ロラゼパムを飲ませたんだよ。しばらくしたら落ち着いて、そのまま今朝まで眠ってたんだけど、さっき目が覚めて、俺の名前を呼ぶから、どうしたのかってきいたら、”私、死んだの?”って言うんだ。何言ってんの、死んでないよ、って言ったら、‟私、死んだんだと思ったわ。ほんとに死んだんじゃないの?”って何度も言うんだよ。なんか、こんなことでホスピスに電話するのもなんだし、でも、なんか、どうしていいかわからなくて...こういうことって、よくあることなのかな?っていうか、なんか、意味があるのかな?」
 「いやあ、長年この仕事をしていますが、自分は死んだのかってきいた患者さんは、ルイーズさんが初めてです。すでに亡くなった人たちを見たり、会話したりする人は結構いますけど。でも、もしかしたら、本当にあちらに行って、帰ってきたのかもしれないですね。ちょっと、下見に行ってきたのかもしれません。それで、向うでご主人を見かけたのかもしれないですね。本当のところはわかりませんが、ルイーズさんが怖がっていたり、不安になっているのでなければ、問題ないです。彼女の話を、ただ聞いてあげて下さい。心配したり、落ち着かなかったりしたら、ロラゼパムをあげて下さい。こういうことって、本当に人それぞれで、でも、幻覚とか幻聴とかではなく、多分もうすぐなんだと思います。私も、正直、どうしてルイーズさんがそう思われたのか、もの凄く知りたいです。明日の朝訪問する予定ですが、もしも容態が変わったりしたら、いつでもホスピスに電話して下さいね」
 ベンさんは誰かに話したことで、少し気が楽になったようでしたが、私は逆に、胸がどきどきしていました。ルイーズさんは三途の川のほとりまで行って、戻ってきたのです。それが何を意味するのか、しないのか、私にはわかりませんでしたが、なんとなくルイーズさんらしい気がしました。
 翌日、ルイーズさんはベッドの上半身を立て、頭にはきちんとスカーフを巻いて、私を迎えてくれました。そして、開口一番、「私、死んだの?」と言ったのです。それはまるで、幼い子供が無邪気に尋ねるような、何の意図もない、まっすぐな問いでした。そして、そんなまっすぐな問いには、まっすぐに答えるしかありませんでした。
「いいえ、死んでいません。少なくとも今は、ベンさんや私と同じ、この世界にいます。どうして死んだと思ったんですか?」
「わからないわ。でも、本当に死んだと思ったのよ。そうよね、これは夢じゃないのよね。でもね、本当に、ああ、私、死んだんだって思ったの。どうしてかわからないけど、はっきりそう思ったのよ」
「そうですか。不思議ですね。でも、まだ死んでいませんよ」
すると、ルイーズさんは私の目を見てにっ、と笑うと、少しいたずらっぽい瞳をして、こう言いました。「まだ、ね」
 私は自分の言葉にハッとして、それでも、ひと呼吸おいてから、「そうです。まだ、です」と言いました。
「いいのよ、わかってるわよ。あなたはいつだって正直に言ってくれるから、信頼できるんだもの。つまり、もうすぐ死ぬってことね」
私は、もう一度ひと呼吸してから、頷きました。
「ルイーズさん、私たちにできるのは、ルイーズさんが苦しまず、安らかな気持ちで過ごせるように、お手伝いすることだけです。そして、ルイーズさんに心残りや、やりたいことなどがあるなら、できるだけそれを叶えられるよう、サポートしますから」
「そうだよ、母さん。コロナも陰性になったし、外に行きたければ、車いすに乗ればいいよ。俺は家にいるから、呼んでくれればすぐ来るから」
「わかってるわ、ベニー。あなたは本当によくやってくれるわ。とっても感謝してるわよ」
「おっ、今日はやけに素直だね。そうだよ、母さんのこと、愛してるからね」
「あら、あたしだって愛してるわよ」
 いつものお茶目なルイーズさんに安心したのか、ベンさんは私に向かって、「じゃ、僕は仕事に戻るから、何か必要だったら声かけて」と言うと、母屋の方へ戻っていきました。それから、ルイーズさんは、もう一度、「でもやっぱり、私、死んだと思ったのよね」と、つぶやきました。私は、「怖かったですか?」と尋ねると、ルイーズさんはちょっと考えるようにしてから、「いえ、怖くはなかったわね。でもどうして自分が死んだってわかったのかしら? まあ、死んでなかったんだけどね。こういう人って、他にもいる?」と訊きました。
「いえ、ルイーズさんが初めてです。でも、怖くないのなら、よかったです。安心しました」
「やっぱりね、私はどこかほかの人と違うのね。ベニーにも、心配しなくていいって言っておいてね。あんなでっかいなりして、けっこう心配性なのよ」
 それから、ルイーズさんはまっすぐに私を見て、「あなたが私のナースでよかったわ。あなたがしてくれたこと、すべてに感謝してるわ。あなた方の会社のことは残念だけど、それは仕方のないことだものね。本当にありがとう」と言いました。ああ、もうすぐお別れなんだな、と思いながら、私もまっすぐにルイーズさんを見て、お礼を言いました。ルイーズさんに会えてよかったと思っていること、悔やまれることもあるのに、それを受け入れてくれたこと、私の訪問を楽しみにしていると言ってくれて嬉しかったこと、ケアの方針について、私の意見を真剣に聞いてくれたこと、そして、真剣に自分の考えを話してくれたこと。そんな、ルイーズさんとの時間のすべてが、ホスピスナースとしての私を成長させてくれたことに、心から感謝している、と。ルイーズさんは、そう、そう、とうなずきながら微笑んでいました。それから、茶目っ気たっぷりに、「大変よく言えました」と言い、2人で笑いあいました。
 翌日から、ルイーズさんはせん妄症状が出始め、ヒドロモルフォンと一緒にロラゼパムも定時に使うようにしました。ご主人の名前を呼んでは、朦朧とした口調で何かを言うようになり、殆どの時間を眠って過ごすようになりました。それでも、時々意識がはっきりとすることがあり、ゼリーを一口食べたりすることもありましたが、そんな瞬間はどんどんなくなっていきました。
 金曜日、ルイーズさんは昏睡状態で、ご主人を呼ぶこともなく、穏やかな表情で眠っていました。私は、ダイニングキッチンのテーブルに、ベンさんと向かい合い、空になったヒドロモルフォンやロラゼパムの一回分の経口用注射器の数を確認し、再び補充していました。ベンさんは、「そんなの、僕ができるから」と言いましたが、「いいからいいから」という私に、そのまま任せてくれました。それから、補充が終わると、「もちろん、君が水晶玉を持っていないことはわかっているけど」と前置きしてから、「あとどれくらいだと思う?」と言いました。「そうですね、もう、いつ逝かれてもおかしくないです。多分、今日か、明日だと思います」
 ベンさんは、「そうか、僕もそれくらいだと思ったよ。母はね、昔から、霊感っていうか、そういうのがあってね。昔、僕の父方の叔父が亡くなった時、今でもはっきり覚えてるんだけど、母が座っていた椅子から、文字通り、飛び上がったんだよ。そして、おじさんの名前を呼んだんだ。そのすぐ後に叔母から電話があって、やっぱりあの時叔父が亡くなったって聞いてね。僕はたぶん10歳くらいだったと思うけど、あの時初めて、人が実際に飛び上がるのを見たんだよ。まるで漫画みたいにね」と言い、「だから、母が死んだと思ったって言った時、もしかしたら、本当に死んだのかも知れないって思ったんだ。君の言う通り、ちょっと下見に行ったのかもしれないね」と言ってから、堰を切ったように、ルイーズさんのことを話しだしました。
 「母は、孤児院での生活はほとんど話さなかった。きっと、辛い思い出の方が多かったんだろうね。まあ、自分の子供にするような話じゃなかったのかもしれないしね。親父と結婚したのは若かったけど、親父はちょっと身体的な障害があったから、母は苦労したと思う。僕は末っ子だから、兄や姉とは思いが違うかもしれないけど、それでも、母は厳しい人だったよ。それに、君も知ってると思うけど、頑固でさ。自分がこうって決めたら、絶対に曲げなかったよ。もしかしたら、孤児院でさんざん決まりに縛られて育ったから、そこを出た後は、自分の好きなように、自分の決めた通りにするって思ってたのかもね。そんなこととかもさ、本当はいろいろ聞いておけばよかったよ。僕の知らない母の人生をね、今更だけど、もっと知りたかった。そのうち、とか、明日があるから、なんて思ってたけど、永遠に明日が来るわけじゃないんだよね。それだけが、残念だよ」
 ベンさんは、そんな風にとりとめもなくルイーズさんの話をしてから、ティッシュを取って、鼻をかみ、それから私に、「ああ、ごめん、忙しいのにこんなことで時間取らせちゃって」と言いました。
 「いいえ、全然かまいません。私もルイーズさんのこと、もっと知りたかったです。あなたのお母さんは、とっても魅力的な人ですから。ホスピスナースがこんなこと言うのは変かもしれませんが、私はルイーズさんを訪問するのを楽しみにしていました。彼女はおしゃべりが好きで、いつも笑わせてくれました。今、ルイーズさんは眠っているように見えますが、あなたの声はちゃんと聞こえていますから、いろいろお話ししてあげて下さい。きっと、喜ばれると思います」
 「そうだね、そうするよ。母が癌だってわかって、一緒に住むようになって、いろいろあったけど、こうして母の希望通り最期まで家にいることができて、本当によかったって思うよ。ホスピスに来てもらわなかったら、絶対に無理だったよ。本当にありがとう」
 3年前だったら、ハグをしていたところでしたが、私たちは代わりに握手をしました。それから、「彼女が亡くなった時は、ホスピスに電話して下さいね。そしたら、ナースが来ますから」と最後の確認をして、家をあとにしました。そして、ルイーズさんはそのまま目を覚ますことなく、翌朝早く、ご主人やご両親の待つ場所へと、今度こそ本当に、旅立って行ったのです。
 家族というものを知らずに育ち、辛いこと、悲しいことがあっても、明日という日に希望を持ち続けたルイーズさんは、3人の子供たちに見守られ、最期まで自分を貫いて生き抜きました。もう、明日を夢見なければ、今日を乗り切れないような辛い思いをすることはなく、それでも、天国からベンさん達のことをいろいろと心配しながら、優しく見守っていることでしょう。
 ルイーズさんとの出会いは、ホスピスとは何か、ホスピスナースにとって一番大切なことは何かを、改めて思い出させてくれました。ホスピスが、患者さんの残された時間を無駄に費やす原因になるなど、決してあってはならないのです。そして、それをホスピスナースに強いるホスピスは、少なくとも、自分が働きたい場所ではないのだということが、ストン、とおなかに落ちたのです。ルイーズさんは、私のホスピスナースとしてのジレンマをわかってくれていました。それを分かったうえで、敢えて私の葛藤と付き合ってくれたのです。そして、彼女はその身を持って、私はここにいるべきではない、ホスピスナースとしての私の明日は、ここにはないのだ、ということに気づかせてくれたのです。
 だから、明日という日に、本当の希望を持てるようになるため、私は一歩踏み出すことにしました。そして、そんな私を、ルイーズさんは上の方から眺めながら、「大変よくできました」と言って、笑ってくれるような気がするのです。

 
[2022/12/03 14:08] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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