終わっているんだかいないんだか、よく分からないパンデミックですが、このコロナ禍で、ひとつ、とてもいいことがありました。それは、茶道との出会いです。それまで、まったく興味がなかった私が、とあるお茶室に恋に落ち、以来、毎週のお稽古が待ち遠しいほど、どっぷりハマったのです。週に一度、和服を着て、静謐な空間の中で過ごす時間は、瞑想にも近く、私を仕事や日常の雑念から解放し、心の深呼吸を促してくれるのです。 美味しいお茶や自家製の和菓子を楽しめるのはもちろんのこと、お点前や作法のみならず、日本や中国の歴史や文化を学ぶ面白さは、確実に後半人生の楽しみを増やしてくれました。私は、器用貧乏というか、わりとなんでも”そこそこ”理解できるし、”そこそこ”できるようにはなるけれど、特に極めることもなく、結局何でも”そこそこ”止まりという、かいつまみ人生で半世紀を過ごしてしまいました。ただ、看護に関しては、ライフワークであり、またプロフェッショナルとして、そこそこ以上を目指して精進しているつもりですが、私生活でもなにか夢中になれるもの、自分自身のために楽しめるものは、これといってありませんでした。ですから、毎朝エアー点前で練習したり、YouTubeでいろいろなお点前を見たり、お茶碗やいろいろなお茶器、それらの作者について勉強したり、それぞれの銘について調べたり、考えたりするのを楽しんでいる自分が、意外でもあったのです。 お稽古の前に、茶杓の銘と、その銘に関する逸話や由来となる漢語や和歌を準備しておくのが、私の先生の暗黙の宿題なのですが、その日は勉強する時間がありませんでした。というのは、前日、4時半過ぎにオフィスから「今夜のランナーよろしく」と連絡があり、急遽オンコールになってしまったからでした。今回のジョイントベンチャーで多くの人々が去り、ほぼ壊滅状態にある私たちのホスピスは、それでもなんとか夜勤ナース3人を失わずに済んでいるのですが、しばらく前からオンコールは2人体制になっており、1人が電話を受ける”レシーバー”、もう1人が実際に訪問をする”ランナー”になるため、どうしても日勤のナースが万が一のためのバックアップに入らなければなりません。日勤のナースが5分の1になってしまった今、当然バックアップになる回数は増え、実際に出動する確率もあがります。そして、その晩11時過ぎ、レシーバーから電話があり、4年近く私たちのホスピスケアを受けていた患者さんの、死亡時訪問をすることになったのです。 その患者さんはアシスティッドリビングといわれるタイプのナーシングホームに入居していて、私の家から40分以上かかるところでしたが、私も一度訪問したことがあったので、深夜でも問題ありませんでした。11時を過ぎると車もほとんど走っておらず、11時40分頃には到着していました。メインエントランスに行くと、中年の男性とホームの職員の女性が待っていて、内側からロックされている自動ドアを開けてくれました。消灯後のナーシングホームはしんとしていて、患者さんの娘婿というその男性の「こんな時間にありがとうございます」という声がホールに響いていました。部屋に案内されると、ホームのエイドさんたちが2人と、患者さんの娘さんが待っていました。穏やかな顔をした患者さんの死亡を確認して手を合わせてから、お悔やみを言い、それから、「実際に亡くなられたのは少し前ですが、死亡診断書には私が確認した時間が正式な死亡時刻として記載されます」と説明しました。すると、娘さんが頷きながら、こう言いました。 「実は、明日は私の孫息子の4歳の誕生日なの。だから、今朝、ナースが来てくれた時、今日か明日でしょう、って言われて、こんなこと言うのは憚れるんだけど、明日じゃなければいいなって、思ってたのよ。やっぱり、孫の誕生日には死んでほしくなかったの」 「ああ、きっとお母様もそれをわかっていらっしゃったのでしょうね。すばらしい。希望を叶えて下さったんですね」 私がそう言うと、旦那さんが、「いやいや、あなたが叶えてくれたんですよ。ホスピスに電話した時、ナースが到着するまで、もしかしたら1時間くらいかかるかもしれない、って言われたので、まさか、急いでくれって頼むわけにもいかないし。だから、あなたが着いたらいっときも早く部屋に来れるよう、あそこで待ってたんですよ」と言ったのです。 「そうだったんですか。普通ならもっと時間がかかるとこでしたけど、今夜は車もなかったし、信号もすいすい青になって、思ったよりずっと早く来れたのは、きっとそういうことだったからなんでしょうね」 訪問を終え、旦那さんに見送られて外に出ると、少し涼しくなった澄んだ空に、大きな半月が浮かんでいました。日付はすでにかわっており、光る月を見ながら、私は、その日、本来なら5歳になるはずだった女の子のことを考えていました。95歳で大往生した患者さんの曾孫と同じ誕生日に生まれたその子は、2か月前に天国へ行きました。2年以上その子を担当し、家族の葛藤と、様々な試練やドラマの渦の中、その子はただ、ひたすら、みんなの天使であり続けました。時々もらす子猫のような声と、澄んだ青い瞳だけで、彼女は私たちにいろんなことを教えてくれました。保険の契約や、新しい会社の考え方などの諸事情で、小児ホスピスプログラムの行方が不透明なため、もしかすると、彼女が私にとって最後の小児ケースになるかもしれず、そういう意味でも特別な子でした。 家に向かって運転しながら、あの半月が西の空に薄れる頃、お祖母さんの最後の心遣いを感じながら子供の誕生日を祝う母親と、二度とその子の成長を祝うことのできない母親が、同じ朝を迎えるのだと思うと、夜明けが必ずしも明るいものとは限らないという当たり前のことに、胸が痛まずにはいられませんでした。それでも、家に着いて記録をし、オンコールの時はいつもそうするように、リクライナーで仮眠を取り、結局その後呼び出されることはなく、私は平穏な朝を迎えたのです。 シャワーをしてから着物に着換え、少し寝不足でしたが、報告メールを送ってから、いそいそとお茶のお稽古に行きました。そういう切り替えができないと、最近よく耳にする「ワークライフバランス」がうまくいかないのかもしれません。その日は「流し点(だて)」というお点前をやらせてもらい、最後の「拝見」といわれる、お客に見て頂いたお茶道具の説明をする段になった時、何も準備をしていなかった私は、和歌や漢語や季節とは全く関係のない、その時心に浮かんだ言葉を茶杓の銘にしました。(もちろん、本来ならばその茶杓の本当の作者や銘を紹介するのですが、お稽古で使う茶杓はそうした由緒あるものばかりではないのです。) 私は、その茶杓に「母子鶴」という銘を付けました。そして、昨晩のエピソードを話してから、なぜそれが「母子鶴」につながるのかを説明しました。 『ははこづる』というタイトルで、このブログや、本、『いのちの物語』にも掲載されている話に詳しく書いてあるのですが、「母子鶴」とは、私たちの小児ホスピスプログラムで亡くなった子ども達のお母さんたちに送る、ペンダントの名前です。あるケースをきっかけに、私はどうしても子供を亡くした母親に何かをしたく、ホスピスからのメモリアルギフトとして、折り鶴の親子のアクセサリーを作ることにしたのです。千代紙で小さな鶴と、さらに一回りちいさな鶴を折り、それぞれ透明なマニキュアで固めてから、2羽をアクセサリー用の金具に縦に通し、少しオシャレにスワロフスキーのビーズを間にあしらい、お母さんが子供をおんぶしているような、一緒に飛んでいるイメージで作りました。それを、ボランティアの人が鎖に通してペンダントにし、箱に入れてお悔やみカードと一緒に送っていたのです。考えてみれば、母親だけに贈るというのも、「差別だ」と怒られてしまうのかもしれませんが、女性として、母親として、えこひいきしてしまっても、そこは許してもらえる範囲かと思っています。もちろん、父親をないがしろにしているつもりは毛頭ありません。 それが、「母子鶴」の所以であり、その日、愛する子供の誕生日をまったく違った気持ちで迎えている二人の母親に思いを馳せ、一人には決してもう一人のような思いをせずにいられるよう、そして、もう一人には、悲しみを抱えながら、彼女の天使と共に強く生きてほしいという願いを込めたのでした。そして、それをお茶室で話すことによって、なにか、私の心や魂に近いところが浄化されるような、呼吸が楽になるような、そんな不思議な力が、茶道にはある気がしたのです。 昔、戦国時代の武士たちが、茶の湯をたしなみ、お茶室で大切な話をしたというのも、そうした精神的な効果が大きく影響したからではないでしょうか。密室のなか、そこにある光、音、匂い、色、形、感触、温度、そして、味、といった五感すべてで生命を感じることで、心が穏やかになり、そこから発せられる言葉には、少なからず真実が含まれるのではないか、と思うのです。 ホスピスナースとして、もうしばらくは前線で仕事をしたい私は、今、自分のホスピスナース人生を真剣に考えるべき岐路に立たされています。自分にとって、ホスピスナースとして、一番大切なものは何か。もうすぐ、答えが見えてきそうな、そんな予感がしています。
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