時代が平成になるとともに、神奈川県の大学病院で看護師として働き始めた私が、在宅ケアを学ぼうと渡米してから、30年近くたってしまいました。英語が得意だったわけでもなく、アメリカに憧れていたわけでもなく、ただひたすら訪問看護の仕事がしたくて留学した当初は、こちらで在宅ケアを経験したら日本に帰り、日本で訪問看護を広めたいと夢見ていました。ちょうど、訪問看護ステーションが生まれた年です。しかし、人生の予定は未定、目標通り訪問看護師にはなったものの、想定外だった日本好きのアメリカ人と結婚し、3人の子供に恵まれ、いつの間にか人生の半分以上をアメリカで過ごしてしまいました。 看護学部の質の高さで知られていた留学先は、フィラデルフィア郊外の小さな大学でしたが、それでもバブルの名残もあって、毎年数人の日本人留学生が来ていました。そして、そのままこちらで就職したり、結婚したりして、アメリカに残った何人かとは、いまだに付き合いが続いています。また、いつの間にか広がっていった在米日本人のつながりには、異国の地に住む邦人どうしとして、友人はもちろんのこと、たとえ親しいつきあいがない人でも、何かあったら助け合おう、という暗黙の了解があります。もちろん、日本人同士だからと言って、誰もが気が合うわけではないし、本当に親しくなれる人は限られています。それでも、日本語を母国語とし、キッチンには、お米やお味噌やお醤油が当たり前のようにあり、お箸を使って食事をする、という共通点があるだけでも、どこか気が休まるのは、やはり、この土地では自分が異邦人であるが故なのでしょう。 それは、アメリカ人とは分かり合えないとか、差別されるとか、馴染めない、ということではありません。日本人同士でも、たとえ家族であっても、分かり合えないことはたくさんあるし、日本国内でも地方によって言葉や慣習に違いはあります。それでも、いつの間にか新しい言葉や環境にも慣れ、いろんなことに折り合いをつけながら、人は生きていくのです。しかし、それでも、心が弱っている時や、苦しい時、故郷から遠く離れた場所で、思いがけず懐かしいふるさとの言葉を聞いたり、子供の頃に食べた味に出会ったりすると、ふと、気持ちが緩んでしまうことがあります。 COVID19と、前代未聞の大波乱となった大統領選挙に付随する事件や社会現象で、アメリカが混沌の真っただ中にあった頃、私は仕事で、ある日本人のご夫婦に出会いました。患者さんであるご主人は、自宅で転倒し、頭を打って病院に運ばれ、入院しました。90代という高齢と、中度の認知症があり、心臓もかなり弱っていたため、退院後、家には帰れず、不本意ながら、ナーシングホームに入ることになりました。奥さんは心臓の持病があり、2人の息子さん方は他の州に住んでいたため、自宅での介護は無理だったのです。パンデミックによる面会制限があることは奥さんも承知していましたが、万が一彼女自身に何かあった時のことを考えると、自宅に連れて帰ることは大きな賭けであり、彼女は身を切られる思いでご主人を預けました。しかし、ご主人のコウジさん(仮)は家に帰りたがり、奥さんのトウコさんが電話をするたび、「いつ家に帰れるんですか?」と日本語で尋ねました。トウコさんは何度も説明し、すぐにはお家には帰れないから、早く元気になれるよう、ご飯を食べてください、と頼みましたが、コウジさんはホームの食事にはほとんど口をつけず、薬も拒否するようになったのです。処方された抗うつ剤も飲まず、コウジさんは日に日に弱っていきました。そして、その結果、私たちのホスピスに依頼が来たのです。 そのナーシングホームは私の担当ではなく、たまたま週末勤務だった私が、初回訪問の翌日、フォローアップの訪問を行なったのでした。コウジさんとトウコさんの氏名から、お二人が日本人だとはわかりましたが、初回訪問からの情報では、「2人とも英語に問題なし」とあるだけで、日本語を話すかどうかは分かりませんでした。そこで、奥さんのトウコさんに訪問時間を知らせる電話をしたとき、念のために英語で話し始めたのですが、彼女の英語を聞いて、これは、と思い、「日本語は話されますか?」と訊いてみたのです。すると、パッとトウコさんの声のトーンが変わり、「あら!ノブコさんっていうからもしかしたらと思ったけど、やっぱり日本語おできになるのね!」と、流ちょうな日本語が返っていました。 その日は、ホーム側も”ホスピスの患者は特別”ということで、トウコさんも”1日1時間”という制限でコウジさんの部屋に入ることができていました。ところが、すぐに、それも、”ホスピスの患者で、actively dying、つまり、危篤状態である場合に限りベッドサイドでの面会可”という方針に変わってしまいました。家族は電話か、もしくは窓越しの面会を申し込み、決められた時間に30以内という条件でしか会えなくなってしまったのです。私が受け持ちのナースの代わりに、次にコウジさんを訪問した時は、すでにルールが変わっており、トウコさんは電話で、「ダメなのよ、予約を入れないと、会えないのよ」と嘆いていました。それでも、差し入れをしたいから、私が訪問する時間にホームに行く、と言い、私たちは開かなくなった正面玄関の前で待ち合わせをしました。ホームの職員や外部からの訪問者は、全員決められた入り口から入り、体温を測り、COVID19のチェックリストに記入し、連絡先を書き、施設によっては1週間以内の陰性証明、もしくはその場で抗原反応テストを要請するところもありました。 トウコさんは、おかゆと、炒り卵や細かくほぐした鮭などを入れたタッパーと、小さく砕いたチョコレートの入ったジップロックの袋、チョコレート味のエンシュアという栄養剤などを入れた紙袋を提げていました。私は、せっかくここまで来ているのだから、せめてガラス越しでも会わせてあげたいと思い、中でホームのスタッフに掛け合ってみるので、ここで少し待ってくれるように頼みました。トウコさんは、「でもね、私も面会の予約をしたくて、何度か電話したけど、通じなくて、メッセージ残しても返事もないのよ。よく分からないけど、ダメなんじゃないのかしら?」と、半信半疑でした。私は、おなかの底の方から、熱いものがふつふつと湧き上がってくるのを感じながら、「いや、でも、そんなのやっぱり倫理的におかしいです。非人道的です。何とか掛け合ってみるので、ちょっとだけ、待っていてください。トウコさんの携帯にお電話しますから」と、啖呵を切っていました。 もちろん、ナーシングホームの事情は分かっていました。アメリカ中が、いえ、世界中が、終わりの見えない恐怖の中で、本来だったら不条理で理不尽なルールを、非常事態という前提で、行使していました。決められたルールに従っているだけで、何の決定権も持たないホームのスタッフに、いちホスピスナースが何を言おうと、言われた人を困らせるだけであることも、よくわかっていました。それでも、コウジさんは私たちの患者さんであり、トウコさんはその家族であり、その人たちのために最善を尽くすのが、その時の私の役目であり、存在価値でした。 トウコさんから預かった差し入れの袋を持って、一通りの手続きの後、コウジさんの棟へ行き、ナースを見つけて事情を話すと、「面会についてはステファニーが仕切っているから、彼女に聞いて」と言われ、ステファニーとは誰でどこにいるのかを聞くと、「あっちのダブルドアを抜けて、突き当りを左に行くと、ホールに出て、そこを突っ切ったら左に彼女のオフィスがあるから」と言われました。お礼を言ってから、言われたとおりに行くと、数人のオフィススタッフと思しき人たちが、ホールで立ち話をしていました。そこで、ステファニーはどこか尋ねると、「ああ、ステファニーなら、あそこにいる、赤いカーディガンを着た人よ」と教えてくれました。ステファニーは数人のスタッフと、忙しそうに何かの準備をしているようでした。私は少し気がひけながらも、ステファニーに声をかけ、自分がホスピスナースであり、患者さんの家族が来ているので、少しだけでも面会できないか尋ねました。ステファニーは、忙しそうに、「え?今日は面会の予定はなかったはずだけど。何時に予約したのかしら?」と言いました。私が事情を話すと、彼女はあっさりと、「予約していないなら、今日は無理ね。もう一度電話で予約してもらうしかないわ」と言い、仕事に戻ろうとしました。私は、「彼女、何度も電話したのに通じなくて、メッセージを残したのに電話が来ないって言ってました。今、すぐそこにいらしているので、少しでも何とかできませんか?」と食い下がると、ステファニーは、「だったら、ハリーに言って。面会の予約を受けるのは彼で、私はスケジュールを決めるだけだから」と言い、もういいか?という顔をしました。私は、「時間を取らしてすみません。最後に一つだけ、ハリーさんはどこにいらっしゃるんですか?」ときくと、ステファニーは彼のオフィスの場所を教えてくれました。それから、私は回れ右をすると、今度はハリーのオフィスへ行きました。オフィスのドアは開いており、ハリーは書類の山で埋まったデスクの前で、電話をしていました。私はドアのところに彼から見えるように立ちました。ハリーは電話を終えると、私の方を向いて笑顔を作り、「どうされましたか?」と訊きました。私は、すでに言いなれたセリフのようになった事情を説明し、トウコさんが、予約を入れようと何度かメッセージを残したこと、いま、玄関の外にいることを強調すると、ハリーはコウジさんの名前を確認し、「そんなメッセージは聞いていないなあ」と言いました。それから、いかにも今回だけは特別だというオーラを全開にし、「家族がもう来ているんだったら、仕方ないから。部屋どこ? ナースに言って、ガラス越しで面会させてあげて。でも、これからは僕に電話するよう、家族に言っておいて」と言ってから、彼の内線番号を教えてくれました。私は少し大げさに、「どうもありがとうございます。本当に感謝します。患者さんも奥さんも、とっても喜ばれると思います。ありがとうございます」と言うと、踵を返し、元来た方へ戻りました。 最初に話をしたナースを見つけ、状況を説明すると、彼女は、「あら、それはよかったわね。今、ちょうどナースアシスタントがコウジを車いすに乗せてるところだから、玄関ホールに連れて行ってもらって」と言い、再びバタバタとどこかへ行ってしまいました。私はすぐにトウコさんに電話をし、これからコウジさんを玄関ホールに連れて行くことを伝えました。それからコウジさんの部屋へ行くと、ちょうど車いすに座らせてもらっているところでした。そこにいたホームのスタッフに、これからコウジさんを、奥さんと面会するために玄関ホールに連れて行くと話すと、忙しそうな彼女は、渡りに舟とでもいうように「あら、そう、じゃ、お願い」と、あっさりとコウジさんを私に引き渡しました。 コウジさんは初めて会った時よりもずっと痩せており、何も言わず、じっと私の顔を見ました。私が日本語で、「コウジさん、こんにちは。今、トウコさんが玄関でお待ちですから、一緒に行ってお会いしましょう。それから、トウコさんが持ってきてくださったご飯を食べましょうね」と言うと、ほんの少し顔が明るくなったように見えました。 車いすを押して、正面玄関ホールに着くと、ガラスのドアの向こうで、トウコさんが手を振っていました。私は車いすをできるだけドアの近くに寄せると、トウコさんはガラスに張り付くようにして、「コウジさん、元気? ごはん食べてる?」と言いました。コウジさんはトウコさんを見つめ、黙ったままゆるゆると微笑み、こっくりと頷きました。トウコさんは差し入れを持ってきたこと、コウジさんの好きなチョコレートも入っていること、そして、ちゃんと薬をのんでほしいことなど話してから、「なかなか会いに来れなくて、ごめんね。本当はもっと来たいんだけど、コロナでだめなのよ。わかる? 今ね、世界中、ウィルスで大変なの。ごめんね、ごめんね」と言って、ガラスに手を当てました。すると、コウジさんは上体を少し前傾させ、ガラスに向けて左手を上げました。私はコウジさんの手が届くように、車いすを少し斜めにすると、コウジさんは細い腕を伸ばし、その大きな手を、ガラス越しのトウコさんの小さな手のひらに重ねました。トウコさんはにっこりすると、そのまま、「コウジさん、ご飯食べて下さいね。おかゆ作ったから。卵も入ってるから。栄養つけて、ね」と言いました。コウジさんは何も言わず、ただ、じっとトウコさんを見つめていました。 ほどなく、コウジさんを車いすに乗せてくれたアシスタントの人が、様子を見にやってきました。そして、「ランチの介助するんだけど」というので、私は、「もう少し面会してから、私が部屋に戻します。ご家族が差し入れ持ってきてくれたので、私が介助するから大丈夫です」と返事をしました。すると、「あら、ありがとう。じゃ、頼むわね。コウジ、よかったわね」と言って、戻っていきました。トウコさんは、甘党のコウジさんが好きな、チョコレートや柔らかいクッキーが部屋にあるはずと教えてくれ、私は念のため、トウコさんがいる間に部屋に戻って確認してみました。しかし、トウコさんの言うジップロックに入ったお菓子はどこにも見当たらず、代わりにホームのボランティアが配ったと思しきキャンディーが置いてありました。それを聞くと、トウコさんはとても憤慨し、「どうしたのかしら? 捨てられちゃったのかしら? そうだとしたら、ひどいわ。コウジさんが好きな、おいしいクッキーだったのよ」と残念がりました。私は、「あとでナースに聞いてみますね。わかったら、お電話しますから」と言い、それから、せっかくなので二人で写真を撮らないか、と提案しました。トウコさんは小躍りして、「ぜひ撮って!」と喜びました。ただ、私のスマホで撮ったものを、トウコさんに送らなければならず、個人情報の共有になってしまうため、私の立場的にはするべきではなかったのですが、トウコさんの承諾と、送ったらすぐに私のスマホからは消去する、という、”ここだけの話”にしておくことで、合意しました。 私はコウジさんの車いすの向きを変えると、トウコさんがその斜め後ろに中腰になり、ガラス越しではあるものの、二人はまるで並んでいるように見えました。コウジさんは無言のまま、とても穏やかな表情をしており、ニコニコと嬉しそうなトウコさんと一緒に、長く連れ添った仲の良い夫婦の、優しいツーショットが撮れました。すぐにトウコさんに送り、それからコウジさんに写真を見せると、コウジさんはコクンと頷きました。それから、「そろそろお部屋に戻って、トウコさんの作ってくれたおかゆを食べますか?」と聞くと、もう一度、コクンと頷きました。トウコさんは名残惜しそうに手を振りながら、「コウジさん、また夜に電話しますからね。ご飯食べてね」と言い、それから私に何度も頭を下げました。 部屋に戻り、紙袋からトウコさんの差し入れを出すと、コウジさんの目が、ほんの少し輝きました。ふたを開けると、大き目のタッパーにはおかゆが、小さい方には炒り卵とほぐした鮭が入っていました。「コウジさん、トウコさんのおかゆ食べますか?」と聞くと、コウジさんははっきり、「ハイ」と言いました。おかゆはまだほんのりと温かく、私は炒り卵と鮭を混ぜ、スプーンで少しずつコウジさんの口に運びました。ホームの食事は一割も食べていないというコウジさんは、ゆっくりと、むせることもなく、7割近くのおかゆとおかずを食べました。それから、デザートに、砕いたチョコレートを3、4かけ食べると、満足したように首を横に振りました。 その日の夕方、私はトウコさんに電話をし、コウジさんがおいしそうにおかゆとおかず、そして、チョコレートを食べていたことや、行方不明になっていたお菓子は、ミキサー食のコウジさんには誤嚥の危険があるために処分されたことを伝えました。トウコさんは納得したものの、やはりどこか腑に落ちないようでした。それから、ハリーの内線番号を教えてから、しばらく他愛のないおしゃべりをしました。トウコさんはクリスチャンで、家の近くの教会のメンバーではありましたが、フィラデルフィアの日本人教会や日本人会にもたくさん知り合いがいて、そのうちの何人かは私も知っている人たちでした。「でもね、もうずいぶん長いことお会いしてないわね。私ももうこの辺りしか運転しないしね。皆さん、あちこち具合が悪かったりするみたいでね。本当に、年取るって、いやね」 そんな話をしてから、私は、「トウコさん、今日みたいな不都合があったら、何でもホスピスに電話してくださいね。コウジさんの受け持ちナースのスーにも、何でも聞いていいんですよ。スーも、訪問する時は必ずトウコさんに電話しますから。それに、また私が行くこともあるかもしれないし」と言うと、「今日は本当にあなたが来てくれて助かったわ。どうもありがとうございました。なんかね、こうしておしゃべりしたら、ちょっと気持ちが楽になったわ。うちの息子たちは日本語はだめだから」 コロナ以前だったら、言語や文化を鑑みて、こういうケースの場合受け持ちナースを変えることが可能でした。しかし、パンデミックになってから、1つのナーシングホームに1人のホスピスナースという方針が徹底されてしまい、この時以降、私がコウジさんを訪問する機会はありませんでした。そして、それから3週間後に、コウジさんは亡くなりました。 その日の夕方、私はトウコさんに電話をしました。お悔やみを言うと、トウコさんは、コウジさんの最期がとても穏やかだったと言い、最後の二日間はトウコさんもベッドサイドにいることができた、と話してくれました。それでも、トウコさんはコウジさんをおうちに帰してあげられなかったことに、どうしようもない罪悪感と、彼に申し訳ない気持ちを拭い去ることができませんでした。 「私がね、電話するでしょ。コウジさん、ちゃんとわかってて、‟私は誰?”って聞くと、‟トウコちゃん”っていうの。‟元気?”って聞くと、‟あまり元気じゃありません”っていうのよ。だから、‟ご飯食べてね”って言うと、‟はい”っていうの。最初の頃はね、‟いつ家に帰れますか?”って聞いてきたんだけど、だんだんそれも言わなくなってね。でもね、ほら、夕焼け小焼けっていう歌あるでしょ? 知ってる?」 私が、「ああ、夕焼け小焼けで日が暮れて...っていう歌ですよね」と言うと、トウコさんは、 「そうそう、それ。その歌をね、電話を終える前に一緒に歌うのよ。でね、最後の‟カラスと一緒に帰りましょう”っていうところがあるでしょ。そこをね、コウジさん、いつも、‟カラスと一緒に帰ります~”っていうのよ。もうね、なんか、悲しくなっちゃって...」 と言って、それからしばらく、言葉に詰まってしまいました。 私は鼻をすすりながら、「ああ、それは切ないですね。どうしようもなくても、やっぱり、切ないですよね」と言うと、トウコさんは、 「そうなの。どうしようもできなかったことは、私もわかってたの。コウジさんも、知ってたけど、やっぱり、帰りたかったのよね」と言い、それから、堰を切ったようにコウジさんとの思い出を語り始めたのです。 私たちは、泣いたり笑ったりしながら、トウコさんとコウジさんの物語を分かち合いました。トウコさんが話し、私が聴きました。電話の向こうとこちらの間で、コウジさんが静かに微笑みながら、うんうんと頷いているような気がしました。私が耳を傾ければ傾けるほど、コウジさんの思い出は、トウコさんの胸からどんどん溢れてきました。 思いは言葉となり、言葉は想いを語り、それが聴き手の心に届いたとき、そこにまた、新たな想いが生まれる。葉っぱから零れたひとしずくの露が土に染みこみ、土から染み出た清水が小さな流れになり、その小さな流れが出会って小川になり、河になり、海に注がれるものもあれば、別の流れに分かれていくものもあるように、人の想いもカタチを変えながら伝わっていくのです。 トウコさんとコウジさんご夫婦に出会って私の中に生まれた想いが、いつかあるカタチとなり、それがまた、どこかの誰かの心の中に、トウコさん達が私にくれたような温かな想いを芽吹かせることができたら、それは素敵な想いの連鎖になるはずです。だから、この気持ちを自分の気持ちだけで終わらせないために、私は行動することにしました。それは、在米日本人、特に、加齢や病気などでエンドオブライフに直面している人や、その家族を対象にした、日本語による傾聴サービスを立ち上げることです。つらい時、なかなか人には話せないことを、母国語で吐き出せたら、それだけでも少し気持ちが楽になるのではないかと思うのです。 異国の地で、一緒に「夕焼け小焼け」が歌える、そんな心のよりどころになれるような、あたたかなサービスをしていきたいと思っています。どこかにいる、沢山のトウコさんやコウジさんの想いを受け止め、私の想いが伝わるように。
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