ホスピスケアを受けるためには、メディケアの基準を満たす必要があり、その大前提に「余命6カ月以内」というものがあります。もちろん、6カ月以上生きていたらすぐにサービスを終了するわけではありませんが、保険の濫用を防ぐため、ホスピスケアを始めて6カ月を過ぎると、メディケアはかなり厳しく、その必要性と妥当性の医学的証拠を求めてくるようになります。癌の患者さんの場合は、ほとんど問題なくケアの延長が承認されるのですが、慢性疾患、特に、心不全、認知症、パーキンソン氏病などの神経疾患、そして、COPDの場合、その判断は厳しく、受け持ちのナースは常に何か“悪くなっていること”を見つけて、記録に残すことを心掛ける必要があります。さもないと、メディケアが承認せず、すでに行われたケアや薬、医療機器などの支払いを拒否することもありうるのです。しかし、ホスピスケアによって、症状がコントロールされ、環境が整えられ、それによって患者さんが快適に過ごせるようにするのが私達の仕事なわけで、ホスピスが介入しているからこそ、余命6カ月を超えることは、珍しくありません。特にCOPDの患者さんは、慢性的な呼吸苦はあるものの、安定期と増悪期を繰り返しながら悪化していくため、予後の見通しが難しく、しかも本当に悪化し始めると、最後はあっという間だったりするため、安定しているからと言ってホスピスケアの介入が時期尚早だったとも言えないのです。 ホスピスケアを始めてから最初の6カ月が過ぎると、そのあとは2ヶ月ごとの再認定のために、ナースだけでなくホスピスのメディカルディレクターである医師の訪問が必要になります。そして、メディカルディレクターが、ホスピスケアを受ける基準を満たしていると承認しなければ、当然、メディケアも再認定はしません。ボブさんは、呼吸苦はあるものの、その程度は「おんなじ」で、液体モルヒネの服用も一日2回程度、食欲はあり、少しずつ体力が落ちてはいましたが、小康状態を保っていました。ただ、いつの間にか部屋の外に出る回数が減っていき、同時にタバコを吸う回数も減っていました。メディカルディレクターのカールは、私の報告からボブさんの状態は知っていましたが、実際に本人に会い、診察してからその判断を下さなければならないため、認定期限終了の2週間ほど前に、私と同時訪問をすることになりました。 その日の朝、訪問時間の確認の電話で、ビルさんに、「今日はドクターも来ますからね」と念を押したせいか、カールと私が訪ねると、なんと、ボブさんは髪をとかし、洗いたてのゴルフシャツを着て、しかもショートパンツをはいていました。私は思わず、「あら、ボブさん、今日はメチャクチャ素敵ですね。先生のためですか? どうもありがとうございます」と若干皮肉を込めて言うと、「息子がうるせえんだよ」と照れながら、「メディカルディレクターのドクターウェンツです。今日はNobukoと一緒にお邪魔させていただいて、どうもありがとうございます」と差し出したカールの右手を、握りました。それを見て、私は、心の中で「ああ、カール、ごめん!」と謝りながらも、さすがに本人の目の前で「その手は、、、」とは言えませんでした。 小康状態とはいえ、ボブさんのCOPDはどうしようもないほどの末期状態であり、ホスピスケアを始めた6カ月前に比べたら、確実に状態は悪くなっていました。日中にウトウトする時間が増えたことや、行動範囲の縮小は、ホスピスケアの継続するための悪化の指標になり、メディケアからクレームがつくこともありませんでした。そして、ある日、血圧を測ろうとした時、左の肘に大きな絆創膏が張ってあるのに気づきました。「あれ、これ、どうしたんですか?」と聞くと、ボブさんは面倒くさそうに、「ああ、ちょっと転んだんだよ。大した事ねえのに、ビルのやつが大げさなんだよ」と答えました。しかし、それが、ボブさんの転倒地獄の始まりだったのです。 ボブさんは、トイレやシャワーのために部屋の外に出る時、高さが90㎝ほどのポータブルの酸素ボンベを、キャスター付きのキャリーに乗せ、そのキャリーを杖代わりにして歩いていました。その週末、次男のアンディーさんがボブさんをシャワーに入れた後、部屋に戻る途中でバランスを崩したボブさんは、とっさに壁に手を伸ばしましたが間に合わず、そのままずるずると倒れた時に、左ひじを擦りむいたのです。幸いそれ以外にけがはなく、頭なども打ちませんでしたが、もしも重たいボンベも一緒に倒れていたら、と思うとぞっとし、私はボブさんに説明して、転倒予防と安全指導のため、理学療法士(PT)に訪問してもらうことにしました。ところが、ボブさんはPTの指導に対し、ことごとく抵抗したため、PTのローリーは、私に電話をしてきました。そして、ボブさんがPTの提案や指導に対し、否定的な態度であり、自分もできるだけのことはするが、それ以上は”患者のノンコンプライアント(不従順)”ということで、サービスを終了する、と告げてきました。私は、ローリーが匙を投げたとは思わず、プロとしてできる限りの努力をしたあとは、本人の責任であり、患者の理解度を評価したうえで、患者本人の意思と選択を尊重したのだと受け取りました。実際、喉が渇いていない馬に水を飲ませることはできないように、自覚のない人に行動を変えさせることはできないのです。PTサービスの終了に関しては、ビルさんも、「あの人はだれが何言おうと、態度は変えないからね。昔っからそうだし、PTはよくオヤジに付き合ったと思うよ。俺だってオヤジが転ぶのはいやだけど、あの人だっていい大人なんだから、自分で責任持たなきゃなんないんだよ」と言って、理解してくれました。それでも、ビルさんは、バスルームに手すりをつけたり、ボブさんの部屋を片付けて転倒の危険因子を取り除くなど、ローリーに勧められたことはすぐに実行していました。 ボブさんは月に1度から、半月に1度、そして、ほぼ1週間に1度は転倒するようになりました。毎週訪問するたびに、私の挨拶は「今週は転びませんでしたか?」になり、仏頂面のボブさんが、「あー、昨日な」と答え、私が「どこでですか?」「何をしてたんですか?」「歩行器は使ってましたか?」と確認しながら、けががないかどうかアセスメントする、というのがルーティンになっていきました。そして、そのたびに、私はオンラインのインシデントレポートを提出し、カールに報告し、チームミーティングでも報告しなければなりませんでした。私は、室内でも必ず歩行器を使うこと、立ち上がってすぐに歩きださないこと、忘れないように歩行器は目の前に置いておくこと、後ろにあるものを取ろうとしないこと、などなど、お互いの耳にタコができるほど繰り返して言いましたが、まさに馬の耳に念仏とはこのことで、ボブさんはそれらを徹底して無視し続けたのです。 そんなある朝、私が訪問すると、ストームドアのフックがかかったままで、開けることができませんでした。下敷きやプラスチックファイルがあれば、ドアの隙間から差し入れて外すこともできそうな、原始的なフックでしたが、あいにくそうしたものを持ち合わせておらず、仕方なくビルさんに電話をしました。大きなホームセンターに勤めるビルさんは、接客中は電話に出られないのですが、運よくすぐに出てくれ、私が状況を説明すると、「なんてこった。ドアのカギは開けたのに、ストームドアをわすれるとはな」と、舌打ちをしました。それから、「今日はベッキーもいないし、しょうがねえな、親父に電話するから、ちょっと待っててくれよ」と言って、電話を切りました。私は一瞬迷いましたが、ビルさんはすでにボブさんに電話をかけており、部屋の中からボブさんの携帯電話の鳴る音が聞こえてきました。それから、「ああ? え? あー、フック? オーケー」というボブさんの声が聞こえ、しばらくすると、彼が立ち上がり、こちらに近づいてくる気配がしました。それから、「よう、ナース、あんた、そこにいんのかい?」という嗄れ声が聞こえ、私はドアに向かって、「そうなんです。ボブさん、ゆっくりでいいですからね。歩行器使ってますか? ゆっくり来てくださいね」と叫びました。そして、ハラハラしながら様子をうかがっていると、ドアが開き、右手で酸素ボンベのキャリーを引いた、下着姿のボブさんが現れました。それから、ボブさんは黙ってフックを外すと、回れ右をして、リクライナーの方に戻ろうとしました。「ああ、ボブさん、どうもありがとうございます」と言って部屋に入ろうとしたその時、私の目の前で背の高いボブさんの背中がユラリと傾いたのです。 私は心の中で、「ノー――――!!」と叫びながら、部屋にとび込み、とっさにボブさんの左腕をつかみました。ボブさんは、まるで起き上がりこぼしのように、ユラユラとよろめき、必死でバランスを取ろうともがいていました。私は何としてでも転ばせるものか、と、肩にかけていた訪問バッグを投げ出し、まるでタックルするかのように、ボブさんの身体を支えました。その間、たぶん数秒だったと思いますが、まるですべてがスローモーションのようで、それでも私の心拍数は跳ね上がっていました。そして、なんとか体勢を立て直したボブさんを、無事リクライナーに座らせたときは、2人とも肩で息をしていました。 私は呼吸を整えてから、床に放り出された訪問バッグを拾うと、ソファーの横に置き、開けっ放しだったドアを閉め、その横に放置されている歩行器をつかむと、リクライナーに座っているボブさんの目の前に置きました。それから、いつものように、ソファーの上に畳んである洗濯物をずらして場所を作り、ボブさんのほうを向いて座りました。それから、「大丈夫ですか?」ときくと、ボブさんはテレビの方を見たまま、「今のは危なかったな」と言いました。まるで他人事のように言うボブさんに、私の胸の奥で、何かがカチリと音を立てました。 「ボブさん」と呼んだ私の声に何かを感じたのか、ボブさんは、今度は私の方を向くと、「ああ?」と言いました。私は表情を変えず、いつもより強い口調で続けました。「あなたはさっき、もう少しで転ぶところでした。怖くなかったですか? 私は怖かったです。あのまま転んでいたら、今頃どうなっていたか分かりません。今まで、大きなけがをしないですんできたのは、本当にラッキーだっただけで、次もそうだとは限りません。ボブさんだって、わかってますよね」すると、ボブさんは、「だからなんだってんだよ。ああしろ、こうしろ、って言ってばかりで、何も良くなんねえじゃねえか。何にも変わんねえんだよ、ケッ」と言ったのです。その「ケッ」を聞いた瞬間、私の胸の中の火種は、音を立てて燃え上がりました。 「ボブさん! いったい誰の話をしていると思ってるんですか? あなたの話ですよ。あなたの命の話をしているんですよ。転んで困るのは、ビルさんでも、ローリーでも、私でもない、あなたです。痛い思いをするのはあなたで、ケガをするのはあなたで、辛い思いをするのもあなたです。これは、ボブさんの人生の話なんです!」 鳩が豆鉄砲を食らうと、きっとこんな顔をするんだろうな、という顔をして、ボブさんはしばらく私を見ていました。それから、いつもの仏頂面に戻ると、「そうかい、わかったよ。おっかねえな」と言いました。しかし、その日から、ボブさんは歩行器を使うようになり、転倒の回数も激減したのです。相変わらず裸で、目の前で排尿はしていましたが、ボブさんは時々、自分から話しかけてくるようになりました。訪問を始めてから半年以上たって、ボブさんは初めて、私が日本生まれの日本人だということを知り、結婚していて子供が3人いることを知りました。そして、子供たちが高校生と大学生だと知ると、「なんだって? 子供が子供産んだのかよ?」と、冗談とも本気ともわからないような驚き方をし、どうも、私のことをかなり若年だと思っていたようで、「あはは、それはどうもありがとうございます」と笑いながら、ああ、それで生意気な小娘だと思っていたのかな、と、少し納得しました。 ある時、いつものように大画面のテレビを見ていたボブさんは、あるコマーシャルを見て、「これだよ、これ!」と指をさしました。それは、フィラデルフィア市内の大学病院のコマーシャルで、COPDだった人が肺移植によって、すっかり普通の生活ができるようになった、というものでした。それまでも、ボブさんはコマーシャルでみた新薬や、器具を試したがることはあり、その都度、私は、それがボブさんには適応しないということを説明していました。それでも、病衣を着て酸素をつけ、灰色の顔をしていた老人が、酸素を使わずに明るい太陽のもとでゴルフをしたり、孫を抱き上げて笑っている、キラキラした情景は、まるで魔法のようで、それが作りものであるとはわかっていても、もしかしたら、と思ってしまうのは、仕方のないことでした。私は言葉を選びながらも、はっきりと、ボブさんは肺移植の対象にはならないことを説明しました。すると、彼は、「それじゃ、俺はもう、よくならないってことか? このまま死ぬってことなのか?」と言ったのです。その時初めて、私はボブさんが、自分がホスピスケアを受けている理由を本当には理解していなかったことに、気づいたのです。彼は、もう病院には戻らない、というのが、家で死ぬ、という意味であることとは思わず、ただ、ナースが来て、症状を緩和し、苦しくないようにしてくれるのが、ホスピスケアだと思っていたのでした。つまり、その延長には、自分の死がある、ということには、思いもよらなかったのです。 「ボブさん、ボブさんの病気は一方通行なんです。病気は進んでいって、それは、肺だけじゃなく、身体の他の部分にもいろいろ影響しているんです。ボブさんが転ぶようになったのも、体力がなくなっていくのも、そのせいなんです。そしていずれは、肺にも心臓にも限界が来るんです。そして、それは病院に行ってもどうすることもできなくて、だから、せめて、ボブさんができるだけ苦しくないようにするために、私たちが来ているんです。そして、ビルさんたちも、それが分かっているんです」 ボブさんはじっと私の話を聴き、それから、確認するように、「そうか、俺は死ぬんだな」と言いました。私は、「はい」と答えてから、「そんなこと、考えたこともありませんでしたか?」と尋ねました。するとボブさんは、いつものべらんめえに戻って、「あったりめえだろ。誰が自分が死ぬなんて考えるかよ。別に、どうしても死にたくねえわけじゃねえけどよ、わざわざ自分が死ぬことなんて、考えねえだろ?」と言うと、「チェッ、チクショウ」と言って尿瓶を取り、私に横を向かせたのでした。 BAD BOY(4)に続く。
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