ホスピスナースは今日も行く 2020年07月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
仁義なきホケンとの戦い
 日本とアメリカの医療環境はいろいろ違いますが、何と言っても一番の違いは、健康保険システムでしょう。基本的に65歳以上(および障碍者)であればメディケア、低所得者であればメディケイドという2大公的保険があり、それ以外はすべて民間の保険なのですが、中にはメディケアやメディケイドをマネージメントする保険会社もあり、とても複雑です。そして、長年在宅ケアに携わってきて実感しているのは、保険会社(政府を含む)は絶対に無駄なお金は使わない、できれば必要なお金も使いたくない、という密かなポリシーを持っているということです。まあ、保険会社にしてみれば当然のポリシーなのでしょうが、医療費(と高等教育費:大学授業料)が異常なほど高いアメリカでは、保険がカバーしなければ病気になったら破産覚悟、と言っても過言ではありません。そして、65歳以下の人はたいてい働いているか、配偶者が働いているか、保護者が働いているかのどれかで、職場を通して、もしくは、個人で健康保険を購入するわけです。どちらにしても毎月の保険料は安くはなく、また、安ければカバーされるものもそれなりで、しかも、保険によっては保険料以外に自己負担があり、保険料払ってたら家賃が払えない、子供の学費が払えない、でも、メディケイドを受けるにはちょっとだけ資産が多すぎる、というギリギリの人が大勢いるのです。さらに、仕事があるうちはまだいいものの、病気になって働けなくなり、今こそ健康保険が必要という時になって、働けないので失職し、失職したので保険がなくなり、にっちもさっちもいかなくなってしまうという人もいるわけです。(今回のパンデミックで失業し、健康保険を失くした人もかなり多いと思います。)
 そんなアメリカの健康保険事情ですが、医療を提供する側にしてみると、保険による医療報酬が命綱であり、それがなければ経営が立ちいかなくなってしまいます。ですから、何としてでも払ってもらわなければ困るのです。そのために、その患者さんになぜその検査が必要なのか、なぜその治療が必要なのか、なぜ訪問が必要なのか、などなど医学的根拠に基づいて説明し、保険会社を納得させなければなりません。民間の保険会社や、保険会社と提携している管理会社によっては、とりあえず最初は却下、というところもあり、そこからは必死の攻防戦になるのです。
 ホスピスの場合は、サービスを始めてから、90日、90日、その後は60日毎に再評価をして、その患者さんにとってホスピスケアが適正であるかをメディケア、あるいはその患者さんの持つ保険会社に証明しなくてはなりません。そして、ホスピスケアを受けるための基準である「余命6か月以内」という予後を過ぎると、保険の目は厳しくなってきます。もちろん、6カ月たったので、サービス終了!というわけではありませんが、これが1年、2年、と続くとなると、お金を払う側としては、きっちりと訳を話してもらおうじゃないか、ということになるわけです。もちろん、患者さんをみているホスピスナースが「あれ? これは思ったよりもいけるかも?半年、いや、1年後もまだ大丈夫なんじゃないかな?」と思った場合は、患者さんや家族、ホスピスメディカルディレクターと受け持ち医などの合意を得て、ディスチャージ(サービス終了)することもあります。そして、時間をおいて再びホスピスケアに戻ってくる人もいます。私が受け持った人で、腎不全で人工透析を中止し、ホスピスケアを受け始めた人が、関わったすべての医療者の予測を裏切り、最初の90日で腎機能は安定、膝の全置換手術を受けるためにホスピスケアをキャンセルしたケースがありました。そして、そのまま透析は再開せずに、なんと、彼女は10年後に再びホスピスに戻ってきたのです。いったんホスピスケアをやめてから3カ月、半年、長くても1年後に戻ってくる人はいましたが、10年後という人は、おそらく、あとにも先にもないのではないかと思います。
 とにかく、ホスピスケアを普及させようとした80年、90年代から、21世紀には、その価値が認められ始め、認知度が高まり、ホスピスケアの成熟期に入るとともに、営利的なホスピスが増え、ホスピスベネフィットを濫用する事業所が出て来たのです。そうなると、保険側も手綱を引き締めてかかるようになり、さらに、2010年の医療制度改革(通称オバマケア)によって、保険による医療のコントロールに拍車がかかってしまいました。
 もちろん、オバマケアによって恩恵を受けた人も大勢いたわけで、小児ホスピスのconcurrent care(ホスピスケアを受けながら、状況によって積極的治療を並行して行う)の承認もその一つでした。ところが、当然ながら、小児ホスピスは成人に比べて圧倒的に数が少なく、concurrent careを含めた小児ホスピスの意義を十分に理解していない医療者や保険会社は、まだまだ多いのです。また、小児ホスピスの場合、人工呼吸器や経管栄養のポンプ、酸素や吸引機などの医療機器を使っているケースも多く、成人のホスピス患者さんに比べて、非常にコストがかかります。しかも、薬もフォーミュラリー以外のものが多く、さらにconcurrent careで、高額な治療を行なったりするとなると、定額日払いのホスピスとしては完全に赤字になってしまいます。そこで、仕方なく、小児の患者さんがconcurrent care目的で入院する場合、いったんホスピスサービスを中止し、退院したら改めて初回訪問依頼を受け、新たなエピソードでサービスを開始することで、なんとかやりくりしているのです。
 小児ホスピスの患者さんは、がんだけでなく、先天性の心疾患、染色体異常による様々な症候群や代謝異常、先天性の神経難病などなど、様々な疾患を持っています。年齢も生後数時間から21歳までと、広範囲です。そして、ホスピスケアを受ける期間も様々で、24時間にも満たない子から、1年以上という子もいるのです。また、中には成人同様、当初の予測を裏切って症状が落ち着いたり、予想以上に進行が遅かったり、あるいはまれに誤診だったり、など、様々な理由でめでたくホスピスケアを卒業、あるいは一時中断する子もいます。しかし、小児の場合、急変する可能性は非常に高く、しかも、急変から亡くなるまでの速さは成人とは比べものになりません。ですから、よほど安定していない限り、ディスチャージはしません。
 ところが、場合によっては、強制的にディスチャージを迫られることがあります。そして、唯一その権力を持っているのが、保険会社なのです。
 健康保険会社には、それぞれお抱えのメディカルディレクターがいます。(もちろん、医師です。)そして、請求されたサービスが医療として必要、あるいは適切かどうか、つまり、保険が支払うかどうかを最終的に判断するのは、この、メディカルディレクターです。しかし、保険のメディカルディレクターは必ずしも専門家ではありませんし、保険会社からお給料をもらっているわけですから、その使命はお察しの通りです。もちろん、医師としての知識と良識を持っていることを前提としていますが、それが臨床現場にいる医師の意見と必ずしも一致するとは限りません。そこで、保険請求したものを却下され、それに対してさらに詳しい説明とエビデンス等を記したアピールの文書や電話で抗議、要請し、それが再び却下されることもあり、それが行ったり来たりする場合もあるのです。
 今、まさにその、行ったり来たりの真っただ中にいるのが、私が担当している小児のケースです。5歳のその子は、先天性のミトコンドリア代謝異常で、ミトコンドリア病の中でもかなり予後の悪いタイプで、約1年半前からホスピスケアを受け始めました。そして、ホスピスが関わるようになってから、それまで130回以上も小児病院への救急搬送や入院を繰り返していたのが、なんと、皆無になったのです。ミトコンドリアは、ヒトの細胞の中でエネルギー供給をする構造物であり、その代謝がうまくいかないと、細胞の中で作られるエネルギーが減り、様々な器官に影響を及ぼします。その子の場合、寝たきりで、精神遅滞とてんかん発作やけいれん、自発呼吸はあるものの、心肺機能は脆弱で、BiPAPというマスク型の人工呼吸器と酸素を使い、消化管機能も低く、経管栄養と排便の管理、調整、もちろん免疫力は弱く、常に感染の危険と背中合わせの状態です。要するに生きていくには24時間看護が必要な子なのです。もちろん、三交代シフトで1日20時間はナースが入っていますが、そうしたシフトナースは実際のケアとアセスメントはしても、ケースマネージメントはしません。つまり、何かあれば医師に連絡して指示を仰ぎますが、ほとんどの場合医師は「病院に来なさい」と言うわけで、それで年間30回を超える入院という結果になっていたのです。
 ER(救急外来)や入院はそこにいるだけでもお金がかかります。つまり、保険会社にしてみれば、ホスピスが介入したことで年間30回を超える入院治療費を節約できているわけですから、お礼を言われてもいいくらいなのですが、ホスピスケアを始めて1年を過ぎたころ、なんと、ホスピスケアの承認を却下してきたのです。理由は、「医学的必要性の欠如」でした。当然納得できず、私はCHOP(フィラデルフィア小児病院)の担当医師に電話をし、医師の立場から医学的な必要性を説明してもらえるよう頼みました。CHOPのパリアティブケアチームの医師はすぐにアピールの手紙を書いてくれましたが、それでも再度却下、そこでCHOPの医師が保険会社のメディカルディレクターに電話をし、かなり時間をかけて小児ホスピスの意義を説明したうえで、この子がホスピスケアに適している医学的な理由を理解してもらい、なんとか覆すことができたのです。しかし、この一件で危機感を覚えた私の上司は(もちろん私もですが)、それ以来かなり神経質に、私に保険対策をするよう指示してきました。そして、再びこのようなことがあれば、ディスチャージも否めない、と強調したのです。
 私は、ホスピスケアを始めて1年を過ぎたため、保険が目を付け始めたのかと思ったのですが、実はもう一つ理由があったのです。それは、ちょうど同じタイミングで、その子の父親の職場が、契約している保険会社を変更したためでした。そして、新しく契約した保険会社は、それをマネージメントする会社と契約をしており、そのマネージメント会社が、知る人ぞ知る、悪名高き「とりあえず却下、とにかく却下」がモットーの会社だったのです。
 以来、私は毎月その子の状態のサマリーと共に、エンドオブライフケアの必要性を医学的根拠に基づいて書いたものを、承認リクエストと一緒に保険との交渉をするリエゾンに提出するようにしました。また、ホスピスのメディカルディレクターであるアンにも、毎月指示書を提出してもらうようにしました。普通は60日毎の更新時にするのですが、念のために30日毎に送ったのです。にもかかわらず、保険会社は3ヶ月以上も沈黙した挙句、再び却下の手紙を送ってきたのです。今回も、理由は「医学的必要性の欠如」でした。もちろん、具体的な説明は一切ありません。
 即座にCHOPのパリアティブケアチームに電話をし、再びアピールの手紙を書いてもらい、アンにも手紙を書いてもらいました。しかし、再び却下。保険のメディカルディレクターは、今度は「問題は余命」と言ってきたのです。それを読んで、私は耳から湯気が出そうになりました。重度の難病で、予後は非常に悪く、余命は6カ月程度であろうと言われた5歳の子どもが、ホスピスケアを受け始めて1年以上生きているのは、長生きしすぎだ、ということなのかと思うと、そのメディカルディレクターの首に縄をつけて、その子のベッドサイドに引っ張て行きたい衝動にかられました。しかし、私の上司は違いました。もちろん、彼女はホスピスを運営する立場であり、保険が「医学的必要性がないので支払いません」と言ってきたら、サービスを続けることはできないのです。彼女は私に、母親に説明し、ディスチャージの準備を始めるよう言いました。私は納得できず、残された可能性をすべてトライするまでは、ディスチャージなどするものかと心の中で誓いながら、母親に状況を話しました。
 元小学校の先生だった母親は、無情な保険にいら立ちながらも、自分ができることはないかと積極的に関わる姿勢を持ってくれ、自分からもアピールの手紙を書くと言いました。また、ほとんどの小児のケースはバックアップのためにメディケイドをセカンダリー(補助的な)保険として持っており、プライマリー(主要な)保険が不承したものをカバーできるようにしています。この子もセカンダリーを持っており、母親は「プライマリーがカバーしないなら、セカンダリーに請求すればいいんじゃないの?」ともっともな質問をしてきました。もちろん私もそれは考えていましたが、私の上司はそうではありませんでした。彼女は、「プライマリーが医学的必要性の欠如という理由で拒否した場合、セカンダリーも同じ理由で拒否する可能性が非常に高い」と主張し、セカンダリーにトライすることさえ難色を示していたのです。保険交渉のリエゾンは、家族からの手紙よりも、直接保険会社のアピール(抗議)部門に電話をした方が効果的だ、とアドバイスしてくれ、母親はさっそく電話をかけました。しかし、何度かけてもなん十分も待たされ、メッセージを残すこともできず、仕方なくカスタマーサービスに電話したところ、その保険管理会社では家族からのアピールの電話は受け付けていない、と言われたのです。私はCHOPのパリアティブケアチームの医師に、保険会社のメディカルディレクターと電話で話してもらえるように頼み、さらに、ミトコンドリアクリニックでの担当医であるCHOPの専門医にも手紙を書いてもらいました。もしも、それでだめなら、再びアンにホスピスメディカルディレクターとしてのアピールの電話をしてもらうよう頼みました。とにかく、何が何でもディスチャージだけは避けたかった私は、搾れる知恵は全て絞り、使えるものはすべて使おうとしたのです。
 現在の私の上司は、成人のホスピスに関しては経験豊富でしたが、小児に関しては全く経験がなく、そのため、セカンダリーの保険を使うことに対しても、懐疑的でした。それに納得できなかった私は、8年前に私たちの小児ホスピスを立ち上げた、2代前の上司に連絡することにしました。彼女は引退した後も、地域の小児ホスピスの連絡会や協会などに積極的にかかわっており、私が参加したセミナーでも、主催者側で再会したこともありました。そんな彼女は、私からの電話をとても喜んでくれ、状況を理解したうえで、適切なアドバイスをしてくれました。さらに、ペンシルベニア州の小児ホスピスの連絡会の会長をしているナースを紹介してくれ、彼女にも知恵を借りられるよう取り計らってくれました。そして、この保険会社は特に手厳しく、その難しさには彼女も現役時代に苦労したと言い、それでもあなたの熱意と賢さで上手に戦えば、道は開けるだろう、と言ってくれました。そして、最悪の場合、ディスチャージすることになっても、その子が何らかの理由で入院することになったら、保険はその費用を負担するわけで、退院時には、多分その子の両親はあなたのホスピスを再び選ぶだろうから、と、肩をたたいてくれました。
 少し元気が出た私は、早速紹介してもらった会長さんに連絡を取りました。とても気さくなその人は、元上司と同様に私が面している困難な状況をよく理解してくれ、もしも医師同士の電話でのピアレビューが残念な結果に終わった場合の奥の手を教えてくれました。さらに、私の上司がセカンダリーにトライすることを躊躇していることに対して、彼女の意見を聞いたところ、たとえダメだったとしても、トライすることでそれ以上ダメージがあるわけではなく、セカンダリーにトライせずにディスチャージする必要はないと断言してくれました。なんとなく希望の光が見えてきた私は、心の底からお礼を言い、必ず結果を知らせると言って電話を切りました。
 そして、ピアレビューの5日後、私の白髪をふやしてくれたこの一件は、なんとか覆すことができたのです。しかし、それは逆転サヨナラホームランというような華々しいものではなく、言ってみれば、ぎりぎり滑り込みセーフ、というものでした。というのも、保険会社が承認したのはすでに過ぎ去った過去2ヶ月のもので、今現在の認定期間はまた別の話なのです。つまり、3か月後にまた、却下の手紙が届かないという保証は全くないわけで、むしろそれを念頭に置いた体制で挑む準備をしておかねばならず、要するに、この子がこの仁義なきホケンを使っている限り、この戦いは延々と続いていくのです。少なくとも今回の戦いで、私は必要な武器を整え、戦略を学び、さらにバックアップとなる奥の手を入手することができました。そして、持つべきものは、人脈、コネクションであり、偉大なる知恵と経験に勝るものはない、と実感したのでした。もちろん、私にその偉大なる知恵を貸してくれた二人は、結果発表にとても喜んでくれ、いつか私も彼女たちのように後輩を救えるような、あらゆる意味で小児ホスピスのエキスパートになれるよう、この経験を生かすのだと、自分に言い聞かせたのでした。
[2020/07/31 06:55] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
兄弟 (8)
 おじさんの家に移ってから、年の近いいとこ達が時々ジェイクの部屋を訪ねるようになり、ジェイソンも一緒に、ジェイクは若者らしい、気楽で楽しいひと時を過ごすようになりました。好きな音楽や、映画、流行りのゲームの話をしたり、地元の大手コンビニやスタバの期間限定フレーバーのコーヒーを飲み比べたり、普通の、ごく当たり前の、何でもないことで、笑ったり、意見を交わしたり、驚いたりしていました。ジェイクの視力はほとんどなくなっていましたが、彼はそれを嘆くのではなく、見えないものを言葉で表現することで、かえって会話が広がると言って、面白がっていました。もともと、ミュージカルの台本を書いたり、想像や表現することが好きなジェイクは、身体の自由が利かなくなっても、心の自由を失うことはありませんでした。
 私の訪問時も、アセスメントが終わると、ジェイクは「いつも僕ばっかり質問されているのは不公平だよ。これからは僕がNobukoに質問する」と言って、「好きなアイスクリームのフレーバーは?」「ポテチは普通のと波型の厚切りのどっちが好き?」「好きな色は?」「コーク派?ペプシ派?」「犬派?猫派?」などと聞いてくるようになり、横に座っているエリカやジェイソンも引き込んで、“普通の会話”で盛り上がるようになりました。ジェイクは雑学王で、いろいろなトリビアを知っており、私が感心すると、「Nobukoは日本で育ったんでしょ?日本は僕が行ってみたい国の一つなんだ」と言い、ラッシュアワーの電車は、本当に駅員が人を押し込むのか、地下鉄やバスは本当に時間通りに来るのか、ハラジュクには行ったことがあるか、と、次から次へ質問してきました。「行きたかった」ではなく、「行ってみたい」というジェイクの言葉は、もしかしたら、本当にそんな日が来るのではないか、と思わせるような明るさをたたえていました。そして、私はそんな彼のマジックに乗っかることにしました。ジェイクは、死への準備よりも、今生きているこの世界に、まだまだ知りたいことがあったのです。
 そんなある日、エリカが少し遅くなる、と言って、ジェイクとジェイソン、そして私の3人だけの時間ができたので、2人に、「どう?この頃のお母さんたちは?」と聞いてみました。すると、ジェイクが、「うん、まあ、平和って言っていいと思うよ。この間は4人で、昔行った中華料理のレストランの話になって、なんか、いろいろ思い出して、普通に笑ったりしてね。なんか、ちょっと、家族団らんっぽかったな」と言い、ジェイソンが、「でもさ、結局あの時も彼女がなんかひとこと余計なこと言って、ちょっとヤバい空気になったじゃん」と付け足しました。ジェイクは、「ああ、まあね」と言ってから、「だけど、それが彼女なんだよ。あの人はいつだってああいう人だったじゃない。あれが僕たちの母親なんだ」と、優しく笑いました。「ね、俺の弟はこういうやつなんですよ。ホント、性格良すぎ」ジェイソンは私にそう言ってから、ボクシングのジャブを打つように、ジェイクの腕に軽く拳を当てました。そんなジェイソンに、ジェイクは正面を向いたまま、「いやあ、そういうふりしてるだけだよ」と言って、微笑みました。私は、ジェイクの一番の心残りはジェイソンだろうし、ジェイクを失って一番寂しいのもジェイソンだろうな、と思いながら、そんな二人を見ていました。そして、こんな心穏やかな日々が、この兄弟に一日でも長く続いてくれるように、願っていました。
 しかし、その時は確実に近づいており、ジェイクは眠っている時間が増え、起きている時もうつらうつらするようになっていきました。イタリアンウォーターアイスやミルクシェイク、スムージーなどをほんの少し口にするだけで、血尿や消化管からの出血も続いていました。息切れがするようになり、時々使っていた酸素もずっと着けているようになりました。痛み止めの錠剤がのみにくくなり、液体モルヒネを4時間毎定時と、1時間毎屯用で使うようになりました。
 私はエリカとサム、そしてジェイソンに、これからみられるかもしれない症状やそれに対する対処、とにかくわからない時はホスピスに電話すること、ジェイクが亡くなった時も、救急車ではなくホスピスに電話することを説明しました。3人とも無言で頷くと、サムが「もう、かなり近いということですか?」とつぶやきました。エリカもジェイソンも同じことを考えていた、という顔をして私を見ていました。私は、「そうですね。多分数日から一週間、もしかするともっと早いかもしれません。こればっかりは、本当にその人の生命力というか、寿命なので、なんとも言えませんが、人によっては今説明した症状などがないまま逝かれることもあります。眠っている時間が増えるのは薬のせいではなく、自然な過程であり、身体が使えるエネルギーが減っていっているからです。だから、痛みがあれば躊躇せず屯用のモルヒネをあげて下さい。とにかく、ジェイクが苦しくないことが一番大事ですから」と説明し、それから、いつも誰かがそばについていても、どういうわけか一人になった時に亡くなる人が多いことも話しました。「もちろん、家族に見守られて逝かれる人もたくさんいますが、私は必ずこのことを皆さんに言うようにしてるんです。万が一そうだった場合、”どうしてあの時に限って...”と後悔してほしくないので。」すると、黙って頷いていたエリカとジェイソンの横で、サムが「大丈夫ですよ。ジェイクを一人にはしませんから」と言うと、唇をかみしめ、涙をこらえるように上を向きました。その横で、ジェイソンは下を向くと、目頭を押さえ、それから肩を震わせました。エリカは無言のままジェイソンの肩を抱くと、私に向かって、「はっきり言ってくれて、どうもありがとう。それくらいかな、とは思っていたけど、これで覚悟ができたわ」と、静かな声で言いました。
 3人は、愛するジェイクを失う悲しみに打ちひしがれ、皮肉なことに、その悲しみが、家族という切っても切れないつながりをあぶりだしていました。この家族にとって、ジェイクはキーパーソンであり、それぞれの彼への愛情と、彼の一人ひとりに対する愛情と優しさが、この家族を芯から崩壊させずにいたのでしょう。そして、ジェイクは最期までその役割を、完璧に果たしていました。「いつもいい子のジェイク」は、最期までいい子のまま、そして、最期まで前を向いて、19年という天命を全うしたのです。
 その日の朝、ジェイクを訪問する予定だった私は、夜勤ナースの報告の中に、彼の死亡時訪問の記録を見つけました。もしかしたら、という覚悟はありましたが、それでもやはり、心の空気がすうっと抜けるような寂しさが降りてきました。そして、次の瞬間に思ったのは、穏やかな最期でありましたように、という願いと、ジェイソンのことでした。報告によると、訪問時には両親と兄のほか、親戚が数人いたということでした。私は時間を見計らって、まずエリカに電話をしました。すぐに電話に出たエリカにお悔やみを言うと、エリカは落ち着いたまま、ありがとう、と言い、それからこう言いました。
 「昨夜はね、私もあそこにいたの。ジェイクは呼吸が少し荒くなってはいたけど、モルヒネ使ったらすぐに楽になったわ。落ち着いたから、いったん帰ろうかと思ったんだけど、虫の知らせっていうのか、なんとなく帰りづらくてね。そしたら、少しずつ呼吸が浅くなって、ああ、これはもうすぐだなって思ったの。そのあと、そのまま、眠るように亡くなったのよ。とっても安らかだったわ。」
 私は、安らかだった、という言葉にホッとしながら、エリカが母親として、ジェイクの最後の日々に温かな光を与えたこと、彼の望んでいた「家族の時間」を作ったことを称えました。そして、心から、「ジェイクは本当に素晴らしい子だったわ。彼と話をするのは、とっても楽しかった。あんなに賢くて、面白くて、思いやりのある子は、そうはいないわ。あなたは本当に素晴らしい息子さんを育てたのね」と言うと、エリカは、「どうもありがとう。本当に、あなたの言う通り、あの子は特別な子だったわ。私の誇りよ」と言ってから絶句しました。しばらくの沈黙のあと、エリカが大きく息を吸う音が聞こえ、それから彼女はうるんだ声でこう言いました。「あの子に会いたい」
 私は返す言葉がなく、鼻をすすりながら、「うん、そうね。そうでしょうね」と頷くことしかできませんでした。それから、ホスピスのビリーブメントケア(遺族ケア)について説明し、プログラム以外でも、いつでも電話してくれて構わない、と言うと、エリカは落ち着きを取り戻した声で、「どうもありがとう。でも、私は大丈夫よ」と言い、それからもう一度、「あなたとキンバリーには、何もかも感謝しているわ。あなた方のような仕事が、いったいどうやってできるのか、心から尊敬する。本当に、どうもありがとう」と言いました。私は、「こちらこそ、ジェイクのナースになれて、幸運だった。いろんなことを教えてもらいました。どうもありがとう」と答え、お互いに電話を切りました。
 一息置いて、今度はサムに電話をすると、留守電になっており、私はお悔やみと、あとでまた電話するというメッセージを残しました。そして、その日の夕方、家で記録を入力していると、サムから電話がありました。私がお悔やみを言うと、サムは電話のお礼を言い、それから、ジェイクの最後の様子を話してくれました。
 「ジェイクは最期まで意識はしっかりしてました。私たちが話しかけたことも、みんなわかっていましたよ。あいつの最後の言葉、なんだと思いますか? "Let's do it(よし、やろう)"ですよ。彼は最期の最後まで、できることをやろうとしてたんです。」
 私はサムの話を聞きながら、エリカの言っていた様子とは少し違うな、と思いつつ、どちらにしても、家族に囲まれ、穏やかに旅立ったことに安どしていました。私は、サムがこのひと月半の間にジェイクのためにしたことをねぎらってから、ジェイソンはどうしているか尋ねました。サムは、「ジェイソンは大丈夫ですよ。もちろん、辛いに決まってますが、あいつはしっかり受け止めています。もしかすると、私とカリフォルニアに来るかもしれません」と言い、それから、「私の息子たちは、タフですからね」と言いました。私が、「そうですね、本当に、2人ともタフで、優しい、いい子達ですね。でも、ジェイソンにとってもこれは、人生最大の喪失であることに違いはありません。悲しみは波のように、寄せたり返したりしますから、気を付けてあげてください」と言うと、「もちろん、わかってますよ。私は、息子たちとは何でも話してきましたから。これからも、ジェイソンを支えていきますよ」と、いつものサム節が返ってきました。私は、親や兄弟を失った子供たちのためのビリーブメントプログラムがあることを話し、キンバリーがエリカにパンフレットを送っておくので、ジェイソンが興味があるようだったらいつでも連絡してほしい、と言い、「ジェイソンにも、私からのお悔やみを伝えてください」と言ってから、電話を切りました。
 翌日、オンラインでジェイクの死亡記事を探していると、彼の名前でYoutubeチャンネルを見つけました。昔は新聞を見るしかなかった死亡記事も、今ではすべてオンラインになり、葬儀社のサイトでは、お悔やみのメッセージやお花なども送れるようになっています。お葬式の日程や、亡くなった患者さんの私の知らない経歴などを知ることができるので、特に心に残る人の場合、死亡記事を読むことにしているのです。彼の名前で検索し、たまたま浮上したこのチャンネルが、彼のものなのか、同姓同名の人のものなのか興味をひかれ、チェックしてみると、やはり、あの、ジェイクのものでした。
 彼のチャンネルは、がんの診断を受ける前から始まっていました。そして、このYoutube で、私は初めて彼の顔を見たのです。日に焼けて、短髪のトップを立たせ、父親似のがっちりとした筋肉質の彼は、始終笑顔で、自分の好きな音楽やミュージカル、新しいゲームや映画のレビュー、ファストフードやコンビニの新メニューの食べ比べや飲み比べた結果を話していました。私は暗闇の中で出会った彼からは、想像もつかない本来の姿にせつなさを感じつつ、それでも、馴染みのある声に聞き入っていました。やがて、がんの宣告を受けた彼は、その闘病生活をレポートするようになり、治療後の寛解期を経て、最後の入院前のレポートで終わっていました。どのエピソードでもジェイクは明るく、目には力強い光をたたえ、人懐こい笑顔で「次回にまた会おう!」と締めくくっていました。私はしばらく涙が止まらず、スクリーンのジェイクを見ながら、"Only the good die young" (夭逝するのは善人だけ)というのは本当だな、と思っていました。それから、でも、そんなこと言うと、ジェイクは少しはにかんだ笑顔で、「そんなことないよ」と言いそうだな、と思い、もしかしたら、ジェイソンもこんな風にジェイクの面影と会話をしたりするのかもしれない、そうやって、きっと彼は大切な人の心の中で生き続けていくのだろう、という確信に変わっていきました。
 ある日、この世の中から、自分にとってかけがえのない存在が消えてしまう。それでも、朝は来て、人生は進んでいく。ジェイクの時計は止まってしまっても、ジェイソンの時計はまだ動き続けているのです。だから、止まった時計は胸のポケットにしまい、時々手を当てながら、生きていくしかないのです。そして、いつか、ジェイソンが何かに迷った時は、胸のポケットから、"Let's do it!"と言うジェイクの声が、彼の背中を押してあげるのではないかな、と思うのです。

 
 
 
 
 
[2020/07/20 07:03] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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