家族会議をしてから、ジャッキーさんの訪問時に、お子さんを連れた次女や三女、お姉さんやお母さんにも会うようになりました。ご主人は、すべてが解決したわけではないけれど、それでもずっとうまくいっている、と言いました。ジャッキーさんの心からの言葉を受け止めた家族は、間もなくやってくる彼女の死に、逃れられない現実として向き合おうとしていました。ジャッキーさんの表情は明るく、痛みは適宜PCAポンプの用量を調整することで、コントロールされていましたが、両足の浮腫みや疲労感は少しずつ増えていきました。それでも毎日必ず着かえて階下に降り、その日その日を楽しんでいました。 ある土曜日、週末勤務だった私は二件目の訪問中に、週末のマネージャーから電話を受けました。ジャッキーさんのご主人から電話があり、PCAポンプに何か問題がある、というので、電話してほしいということでした。すぐに電話すると、ご主人が「ああ、Nobuko、電話してくれてどうもありがとう」と言い、一体どうしたのかと訊くと、「それが、チューブから薬が漏れているみたいなんだ。昨夜は問題なくて、ジャッキーもよく寝てたんだけど、今朝になって、いつもより痛みがひどくて、ボーラスもいつもみたいに効かなくてね。そしたら、シーツが湿ってるのに気づいたんだよ。ちょうど枕の横くらいで、水でもこぼしたのかと思ったんだけど、そうじゃないし。それで、点滴のチューブをよく見てみたら、一か所穴が開いてるみたいでね。どうも、猫が爪をひっかけたみたいなんだ。いつも彼女の横に潜り込んでくるんだけど、たぶんその時に引っかかったんだと思うよ。ジャッキーは猫のことを心配して、すぐに足を拭いたから、猫の方は大丈夫なんだけど、問題はそこじゃないし」と言ったのです。私は前代未聞の状況に驚きながら、「あらら、それは大変です。ポンプは止めましたか?」と訊きました。ご主人は「うん、すぐに止めたよ」と言い、私は、「そうしたら、とりあえずコンフォートパック(緊急時用の薬が数種類入った箱)から液体のモルヒネをあげてください。できるだけ早く行くようにしますが、それまで痛み止めがないのは辛いでしょうから。それから、穴が開いている所よりもジャッキーさんの身体に近い方に白いクランプを止めておいてください。そこからバイ菌が入ると大変ですから」と言いました。ご主人は、「わかった。そうするよ。ありがとう、君には気の毒だけど、今日君が働いていてくれてよかったよ」と言い、電話を切りました。 私はその時の患者さんの訪問を終えると、車の中で次の2件の家族に電話をし、緊急の訪問が入ったので予定よりも少し遅れることを伝えてから、ジャッキーさんの家に向かいました。ドアは開いており、中に入って声をかけると、2階からご主人が「彼女は上にいるよ。どうぞあがってきて」と呼ぶのが聞こえました。壁にかかっている家族写真や象の飾りを見ながら2階に上がると、キングサイズのベッドにエラさんとご主人に付き添われて、ジャッキーさんが上体を枕で支え、ヘッドボードに寄りかかりながら、起き上がっていました。ジャッキーさんは、私を見ると、「ああ、Nobuko。あなたはいつも抜群のタイミングで現れるわ」と言って、両手を差し伸べました。私も両手でその手を握りながら、「こういうのを、ついてるっていうんですかね」と言うと、ご主人が「不幸中の幸いっていうんだろうなあ」と言いました。早速ルートを調べると、確かに一か所、小さくよじれて明らかに穴が開いているのがわかりました。私は、「20年以上この仕事してますけど、こんなのは初めてです。こういう事って、あるんですねえ」と思わず感心しながら、ご主人に冷蔵庫から予備の薬を持ってきてもらうように頼みました。つい2日前に新しいカセット(薬は100mlまではポンプに直接装着するカセット、それ以上はバッグに入ったものを使う)に取り換えたばかりだったので、かなり無駄にしなければならなかったのですが、もう一つ予備のカセットがあったのも、不幸中の幸いでした。私がカセットを取り換えると、ジャッキーさんはすぐにボーラスを押しました。それから、「ああ、助かったわ」と言ってから、「これで安心してビーチに行けるわね」と言いました。私は、「あら―、これからですか?どこのビーチですか?」と訊くと、「ニュージャージーよ。お友達がね、ビーチハウスを持っててね、今週末は天気もいいし、ぜひおいでって言ってくれたのよ。ああ、楽しみだわ。ビーチはね、私の一番好きな場所なの」と言いました。ご主人が、「一泊だしね、たった2時間のところだから、大丈夫だと思ってね」というので、私は、「問題ないと思いますよ。楽しんできてくださいね。ただ、万が一のため、緊急時用の薬のパッケージと、ホスピスの番号は必ず持っていってください。ただ、うちでは電話での対応しかできないので、一応一番近い病院の場所は調べておいた方がいいかもしれないですね」と言うと、ご主人は「そうだね、そうするよ。でも、もし何かあったらすぐに戻ってくるよ」と言いました。 ホスピスの患者さんが週末など、一泊以上の遠出をする時は、通常、宿泊先の住所や一緒にいる人の名前と電話番号などを控え、その地域をカバーする地元のホスピスと連絡を取って、万が一の時に備えるのですが、ジャッキーさんの場合はあまりに急だったので、とにかく何事もないことを祈るしかありませんでした。特に、ホスピスの患者さんの場合、どんなチャンスでも逃したくないので、細かいことは言わず、私は、「ジャッキーさん、海のにおいをいっぱい吸って、波の音を聞いて、砂に足を入れて、思いっきり楽しんできてくださいね」と背中を押しました。ジャッキーさんはにっこりして、「どうもありがとう。あなたがすぐ来てくれたおかげで安心していけるわ。あー、ワクワクするわ」と言いました。私は、「それじゃ、私は月曜日は週末の代休なので、火曜日に来ますね。楽しいお話を聞かせてくださいね」と言い、階下におりました。ドアまで見送ってくれたご主人は、「僕は問題ないと思うけど、大丈夫だよね?せっかくだから、連れていってあげたいんだよ。気心の知れた人たちだし、ジャッキーも疲れたら静かに休む部屋もあるし。多分、これが最後だろうから」と言いました。私は、「よくわかります。とにかく万が一のために経口の痛み止めはあるだけ持っていってください。それから、そんなことはないとは思いますが、念のためDNRの指示書のコピーを持っていてください。それがないと、万万が一の時、CPRをされてしまいますから」と言うと、ご主人は一瞬間をあけてから、「そうだね、そうするよ。良いアドバイスをありがとう」と言いました。私は、「お天気もパーフェクトだし、絶好のビーチ日和ですね。ジャッキーさんがもう一度海に行けて、私も嬉しいです」と言うと、背の高いご主人は突然少年のような笑顔になり、「僕もだよ」と言いました。 火曜日、ビーチでの週末を楽しんだジャッキーさんは、少し日に焼けてほんのり赤らんだ脚を投げ出し、ベッドの上に起き上がって私を待っていました。私が「わあ、ジャッキーさん、焼けましたねえ。ビーチはどうでしたか?」と訊くと、ニコニコしながら「ああ、Nobuko、最高だったわ」と言って、横にいたエラさんに写真を見せるように言いました。たくさんの写真の中から、エラさんは、砂浜に座っている嬉しそうなジャッキーさんと、ビーチハウスのデッキでご主人と一緒に笑っている写真を見せてくれました。ジャッキーさんは遠い目をしながら、「潮風を受けながら、砂の上に座るのって、最高に素敵だったわ。素足で砂に触れるのって、本当に気持ちいいの。日が暮れるまで、ずっとそうしていられたわ」と言い、もう一度、「本当に、素晴らしかった」と言いました。ご主人とエラさんもビーチでの様子や、砂浜で車いすを押す大変さをジェスチャー交じりで話してくれ、ジャッキーさんも、「ほんと、うちの家族は力持ちでよかったわ」と笑いました。 木曜日にまた来る、と言った私は、水曜日の昼頃、ご主人からメールを受け取りました。それには、ジャッキーさんがポータブルトイレを使おうとしてベッドから落ちた、と書いてありました。私はすぐに電話すると、ご主人が「ああ、電話してくれてありがとう。いつもは一人でベッドから起きようとはしないのに、ちょっと混乱してたみたいでさ。ベッドの横にあるポータブルトイレに行こうとしたらしく、でも、足が立たなかったみたいで、ベッドとトイレの隙間に座り込むようにして転んだらしい。僕が引き上げて、何とかベッドに戻ったけど、もう、トイレに行くのは無理そうなんだ」と言いました。私は、「わかりました。あとで寄るので、とりあえず使い捨てのベッドパッドを敷いて、トイレは差し込み便器を使ってください。もしかすると失禁するかもしれないので、念のため尿漏れパッドを重ねてつけておいてあげてください」と言い、それからオフィスに電話して緊急でジャッキーさんを訪問することを伝えました。 私が着いたとき、ジャッキーさんはベッドで眠っていました。ご主人がその横に添い寝をし、エラさんがベッドの足元に腰かけ、次女のアマンダさんがベッドサイドの椅子に座ってジャッキーさんの手を握っていました。ご主人が、「あの後ボーラスを押して、それからずっと眠ってるんだ。一応尿漏れパッドはつけたけど、あとでシャワーカーテンを買ってきて、シーツの下に敷こうと思うんだ。万が一ベッドを濡らしてもマットレスまで濡れないようにね」と言いました。それから、「ジャッキー、ハニー、Nobukoが来たよ」と声を掛けました。するとジャッキーさんは目を開け、私を見るとかすかな声で「ハーイ」と言って微笑みました。私は「ジャッキーさん、大変でしたね。痛いところはありませんか?」と訊くと、「ううん、大丈夫」と言い、「これからはトイレもベッドでしましょう。やり方は皆さんに見せるので、心配しなくても大丈夫ですよ」と言うと、「オーケー」と言って目を閉じました。私はアセスメントをして、けがのないことを確かめてから、シーツを一枚持ってきてもらい、それを四分の一に畳んで、体位交換用のシーツにし、使い捨てのベッドパッドと一緒にジャッキーさんの下に敷きました。ご主人たちにそのシーツを使って体位交換をしたり、身体の位置を直したりする方法を見せると、3人とも感心しながら「わかった」と言いました。ジャッキーさんの寝室には電動ベッドを入れるスペースはなく、ご主人も娘さんたちも、ジャッキーさんと一緒に横になれる今のベッドを望んだので、ベッドの上に敷ける褥瘡予防のエアーマットだけオーダーし、ホームヘルスエイドのサービスも入れることにしました。ジャッキーさんはうつらうつらしながらも、事の成り行きを理解しており、私が「それじゃ、また、明日来ますね」と言うと、「いろいろありがとう」と言って手を振りました。 浜辺のビーナス(6)に続く。
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