ホスピスナースは今日も行く 2018年09月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
やさしさの輪~ある日本人女性との出会い~
 この夏、まるで運命としか思えないような偶然で、とても素敵な日本人の女性たちと出会いました。それは、このブログに書き込まれたコメントがきっかけでした。フィラデルフィアのホスピスに入っているというお友達を心配された千葉の女性が、恐らく藁をもつかむ気持ちで書かれたそのコメントから、散らばっていた点がつながり始め、いつの間にか素晴らしい輪になっていったのです。フィラデルフィアにあるそのホスピス施設は、私もよく知っているホスピスが数年前に開設したホスピス病棟で、家から1時間以内で行けるところにありました。なかなか詳しい状況がわからずとても心配されているその方に、もしよければ私が様子を伺いに行ってきましょうか、と申し出たところ、ぜひお願いします、と言うことで、そのお友達の女性を訪ねることになったのです。
 さちえ(仮)さんとおっしゃるその方は、脊椎性筋萎縮症(SMA)を言う難病を負った14歳の息子さんを持つシングルマザーで、二ヶ月ほど前に末期のすい臓がんと診断されるまで、ナーシングホームでナースアシスタントとして働きながら、自宅で息子さんを介護されていました。生後5か月でSMAと診断された息子さんは、お誕生日は迎えられないだろうと言われたそうです。実際、私も小児ホスピスで同じ疾患の赤ちゃんを看取ったことがありました。残念ながらご主人は病気を持った息子さんを受け入れることができず、それ以外にもいろいろと問題があったため、さちえさんは離婚されたった一人で息子さんを育ててきました。フィラデルフィア小児病院に入退院を繰り返す息子さんに付き添い、日本人コミュニティーと関わる時間もなかった彼女は、地元の教会に通うようになり、熱心なメンバーになられていたそうです。末期癌がわかり、さちえさんが入院することになり、息子さんは養護施設に入所したのですが、教会のメンバーでさちえさんの親しいお友達が、アメリカに身寄りのない彼女と息子さんの後見人になり、全てにおいて彼女のサポートをされていました。さちえさんにはお姉さんがいらっしゃり、千葉のお友達によると、丁度さちえさんを訪ねてアメリカにいらしている、ということだったのですが、私がさちえさんにお会いする前日に帰国されており、残念ながらその時はお会いすることができませんでした。
 さちえさんにはとても素晴らしいアメリカ人のお友達がいらっしゃり、何もかも必要な手続きの手配や準備はされていたのですが、問題は日本のご家族との連絡でした。お友達のうちのお一人はずいぶん上手に日本語を話される方でしたが、それでもこうした状況での複雑なやり取りは困難で、日本にいらっしゃるお姉さんも英語はそんなに得意ではないため、コミュニケーションをとるのが非常に難しかったのです。私は、良かったら自分が通訳になってアメリカ人のお友達と日本のお姉さんの橋渡しをしますよ、と申し出ると、さちえさんはそれを受けて下さり、連絡先の交換をしました。そして、その時に、「あと10日くらいしたらここ(ホスピス病棟)から出なくてはならない。家に一人で戻るのはちょっと不安だけれど、ナーシングホームに行くには保険がカバーするかどうかわからない」と言われたのです。お姉さんはお仕事もあり、こちらに来てさちえさんのお手伝いをするのは難しいようで、もしも自宅に戻るとしたらかなりのサポートが必要なのは歴然としていました。そこで、「フィラデルフィアには日本人が結構いるので、知り合いや日本人会に声を掛けて、お手伝いのボランティアをしてくれる人を探してみますよ」と言うと、彼女は「そんなことができるんですか?」と驚かれ、少し安心されたようでした。
 それからフェイスブックのフィラデルフィアの日本人女性グループと日本人会の会長さんに声を掛けると、合計7人の女性が快くお手伝いを申し出て下さいました。同じ頃、さちえさんの教会の牧師さんが、フィラデルフィア日本人教会の牧師さんにさちえさんの事を相談され、その牧師さんから彼女の事を伺っていた方もいました。たまたま7人とも私と個人的な知り合いでもありましたが、さちえさんの詳しい状況を説明すると、皆さん同年代の母親と言うこともあり、とにかくできることをしたいと言う思いで、あっという間にサポートチームを作り、自分達で何ができるのか、Lineでコミュニケーションを取り始めました。同時に、私は千葉のお友達に状況を報告し、現地での日本人のサポートが形になったことを知らせました。そしてそのお友達からさちえさんのお姉さんにもその旨を伝えてもらいました。
 結局、さちえさんは以前働いていたナーシングホームに入れることになり、一安心されました。キリスト教系のとても清潔でケアの行き届いたホームで、スタッフも彼女の事をよく知っており、自宅に戻れないのは寂しいけれど、やはりもろもろの不安は軽減されたようでした。また、息子さんの養護学校がホームのすぐ近くで、今いる施設からでも週に3日は通える予定なので、その時にお友達に連れて行ってもらって学校で会うことができるかもしれない、と喜んでおられました。痛みや吐き気などの症状も緩和されて、ホームに移ってからのさちえさんは調子もよく、日本の食べ物や雑誌、DVDなど持ってきますね、と言うと、目を輝かせていました。息子さんが生まれてから、15年間、彼女は一度も日本に帰れず、そうした日本的な物からも離れた暮らしをしていたようでした。また、私は着付けをするので、調子のよい時に着物で写真を撮り、息子さんに日本人のお母さんのきれいな姿を見せてあげてはどうか、と提案すると、「今はひどい顔をしているから、もう少ししたら...」と、ちょっと嬉しそうでした。サポートチームのお一人は靈氣ができる方で、さちえさんを訪ねた時に、さちえさんと、丁度来ていたお友達にも施術してくれて、差し入れのお寿司もさちえさんはとても喜ばれたと言っていました。他の方も、さちえさんのために特製のり弁(さちえさんは、日本の食べ物と言ったら、「のり弁とか...」と仰ったので)を作って持っていくつもりだったりと、皆さんそれぞれ“何かできること”を考えていました。ところが、私が4度目の訪問をした日曜日、さちえさんの状態は急変していました。丁度来ていらした後見人のEさんと日本語のできるDさんによると、前夜から急に痛みがひどくなり、痛み止めを増やしたけれど効かないので、別の薬に変えてやっと効き始めてきたところだ、と言う事でした。薬が効き始めたさちえさんはウトウトされており、それでも「少し楽になってきた」と仰っていました。お二人とも、さちえさんから私のことを聞いていたらしく、彼女に日本人のつながりができたことをとても喜ばれていました。そして、日本のお姉さんとの通訳も含め連絡しあえるよう、お互いに携帯番号を交換しました。
 たまたまその週に一週間の夏休みを取っていた私は、翌日の月曜日は自宅で断捨離と模様替えをかねた大掃除をしていました。そこに、Dさんから電話があり、さちえさんの状態が思わしくなく、ホスピスナースによると、あと一週間は持たないかもしれないらしい、と言う事でした。私はDさんに、「今は日本は真夜中なので、向こうが朝になった頃を見計らってお姉さんに連絡します」と伝えました。同時にサポートチームの皆さんにも連絡をし、今はさちえさんの苦痛が軽くなることを祈るしかない、と伝えました。すると、すぐに皆さんから「さちえさんが苦しまないよう、心から祈っています」と言う温かい言葉が返ってきました。靈氣をしてくださった方以外は全く面識もない、ただ日本人である、と言うつながりだけなのに、この人たちはまるで旧知の友人のように心を痛め、心の底から祈ってくれていました。私は千葉のお友達にLineでさちえさんの状況を説明し、至急お姉さんに連絡が取れるようにしたい、とお願いしました。そして、その方と、もう一人、お姉さんと直接連絡を取ってくれていた別のお友達との連携で、電話、メール、Line などを駆使したのですがなかなか繋がらず、火曜日の早朝(日本時間の火曜日の夜)に、やっとお姉さんと電話で話すことができたのです。
 お姉さんにさちえさんの状態を説明し、あと数日かもしれない、と伝えると、「そちらに飛んでいけないのが心苦しいけれど、妹もそれはわかっているし、先日行った時にいろいろ話もして、手紙でもお互いの気持ちは伝えあってあるので、あとは痛みがなく、苦しまないようにと祈るばかりです」とおっしゃいました。また、ご実家のお母様も同じように祈っていらっしゃるということで、私は「水曜日にもう一度お会いしに行くので、その時にさちえさんにそのことをお伝えします」と言いました。それから、今後はLineで連絡しあうのが一番確実だろうということで、お互いのLineを繋げました。また、さちえさんは火葬を希望されており、そうした手配や、お姉さんが引き取りに来るまでお遺灰(こちらの火葬は遺骨ではなく、遺灰にします)をどこで預かってもらうか、など、現実的に決めなければならないことがあり、どこからどう手を付けてよいのかわからないというお姉さんに、EさんとDさんにそのことについて確認し、連絡する旨を伝えました。お姉さんも、とにかく現地の日本人と繋がったことで、少し不安が和らいだようでした。千葉のお友達にも、お姉さんと連絡が取れた旨を報告し、水曜日にもう一度さちえさんに会いに行くので、何か伝言はないか尋ねました。意識はもうろうとしていても、聴覚は最後まで残っているので、お伝えしますよ、と。
 水曜日の午前中、千葉のお友達からLineが来ました。メッセージは『私に何ができるのかいろいろ考えたのですが、彼女が好きだった歌を聞かせてあげたいと思います。一つ目は彼女がよく歌っていた曲です。二つ目は彼女が大好きな曲です。お願いします。』とあり、Youtubeのリンクが二つ付いていました。そして、昼食を済ませ、そろそろ家を出ようとしていた1時過ぎに、私が今日行く予定だと知っていたDさんからテキストで、『さちえさんの呼吸が速くなってきているので、できるだけ早めに来た方が良いかもしれない』と連絡がありました。私は『今出ます。1時間くらいで着くと思います』と返信し、あとはもう「この曲を聞かせてあげなければ」と言う一心で、高速道路を飛ばしていきました。
 ホームに着くと、Eさん、Dさん、さちえさんの元のご主人の従妹と言う方、ホームのシスター、それからホスピスのチャプレンがさちえさんのお部屋の前の廊下で話をしていました。Dさんが私に気づくと、「来てくれてありがとう。でも、もうほとんど反応しないのよ」と言い、私と一緒に部屋に入りました。さちえさんは酸素を付けて早い呼吸をしていましたが、苦しそうではありませんでした。私が日本語で話しかけると、うっすらと目を開け、「ああ」とおっしゃり、私がお姉さんと電話で話したこと、お姉さんもお母様もさちえさんが苦しまないよう祈っていらっしゃること、日本人のサポートチームの皆さんもさちえさんと息子さんのために祈ってくれていること、それから、千葉のお友達から伝言を預かっている事を伝えました。すると、さちえさんははっきりと頷きながら「OK」とおっしゃったのです。それから、私は彼女の耳元に携帯電話を寄せ、お友達の送ってくれたYouTubeを再生しました。一曲目はユーミンの「ノーサイド」でした。さちえさんはうっすらと目を開けたまま、じっと聞き入り、最後に一筋涙を流されました。二曲目はベット・ミドラーの「ローズ」で、今度は大きく目を見開くと、かすかに微笑まれました。曲が終わってから「何かお姉さん方にお伝えすることはありますか?」と訊きましたが、さちえさんの呼吸は早くなり、言葉にはなりませんでした。ナースが来て呼吸を楽にするための薬を舌下に落としてくれ、私はさちえさんにお別れを言うと、部屋を出ました。
 部屋の外ではEさんとDさん、それからホスピスのチャプレンが、さちえさんの反応に驚いていました。チャプレンの方は「うちの音楽療法にはあまり興味を示してなかったのに、やっぱり思い出がある曲って言うのは、違うものなのね」と言い、EさんとDさんは、「当たり前だけど、私達には知らない彼女の人生があったのよね。来てくれて、どうもありがとう。よかった、本当に良かった」と言って、涙ぐまれていました。私は、「きっと、これもすべて、さちえさんが引き合わせたご縁だったんだと思います。毎日を一生懸命真摯に生きてこられたさちえさんを、きっと天は見ていたんでしょうね。私もさちえさんと知り合えて、本当に良かったです。7人の日本人女性の皆さんも、そうおっしゃっていました。さちえさんのおかげで、人の心の温かさに触れることができて、そういう人達と繋がりを持つことができてうれしい、と。最悪の状況のなかで、せめて心安らかに最期を迎えられるよう、そのために少しでもお手伝いができたのなら、よかったです」と言い、これからもこまめに連絡を取り合おうと話してから、ホームを後にしました。Dさんから『今さっき、さちえさんが息を引き取りました。とても穏やかな最期でした。あなたに会って、伝言を聞いて、安心したんだと思います。ほんとうにありがとう』と言うテキストが来たのは、それからわずか1時間半後でした。
 さちえさんが亡くなり、お姉さんや千葉のお友達に連絡を取り、サポートチームの皆さんにも訃報を伝えると、皆さん悲しみの中なのに、私に温かな言葉を送ってくれました。そして、翌週の土曜日、さちえさんの教会の皆さんによって彼女のメモリアルサービスが執り行われ、金曜の夜に日本から飛んでこられたお姉さんも列席され、サポートチームからも3人の方が出席しました。残念なことに私は仕事で参列できませんでしたが、生前のさちえさんのお人柄が偲ばれる、とても心温まるサービスだったそうです。そして、その夕方、これもまた不思議なご縁なのですが、偶然にも息子さんの入所されている施設が私の家のすぐ近くだったため、EさんとDさんがお姉さんをその施設につれて来てくださり、仕事を終えた私は、そこでお姉さんとさちえさんの息子さんにお会いすることができたのです。
 こうして、ほんのひと月ちょっと、たった5回お会いしただけでしたが、さちえさんとの出会いは、私の人生に素晴らしい思い出と、新たな目的を残してくれました。さちえさんは、息子さんのために、基金を立ち上げていました。残念ながら息子さんの父親は彼の人生に全く関与せず、祖父母にあたる方達も同様だったため、さちえさんは自分がいなくなった後、国や州の補助以外にも彼のために使える資金を残そうとされたのです。この基金の事をサポートチームの方々にお話しすると、皆さん「ぜひ協力したい」と言って、情報が入るとすぐに小切手を送ってくれた方もいました。また、私はフィラデルフィア近辺の日本人ナースのグループのメンバーなのですが、丁度夏の定例会があり、その時にさちえさんの事を話したら、ここでも皆さん「さちえさんの遺志をサポートしたい、ぜひ基金に協力したい」と言ってくれました。また、サポートチームの中には、これからは息子さんを訪ねて、日本語の本の読み聞かせなどをしていきたい、と言う方もいます。私などはまさにご近所ですので、「お母さんの友達」として会いに行き、天国のさちえさんにも安心してもらいたいと思っています。これからは、「ノーサイド」と「ローズ」を聞くたびに、さちえさんを思い出さずにはいられないでしょう。悲しい出会いではありましたが、それでも出会えてよかった。そして、さちえさんにもそう思ってもらえていたら、何よりです。
[2018/09/28 06:08] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
素晴らしい人生 (8)
 エルマーさんは一日毎に、目に見えて弱っていきました。食事も殆どとらなくなり、ほんの少し水を飲むだけで、一日の殆どは、うとうとしているようになりました。木曜日、ディックさんやジルさん達の承諾を得て、私は電動ベッドと圧力を自動調整するエアーマットレスをオーダーしました。そして、金曜日の午後、すっかりきれいにこざっぱりとしたリビングルームにはジルさん、ロンさん、ディックさん、ジェーンさんが座って、和やかに談笑していました。エルマーさんやマージさんとのあれこれは尽きることなく、そこには笑いが絶えませんでした。ジェーンさんは私を見ると、「そうそう、ついに見つけたのよ、あの写真!今朝、私の娘が孫と一緒に探してくれたの。お義父さんがあなたと約束したって、ずっと気にしてたからね」と言って、エルマーさんの寝ている奥の“書斎”へ私を促しました。ジェーンさん達の娘のクリスティーさんとその娘さんに寄り添われ、電動ベッドに横になったエルマーさんは、私を見ると、片目をつむって、ベッドサイドのテーブルを指さしました。そして、「言ったろ、僕の話はみんな本当のことだって」と言ったのです。サイドテーブルの上には、フレームに入ったセピア色の写真が立ててありました。そして、そこには、ワンピースの水着に水泳用の帽子をかぶって両手を横に広げ、湖の中に立つエルマーさんのがっちりした肩の上にすっくと立って、まるで少女のように笑っているマージさんがいました。私は「わー!とうとう見つけたんですね!」と言ってから、しばし写真に見入ってしまいました。私が生まれるずっと前、おそらく今の私よりも若く、生命力にあふれたエルマーさんとマージさんが、そこにいました。そのままタイムスリップして、写真の中の世界に入っていって、若いエルマーさんとマージさんと一緒に湖畔でホットドッグを焼きながら、ミンクやインディアンミュージアムやアンティークショーの話を聞けたらどんなに楽しいだろう、そんなことを思いながら、私はエルマーさんに「もちろんエルマーさんの話が本当だって信じてましたよ。ただ、この写真が本当に見たかったんです」と言い、クリスティーさんとその娘さんに「見つけてくれて、どうもありがとうございました」と言いました。それから、「エルマーさん、この写真を写真にとって、チームのみんなに見せてもいいですか?」と訊きました。するとエルマーさんはとてもうれしそうに微笑んで、「もちろんだよ。あんたの娘さんにも見せてあげなさい」と言ってから、お孫さんたちに向かって、「彼女は僕のナースでね、日本から来た日本人なんだよ」と言いました。すると、クリスティーさんは、「知ってるよ、グランパ。何度も聞いたよ。バケツリストの最後の一つがかなって、本当によかったね」と言って笑いました。
 月曜日の午後、エルマーさんは眠り続け、呼吸が少し荒くなり、1分間に15-20秒ほどの無呼吸がみられるようになっていました。酸素は嫌がっていたので、呼吸が苦しそうであれば液体モルヒネを5㎎(0.25ml)舌下し、もしも喉の奥でゼロゼロという喘鳴が聞こえるようになったら、ヒオチアミンの舌下錠を舌下もしくは頬の内側に置くように指導しました。ジルさん夫婦、ディックさん夫婦と、これからどのような症状がみられてくるのか、それにはどの薬を使うのか等をもう一度おさらいし、エルマーさんが反応はしなくても、耳は聞こえていることを説明しました。ちょうどその時、音楽療法士のミシェルがギターを抱えてやってきました。私がエルマーさんの状態を説明すると、ミシェルは「わかった」と言い、エルマーさんの寝ている書斎に入っていきました。エルマーさんはミシェルの訪問をとても楽しみにしていて、“ヨーデル以外は何でも”歌うミシェルに、いつもリクエストをしていました。ミシェルは、おかげでオールディーズにかなり詳しくなったと言って笑っていました。ミシェルはそんなエルマーさんのお気に入りの曲をいくつか演奏した後、賛美歌や、旅立ちを歌った曲などを歌いました。そしていつの間にか、みんなミシェルと一緒に歌い始め、エルマーさんの小さな家は、歌声と涙でいっぱいになっていました。
 火曜日の朝、エルマーさんが嫌っていた下肢の浮腫はすっかりなくなり、喘鳴もなく、呼吸は浅いものの、3-4時間ごとのモルヒネの舌下でとても穏やかでした。ジェーンさんもディックさんも仕事を休み、4人は暖炉に火を入れたリビングルームで、ゆっくりとコーヒーを飲んでいました。私は4人にエルマーさんの呼吸がいつ止まってもおかしくないこと、なぜか一人になった時に逝く人が多いこと、エルマーさんが亡くなったら、ホスピスに電話をすること、ホスピスナースが来て確認をした時刻が正式な死亡時刻になること、などを説明しました。それから、「エルマーさんはいつも“眠っている間にあっちに行きたい”とおっしゃっていたから、きっとそうされるかもしれないですね」というと、ディックさんは「そうだな。それが一番だな」と言ってうなづきました。週末に家族はみなエルマーさんにお別れをしたし、ジルさん達も心の準備はできていました。私はもう一度書斎に戻り、エルマーさんに「エルマーさん、エルマーさんのお話を聞くのが、私の一週間のハイライトでした。もっとたくさん聞きたかったけど、あの写真が見れたので、もう満足です。いよいよエルマーさんの番が来たみたいですよ。マージさんに会うのが楽しみですね。日本から来た日本人に会ったって、教えてあげてくださいね。今までどうもありがとうございました」と言って、お別れをしました。それから、ジルさん、ジェーンさん、ディックさん、ロンさんとそれぞれお別れのハグをして、「もしかしたら、明日また会えるかもしれないけど、これが最後だとしたら、エルマーさんと皆さんに会えなくなって、寂しいです。エルマーさんの受け持ちになれて、本当に幸運でした」と言いました。みんな泣き笑いの顔で、うんうんと頷き、ディックさんが「いろいろ、どうもありがとう。父は君のことばかり話して、訪問をいつも楽しみにしてたよ。ホスピスの皆さんのおかげで、退屈な日々にもう一度張り合いみたいなものができてたからね。君たちなしではこうはいかなかった。本当にありがとう」と言いました。私はもう一度、通いなれた部屋を見回しました。エルマーさんの揺り椅子、暖炉の上の写真、その横に並んだいくつかの折り紙、古いラジオ、壁にかかった家の絵、エルマーさんとマージさんの人生が染みこんだ全てが、なぜだか懐かしく感じられました。そして、エンドロールが終わっていくのを眺めながら立ち上がる時の、ちょっと後ろ髪を引かれるような、あんな気持ちでドアを開けると、真冬の朝の凍えた空気を胸の奥まで吸い込みました。
 エルマーさんは、彼の望んでいた通り、深い眠りにつくと、マージさんの隣で目を覚ましました。水曜日の早朝3時にロンさんが様子を見に行った時には、もう呼吸をしていなかったのです。こうして、エルマー・バーンズさんの素晴らしい一生は、彼の一番好きだった場所で、一番愛する人に迎えられて、幕を下ろしました。私は患者さんの訃報を聞くと、いつも心の中で手を合わせるのですが、エルマーさんの時は違いました。手を合わせる代わりに、思いっきり、心を込めて拍手をしたのです。思わず「お見事!」と叫びたいほど、完璧なラストでした。そしてそれは、エルマーさんにとっては待ちに待った、マージさんとの二度目の人生の始まりであり、そう思うと、悲しみよりも、喜んでお祝いしたいような、そんな気持ちになったのです。寂しいけれど、エルマーさんが向うでマージさんに「僕のナースは日本から来た日本人だったんだよ」と自慢気に話しているかと思うと、最後に出て来たチョイ役だったけど、ちょっと誇らしいような、うれしいような、思わず微笑みたくなるような、胸の奥から温かなものが湧き出てくるような、なんとも幸せな気持ちになるのでした。
[2018/09/17 20:20] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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