「I have a most wonderful life」 これが、揺り椅子に座ったエルマーさん(仮)の第一声でした。101歳のエルマーさんは2か月前にうっ血性心不全で入院した後、一人暮らしをしている自宅に戻り、ホームケアの心不全チームの訪問を受けていましたが、経過が芳しくないことと、本人が病院には二度と行きたくない、と希望していることから、いずれホスピスに移行することを前提に、パリアティブケア目的でホスピスチームに依頼が来たのでした。エルマーさんの家は私の住んでいる町のはずれの田園地域にあり、数年前に、道を挟んだ広大な草原が高級住宅のデベロッパーによって開発されるまでは、昼間でも鹿やキツネがのんびり歩いているようなところでした。背の高いエルマーさんはチェックのコットンシャツにジーンズ、サスペンダーをして、長い脚を持て余すように投げ出していました。軽いウェーブのある銀髪を少しポンパドールにして、笑っているような青い目と、一言一言を区切りながらゆっくり話す声は、どことなく気持ちを愉快にする響きがあり、私はいっぺんでエルマーさんが好きになりました。 耳の遠いエルマーさんに、私は大きめの声でなぜホームケアのナースから私に交代したのか、パリアティブケアとホスピスケアの違いや目的と、どんなサービスが提供できるのかを説明しました。エルマーさんは頷きながらじっと私の説明を聞くと、最後に「で、車の運転はしてもいいのかね?」と訊きました。私はホームケアのナースから、エルマーさんの家族が主治医の先生と話して、車の運転は諦めるように言われたのだけれど、本人は納得していない、ということを聞いていました。“そうか、そこか”と思いながら、私は「主治医の先生は運転するのは危ないと言われたそうですよね。どこかに行きたかったら、ご家族に連れて行ってもらえませんか?」と言うと、エルマーさんは「もちろん連れて行ってもらえるさ。でも、隣に住んでいる息子もあいつの嫁さんも働いてるし、裏に住んでる孫だって仕事があるさ。僕が言ってるのは、たとえば向こう隣の弟を訪ねるとか、近所の野菜スタンドに行くとか、そんなことだよ。歩くにはちょっと遠いからね。それくらいなら、問題ないだろ?」と言って、その魅力的な“ニコ目”で私を見ました。私はちょっと首をかしげながら、「うーん、本当にそれだけですか?」と訊くと、エルマーさんはしばらく私とにらめっこをしてから、「あんたは頭がいい」と言って笑いました。それから、「あんたは、僕がスペースモンキーの椅子を作った、と言ったら信じるかい?」と言ったのです。私は状況が良く読み取れず「どういう意味ですか?」と訊くと、エルマーさんはまるで宝物を見せようとする子供のようににっこりして、「ちょっと待っててごらん」と言ってゆっくりと立ち上がりました。そのまま歩き出そうとするエルマーさんに、「杖はいいんですか?」と言って揺り椅子の横に置いてある杖を指さすと、「おっと。また忘れるとこだった」と言って私にウインクしてみせました。それから杖を取ってゆっくりとした足取りで奥の部屋に行くと、クリアファイルを一つ持ってきて、「スミソニアンが送って来たんだ」と言って、私に手渡しました。それには、ロケットに乗ったサルの大きな白黒写真が入っていました。そして写真の隅には、『1959年5月。エイブル(アカゲザル)が宇宙飛行から初の生還。椅子はペンシルベニア州ノースウェールズの××工場にて、エルマー・バーンズが製作』と書いてありました。私が感嘆の声をあげながら写真に見入っていると、エルマーさんはますます目を細め、「僕の話はね、みんな本当のことだからね」と言いました。私はエルマーさんを見て、「こんなところでスペースモンキーの椅子を作った人に会えるなんて、夢にも思いませんでした。今日は、私のラッキーデーです。子供達に言わなくちゃ」と言うと、彼は嬉しそうに、「僕の人生はね、素晴らしい驚きと興奮でいっぱいなんだ。そして運のよいことに僕の頭はまだはっきりしていて、全部ここに入ってるんだよ」と言って、自分の頭をこんこんとつつきました。 エルマーさんは兄二人、姉一人、弟一人の5人兄弟の4番目で、息子さんと娘さんが一人ずついました。弟さん以外の兄弟は皆他界しており、その弟さんは300m程離れたお隣に奥さんと一緒に住んでいました。息子のディックさんと彼の奥さんのジェーンさんは同じ敷地内の隣に住んでおり、大きな家庭菜園のある庭を挟んだ裏側には、ディックさんたちの息子さんが住んでいました。エルマーさんの娘さんは、結婚してケンタッキーに住んでいました。エルマーさんの家は屋根裏付きの小さな平屋で、白い板壁の格子窓の両側には青い鎧戸がつけられ、石造りの煙突と、フロントポーチがあり、ポーチには小さなベンチと揺り椅子、サイドテーブルと、暖炉にくべる薪を置くラックがありました。そして、その家は80年近く前に、エルマーさんと奥さんのマージさんが二人で建てたものだったのです。しかも驚いたのは、エルマーさんがその家をシアーズ(アメリカの老舗デパート)のカタログで買ったという事でした。「あの頃(1930年代)はみんなそうやって家を建てたもんさ。カタログを見て注文すると、家を建てるのに必要な建材をすべて送ってくれるんだ。僕は一日仕事をして、夕飯を食べた後、毎日ここに来て地下室を掘ったんだ。それからセメントを入れて、カタログの説明書通りに家を建てたのさ。マージと二人でね。その暖炉をみてごらん。向こうに73号線が走ってるだろ?あの道は昔石畳だったんだ。それを舗装するんで全部掘り返したんだよ。その石が道の横に捨てられててね、僕はそれをトラックに積んでもらってきた。その石でこの暖炉を作ったのさ。」 そんな風にして、毎週水曜日の私とエルマーさんの“ストーリータイム”は始まりました。エルマーさんは下肢の浮腫と息切れがあり、食事指導と服薬指導、転倒予防指導にPTを依頼して、症状緩和と安全が当面のゴールでした。しかし、私にとって一番の楽しみは、エルマーさんの“ストーリー”を聞く事でした。そして、エルマーさんも、そんな私の訪問を楽しみにしてくれたのです。私は、時間を気にしないで訪問できるよう、一日の最後にエルマーさんを訪問しました。耳の遠いエルマーさんは、家族から以外の電話には出ないことが多かったので、私はその日の朝にジェーンさんに電話をし、3時と4時の間に行く予定、と伝言を頼み、ついでにお互いに簡単な報告をしあうようにしました。ジェーンさんもディックさんも仕事をしていたので、なかなか直接会うことはありませんでしたが、電話でコミュニケーションをとることで、エルマーさんの状態やケアについて共通の理解ができるようにしたのです。 ある日、エルマーさんは私に見せるために、当時のシアーズのカタログと契約書を用意しておいてくれました。1939年の契約書はきちんとした革張りの小冊子で、金庫にでも保管してあったかのように、色あせてもいませんでした。感心しながらその小冊子を開いた私に、エルマーさんは、「この家は$1540って書いてあるだろう?当時のアメリカ人の一週間の給料の平均は30ドルくらいだからね。それが僕たちに買えるぎりぎりだったんだ。一塊のパンは5セントだったよ」と言い、それから「この写真が、僕がこの家を建てた証拠だよ」と言って、正方形をした白黒写真を何枚か見せてくれました。そこには、前髪を今の3倍くらいの高さのポンパドールにした、地下室を掘るエルマーさん、棟上げした家のてっぺんに誇らしげに立つエルマーさん、そして、出来上がった家の前で嬉しそうに肩を抱き合うエルマーさんとマージさんがいました。私が、「わー、凄いですねー。本当にお二人で建てたんですね!」と声をあげると、エルマーさんは「言ったろ、僕の話は全部本当だって」と言い、嬉しそうに頷くのでした。 エルマーさんは2年前に奥さんを看取ってから、一人暮らしをしており、2か月前に入院するまでは車の運転もしてほぼ自立した生活を送っていました。ディックさんとジェーンさんは仕事から帰ってくると必ずエルマーさんのところに顔を出し、ここ半年ほどは掃除や洗濯は週に一度、ジェーンさんが手伝っていましたが、毎日の食事などはエルマーさんが自分で作っていました。しかし、一人暮らしの101歳の男性の食事となると、どうしても缶詰や冷凍食品が増えてしまい、自然と塩分が高くなってしまいます。また、トイレに頻回に行かなければならなくなる利尿剤を、エルマーさんは嫌っていました。薬は週に一度、ディックさんがエルマーさんと一緒に、一週間分を曜日ごとに分けられたピルケースに用意して、朝と晩、忘れずに飲んだかわかるようにしていました。しかし、エルマーさんはどうも時々インチキをしているようで、ピルケースを置いてあるキッチンテーブルをよく見ると、利尿剤が転がっていたりするのでした。私は、エルマーさんの心臓の状態と、足の浮腫や息切れ、そして塩分の量や利尿剤がそれらとどう関係しており、なぜ塩分を減らすこと、利尿剤をきちんと飲むことが浮腫の軽減とうっ血性心不全のコントロールにつながっているのかを説明しました。エルマーさんは「だったら、スープは半分にして新鮮なニンジンやインゲン豆を入れるよ」と言い、それから「マージと僕は素敵な家庭菜園を持ってたんだ。何でも作ったよ。自分たちで食べきれない分は、ほら、家の前にスタンドがあるだろ?あそこにおいて売ったのさ。みんなちゃんとお金を置いて行ってくれたよ。マージは料理がうまかったから、僕が上手になる時間がなかったなあ。でも、彼女がアルツハイマーになって、いろんなことを忘れて、僕が食事を作るようになってからは、いろいろ作ったよ。マージは何でも喜んで食べてたよ。ただ一つ、オートミール以外はね」と、ついつい話が広がっていくのでした。それでも、少しずつ症状は改善され、下肢の浮腫も少し軽減し、息切れは殆どしなくなっていきました。そうして、2か月と言うパリアティブケア(ホームケア)の認定期間が終わりに近づき、私はエルマーさんとディックさんたちと、この先のケアについて相談しました。その時点では新しい服薬指導やケアもなく、メディケアのホームケアの基準にある“プロの技術と指導”が必要なことは特にはありませんでした。つまり、メディケアが再認定の必要性を認めない可能性が高かったのです。しかし、この先いつまたうっ血性心不全が悪化するかわからず、エルマーさんの「病院には絶対に行きたくない。この家で死にたい」と言う希望ははっきりとしていたため、主治医の先生のオーダーをもらい、ホスピスに切り替えることにしたのです。 素晴らしい人生(2)に続く。
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