先日、自宅でホスピスケアを受けていた義父が亡くなりました。 イタリア系が多く住むサウスフィリーで生まれ育った義父は、やはりサウスフィリーっ子の義母と、20歳になったばかりの時に知り合いました。二人が出会ったのはフィラデルフィアのダンスホールでした。あの頃の若者達にとっては一番人気のある遊び場で、出会いの場でもありました。義母はその時17歳で、友達と一緒に踊りに来ていたのです。義父から誘って一緒に踊った二人は意気投合し、義父は義母にこう訊きました。「今度の日曜日は何してるの?」「なんにもしていないわ」と答えた義母に、義父はこう言ったそうです。「だったら、僕と一緒に“なんにもしない”をしない?」それから3年後に二人は結婚し、5人の子供を育て上げ、67年間、一緒に生きてきたのでした。 義父はとても穏やかな人で、何よりも妻と家族を大切にし、ユーモアに溢れ、ビールとワインを愛し、夕食後には必ずコーヒーと一緒にイタリアンクッキーを2枚食べるのを楽しみにしていました。地下室にはモデルトレインの大きなテーブルがあり、子供達が小さい頃はグランパの電車を走らせてもらうのをとても楽しみにしていました。いつも紳士で、思い遣り深く、義母にはいつも愛情と敬意を持って接していました。背が高く、ダンスが上手で、私達の結婚式の時も、義母と一緒に軽やかなステップを披露してくれました。 そんな義父がここ2年ほどの間に、アルツハイマー型認知症と心臓病の進行によって何度か入退院を繰り返し、リハビリ目的でナーシングホームも経験した末、自宅での緩和ケアを受けるようになりました。歩行器から車椅子になり、生活機能や沢山の記憶は失っていったものの、ユーモアは失うことなく、4人の息子達を(時には娘さえも)全て次男の名前で呼んだりするようになっても、義母の名前は忘れませんでした。4月には90歳の誕生日を祝い、子供や孫、そしてひ孫達に囲まれてケーキのろうそくを吹き消し、家族への愛情と感謝に溢れた挨拶も茶目っ気たっぷりに行いました。繋がったり途切れたりする意識と記憶の中で彷徨っていた日々の中、その時はまるでかつての義父を見るようでした。 そして、その日を境に義父はうとうととする時間が増え、食欲も目に見えて落ちていきました。大好きだった野球中継にも興味を示さなくなり、風邪をこじらせたのをきっかけに、義母はそれまでのように病院に連れて行くのではなく、自宅でホスピスケアを受ける事を選びました。病院へ行けばおそらく入院になることは目に見えており、義父がそれを望んでいない事を、義母はよく知っていたのです。義母と義姉はその地域にある二つのホスピスにコンタクトを取り、面接をした結果、24時間体制が整い、偶然にも掛かりつけの医師がメディカルディレクターになっているホスピスを選びました。不穏や混乱も進んでいき、ホスピスとは別に24時間体制でエイドさんを雇ってはいましたが、それでも義母の精神的なストレスは大きく、週末は必ず5人の子供達のうちの誰かが訪ねて行っていました。私は食事を数日分作って持っていったり(自分が行けない時は夫に持たせ)、気分転換に義母をランチに連れ出したりと、嫁としてできる事に専念し、義母や義兄弟達から質問をされた時以外は、義父の予後やケアに関することは何も言いませんでした。いろいろと思うところはありましたが、義父のホスピスナースの判断に任せる以外なく、余計な事を言って義母を混乱させたり、ホスピスナースに対して不信感や疑問を感じるさせてはならなかったのです。義父の受け持ちだったホスピスナースはとてもよい人でしたが、時には症状のコントロールに関して強いジレンマを感じる事もあり、「ここだけの話だけど」と言って夫には「お義父さんが私の患者さんだったら....」とぶちまける事もありました。まあ、言われた夫も困ったでしょうが。 しばらく“もしかしたら今夜かも”と周りを緊張させては翌朝はしっかりご飯を食べたり、と言うfalse alarmを繰り返していましたが、ある日夫が義母に電話をすると、「ここ三日ほど眠ったまま」だと言うのです。それでもホスピスナースによるとバイタルサインも正常で、特に苦しそうな症状もないということでした。私達は子供達も一緒にその週末に尋ねる事にし、義母の希望で日曜日に行く事にしたのです。子供達には「グランパと会えるのはこれが最後かもしれない」と伝え、長男にも日曜日はバイトを入れないように言いました。 その週末は、職場がものすごく忙しく手が足りないと言う事で、金曜の夕方にチームリーダーから「一件でも訪問できる人は知らせて!」とSOSがあり、私は「土曜日の午前中に一件だけなら手伝える」と申し出ました。私は次の週末が勤務でしたが、義父の様子も落ち着いているようでしたし、“忙しい時はお互い様”“できる人ができる事をする”のがモットーでしたので、朝に一件訪問するくらいなら気にしなかったのです。ところが、その日は何の呪いか予想以上に忙しく、結局3件、ほぼ一日働く事になってしまったのです。まあ、仕方のないこととはいえ、何度も当然のように私に電話をしてきたスケジューラーの、“毒を喰らわば皿まで”的精神を強要するかのような態度にムッとした私は、その晩上司とチームリーダーに報告と苦情のメールを送りました。特に、翌日の日曜日は義父母の家に行く予定だったので、いろいろとその準備もしたかったのが、予定が狂ってしまい、「私にだって、私生活があるんだよ」と言う事を強調したかったのです。また、ここで私が黙ってしまっては、とんでもない前例を作る事になり、同僚のヒンシュクを買うことは目に見えていました。もちろん、私のメールを読んで慌てた上司はよく理解してくれ、当然のことながら“3件ともボーナスレートで支払う”と言う返事でした。 翌日の日曜日はからりとした晴天で、とても気持ちの良い朝でした。夫はバックポーチに座って、カーディナルの声を聞きながらコーヒーを飲み、徒然日記を書いていました。私は、近所のYMCAの朝一のヨガクラスに行こうとしていました。次兄から訃報を知らせる電話があったのは、そんなのどかで清々しい朝だったのです。「昨日来たホスピスのナースは、血圧や脈も問題なくて、月曜日にまた来るって言ってたんだ。それで、今朝母さんが見に行ったら、ちょっと呼吸が乱れていたからホスピスに電話したんだけど、ナースが来た時にはもう息をしていなかったらしい。薬も使わないで、とても安らかな最期だったよ。」 夫も私もその日の午後に会うつもりだったので、ショックではありましたが、あまりにも義父らしい逝き方に、ある意味感動に近いものがありました。みんなが仕事をしている平日でも、夜中でもなく、さわやかな日曜日の朝、最愛の妻に看取られて、眠るように旅立ったのです。子供達がすぐに義母の所に駆けつけられるよう、職場の面倒にならないよう、みんなが明るい太陽の光が差す家に集まれるよう、まさに義父の生き方を象徴するような、完璧なフィナーレでした。夫は一週間前に会いに言った時、義父に伝えたかった事は全て言っており、自分なりのお別れはしてあったので、そう言う意味で思い残す事はなかったようでした。 葬儀は金曜日に行われる事になり、夫は義母からある事を頼まれました。それは、義母と義父の“二人の歌”だと言う、フランク・シナトラの「Always」の歌詞をフレームに入れて欲しいというものでした。義母はそれをお棺の中に入れるつもりだったのです。 それは、結婚式をひかえた義母が、サウスフィリーのロウハウスの小さな部屋で、自分のウェディングドレスを縫っていた夜の事でした。義母はラジオのある音楽番組が好きで、その晩もミシンをカタカタかけながら、ラジオを聴いていました。すると、アナウンサーが「次はサウスフィリーのマニーからリタへ贈る曲です。フランク・シナトラで『Always』」と言ったのです。義父は義母がいつもこの番組を聞いている事を知っており、また、この歌が大好きなことも知っていました。そして、この歌はまさに義父の気持ちそのものだったのでしょう。これが、義父から贈られた、義母への愛の歌でした。そして、この歌詞のとおり、義父は生涯義母を愛し、その一生を終えたのです。
Everything went wrong, And the whole day long I'd feel so blue. For the longest while I'd forget to smile, Then I met you. Now that my blue days have passed, Now that I've found you at last -
I'll be loving you always With a love that's true always. When the things you've planned Need a helping hand, I will understand always.
Always.
Days may not be fair always, That's when Ill be there always. Not for just an hour, Not for just a day, Not for just a year, But always.
Dreams will all come true, growing old with you, and time will fly, caring each day more than the day before till spring rolls by. Then when the springtime has gone, Then will my love linger on.
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