ホスピスナースは今日も行く 2017年08月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
タフガイの苦悩 (2)
 ビルさんは食欲もあり、夕食はいつも奥さんと一緒に長い廊下を歩き、エレベーターに乗り、また歩いて、ダイニングルームまで行っていました。ビルさん達が住んでいるリタイアメントコミュニティーは、広い敷地内に三翼5階建てのアパートメントビルディング(日本でいうマンション)が六棟あり、すべての棟が渡り廊下でつながっていました。一周すると2km以上あり、それだけでも62歳以上の入居者達にとっては結構な運動になります。そして、長い廊下には所々にベンチが置いてあり、入居者や訪問者が休憩できるようになっていました。それぞれの棟にバーやちょっとしたレストランのようなダイニングルームがあり、そこまで行けない人は自分のアパートまでデリバリーを頼むこともできました。社交的なビルさん夫妻は、必ずダイニングルームに行き、他の入居者達と交流するのをとても楽しんでいました。しかし、ビルさんはだんだん長く歩くと息切れがするようになり、アパートの部屋から出る時は不本意ながら、座れるシート付の歩行器を使うようになりました。
 ビルさんは自分の薬は自分で管理していました。彼はとても理論的、現実的で、自分の体のこともきちんと理解して状況を把握しておきたがりました。そして、彼の主な質問は、ミルリノンはいつまで効果があるのか、これからどんな症状が出てくるのか、ミルリノンをやめたらどうなるのか、やめなかったらどうなるのか、という事でした。また、不眠のほうも相変わらず眠れたり眠れなかったりで、私も訪問の度に薬を調整したり、リラクゼーションやアロマセラピーなど、あの手この手で知恵を絞ったのですが、ちょうどよい快適な睡眠は、週の半分もあればよいほうでした。私は、もしかすると心理的なもの、言葉や態度には出さない不安が影響しているのではないかと思い、ソーシャルワーカーのキンバリーやチャプレンにも相談しました。キンバリーも同様の印象を受けており、彼女の訪問時にチャプレンの訪問をさりげなく勧めたのですが、奥さんは賛成だったのに対し、ビルさんはすっぱりと断りました。そこで、私はアプローチを変え、毎回さりげなくビルさんの過去について質問するようにしました。特に警官時代の話は奥さんも知らなかった逸話などもこぼれたりして、一緒に笑ったり、驚いたり、呆れたり、憤ったりしながら、少しずつビルさんと言う人を知っていったのです。同時に、それは彼自身のlife review、つまり、人生を振り返るプロセスにもなっていました。様々な危険を切り抜け、人間や社会の闇の部分をいやと言うほど見ながら、強く、正しく生きてきたビルさんにとって、そんな自分自身の死を受け入れる事は、敗北を認めるようで口惜しかったのかもしれません。
 ビルさんは少しずつ体重が増え、両足に浮腫がでて、室内を歩くだけでも息切れがするようになりました。明らかにうっ血性心不全の症状で、私はビルさんの主治医に連絡し、3日間だけ利尿剤のブースター(促進剤)を処方することになりました。ただ、ビルさんの場合他の薬との兼ね合いがあり、利尿を促進することによる低血圧に気を付ける必要がありました。そして、その不安は杞憂では済まされず、浮腫は軽減し、息切れも改善したものの、起立時の低血圧によって眩暈が強くなってしまいました。全身の倦怠感も増強し、ビルさんは「これじゃふらふらして何もできやしないよ。あの薬(ブースター)は二度とごめんだな」と言い、思ったようにならない状態にイライラしていました。一週間ほど眩暈の状態を観察しましたが改善されなかった為、私は主治医と相談して薬を再検討し、眩暈の改善の為に新しく一つ処方したものの、いくつかの薬を中止、必要最小限まで減らしました。このエピソードから、ビルさんは改めて自分の心臓の状態を意識するようになり、“いつミルリノンをやめるか”について、頻回に口にするようになっていきました。特に、“ミルリノンをやめたらどれくらいで死ぬのか”と言う質問は、何度も繰り返されました。私はその度に自分の知る限りの事を、言葉を選びながらできるだけ正直に説明しました。「私が知っている限り、ホスピスの患者さんでミルリノンの点滴を使っていた人の殆どは、やめてから2、3日以内に亡くなっています。ただ、それも人それぞれであって、ごく稀ですが何週間か生きられた方もいます。それはもう、その人の心臓の状態と、生命力であって、なんとも言えないです。」ビルさんは、「つまり、どちらにしても、ミルリノンをやめたら死ぬんだね」と言い、私が頷くと、奥さんが「なんだか、まるで自殺みたいね」と呟きました。それを聞いてビルさんは、「ようするに、コードを引き抜くのと同じだな」と言いました。私はためらいながら、「そうかもしれないですね。でも、たとえミルリノンを続けたとしても、終わりは来るんです。ミルリノンがしているのは、たとえば、何千キロも走ってきて疲れ果てている馬に、更に鞭を当てて走らせ続けているようなものなんです。馬は疲れていても鞭を当てられれば走ります。でも、それにも限界はあって、いつか馬は走れなくなります。そう言うことなんです」と説明しました。二人はしばらく黙り込み、それからビルさんが「なるほどね。よくわかったよ」と言いました。
 一度退院前にミルリノンを中止し、その際に体験した身体的な辛さは、ビルさんがミルリノンの中止を躊躇している理由の一つでもありました。もちろん、大前提としての“ミルリノンの中止=死”は、未だにほぼ自立した生活を送れているビルさんにとって、そう簡単に受け入れられるものではありませんでした。そして、「まるで自殺みたいね」と言う奥さんの言葉は、その時点では確かに的を得ているように思えたのです。いつまで鞭を打ち続けるのか。まだ行ける、まだ行ける。どうせいつか止まるなら、それまで走り続けてやろうじゃないか。そんな、ビルさんの呟きが聞こえたような気がして、私は彼の葛藤にとことん付き合おう、ビルさんが心の底から納得して答えを出すその時まで、一緒に走っていこう、と思ったのです。タフガイの苦悩(3)に続く。
 
[2017/08/19 20:45] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
タフガイの苦悩 (1)
 ビルさん(仮)は、70代後半の元ノースフィリー(フィラデルフィアの北部地区)の警察官でした。フィラデルフィアの警察官と言えば、“タフガイ”のイメージが強く、特に治安の悪いノースフィリーのコップ(警官)といったら、泣く子も黙る、と言うのが常識でした。ビルさんは高校卒業後海軍に入り、3年間の奉仕のあと警察官になり、20年以上勤めてから、保険会社に転職しました。昔は筋骨隆々だったと言うビルさんは、銀髪で穏やかな、どちらかと言うと大学教授のような雰囲気で、強面警官とは正反対の印象でした。そんなビルさんは、うっ血性心不全の末期で、呼吸困難で入院し、最後の手段と言われるミルリノンと言う強心剤の点滴で症状を安定させました。ミルリノンは急性心不全、或いは末期の心不全の人が心臓移植待ちなどで一時的に使う事があり、長期に渡って使う薬ではありません。しかし、数年前からミルリノンの点滴を入れたままホスピスケアを受ける患者さんが増えてきました。と言うのは、ミルリノンの点滴をするとかなり症状は回復し、一時的ですがとても楽になるのです。それが一時的であるとはわかっていても、症状が緩和されているのならそれも緩和ケアであり、ホスピスケアの一環にするべきだ、と言うわけなのです。ホスピスの経営側にすると、ミルリノンの点滴は非常にコストがかかり、あまり歓迎されないのですが、それでも患者さんが希望するなら、その効果がある限り、また、心の準備ができるまで、在宅で点滴を継続するようになってきたのです。ビルさんの場合、ミルリノンを中止して退院し、自宅でホスピスケアを受けるつもりでいたのですが、実際にミルリノンを中止した所、急激に心不全の症状が現れたため、本人の希望で中止するのを中止し、点滴を入れたまま在宅ホスピスを受ける事にしたのです。
 ビルさんは奥さんと二人、医療看護施設も併設した大型の総合リタイアメントコミュニティーに住んでいました。二人はお互い再婚で、奥さんには結婚している息子さんが一人いました。70代前半の奥さんはとても活動的で、ボランティアやコミュニティー内のクラブや委員会などに積極的に参加していました。また、ビルさんもとても社交的で、コミュニティー内外のいくつかのクラブに所属していました。ホスピスケアを受け始めた頃は、ミルリノンの効果で殆ど自覚症状はなく、車の運転もして、それまで通りの生活を続ける事に殆ど支障はありませんでした。最初の何回かの訪問では、奥さんに携帯型輸液ポンプにつなげているミルリノンの輸液バッグの交換を指導したのですが、彼女は2回目にはマスターしてしまいました。その後は、点滴を入れるPICC(末梢挿入中心静脈カテーテル)のメンテナンスと、薬の確認とオーダーをメインに、週に一度訪問していましたが、ビルさんのスケジュール帳はいつも予定がいっぱいで、毎週火曜日の12時と1時の間、と言うのが私の定時になっていました。
 ビルさんには19歳も年の離れた弟さんがおり、とても仲が良く、週に一度は必ず一緒に食事に行くのが習慣になっていました。今の奥さんと再婚した時、彼女の息子さんはすでに成人していたので、子供のいないビルさんにとって小さい頃から面倒を見ていた弟さんは、まさに自分の子供のような存在だったのです。
 ビルさんの目下の問題は不眠でした。一度、眠剤を処方されたらしいのですが、12時間以上眠った後、一日中朦朧としてしまったことがあり、「眠剤は二度とごめん」と言い切っていました。もともと睡眠時無呼吸があり、ホスピスケアを受ける前に、呼吸センターから夜間はBIPAPと言うマスク型の陽圧呼吸器を着けるように言われ、その呼吸器が来るのを待っていたのでした。しかし、なかなかBIPAPが届かないため、ビルさんは呼吸センターに電話をしたらしいのですがよくわからず、私にフォローしてくれないか、と頼まれました。そこで呼吸センターに連絡したところ、すでに医療機器の会社にオーダーしてあるとのことでした。そこでその会社に連絡すると、保険の承認待ちだというのです。今度は保険会社に電話をすると、保険会社は、患者さんはホスピスケアを受けているので、これはホスピスがカバーするはずだ、と言うわけで承認を拒否していたのでした。しかし、これはビルさんがホスピスにサインする前のオーダーであるし、ホスピス診断名であるうっ血性心不全に関連しているという医師の証明がなければ、メディケアのホスピスベネフィットはカバーしません。医療機器の会社によると、オーダーの診断名は「睡眠時無呼吸」でしたので、私は保険会社に「ホスピス診断名とは関係ないので、そちらでカバーするアイテムです。確認してください」と頼み、何人かの人と話した末、「確かにあなたの言う通りですので、承認します」と言う返事を獲得しました。ビルさんにもそう伝えると、やれやれ、一件落着、と喜んでいました。ところが、次の週にビルさんを訪問すると、BIPAPはまだ来ていないというのです。ビルさんは、「あの後エリクソン(ビルさんのすむ大型リタイアメントコミュニティーの経営会社)のケースワーカーから電話が来て、僕はホスピスだからBIPAPはカバーしないっていうんだ。なんだか堂々巡りで何が何だかわからんよ」と、怒っているような呆れているような調子で言いました。この件でかなりの時間を費やしていた私は、内心「なにい!?」と叫びたい衝動に駆られていました。65歳以上の人はメディケアを持っているので、ホスピスに関わるケアや薬、医療機器などはメディケアのホスピスベネフィットでカバーされます。人によっては、サプリメントとかセカンダリーとして別の保険も持っている人もおり、ホスピスでカバーされないものはそちらがカバーするのです。例えば、肺がんでホスピスケアを受けていても、糖尿病でインスリンの注射が必要な人は、痛み止めはメディケアホスピスベネフィットが、インスリンはセカンダリーがカバーする、と言うようにです。ところがビルさんの場合、このコミュニティーに入居した際の契約で、このセカンダリーの保険の管理をエリクソンが行う事になっていたのです。つまり、保険会社的にはOKでも、管理者のエリクソン(会社)が認めなければ承認されないという、二重構造になっていたのでした。いつまでたってもらちが明かない渦巻きの中に巻きこまれた私は、とりあえず夜間だけ酸素カニュレをつけてみましょう、と、ビルさんに提案しました。また、睡眠を促すサプリメントとして使われるメラトニンを最小量試してみたらどうかと話すと、効果があるかもしれないなら試してみよう、と言うので、受け持ち医師からオーダーをもらい、メラトニン1mgを就寝前に服用、夜間は酸素を鼻腔カニュラで装着する事にしました。
 メラトニンと酸素の効果はあったりなかったりで、ビルさんの不眠との戦いはこの先も続くのですが、BIPAP問題の方はエリクソンのケースワーカーと話をしてから、BIPAPをオーダーした医師とホスピスのメディカルディレクターに話し合ってもらい、うっ血性心不全との関連を確認、最終的に心不全に関係するという事で、ホスピスがカバーする事になったのです。こうして、すったもんだの末、やっとBIPAPを装着する事になったのですが、皮肉な事に圧のセッティングが高すぎ、ビルさんは許容する事ができず、何度か圧の調整をした挙句、結局「「こんなものをつけて眠れやしない」と、酸素カニュラを使う事にとどまり、2週間もしないでBIPAPは返却される事となったのでした。タフガイの苦悩(2)に続く。
[2017/08/18 22:52] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
Always
 先日、自宅でホスピスケアを受けていた義父が亡くなりました。
 イタリア系が多く住むサウスフィリーで生まれ育った義父は、やはりサウスフィリーっ子の義母と、20歳になったばかりの時に知り合いました。二人が出会ったのはフィラデルフィアのダンスホールでした。あの頃の若者達にとっては一番人気のある遊び場で、出会いの場でもありました。義母はその時17歳で、友達と一緒に踊りに来ていたのです。義父から誘って一緒に踊った二人は意気投合し、義父は義母にこう訊きました。「今度の日曜日は何してるの?」「なんにもしていないわ」と答えた義母に、義父はこう言ったそうです。「だったら、僕と一緒に“なんにもしない”をしない?」それから3年後に二人は結婚し、5人の子供を育て上げ、67年間、一緒に生きてきたのでした。
 義父はとても穏やかな人で、何よりも妻と家族を大切にし、ユーモアに溢れ、ビールとワインを愛し、夕食後には必ずコーヒーと一緒にイタリアンクッキーを2枚食べるのを楽しみにしていました。地下室にはモデルトレインの大きなテーブルがあり、子供達が小さい頃はグランパの電車を走らせてもらうのをとても楽しみにしていました。いつも紳士で、思い遣り深く、義母にはいつも愛情と敬意を持って接していました。背が高く、ダンスが上手で、私達の結婚式の時も、義母と一緒に軽やかなステップを披露してくれました。
 そんな義父がここ2年ほどの間に、アルツハイマー型認知症と心臓病の進行によって何度か入退院を繰り返し、リハビリ目的でナーシングホームも経験した末、自宅での緩和ケアを受けるようになりました。歩行器から車椅子になり、生活機能や沢山の記憶は失っていったものの、ユーモアは失うことなく、4人の息子達を(時には娘さえも)全て次男の名前で呼んだりするようになっても、義母の名前は忘れませんでした。4月には90歳の誕生日を祝い、子供や孫、そしてひ孫達に囲まれてケーキのろうそくを吹き消し、家族への愛情と感謝に溢れた挨拶も茶目っ気たっぷりに行いました。繋がったり途切れたりする意識と記憶の中で彷徨っていた日々の中、その時はまるでかつての義父を見るようでした。
 そして、その日を境に義父はうとうととする時間が増え、食欲も目に見えて落ちていきました。大好きだった野球中継にも興味を示さなくなり、風邪をこじらせたのをきっかけに、義母はそれまでのように病院に連れて行くのではなく、自宅でホスピスケアを受ける事を選びました。病院へ行けばおそらく入院になることは目に見えており、義父がそれを望んでいない事を、義母はよく知っていたのです。義母と義姉はその地域にある二つのホスピスにコンタクトを取り、面接をした結果、24時間体制が整い、偶然にも掛かりつけの医師がメディカルディレクターになっているホスピスを選びました。不穏や混乱も進んでいき、ホスピスとは別に24時間体制でエイドさんを雇ってはいましたが、それでも義母の精神的なストレスは大きく、週末は必ず5人の子供達のうちの誰かが訪ねて行っていました。私は食事を数日分作って持っていったり(自分が行けない時は夫に持たせ)、気分転換に義母をランチに連れ出したりと、嫁としてできる事に専念し、義母や義兄弟達から質問をされた時以外は、義父の予後やケアに関することは何も言いませんでした。いろいろと思うところはありましたが、義父のホスピスナースの判断に任せる以外なく、余計な事を言って義母を混乱させたり、ホスピスナースに対して不信感や疑問を感じるさせてはならなかったのです。義父の受け持ちだったホスピスナースはとてもよい人でしたが、時には症状のコントロールに関して強いジレンマを感じる事もあり、「ここだけの話だけど」と言って夫には「お義父さんが私の患者さんだったら....」とぶちまける事もありました。まあ、言われた夫も困ったでしょうが。
 しばらく“もしかしたら今夜かも”と周りを緊張させては翌朝はしっかりご飯を食べたり、と言うfalse alarmを繰り返していましたが、ある日夫が義母に電話をすると、「ここ三日ほど眠ったまま」だと言うのです。それでもホスピスナースによるとバイタルサインも正常で、特に苦しそうな症状もないということでした。私達は子供達も一緒にその週末に尋ねる事にし、義母の希望で日曜日に行く事にしたのです。子供達には「グランパと会えるのはこれが最後かもしれない」と伝え、長男にも日曜日はバイトを入れないように言いました。
 その週末は、職場がものすごく忙しく手が足りないと言う事で、金曜の夕方にチームリーダーから「一件でも訪問できる人は知らせて!」とSOSがあり、私は「土曜日の午前中に一件だけなら手伝える」と申し出ました。私は次の週末が勤務でしたが、義父の様子も落ち着いているようでしたし、“忙しい時はお互い様”“できる人ができる事をする”のがモットーでしたので、朝に一件訪問するくらいなら気にしなかったのです。ところが、その日は何の呪いか予想以上に忙しく、結局3件、ほぼ一日働く事になってしまったのです。まあ、仕方のないこととはいえ、何度も当然のように私に電話をしてきたスケジューラーの、“毒を喰らわば皿まで”的精神を強要するかのような態度にムッとした私は、その晩上司とチームリーダーに報告と苦情のメールを送りました。特に、翌日の日曜日は義父母の家に行く予定だったので、いろいろとその準備もしたかったのが、予定が狂ってしまい、「私にだって、私生活があるんだよ」と言う事を強調したかったのです。また、ここで私が黙ってしまっては、とんでもない前例を作る事になり、同僚のヒンシュクを買うことは目に見えていました。もちろん、私のメールを読んで慌てた上司はよく理解してくれ、当然のことながら“3件ともボーナスレートで支払う”と言う返事でした。
 翌日の日曜日はからりとした晴天で、とても気持ちの良い朝でした。夫はバックポーチに座って、カーディナルの声を聞きながらコーヒーを飲み、徒然日記を書いていました。私は、近所のYMCAの朝一のヨガクラスに行こうとしていました。次兄から訃報を知らせる電話があったのは、そんなのどかで清々しい朝だったのです。「昨日来たホスピスのナースは、血圧や脈も問題なくて、月曜日にまた来るって言ってたんだ。それで、今朝母さんが見に行ったら、ちょっと呼吸が乱れていたからホスピスに電話したんだけど、ナースが来た時にはもう息をしていなかったらしい。薬も使わないで、とても安らかな最期だったよ。」
 夫も私もその日の午後に会うつもりだったので、ショックではありましたが、あまりにも義父らしい逝き方に、ある意味感動に近いものがありました。みんなが仕事をしている平日でも、夜中でもなく、さわやかな日曜日の朝、最愛の妻に看取られて、眠るように旅立ったのです。子供達がすぐに義母の所に駆けつけられるよう、職場の面倒にならないよう、みんなが明るい太陽の光が差す家に集まれるよう、まさに義父の生き方を象徴するような、完璧なフィナーレでした。夫は一週間前に会いに言った時、義父に伝えたかった事は全て言っており、自分なりのお別れはしてあったので、そう言う意味で思い残す事はなかったようでした。
 葬儀は金曜日に行われる事になり、夫は義母からある事を頼まれました。それは、義母と義父の“二人の歌”だと言う、フランク・シナトラの「Always」の歌詞をフレームに入れて欲しいというものでした。義母はそれをお棺の中に入れるつもりだったのです。
 それは、結婚式をひかえた義母が、サウスフィリーのロウハウスの小さな部屋で、自分のウェディングドレスを縫っていた夜の事でした。義母はラジオのある音楽番組が好きで、その晩もミシンをカタカタかけながら、ラジオを聴いていました。すると、アナウンサーが「次はサウスフィリーのマニーからリタへ贈る曲です。フランク・シナトラで『Always』」と言ったのです。義父は義母がいつもこの番組を聞いている事を知っており、また、この歌が大好きなことも知っていました。そして、この歌はまさに義父の気持ちそのものだったのでしょう。これが、義父から贈られた、義母への愛の歌でした。そして、この歌詞のとおり、義父は生涯義母を愛し、その一生を終えたのです。

Everything went wrong,
And the whole day long
I'd feel so blue.
For the longest while
I'd forget to smile,
Then I met you.
Now that my blue days have passed,
Now that I've found you at last -

I'll be loving you always
With a love that's true always.
When the things you've planned
Need a helping hand,
I will understand always.

Always.

Days may not be fair always,
That's when Ill be there always.
Not for just an hour,
Not for just a day,
Not for just a year,
But always.

Dreams will all come true,
growing old with you,
and time will fly,
caring each day more
than the day before
till spring rolls by.
Then when the springtime has gone,
Then will my love linger on.
 
[2017/08/06 23:36] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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